どこにフォーカスするのか

本日は子供の日。次の日本を支える子達に幸あることを心より祈ります。しかし最近、時代の移り変わりの速さを痛烈に感じます。大人の皆さんは付いていってますか?(笑)。私は新しい考え方や価値観に戸惑うばかりです(汗)。世間では、仮想通貨、各種ハラスメント、様々な人工機能化・・・一昔前には考えられない話題ばかりです。これは人間の進化なんでしょうか。” 変わらぬ大事なもの ” を守っていく立場からすると、時代に合った、丁度良い 折り合いを考える今日この頃です。

考えてみましたら「平成」も終わりです。来年の今頃は 新しい年号になっています。私が小さい頃、明治・大正・昭和と3つ年号を体験された方は、凄いなぁ~って、生き証人のように見てましたが、いよいよ私もその立場になるのです。お参りに伺っても「最近、話が合う人がない。面白くない」と仰る方が多いです。昔の価値観が通用しないのです。 ” 愛の反対は無関心 ” ・・・たとえ身内が傍にいても、価値をを共有する人がなけれは、無口になるんだろなぁ と思います。

「新車症候群」というお話です。
お気に入りの新車が発表されたとたん、同じモデルの車を街で見かけるようになったことはありませんか?この現象は「新車症候群」と呼ばれるもので、潜在意識がそれを絶えず探し求めると、何度もそれを見つけることになるのです。要するに、何かを探し求めれば、それは必ず見つかるのです。これと同じ現象は新車だけではなく、ほとんど何にでも当てはまります。こんな実験をしてください。いかなる状況下でも、その中で、恩恵を探し求めるのです。それは必ず見つかります。もしうまくいけば、それは一度きりでやめてしまう必要はありません。毎日、実行してみてください。きっと幸せと感謝の気持ちがこみあげてきます。私たちは常に選択できるのですから、「こんなことになってしまって、もうどうしようもない」と絶望するのではなく、ポジティブな信念を持ち、すべてがうまくいくと予想したほうが得策です。要するにそれは、何を探し求めるかという問題です。(『あなたの潜在能力を引き出す20の原則』 ジャック・キャンフィールド / ケント・ヒーリー 著 / 弓場隆 訳 ディスカヴァー)

人は自然とフォーカスする方に向かっていくのだと思います。車の免許を取る時、教習所でも教わりました。例えば、左車線にトラックが走っていたとして、意識してトラックの方をチラチラ見ていると、段々そっちに寄って行ってしまいます。だから「もっと目線を上に上げて、遠くを見ましょう!」と言われるのです。カーブでは、カーブの先の自分が行きたい方を見るはずです。行きたい所にフォーカスしないと危険です。それと同じように、幸せや、今あるものに視点を当てていたら、自分はなんて幸せな人生を歩んでいるのだろうと、幸福感に包まれます。不幸や、無いもの、足りないものばかりに視点を当てていたら、自分ばかりなぜ こんなにつらい人生を送っているのだろうと悲しくなります。「木を見て森を見ず」という言葉がありますが、今こそ現代人は 本当の幸せを考えねばならないと時期だと思います。いずれ自分に返ってくるのですから・・・私も微力ながら、時代に翻弄されない、ご恩、お陰、感謝、ありがとうといった ” 幸せの本質 ” を見つめて、法を説ければと思っています。合掌

法然上人のお言葉で、浄土宗の宗歌です。
「月影(月の光)は 届かない場所はないけれども、眺めている人の心にのみ 住んで(澄んで)いる」          月光と仏の慈悲を掛け合わせたお言葉です。

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回番御忌(かいばんぎょき)

皆様のお陰をもちまして、法然上人「回番御忌」の担当寺院を無事に勤めることができました。本堂での私の挨拶を掲載し、有縁方々への御礼に代えさせていただきます。合掌

本日は、新年度 ご多用の中、部内寺院の御住職さま、ご随喜ありがとうございます。また、各ご寺院の役員さま、そして、有縁の参詣者の方々、ようこそ西願寺へお参り下さいました。遠くは、静岡県の藤枝から参詣下さった一般の方々(7名)もあります。法然上人のお言葉に「念仏の声する所が、我が遺跡である(念仏の声がする所に私はいます)」とあります。本堂に参詣人がいっぱいで、中に入れない方もございますが、老若男女・遠近問わず、お集まり下さった方々の大きな念仏の声に、法然上人も さぞお悦びのことと存じます。

