金森家の法事

昨日、先々代17回忌、先代の3回忌法要を勤めました。先々代は祖父、先代は父に当たります。

去年の先代一周忌までは檀家葬で勤めていただきましたが、今年からは金森家が施主になります。大したことは出来ませんが、祖父母や父が喜んでくれることは何だろう … と思いながら準備をしました。まずハードな面としては、この日に向けて本堂の畳替えをし、新畳で 最初に法事をすることができました。これは、来る4月21日の回番御忌(かいばんぎょき)に向け、慶祝事業の一環として成就したのですが、畳替えが完了したのが2月28日。この日は 奇しくも父の命日でした。回番御忌とは近江八幡市内12ヶ寺が当番制で回している10数年に一度の大法要ですが、これは先々代の発案だと聞いています。3巡目の西願寺の当番が今年の4月21日。この日は奇しくも祖父の17回忌の当日に当たります。檀信徒一同で成した、タイミングが合った畳替えでした。

またソフトな面として、自前で法要が出来たことが嬉しかったです。導師が祖母の実家・善教寺上人。役僧が母の実家・重願寺上人、そして先代の弟子だった水月尼。そして、中2の長男、小6二男が音頭をとって読経をしてくれました。私自身も、縁深き僧侶方に勤めて欲しいですし、まして、自分の孫やひ孫にお経を読んでもらったら これほど嬉しいことはないだろうなぁ … と思い、配役を決めました。

法事を勤めるのは大変です。時間もお金もかかりますし、気疲れもハンパじゃありません(笑)。しかし、施主として法事を行い学んだことは、一つ一つ意味を考えて勤めれば、必ず大きな縁や力に護られてることに気付くのです。あたかも亡き人と会話をして、幸せの確認作業をしている感覚です。この学びは 法事をせねば決してわかりません。法事というものは上手くできてるなぁ・・・また、次なる世代への無言の教えにもなるんだなぁ・・・過去・現在・未来と一本の線がつながり、自分の存在意義がわかり、有り難いなぁ・・・と思いました。また、その法事に携わる 住職の責任の重さも学びました。有縁の皆様、誠に有難うございました。心より感謝申し上げます。合掌

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応援させる人を目指す

現在、南朝鮮で冬季オリンピックが行われています。今までの努力を発揮するため、アスリートがコンディションを調え、懸命に打ち込む姿に感動を覚えます。テレビであっても 選手の鼓動が聞こえる気がして、こちらの方がドキドキしてしまいます(笑)。昨晩は パシュート女子が見事、金メダルを獲りました!。会見で互いの敬意、周りへの感謝等を拝聴すると、自然と応援させらる気持ちになります。同じ競技でも、責任の押し付け合いをしてる某国の状況と比較すると、日本の素晴らしさが浮き彫りとなる形となりました。同じ頑張りでも、応援させる人、応援したくない人が出てくるのは不思議です。

” 応援 ” について、千田琢哉氏が興味深いことを述べられています。
テレビのお笑い芸人たちを観察していると、非常にわかりやすい事実が浮き彫りになってくる。すぐに消える一発屋は例外なく観客から笑われているのに対して、出世する芸人は観客を笑わせている。前者は素人の学園祭レベルの芸であり、後者はプロの仕事師の芸である。観客が笑っているという現象において両者に差はないように見えるが、その本質はまるで対極なのだ。プロの仕事とは、その気のない人をその気にさせてしまうことなのだ。笑う気のないブスッとした客さえも笑わせてこそ、お笑い芸人としてプロの仕事をしたと言えるのだ。

これは応援についても同じことが言える。あなたは応援される人ではなく、応援させる人を目指すべきである。あなたが応援されているということは、相手が上であなたが下だという揺るぎない地位が固定されるということだ。つまり同情されているということになる。同情されて応援されてもその関係は決して長続きしない。なぜならそれは、“憐れみ”をベースとした関係であり、どちらか一方が堪えられなくなって崩壊するからである。人には尊敬されたいという確固たる承認欲求があるのだから、これに反する行為は自然の摂理に反するから継続できないのだ。これに対して応援させるためには、敬意をベースとした関係を築いていく必要がある。相手に同情させるのではなく、敬意を払わせることで自然と相手に応援させるのだ。世界的に活躍するカリスマ歌手や作家を想像してみればとてもわかりやすいだろう。ファンたちは彼らを応援しているのではなく、応援させていただいているのだ。もちろん長期的な成功者たちはファンに応援をさせることで傲慢にはならない。(『大好きなことで、食べていく方法を教えよう』海竜社)

