月別アーカイブ: 6月 2013

万人に愛される90点の精神

昨日、寺庭婦人会 近畿地区研修会において琵琶説教をさせて頂きました。今年は滋賀県が当番ということで、近畿の浄土宗寺院の奥様方が約550人 琵琶湖ホテルに集まられ、法然上人のご遺徳を偲びました。私の出番は 「今年の漢字」で有名な 清水寺貫主・森清範師による ご講演の後で、皆様の念仏に迎えられ ステージに立ちました。滋賀教区の講師として 若輩者が 大役を頂いたこと、まさに感無量でした。 説教前、貫主さまから「あなたのモチベーションは?」と尋ねられ、「ワクワク感です!」とお答えしました。僧侶ですので、法を説くことが前提の生活ですが、どうしたら 楽しく布教ができるかを いつも考えてきました。琵琶説教の制作は大変ですが、苦と思ったことはありません。それは「(法話や芸を)極める」のではなく「(楽しく)伝える」ことを旨としてきたからだと思います。未熟な点が多いことは重々承知してますが、やはり、ワクワク感が伝染する気持ち での布教活動が、私のモチベーションでした。 滋賀県を代表するラーメン店の一つに「來來亭(らいらいてい)」があります。豆田敏典社長のお言葉を紹介します。 「少数に支持される100点の味より、万人に愛される最高の90点を目指す」 これは、人気取りのポピュリズム精神ではありません。満点を追求するあまり、自己満足になってはいけないという意味だと存じます。たとえ一部のマニアに認められなくても、多くの方に愛されることの重要性を説かれているのです。これは お念仏の教えにも通じます。南無阿弥陀仏のみを唱える修行は、あらゆる仏道に精通した人にとっては 頼りなく思えるかもしれません。しかし この世で悟れなくても、来世、極楽浄土で悟ることが出来れば、結果は同じです。同じどころか、救済力でいえば「万人が救われる念仏」の方が優れているといわざるをえません。 私の布教方法は、法話や琵琶を専門にされてる人々からは支持されにくいと思います。たまたま僧侶と琵琶をしていたラッキーボーイ的な存在でしょう。しかし その強みは、琵琶ファンや浄土宗の方のみならず、他宗教、一般の方々にも伝道しやすい環境にあることです。私は、常々 布教や琵琶を極めた方との架け橋となり、多くの方に仏縁を結んでいきたいと考えています。未熟な者だから出来ることがあると思うのです。行動を起こさず、評論ばかりする若者が多いですが、まず自分は世の中に何が出来るのか?ワクワク感をもって一歩踏み出しては如何でしょうか。合掌  

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正しい信心

昨日、4月25日に往生した 祖母の四十九日(満中陰)法要を勤めていただきました。通常は 私自身が導師となり、遺族に法を説く機会が多いのですが、今回は参列の立場となりました。母方の祖母は真宗寺院の坊守でしたので、浄土真宗(同じ南無阿弥陀仏)の御法話を 新鮮な気持ちで拝聴しました。有り難かったです。 我々僧侶の法話は、すべて「信心」の話で帰結しますが、遺族からは必ずと言っていいほど「いやー、私は無信心なもので」という言葉が返って来ます。私は この言葉を聞くにつれ、おかしくてなりません。というのも、私達は何かを信じなければ、一日たりとも生きていけない存在だからです。例えば、我々は健康であれば 明日も生きておれると 命を信じて生きています。そうでなければ 一時間後の約束すらできないはずです。また、夫は妻を 妻は夫を信じ、子供は親を 親は子を信じて はじめて家族が成り立ちます。あるいは、お金の信心もあれば、地位や名誉の信心もあります。宗教を否定する共産主義者は、共産主義を信じている人達です。ですから、神や仏を信ずるのみが信心ではありません。何かを信じていれば、それはその人の信心です。無信心などあり得ません(笑)。つまり「生きる」とは、まさしく「信じる」ことなのです。 おそらく 無信心だという遺族は、神仏など信じないという意味で言っておられるのでしょうが、どうせ「信心」を持つならば、やがては裏切られるものを信じて生きるのは愚かなことです。では、この世で 信じても後悔のない、絶対に裏切ることのない信心はあるのでしょうか。結論を急ぎますと、それは「死」というものを超越したものでないといけません。なぜなら 上に紹介した信心は、死ぬ時に 何のあて力にもならないからです。人間の苦悩は、信じていたものに捨てられたことから生じます。しかし、この今 死ぬという時でも 絶対に崩れぬ信心、それが「南無阿弥陀仏の信心」であります。今日は詳細を説きませんが、祖母の満中陰法要にて、改めて 今の世界はもちろん、死後の世界も救われる「正しい信心」を教わりました。 正しい信心。「正」という字は、「一に止まる」を書きます。つまり、正しいものは「1つしかない」ということです。2つも3つもあるものではありません。人間、何を信じても自由ですが、「死を超越した信心」だけは離してはなりません。坊守であった祖母は、いつもお念仏を唱えていました。この「正しい信心」を、生涯をかけて教えてくれたような気がします。尊い財産をありがとうございました。また、極楽浄土で再会する日を楽しみにしています。合掌  

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