清明

「清明(せいめい)」です。全てが柔らかな「光」に照らされる頃をいい、様々な花が咲き乱れ、絶好のお花見シーズンです。京都 嵯峨野にある 奉職寺院の桜も満開で、多くの観光客で賑わっています。

ところで、光を観ると書いて「観光」ですが、この語源はご存じでしょうか。この「観光」という言葉は、中国の『易経(えききょう)』という古い書物にでてきます。元々は「君主の威る」。つまり、観光とは 本来、人の魅力を見に行くという意味だったのです。先日の西願寺チャリティーコンサートでも、琵琶を聴かれた参列者が「観光地に来たみたいや」と喜んで下さいましたが、本来の観光とは そのような感覚ではないでしょうか。遠くの名所に行かなくても 人の魅力に出逢えれば、それが観光となるのです。

確かに「光」という文字は、「人」の頭の上から5方向へ光線(オーラ)を発する様子を表した象形文字です。また、仏像の後ろの光を「五光(ごこう)」といいます。[後光、護光、御光とも] つまり、自らが光れば、その光は 関わった人すべてに共鳴するものであって、人間はその「光」を出す努力を 惜しんではいけないと思います。実際、オーラが出ている人の元には、光見たさに 沢山の人が集まります。

陶芸家の河井寬次郎先生は「一人光る。みな光る。なにも彼も光る。」という言葉を遺してらっしゃいます。職場の中でも、みんなでやろうと言わなくても、私一人、まずコツコツとやる。そのひたむきな姿に共感者が現れてきて、いつの間にかみな光る。そして、さらにそれを徹底して継続をしていると、何もかも光るようになる。この順番です。人間は 義務や役目でやらなくてもいいことがどれだけやれるか ということが人格(オーラ)に比例しているのだと思います。

お念仏も同じです。僧侶は南無阿弥陀仏を多く唱えて 偉くなったように錯覚しますが、そうではありません。法事等でのお役目の念仏は 多いかもしれませんが、自らの念仏をどれだけ唱えているかと言えば 汗顔の思いです。そう考えるならば、我々も一般の方と同じ条件です。もっと謙虚にならねばなりません。自らが光るように、また 阿弥陀様の慈悲に照らされて輝けるように精進したいものです。「清明」 の「光」が目映い時季に、改めて自戒しました。合掌

 

 

このブログで、一年間の二十四節季を紹介させていただきました。今後は、年中行事を中心に綴っていきたいと思います。よろしくお願いします。再拝

 

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