もちろん、オリンピック選手はプロではないので、応援されるために競技をされているわけではありません。今は 自分との戦いだと存じます。どのような結果であれ、一つの物を極めた方は賞賛される存在です。しかし 人生全体として考えると、それは通過点です。仏教の世界でも一緒です。千日回峰(せんにちかいほう)という過酷な修行をされた阿闍梨(あじゃり)でも、悟後(ごご)の修行が大切と言います。

最近思うのは、今、懸命に打ち込める環境があるのは、自分の力もありますが、やはり周りの尽力があってのこと。ここを見失えば、才能による一瞬の輝きがあっても、時間と共に 誰も応援してくれなくなります。毎日の食事、交通機関、仕事、寝る場所、日常の会話、ちょっとした親切・・・決して当たり前の環境ではありません。その中で「自分は頑張っているのに、誰も気付いてくれない。周りが馬鹿だ!」・・・それは嘘です。そんな人は、どの環境に逃げても不満だらけ・・・我利我利亡者(がりがりもうじゃ)の餓鬼に過ぎません。

オレがオレがの「我」を捨てて お陰お陰の「下」で生きる

感謝やご恩、ありがとうやお陰さま・・・ここを大切にすれば、神仏をはじめ、ご先祖さま、有縁の方々が必ず応援してくれます。この真理は、憐れみや同情を超えて、敬意をベースにした関係に繋がっていくのです。またそれが 僧侶の本来あるべき姿だと肝に銘じます。その凛とした心の持ちようが、 ” 応援させる人 ” になることと存じます。合掌

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柳のように

先日、西願寺の新年総会があり、檀家の皆様と意志の統一は図りました。総会では、昨年の寺業報告や今年の行事予定、また中長期的なビジョンを話し合います。もちろん、お寺は檀信徒のものですので 合議制で決めますが、将来のビジョンについては様々な意見を取り入れ、住職が提案します。果たして それが皆様の幸せにつながるのか否か・・・独裁でもいけませんが、大衆迎合でもいけません。

巷では寺離れをいたずらに叫んで、批判や警告するものが賢者のような振る舞いをします。しかし、伝統を守ることや、変わらないということもは もっと努力を要します。寺の勤めをしてますと、古くさい … 時代遅れ … 改革せよ … スピード感がない … 様々なアドバイスをいただきます。そんな時、仙厓(せんがい)和尚の言葉を思い出します。
                           
           気に入らぬ 風もあろうに 柳かな

この格言について、橋本暢子氏がわかりやすく解説して下さってます。
柳の木はしなやかです。
東から風が吹けば西へなびき、西から風が吹けば東へなびきます。
でも「柳に雪折れなし」と言われるように、柳は決して折れません。

よく、表向き人や状況に「自分を合わせる」人は
「自分がない」とか「何事も気にしない」とかいったマイナスの評価を受けがちです。
そういうケースも多々あるでしょう。
確かに、人や状況に「流される」人は、そういうこともあると思います。
でもその中には、その「柔軟性」が、本当の強さゆえに発揮できる人もいます。
「流される」と「合わせる」は、主体性が全く違うんですよね。

真っ向から対決することも、大切です。
でも何の風に吹かれているかも、その風の強さも分からないうちに対決すれば
負けてしまうこともあるかもしれません。

風を受けて、それに必死に耐えてみる。
外からは、風の猛攻に対するあなたの「counter force(反撃のチカラ)」は
目に見えず、ただ静止しているように見えてしまいます。
でもそれは、何もしていない、ということではありません。
踏ん張っているんですよね。ものすごいチカラです。

