西願寺では、秋に予定をしている授戒会が半年を切りました。定員(80人)を超えましたので、あとは受者全員が無事に満行される対策を考えねばなりません。コロナウィルスとの兼ね合いもありますので、壇信徒が知恵を出し合って この難局を乗り越えたいと存じます。平穏な時に勤める行事よりも、何倍もやり甲斐があります。
最近 テレビのワイドショーで、「 コロナウイルス感染拡大により無意味なものが見えてきた。その代表はお葬式や法事である! 」と報道しているのを見ました。つまり、亡き人を弔うことや親族との付き合いよりも、自分の時間が大事という風潮が蔓延しているんだと思います。それほど人の心が世知辛くなってるのでしょう。
残念ながら、私がいつも申している、有り難う、おかげさま、感謝、ご恩という考え方は古いのかもしれません。しかし、この世に意味がないことはありません。 私達が起こした言動は、必ず何らかの形で作用するようにできています(縁起の法)。さすれば、意味があることと、意味がないことがあるのではなく、自分がそこに意味を見出すのか、見出さないのか、それだけなのだと思います。
お寺という所は、そういう面が顕著に現れる所です。先祖回向にしても、布施にしても、墓掃除にしても、お供えにしても、意味を見出させない人からしたら茶番に見えるかもしれません。しかし、誰がなんと思おうが、自分が意味があると信じ切れること・・・このブレない精神が大切であり、それが信仰という言葉になり、大いなるものから力がいただけるのだと思います。今、コロナウィルスで全てのことがふるいにかけられています。行動が制限され、何が正義かがわからない時節だからこそ、自分が信じた道を生きたいものです。合掌