授戒会準備委員会の発足!

西願寺に軸足を置いて、1年余りが経ちました。徐々に檀信徒とコミュニケーションが取れるようになり、今後の西願寺興隆に繋がる種植えをしています。

無から有を作り出すのは 相当なエネルギーが必要です。皆様が私の念いを どこまで理解して下さるかはわかりません。誤解されることもあるでしょうが、すべては西願寺の未来ためです。「やらねばならぬものは、やる!」の精神で 粉骨砕身していきたいと思っています。

昨年の秋、市内の正福寺さまで授戒会が勤められ、その法灯を受け継ぐ覚悟をしたのが、昨年の11月12日(日)。それから半年あまり、、、満を持して6月19日に「授戒会(じゅかいえ)」の準備委員会の初会合をしました。当山では30~40年に一度開く修行道場です。前回は昭和61年に開催されましたので、ちょうど考える時期にきています。

授戒とは、迷いのない心を得て 人生を歩むための指針を、お釈迦様の教えに基づいてお伝えする修行です。金品では得られない心の置き所を会得し、仏弟子となって迷いのない人生を全うするのです。

よって授戒をお受けいただくと「戒名」を授与しますが、戒名は仏弟子となった貴方の名前あり、人生再出発の名前となるのです。このため 本来は亡くなってから付けるものではありません。その仏縁を結んでいただくのが授戒会です。

仏教には「一念三千(いちねんさんぜん)」という言葉があります。これは、人の心の針は 常に めまぐるしく動き、三千種類の世界が展開するという意味です。つまり、人間に生まれれば、形の上ではたしかに人間ですが、心の働きからみれば餓鬼であったり畜生であったり地獄であったりします。

この定まらない心の動きこそが苦しみの根源であり、このような状態から脱皮して、仏の内容が備わるよう人間改革するのが「戒」なのです。

「一念三千」のしくみ

・・・という理念を申しても、価値観が多様化する現代社会では、3日も休み取れない!、戒名なんか要らない!、お金がもったいない!等々の本音が聞こえてきそうです(笑)。これを粘り強く布教して、個人やお家の幸せを祈るのがお寺の役割です。

『言いにくいことをうまく伝える会話術』(草思社)にこんな言葉がありました。
わたしたちは相手の意図を知らなくても、それを知っていると思いこむ。さらに悪いことに、わたしたちは人の意図がよくわからないにもかかわらず、それを往々にして、悪いものだと決めつけてしまう。実のところ人の意図は目に見えない。わたしたちは相手のふるまいからその意図を想定する。言い換えれば、相手の意図をこちらでつくりだすのだ。しかし、相手の意図についてわたしたちがつくり出したストーリーは、自分で考えるよりもはるかに不正確であることが多い。

なぜか?人の意図とは、複雑なものだからだ。人はときに複数の意図をもって、あるいはなんの意図もなく、少なくとも わたしたちと関係ある意図は何もなしに行動する。そして善意から行動したにもかかわらず、ときに、私たちを傷つけたりもする。相手の意図に対するわたしたちの見方(あるいはわたしたちの意図に対する相手の見方)は 重要なもので、根拠のない思い込みに走るのは 大きな失敗を招きかねない。(ダグラス ストーン、シーラ ヒーン、ブルース パットン著)

人は 自分の経験値で物事を聞き、判断する生き物です。時には仏よりも偉い存在に錯覚しがちです。しかし 自分本位な ” 想像 ” を超え、” 行動 ” で示す人は立派だと思います。そうなると 誰もが聖人ではありませんので、途方もなく粘り強い精神が必要となってきます。

しかし「戒」を受けると、仏の方向性が しっかり観えてくるのです。心の針が安定すれば、苦難困難が ” 有り難さ ” に変わってきます。現代のように「したくないものは しなくてもいい」、あるいは「損得勘定の価値観」ですと、心の針がグルグル動くだけで いつまでたっても幸福(ご恩、感謝、ありがとう、お陰さま)がおとずれません。

おそらく授戒会を開かねば 精神が骨抜きになり、50年後には寺は無くなるでしょう。繰り返しになりますが、「やらねばならぬものは、やる!」の精神で粉骨砕身していきたいと思っています。まだ 皆様をお誘いできる環境は調いませんが、3年後をめどに考えています。ブログを読んでらっしゃる方で、私を通じて仏弟子になりたい方は意識なさって下さいませ。他の案内とは訳が違います。今回を逃せば40年後(笑)。またお誘いします。合掌

授戒会準備委員会の初会合。一致団結して勧めてまいります!宜しくお願いします。

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