そして、あるとき、だんだんとけてきたきた雪をばさっとはねのける柳のように、
自分で立ち上がります。これまたものすごいチカラです。
よく何かの圧力に対して自分が踏ん張っているとき、
その「何か」が急になくなると、
自分が「おっとっと」と前に出てしまうときがありますよね。
あれだと思うんです(笑)。

強い風や重い雪があなたを襲えば、揺れたり凹んだりすることがあります。
それを無理に凹まないようにするのは大変です。人間ですから。
だったら、揺れてみる。凹んでみる。
でも、耐えてみる。
ばさっとはねのけるチャンスを待ってみる。
そのためには、「曲がっても折れない」自分のチカラが大切だと考えます。

表向き風を切るチカラも素晴らしいですが
「折れない」チカラ、それも本当に大切だと思うわけです。

毎日走って疲れたときは、ちょっと立ち止まって、
「いつもの 風に吹かれて」みたいと思います。

とても勇気づけられます。このたび35年ぶりの授戒会に向けて準備委員会を発足しましたが、檀信徒の力を借りて勤めて参りたいと思います。合掌

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平成30年の修正会

本年も元旦に修正会(しゅしょうえ)を勤めました。老若男女を超えて 多くの参拝をいただき、皆で一年の幸せをお祈りしました。

修正会ポスター 篤信の方が、法要事にお作りいただいてます。

修正会ポスター  篤信の方が、法要ごとにお作り下さいます。

ただ 寺内としては、先代が往生し、弟子が巣立ち … 今年は住職一人で読経するものと思ってましたら、一昨年、得度を受けた中2と小6の息子達が「お父さん、僕たちがいるやん。頑張るわ!」と一緒に勤めてくれました。声を震わせながら、懸命に 読経の音頭を取る小僧達を、檀信徒の皆様は、暖かい眼差しで応援してくださいました。西願寺にとっては、阿弥陀さまから 嬉しいお年賀を頂戴しました。今年17回忌の先々代、3回忌の先代が居たら どんなに喜んでいることでしょう。極楽からの見守りに感謝です。
 

お経は技術ではありません。真心です。技術におぼれ、慢心してはいけません。これは弟子に強く指導していきます。

お経や法話は技術ではありません。真心です。” 真心の共有 ” が法要です。僧侶の自己満足ではいけません。正義におぼれ、慢心し、人を見下してはいけません。様々なお陰で生かされているのですから・・・。西願寺の指針は、謙虚に有縁の方に寄り添うこと。餓鬼にならぬよう、小僧に強く指導していきます。

高橋佳子氏のお言葉です。
人生に起こる出会いや出来事は、一見、何の脈絡もなく、私たちがたまたまそこに居合わせただけのように見えます。しかし、出会いや出来事の全体を夜空の星々のように眺めていると、無関係に思えた1つ1つが1本の糸でつながり、そこに星座が浮かび上がってくることがあります。私たちの意図や計画とは無縁に見えた日々の集積が、人生の星座を現そうとするのです。もし、人生の法則を知っているなら、さらにそれを見つけやすくなるはずです。(中略)アップルの創業者の故スティーブ・ジョブズ氏も、晩年、スタンフォード大学の卒業生へのスピーチの中でこう語っています。「先を見通して点をつなぐことはできない。振り返ってつなぐことしかできない。だから、将来何らかの形で点がつながると信じなければならない」(『あなたがそこで生きる理由』三宝出版)

昨年は縁について深く考えさせられました。しかし、一歩づつ 心を込めて進んでいくうちに、多くの方のご尽力に恵まれ、様々な喜びや気付きがありました。一年前の環境では、思いもつかなかった結果がたくさん出ています。読者の方々も 今やっていることに「意味あるのかな?」って思うときもあるかもしれません。 人との出会いも、自分の周りで起きる出来事も、その最中は意味なんか分からないかもしれません。しかし、振り返ってみると気付くことがあります。「あ~ 仏様や先祖さんは このために、この日のために、あの時の出来事を用意してくれていたのか」って。ですから、理不尽なことや、意味なんか分からないことも、いつか必ずつながるんだと思っていた方がいいのです。何一つとして無駄な経験はありません。経験を無駄にする人がいるだけです。今を、この瞬間の連続を、本気で生きていこうと思う修正会でした。恩や感謝、有難うやお陰 … これに勝る幸せはありません。合掌