さて、法然上人の年忌法要のことを「御忌」と言いますが、それを近江八幡市内12ヶ寺の浄土宗寺院で、毎年「回番」していくので「回番御忌」と申しております。今回は3巡目の3番目の当番。もしかしたら、平成最後の「回番御忌」かもしれません。諸先輩方にお聞きしますと、この法要は当山の先々代(定雄)が長老格であった頃、西光寺様のご先代と提案をし、今に到っているとお聞きしました。実は本日、4月21日は両上人のご命日に当たります。西光寺の先代さまは丁度3年前、定雄におきましては17回忌の当日になります。本日の雲一つない晴天から、お二人の喜んでおられる顔が思い浮かびます。

私自身、西願寺での「回番御忌」は3回とも出勤しております。1回目(平成5年)は10代の頃、先々代の定雄の「先進」として … 2回目の前回(平成17年)は30成り立ての頃、先日3回忌を迎えた先代・邦雄が導師を勤めましたが、その後「琵琶説教」をさせていただき … そして今回は43才(法然上人のお悟りの年になりましたが)、「導師」として … 阿弥陀さまの一番近いところに座らせていただきました。だんだん景色が変わってきて、「回番御忌」と共に育てられてる気が致します。これまでで特に印象に残っているのが、一番初めの「回番御忌」の定雄の挨拶であります。こんな内容でした。

1年先のことを考えるなら種を播け。
10年先のことを考えるなら木を植えよ。
100年先のことを考えるなら人を育てよ。
人生には様々な苦難困難があると思いますが、「回番御忌」と共に、近江八幡の寺院が興隆していくことを切に望みます・・・。

その時は、何気なく聞いておりましたが、今になると、しみじみ、なるほどなぁ … と思います。私は住職になって10年になりますが、それは名ばかりで、先代やその弟子に任せっきりで、私は他所での布教に精を出しておりました。それは、昔から西願寺に2、3人の僧侶が常住していたので出来たことですが … 先代が病に倒れ、一年の闘病生活の後 往生し、やっとお寺に馴染んできた弟子が 師匠の一周忌を待たず、他寺と縁を作って巣立ち、西願寺を護る相談相手(僧侶)がなくなる状況を強いられました。世の無常(無情)を感じた1年半でした。布教活動、勤め、西願寺の住職 … どれも大事ですが、正直、私の身体は一つであります。しかも待ったなし … 直面した現実に 様々な方の人間性を見ることができました。人の救われ方は色々ですが、やはり仏教は ” 和を以て貴し ” … 人々の心に寄り添った ” 抜苦与楽 ” の精神こそが本当に有難く、真の救いだと学びました。それは 相手の話を丁寧に聞いて、粘り強く応対できる、ジワ~っとした優しさです。偉くなったと錯覚して、善魔になってはいけないのです。その謙虚なあり方が仏教であり、僧侶のあり方です。考えて見れば、先代や先々代はそういう人格の持ち主でした。

そこで私は、不義理をせぬよう、他に恩のある方々との兼ね合いを考えつつ、焦らず、一歩づつ歩むことにしたのです。そんな時、助けられたのが、檀家の熱意と、間際に迫った「回番御忌」の行事でした。まず、歴代総代6名に回番御忌の準備委員会を発足をお願いし、当時の役員様と共々に 一から寺を見つめ直す時間を作っていただのです。月一回の集まりの元、忌憚のない議論をかわし、寺の大掃除をしたり、予算に合わせた修復プランをたてて頂いたり … 今の時代に合った「回番御忌」にしようと、皆が一体となって今日を迎えさせていただきました。

それと同時に、他所での布教の種が開花し始めました。外部の方から本堂の畳替えのご寄進を頂いたり、藤枝の方々から大きなお力添えをいただいたり・・・将来の西願寺の土台が「回番御忌」と共にできました。さらに、この法要が近づくにつれ檀家の意識が高まり、有志の方々や尼講さんが、声を掛け合って掃除や草引きをしに来て下さったり、詠讃会のご婦人方が御詠歌の練習に精を出して下さったり・・・檀信徒と歩む・・・今、何にも代えがたい悦びを味わっております。

