昨日10月10日。京都大原・勝林院(しょうりんいん)で「開創一千年紀 慶讃法要」に出勤し、琵琶説教を勤めました。この地は、お経を独特な節回しにのせて唱える「声明(しょうみょう)」発祥地として有名です。声明は、琵琶や能、浄瑠璃、そして民俗芸能に大きな影響を与えた ”日本音楽の原点”と言っても過言ではありません。一千年紀は 各宗派の代表が日替わり出演し、声明法要をなされます。10月5日から20日まで勤修されますが、私は「節談説教」と並び、法要ではなく 説教形式の出番でした。琵琶説教を開創して丁度10年。そうそうたる皆様と名を連ねることができ、感無量です。
この勝林院は、法然上人が名だたる高僧と議論を交わした「大原問答(談義)」の舞台でも有名です。時は文治2年(1186)。当時、お念仏の教えを掲げ注目を集めていた法然上人(53才の御時)が勝林院に招かれ、秀才と評される名僧が集まる中、南無阿弥陀仏の論議をされました。そうそうたる顔ぶれは、当時の仏教界のオールスター戦とでも呼ぶべきものだったようです。居並ぶ僧の質問の嵐に、的確な答えを返していく主役の法然上人は…
「私は皆さまの教えを妨げるつもりはありません。ただ、この乱れた世の中では、この修行を全うすることは難しいのです。誰でもできるお念仏こそが、愚かな私をはじめ、この乱れた世に生きる庶民にとって、最も適したものだと思うのです」
この問答は、なんと一昼夜ものあいだ続けられました。法然上人の教えに感服した僧は、一般の聴衆も交えて念仏を唱え、その声は三日三晩途切れることなく、大原の山々に響き渡ったと伝わります。(『法然上人行状絵図』第14巻) つまり、勝林院は浄土の教えを各宗に宣言した、いわば南無阿弥陀仏のターニングポイントといえる地となります。
今回は、その問答に唯一お供をしたといわれる「熊谷直実」の話を語らせて頂きました。単独で問答に臨まれた法然上人の心意気に、私もあえて檀信徒を募りませんでしたが、堂内に入りきれない程の人で溢れました。終了後、108枚用意した「散華(さんか)」を、ひとりづつ手渡しさせて頂きました。この蓮華の形をした「散華」が、極楽浄土への救いの切符となるよう 心込めて作らせて頂きました。
千年もの間、人々を導いて来られたご本尊さまから見れば、この時間は 一瞬の出来事だと思いますが、我が宗祖・法然上人と同じ場所で説教し、また時空を越えて 聴聞の方とお念仏を共有できたことは 生涯の思い出です。長い間、法灯を守り続けて下さった諸大徳さま、すべての有縁の方々に 心より感謝申し上げます。まさに「千載一遇」のご縁でした。合掌
追伸:西願寺の本尊・阿弥陀如来像は 大原問答と同時期の制作です。制作年[文治4年(1188)]や、胎内に千体仏(梵字)が記されてることが、一千年紀 出演依頼の直後に発見されたことは、大きな因縁を感じます。南無阿弥陀仏
参詣者にお配りした結縁散華(けちえんさんか)
一千年紀ポスター