恒例のお清めとお守り授与。参拝者のご多幸をお祈りしました。

恒例のお清めとお守り授与  参拝者のご多幸をお祈りしました。

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戌(いぬ)年の心構え

新年、明けましておめでとうございます。平成30年になりました。本年も宜しくお願いします。

さて、今年の干支は戌(いぬ)です。十二支の運勢でいえば、11番目の干支になりますので、一年を12ヶ月で例えると、今年は11月の季節を表します。つまり、草木が収穫から収穫後の段階へと移行していく運勢とされます。収穫の終わった田畑は、春に向け手入れをしなければなりませんので、今年は結果を求めるよりも、今後につながる土壌作りの時期と考えましょう。一度 リセットすることで、新たなる意義や価値が生まれ、可能性が広がります。

昨年は酉(とり)年で、「仲をとり持つ」ことが吉と記しましたが、今年は一歩進んで、「信頼関係」を大切にしなければなりません。戌(いぬ)は 忠誠を尽くす動物 です。しかし、エサを食べてる時に手を出せば、本能で噛んでしまいます。気が緩めば信頼が失われ、争いに翻弄される傾向にもあることを覚えておきましょう。

忠犬ハチ公 信頼関係が幸福を産みます

忠犬ハチ公                 信頼関係が幸福を産みます

気を付けねばならないのは、がつけば、「滅び」という字になることです。この火が、煩悩(怒り)を表します。無用な争いを避けてこそ、平穏に過ごすことができます。興味深いことに、戌年の守り本尊は 慈悲の象徴の阿弥陀様です。まさに南無阿弥陀仏の生活が、大吉となる一年になります。怒りが出てきたら念仏を唱えましょう。本年は、今後につながる土壌作りをし、信頼を築き、春に向け 功徳の種植えをしていただいたらと存じます。皆様のご多幸をお祈り申し上げます。合掌

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あげる幸せ

先日、大阪明星中学校の1年生に琵琶説教をして来ました。平成21年より毎年お招きを受け、今年で9度目のご縁でした。この学校はキリスト教を旨とする 6年間の中高一貫教育ですが、中一時に 私の講演に触れることになり、現在の明星学園 全生徒が私を知ってる計算となります(笑)。積み重ねは怖いものです。

群読発表

群読発表

私の出番は、古典の授業の一コマです。今年は生徒256名が礼拝堂に集まり、保護者聴衆の元、群読をされました。群読とは複数で分担しながら行う朗読のことです。この授業では、『平家物語』の「扇の的」をいかに臨場感を付けて読めるかを競います。その後、私が 「扇の的(那須与一)」の物語に節や音を付けて琵琶を披露します。

表彰式

表彰式

高橋佳子氏のお言葉です。
私は、人間の成長の法則を、誰にでもわかりやすい言葉を使って「3つの心」という形で示しています。どんな人も、赤子の時代は、誰かに支えてもらい、助けてもらい、与えてもらって、初めて生きてゆくことができます。私たちは皆、その段階から人生を始めています。もらうことによって生きる。このときの心は、「もらう心」と表すことができます。赤子は「もらう」ことが何よりの喜びです。その心を持つ私たちは、何かを与えてもらい、支えてもらい、助けてもらうことを当然とするでしょう。

しかし、成長するにしたがって、人は、何かをしてもらうだけではなく、自分で「できる」ことを求めるようになってゆきます。歩くことができるようになり、文字が書けるようになり、話ができるようになり、算数ができるようになり、仕事ができるようになり・・・といった具合に、「できる」ことを増やしてゆくのです。「できる」ことを喜びとし、それを増やしてゆこうとする心を「できる心」と呼びます。「できる心」は、今日、もっとも多くの人々が抱いている心と言えるかもしれません。それは様々な自己実現を求める段階です。

しかし、私たちの魂の成長は、そこで終わるわけではありません。さらに、その先があるのです。それは、自分のことを超えて、誰かに、出会う人々に、関わる方々に、何かをしてさしあげることを何よりもの喜びとする「あげる心」です。この「あげる心」こそ、私たちが本来抱いている「魂の力」を引き出すものです。自己の完成をめざすだけではなく、共に生きる人たちの力になる。周囲の人たちを励まし、支える力になる。同じ時代を生きる人たちを押し出す力になること。