また、僧侶が独りなったと申しましたが、その間、息子二人が得度を受け、日頃の法事も手伝ってくれるようにまでなりました。本日は、そんな長男二男が私の脇を固めてくれ、また巣立った菊田水月尼も維那を勤めてくれて・・・ ” 西願寺に育てて頂いた者達 ” が法要の肝を勤め、皆様をお迎えさせていただきました。人を育てることに精を出した、本日17回忌の定雄和尚。そして、祖母のせつ。先代の邦雄和尚。西願寺を護って下さった歴代上人、檀信徒の方々に、少しでも恩返しができればと思い、法要においては、住職のプライドを持って勤めさせていただきました。

1年先のことを考えるなら種を播け。
10年先のことを考えるなら木を植えよ。
100年先のことを考えるなら人を育てよ。

ただ、この檀家の団結は、先々代や先代が播いた布教の種が、今、花咲いてるのであります。決して私の力ではありません。おごらぬように、謙虚に、1年先、10年先、100年先の人を育てられるような布教の種播きをさせていければと存じます。第4巡目の「回番御忌」にも本堂いっぱいの方が集まるよう、市内のご寺院さまと共に手を取り合い、精進していく所存であります。本当に皆様、ようお参り下さいました。すべての皆様に感謝の心を捧げます。ありがとうございました。同唱十念

撮影・杉山稔氏

前日に引き続き、当日は朝9時から準備を開始しました。翌日の後片付けを含め、3日間、雲一つない快晴に恵まれました。

受付

本堂いっぱいの方にお集まり下さいました。

内陣の奥は詠讃会。手前が尼講。

各ご寺院一同にそろわれての法要は、大変厳かでした。

部長の正栄寺・山梶賢昭上人のご挨拶

尼僧と縁を結ばれ、新師匠となられた寶泉寺・池上良慶上人の説教

中嶋光政回番御忌実行委員長(右)と伴與四郎総代(左)の挨拶

各ご寺院住職と役員による懇親会

懇親会接待の後、身内での打ち上げ。盛り上がりました!

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自利利他

新年度になりました。新しい環境の始まりです。様々な不調和があると思いますが、柔軟に、信念に沿って歩めればと思います。

新年度は期待と不安が入り交じります。新しい環境では「自らの進歩」と「周りとの調和」・・・このバランスが難しくなります。仏教ではこれを「自利利他(じりりた)」の修行と言います。「自利」とは自分の利益、「利他」とは他人の利益です。つまり、自分が利益を得たいと思ってとる行動や行為は、同時に他人、相手側の利益にもつながっていなければならないということです。 常に相手にも利益が得られるように考えること、利他の心、思いやりの心を持って生活することが仏教者なのです。

例え話に『わらしべ長者』をあげましょう。
何をやっても上手くいかない貧しい男が、運を授けて欲しいと観音さまに願掛けをする。すると観音さまが現れ、お堂を出た時に初めて手にした物を大切にして西へ行くようにと言われる。男はお堂を出たとたん転んで一本の藁を手にする。それを持って西へ歩いていくとアブが飛んできたので、藁でしばって歩き続けた。泣きじゃくる赤ん坊がいたので、藁につけたアブをあげた。すると母親がお礼にと蜜柑をくれた。木の下で休んで蜜柑を食べようとすると、お金持ちのお嬢様が水を欲しがって苦しんでいた。そこで蜜柑を渡すと、代わりに上等な絹の反物をくれた。男は上機嫌に歩いていると倒れた馬と荷物を取り替えようと言われ、死にかけの馬を強引に引き取らされてしまった。やさしい男は懸命に馬を介抱し、その甲斐あって馬は元気になった。馬を連れて城下町まで行くと、馬を気に入った長者が千両で買うと言う。余りの金額に驚いて失神した男を、長者の娘が介抱するが、それは以前蜜柑をあげた娘だった。長者は男に娘を嫁に貰ってくれと言い、男は藁一本から近在近郷に知らぬ者のない大長者になった。

