自利利他

新年度になりました。新しい環境の始まりです。様々な不調和があると思いますが、柔軟に、信念に沿って歩めればと思います。

新年度は期待と不安が入り交じります。新しい環境では「自らの進歩」と「周りとの調和」・・・このバランスが難しくなります。仏教ではこれを「自利利他(じりりた)」の修行と言います。「自利」とは自分の利益、「利他」とは他人の利益です。つまり、自分が利益を得たいと思ってとる行動や行為は、同時に他人、相手側の利益にもつながっていなければならないということです。 常に相手にも利益が得られるように考えること、利他の心、思いやりの心を持って生活することが仏教者なのです。

例え話に『わらしべ長者』をあげましょう。
何をやっても上手くいかない貧しい男が、運を授けて欲しいと観音さまに願掛けをする。すると観音さまが現れ、お堂を出た時に初めて手にした物を大切にして西へ行くようにと言われる。男はお堂を出たとたん転んで一本の藁を手にする。それを持って西へ歩いていくとアブが飛んできたので、藁でしばって歩き続けた。泣きじゃくる赤ん坊がいたので、藁につけたアブをあげた。すると母親がお礼にと蜜柑をくれた。木の下で休んで蜜柑を食べようとすると、お金持ちのお嬢様が水を欲しがって苦しんでいた。そこで蜜柑を渡すと、代わりに上等な絹の反物をくれた。男は上機嫌に歩いていると倒れた馬と荷物を取り替えようと言われ、死にかけの馬を強引に引き取らされてしまった。やさしい男は懸命に馬を介抱し、その甲斐あって馬は元気になった。馬を連れて城下町まで行くと、馬を気に入った長者が千両で買うと言う。余りの金額に驚いて失神した男を、長者の娘が介抱するが、それは以前蜜柑をあげた娘だった。長者は男に娘を嫁に貰ってくれと言い、男は藁一本から近在近郷に知らぬ者のない大長者になった。

もし、ワラをつかまされて観音様を恨むようでしたら、その男は「自利」の心が足りないことになります。せっかくのお告げ(幸福の道)を放棄したわけですから、努力以前の問題です。一方、ワラをつかんで最後まで離さないようでしたら、その男の幸福度は また違ったものになったと思います。泣きじゃくる赤ん坊、苦しんでるお嬢様、倒れた馬・・・これらを見て見ぬふりするようでしたら「利他」の精神に反します。「自利利他」・・・この兼ね合いは難しく見えますが、本来は一つのものであって、その根底には ” 自他共への敬い ” が必要なのです。具体的には、ご恩、お陰、感謝、有難う・・・これを外した不義理者が、餓鬼のように苦しんでる姿をこれ以上見たくありません。まず、目の前の仏縁に感謝するところから始めましょう。一本のワラから幸福が始まる・・・そう考えると、新年度はドラマチックに感じますね(笑)。合掌

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