もし、ワラをつかまされて観音様を恨むようでしたら、その男は「自利」の心が足りないことになります。せっかくのお告げ(幸福の道)を放棄したわけですから、努力以前の問題です。一方、ワラをつかんで最後まで離さないようでしたら、その男の幸福度は また違ったものになったと思います。泣きじゃくる赤ん坊、苦しんでるお嬢様、倒れた馬・・・これらを見て見ぬふりするようでしたら「利他」の精神に反します。「自利利他」・・・この兼ね合いは難しく見えますが、本来は一つのものであって、その根底には ” 自他共への敬い ” が必要なのです。具体的には、ご恩、お陰、感謝、有難う・・・これを外した不義理者が、餓鬼のように苦しんでる姿をこれ以上見たくありません。まず、目の前の仏縁に感謝するところから始めましょう。一本のワラから幸福が始まる・・・そう考えると、新年度はドラマチックに感じますね(笑)。合掌

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嵯峨お松明式

3月15日、嵯峨釈迦堂・清凉寺でお松明式が行われました。この行事は、釈迦のご命日(2月15日)を一ヶ月遅れ(旧暦)で偲ぶ行事です。7メートルの松明を3基立て、夜に点火し、お釈迦様を荼毘に付した様子を再現します。地元の方々は、その燃え方で豊凶を占われます。

この行事は、寺内の者はもちろんですが、お松明保存会、大念佛講、狂言保存会、各自治会、警察、消防、露店商組合、消防団、少年補導、御用達会、有縁の方々の寄付等々・・・実に様々な方の尽力によって成り立ちます。

嵯峨大念佛狂言のメインは土蜘蛛(つちぐも)です。

嵯峨大念佛狂言のメインは土蜘蛛(つちぐも)です。

鈴木秀子氏のお言葉です。
人の手には指があり、その指1本1本は長い短い、太い細いなど、さまざまに異なるが、それぞれの指は、みな掌(てのひら)でつながっている。人も、一人ひとり比べると、背が高い低い、頭がいい悪い、学歴、職業、地位、家柄とさまざまな違いがあるが、それはこの世で果たしていく一人ひとりの “ 役割 ” 、いってみれば生きていく舞台の上で演じる役にすぎない。一人ひとりのもっとも深いところで、みな1つの大きないのちと愛で結ばれている。(『愛と癒しのコミュニオン』文芸春秋)

お釈迦さまが ” 求心力 ” となって様々な縁を結んで下さり、有縁の者が ” 遠心力 ” となって、この行事を成功に導きます。それぞれの個性があって、役割があります。その役割や使命ともいえるものに気づき、全うしていくことで、優しさや、思いやり、そして愛に生きることになるのだと存じます。みんな仏の慈悲に包まれ、繋がっていると感じたお松明式でした。合掌

今年は良い天気で、あっという間に燃えました。炎が観音様に見えないでしょうか。

今年は良い天気で、あっという間に燃えました。炎が観音様に見えないでしょうか。

炎が鳳凰に見えます。お釈迦さまが喜んでおられます!

炎が鳳凰に見えます。お釈迦さまが喜んでおられます!

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金森家の法事

昨日、先々代17回忌、先代の3回忌法要を勤めました。先々代は祖父、先代は父に当たります。

去年の先代一周忌までは檀家葬で勤めていただきましたが、今年からは金森家が施主になります。大したことは出来ませんが、祖父母や父が喜んでくれることは何だろう … と思いながら準備をしました。まずハードな面としては、この日に向けて本堂の畳替えをし、新畳で 最初に法事をすることができました。これは、来る4月21日の回番御忌(かいばんぎょき)に向け、慶祝事業の一環として成就したのですが、畳替えが完了したのが2月28日。この日は 奇しくも父の命日でした。回番御忌とは近江八幡市内12ヶ寺が当番制で回している10数年に一度の大法要ですが、これは先々代の発案だと聞いています。3巡目の西願寺の当番が今年の4月21日。この日は奇しくも祖父の17回忌の当日に当たります。檀信徒一同で成した、タイミングが合った畳替えでした。

またソフトな面として、自前で法要が出来たことが嬉しかったです。導師が祖母の実家・善教寺上人。役僧が母の実家・重願寺上人、そして先代の弟子だった水月尼。そして、中2の長男、小6二男が音頭をとって読経をしてくれました。私自身も、縁深き僧侶方に勤めて欲しいですし、まして、自分の孫やひ孫にお経を読んでもらったら これほど嬉しいことはないだろうなぁ … と思い、配役を決めました。

法事を勤めるのは大変です。時間もお金もかかりますし、気疲れもハンパじゃありません(笑)。しかし、施主として法事を行い学んだことは、一つ一つ意味を考えて勤めれば、必ず大きな縁や力に護られてることに気付くのです。あたかも亡き人と会話をして、幸せの確認作業をしている感覚です。この学びは 法事をせねば決してわかりません。法事というものは上手くできてるなぁ・・・また、次なる世代への無言の教えにもなるんだなぁ・・・過去・現在・未来と一本の線がつながり、自分の存在意義がわかり、有り難いなぁ・・・と思いました。また、その法事に携わる 住職の責任の重さも学びました。有縁の皆様、誠に有難うございました。心より感謝申し上げます。合掌

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応援させる人を目指す

現在、南朝鮮で冬季オリンピックが行われています。今までの努力を発揮するため、アスリートがコンディションを調え、懸命に打ち込む姿に感動を覚えます。テレビであっても 選手の鼓動が聞こえる気がして、こちらの方がドキドキしてしまいます(笑)。昨晩は パシュート女子が見事、金メダルを獲りました!。会見で互いの敬意、周りへの感謝等を拝聴すると、自然と応援させらる気持ちになります。同じ競技でも、責任の押し付け合いをしてる某国の状況と比較すると、日本の素晴らしさが浮き彫りとなる形となりました。同じ頑張りでも、応援させる人、応援したくない人が出てくるのは不思議です。

” 応援 ” について、千田琢哉氏が興味深いことを述べられています。
テレビのお笑い芸人たちを観察していると、非常にわかりやすい事実が浮き彫りになってくる。すぐに消える一発屋は例外なく観客から笑われているのに対して、出世する芸人は観客を笑わせている。前者は素人の学園祭レベルの芸であり、後者はプロの仕事師の芸である。観客が笑っているという現象において両者に差はないように見えるが、その本質はまるで対極なのだ。プロの仕事とは、その気のない人をその気にさせてしまうことなのだ。笑う気のないブスッとした客さえも笑わせてこそ、お笑い芸人としてプロの仕事をしたと言えるのだ。

これは応援についても同じことが言える。あなたは応援される人ではなく、応援させる人を目指すべきである。あなたが応援されているということは、相手が上であなたが下だという揺るぎない地位が固定されるということだ。つまり同情されているということになる。同情されて応援されてもその関係は決して長続きしない。なぜならそれは、“憐れみ”をベースとした関係であり、どちらか一方が堪えられなくなって崩壊するからである。人には尊敬されたいという確固たる承認欲求があるのだから、これに反する行為は自然の摂理に反するから継続できないのだ。これに対して応援させるためには、敬意をベースとした関係を築いていく必要がある。相手に同情させるのではなく、敬意を払わせることで自然と相手に応援させるのだ。世界的に活躍するカリスマ歌手や作家を想像してみればとてもわかりやすいだろう。ファンたちは彼らを応援しているのではなく、応援させていただいているのだ。もちろん長期的な成功者たちはファンに応援をさせることで傲慢にはならない。(『大好きなことで、食べていく方法を教えよう』海竜社)

もちろん、オリンピック選手はプロではないので、応援されるために競技をされているわけではありません。今は 自分との戦いだと存じます。どのような結果であれ、一つの物を極めた方は賞賛される存在です。しかし 人生全体として考えると、それは通過点です。仏教の世界でも一緒です。千日回峰(せんにちかいほう)という過酷な修行をされた阿闍梨(あじゃり)でも、悟後(ごご)の修行が大切と言います。

最近思うのは、今、懸命に打ち込める環境があるのは、自分の力もありますが、やはり周りの尽力があってのこと。ここを見失えば、才能による一瞬の輝きがあっても、時間と共に 誰も応援してくれなくなります。毎日の食事、交通機関、仕事、寝る場所、日常の会話、ちょっとした親切・・・決して当たり前の環境ではありません。その中で「自分は頑張っているのに、誰も気付いてくれない。周りが馬鹿だ!」・・・それは嘘です。そんな人は、どの環境に逃げても不満だらけ・・・我利我利亡者(がりがりもうじゃ)の餓鬼に過ぎません。

オレがオレがの「我」を捨てて お陰お陰の「下」で生きる

感謝やご恩、ありがとうやお陰さま・・・ここを大切にすれば、神仏をはじめ、ご先祖さま、有縁の方々が必ず応援してくれます。この真理は、憐れみや同情を超えて、敬意をベースにした関係に繋がっていくのです。またそれが 僧侶の本来あるべき姿だと肝に銘じます。その凛とした心の持ちようが、 ” 応援させる人 ” になることと存じます。合掌

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柳のように

先日、西願寺の新年総会があり、檀家の皆様と意志の統一は図りました。総会では、昨年の寺業報告や今年の行事予定、また中長期的なビジョンを話し合います。もちろん、お寺は檀信徒のものですので 合議制で決めますが、将来のビジョンについては様々な意見を取り入れ、住職が提案します。果たして それが皆様の幸せにつながるのか否か・・・独裁でもいけませんが、大衆迎合でもいけません。

巷では寺離れをいたずらに叫んで、批判や警告するものが賢者のような振る舞いをします。しかし、伝統を守ることや、変わらないということもは もっと努力を要します。寺の勤めをしてますと、古くさい … 時代遅れ … 改革せよ … スピード感がない … 様々なアドバイスをいただきます。そんな時、仙厓(せんがい)和尚の言葉を思い出します。
                           
           気に入らぬ 風もあろうに 柳かな

この格言について、橋本暢子氏がわかりやすく解説して下さってます。
柳の木はしなやかです。
東から風が吹けば西へなびき、西から風が吹けば東へなびきます。
でも「柳に雪折れなし」と言われるように、柳は決して折れません。

よく、表向き人や状況に「自分を合わせる」人は
「自分がない」とか「何事も気にしない」とかいったマイナスの評価を受けがちです。
そういうケースも多々あるでしょう。
確かに、人や状況に「流される」人は、そういうこともあると思います。
でもその中には、その「柔軟性」が、本当の強さゆえに発揮できる人もいます。
「流される」と「合わせる」は、主体性が全く違うんですよね。

真っ向から対決することも、大切です。
でも何の風に吹かれているかも、その風の強さも分からないうちに対決すれば
負けてしまうこともあるかもしれません。

風を受けて、それに必死に耐えてみる。
外からは、風の猛攻に対するあなたの「counter force(反撃のチカラ)」は
目に見えず、ただ静止しているように見えてしまいます。
でもそれは、何もしていない、ということではありません。
踏ん張っているんですよね。ものすごいチカラです。

そして、あるとき、だんだんとけてきたきた雪をばさっとはねのける柳のように、
自分で立ち上がります。これまたものすごいチカラです。
よく何かの圧力に対して自分が踏ん張っているとき、
その「何か」が急になくなると、
自分が「おっとっと」と前に出てしまうときがありますよね。
あれだと思うんです(笑)。

強い風や重い雪があなたを襲えば、揺れたり凹んだりすることがあります。
それを無理に凹まないようにするのは大変です。人間ですから。
だったら、揺れてみる。凹んでみる。
でも、耐えてみる。
ばさっとはねのけるチャンスを待ってみる。
そのためには、「曲がっても折れない」自分のチカラが大切だと考えます。

表向き風を切るチカラも素晴らしいですが
「折れない」チカラ、それも本当に大切だと思うわけです。

毎日走って疲れたときは、ちょっと立ち止まって、
「いつもの 風に吹かれて」みたいと思います。

とても勇気づけられます。このたび35年ぶりの授戒会に向けて準備委員会を発足しましたが、檀信徒の力を借りて勤めて参りたいと思います。合掌

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平成30年の修正会

本年も元旦に修正会(しゅしょうえ)を勤めました。老若男女を超えて 多くの参拝をいただき、皆で一年の幸せをお祈りしました。

修正会ポスター 篤信の方が、法要事にお作りいただいてます。

修正会ポスター  篤信の方が、法要ごとにお作り下さいます。

ただ 寺内としては、先代が往生し、弟子が巣立ち … 今年は住職一人で読経するものと思ってましたら、一昨年、得度を受けた中2と小6の息子達が「お父さん、僕たちがいるやん。頑張るわ!」と一緒に勤めてくれました。声を震わせながら、懸命に 読経の音頭を取る小僧達を、檀信徒の皆様は、暖かい眼差しで応援してくださいました。西願寺にとっては、阿弥陀さまから 嬉しいお年賀を頂戴しました。今年17回忌の先々代、3回忌の先代が居たら どんなに喜んでいることでしょう。極楽からの見守りに感謝です。
 

お経は技術ではありません。真心です。技術におぼれ、慢心してはいけません。これは弟子に強く指導していきます。

お経や法話は技術ではありません。真心です。” 真心の共有 ” が法要です。僧侶の自己満足ではいけません。正義におぼれ、慢心し、人を見下してはいけません。様々なお陰で生かされているのですから・・・。西願寺の指針は、謙虚に有縁の方に寄り添うこと。餓鬼にならぬよう、小僧に強く指導していきます。

高橋佳子氏のお言葉です。
人生に起こる出会いや出来事は、一見、何の脈絡もなく、私たちがたまたまそこに居合わせただけのように見えます。しかし、出会いや出来事の全体を夜空の星々のように眺めていると、無関係に思えた1つ1つが1本の糸でつながり、そこに星座が浮かび上がってくることがあります。私たちの意図や計画とは無縁に見えた日々の集積が、人生の星座を現そうとするのです。もし、人生の法則を知っているなら、さらにそれを見つけやすくなるはずです。(中略)アップルの創業者の故スティーブ・ジョブズ氏も、晩年、スタンフォード大学の卒業生へのスピーチの中でこう語っています。「先を見通して点をつなぐことはできない。振り返ってつなぐことしかできない。だから、将来何らかの形で点がつながると信じなければならない」(『あなたがそこで生きる理由』三宝出版)

昨年は縁について深く考えさせられました。しかし、一歩づつ 心を込めて進んでいくうちに、多くの方のご尽力に恵まれ、様々な喜びや気付きがありました。一年前の環境では、思いもつかなかった結果がたくさん出ています。読者の方々も 今やっていることに「意味あるのかな?」って思うときもあるかもしれません。 人との出会いも、自分の周りで起きる出来事も、その最中は意味なんか分からないかもしれません。しかし、振り返ってみると気付くことがあります。「あ~ 仏様や先祖さんは このために、この日のために、あの時の出来事を用意してくれていたのか」って。ですから、理不尽なことや、意味なんか分からないことも、いつか必ずつながるんだと思っていた方がいいのです。何一つとして無駄な経験はありません。経験を無駄にする人がいるだけです。今を、この瞬間の連続を、本気で生きていこうと思う修正会でした。恩や感謝、有難うやお陰 … これに勝る幸せはありません。合掌

恒例のお清めとお守り授与。参拝者のご多幸をお祈りしました。

恒例のお清めとお守り授与  参拝者のご多幸をお祈りしました。

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戌(いぬ)年の心構え

新年、明けましておめでとうございます。平成30年になりました。本年も宜しくお願いします。

さて、今年の干支は戌(いぬ)です。十二支の運勢でいえば、11番目の干支になりますので、一年を12ヶ月で例えると、今年は11月の季節を表します。つまり、草木が収穫から収穫後の段階へと移行していく運勢とされます。収穫の終わった田畑は、春に向け手入れをしなければなりませんので、今年は結果を求めるよりも、今後につながる土壌作りの時期と考えましょう。一度 リセットすることで、新たなる意義や価値が生まれ、可能性が広がります。

昨年は酉(とり)年で、「仲をとり持つ」ことが吉と記しましたが、今年は一歩進んで、「信頼関係」を大切にしなければなりません。戌(いぬ)は 忠誠を尽くす動物 です。しかし、エサを食べてる時に手を出せば、本能で噛んでしまいます。気が緩めば信頼が失われ、争いに翻弄される傾向にもあることを覚えておきましょう。

忠犬ハチ公 信頼関係が幸福を産みます

忠犬ハチ公                 信頼関係が幸福を産みます

気を付けねばならないのは、がつけば、「滅び」という字になることです。この火が、煩悩(怒り)を表します。無用な争いを避けてこそ、平穏に過ごすことができます。興味深いことに、戌年の守り本尊は 慈悲の象徴の阿弥陀様です。まさに南無阿弥陀仏の生活が、大吉となる一年になります。怒りが出てきたら念仏を唱えましょう。本年は、今後につながる土壌作りをし、信頼を築き、春に向け 功徳の種植えをしていただいたらと存じます。皆様のご多幸をお祈り申し上げます。合掌

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あげる幸せ

先日、大阪明星中学校の1年生に琵琶説教をして来ました。平成21年より毎年お招きを受け、今年で9度目のご縁でした。この学校はキリスト教を旨とする 6年間の中高一貫教育ですが、中一時に 私の講演に触れることになり、現在の明星学園 全生徒が私を知ってる計算となります(笑)。積み重ねは怖いものです。

群読発表

群読発表

私の出番は、古典の授業の一コマです。今年は生徒256名が礼拝堂に集まり、保護者聴衆の元、群読をされました。群読とは複数で分担しながら行う朗読のことです。この授業では、『平家物語』の「扇の的」をいかに臨場感を付けて読めるかを競います。その後、私が 「扇の的(那須与一)」の物語に節や音を付けて琵琶を披露します。

表彰式

表彰式

高橋佳子氏のお言葉です。
私は、人間の成長の法則を、誰にでもわかりやすい言葉を使って「3つの心」という形で示しています。どんな人も、赤子の時代は、誰かに支えてもらい、助けてもらい、与えてもらって、初めて生きてゆくことができます。私たちは皆、その段階から人生を始めています。もらうことによって生きる。このときの心は、「もらう心」と表すことができます。赤子は「もらう」ことが何よりの喜びです。その心を持つ私たちは、何かを与えてもらい、支えてもらい、助けてもらうことを当然とするでしょう。

しかし、成長するにしたがって、人は、何かをしてもらうだけではなく、自分で「できる」ことを求めるようになってゆきます。歩くことができるようになり、文字が書けるようになり、話ができるようになり、算数ができるようになり、仕事ができるようになり・・・といった具合に、「できる」ことを増やしてゆくのです。「できる」ことを喜びとし、それを増やしてゆこうとする心を「できる心」と呼びます。「できる心」は、今日、もっとも多くの人々が抱いている心と言えるかもしれません。それは様々な自己実現を求める段階です。

しかし、私たちの魂の成長は、そこで終わるわけではありません。さらに、その先があるのです。それは、自分のことを超えて、誰かに、出会う人々に、関わる方々に、何かをしてさしあげることを何よりもの喜びとする「あげる心」です。この「あげる心」こそ、私たちが本来抱いている「魂の力」を引き出すものです。自己の完成をめざすだけではなく、共に生きる人たちの力になる。周囲の人たちを励まし、支える力になる。同じ時代を生きる人たちを押し出す力になること。

「もらう心」「できる心」「あげる心」

単純な言葉ですが、これは、与えられる自分から、自分の力を育む段階を経て、さらに自分を超えて、広がるつながりに応えてゆく私たちの魂の成長の法則を表しているのです。 (『運命の逆転』 三宝出版)

中学一年は、新たなことを学ぶ年となり、すべてが受け身(学ぶこと)が前提となります。つまり「もらう心」の段階です。そして努力をし、自信がつくと「できる心」になり、やがては「あげる心」へ。年を重ねるにつれ、だんだん質が高くなっていくものと存じます。こんな不器用な私でも、何かをあげることができ、得も言われぬ幸福感を味わってます。と考えると、「あげる心=布施」が人間の幸福の根源なのだと思います。

今年も人々から様々なものを「もらい」ました。この嬉しさ、苦しさを噛みしめ、また私なりに「できる」よう精進し、人々に「あげれる」よう布施したいと思います。それが、自他共の幸せに繋がれば幸甚です。今年一年、本当にありがとうございました。よいお年をお迎え下さい。合掌

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