「もらう心」「できる心」「あげる心」

単純な言葉ですが、これは、与えられる自分から、自分の力を育む段階を経て、さらに自分を超えて、広がるつながりに応えてゆく私たちの魂の成長の法則を表しているのです。 (『運命の逆転』 三宝出版)

中学一年は、新たなことを学ぶ年となり、すべてが受け身(学ぶこと)が前提となります。つまり「もらう心」の段階です。そして努力をし、自信がつくと「できる心」になり、やがては「あげる心」へ。年を重ねるにつれ、だんだん質が高くなっていくものと存じます。こんな不器用な私でも、何かをあげることができ、得も言われぬ幸福感を味わってます。と考えると、「あげる心=布施」が人間の幸福の根源なのだと思います。

今年も人々から様々なものを「もらい」ました。この嬉しさ、苦しさを噛みしめ、また私なりに「できる」よう精進し、人々に「あげれる」よう布施したいと思います。それが、自他共の幸せに繋がれば幸甚です。今年一年、本当にありがとうございました。よいお年をお迎え下さい。合掌

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根の大切さ

今年も12月8日の釈尊成道(お釈迦様の悟り)に合わせ、仏名会(三千礼拝)の座に着かせていただいています。私はもっぱら、お給仕に徹しています。朝は4時半起床、就寝は午前 … 黒子の役割も陰徳の喜びです。

今回は時間もありませんので、稲垣栄洋氏の言葉を紹介して 座に戻ります。

植物にとって根っこは水や養分を吸収したり、体を支えるための大切な器官である。

根っこがなければ、植物はたちまち干上がってしまうし、根っこが十分に張っていないと、茎が簡単に倒れてしまう。

同様に、人間にとっても「根っこ」は大切なものだ。

「根気」や「根性」「根本」など、「根」という言葉が人の本質を表すことからもそれがわかる。

それでは、その根はいつ伸びるのだろうか。

水栽培されているヒヤシンスなどを見ると、短い根が出ているだけで、根っこはあまり伸びていないし、細かい根はほとんど生えていない。

水が十分にある条件では、必要以上に根を伸ばす必要がないのだ。

水がないところでは、植物の根は水を求めてグッと深く伸びる。

そして、四方八方に張りめぐらされた根が、大地をしっかりとつかむのである。

根が成長するのは、条件に恵まれたときではない。

苦しいときにこそ、根が伸びるのだ。

恵まれたときは、茎を伸ばしたり葉を茂らせるのに忙しくて、根は伸びている暇がない。

干されたときこそが成長のチャンスである。

土の下に伸びた根っこは、目に見えないがその植物の実力そのものである。

毎日、水を与えている庭の草花が夏の日照りで萎れているのに、誰も水をやらない道ばたの雑草は青々と茂っている。

日照りにあったときに、その植物の真の強さがわかる。

雑草に水をやる人はいない。

けっして恵まれた条件に生えているとはいえない。

だからこそ、毎日、水を与えられている草花とは根の張り方が違うのである。

(『雑草に学ぶ「ルデラル」な生き方』 亜紀書房)

大事な「根っこ」は 目に見えないところで育っています。ハレな環境が調っているから機嫌がいいのではなく、どんな条件でも上機嫌でありたいものです。仏は見てござる・・・これが修行の真骨頂です。

追伸:文面柄 … 私は干された環境ではありませんよ(笑)。修行はみんな大変です。住職と行者、お手伝いの方々が円滑に進むよう、四方八方に「根」を張り巡らして頑張っています^^!

修行は礼拝を三千回します。五体(両膝・両肘・頭)を 地に着け、立ち座りを繰り返します。

修行は南無阿弥陀仏を唱え、礼拝を三千回します。  五体(両膝・両肘・頭)を 地に着け、立ち座りを  繰り返します。

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地獄と極楽

先日、蔵掃除をしてると懐かしい本が出てきました。『地獄と極楽』という絵本です。幼い頃、食い入るようにこの本を見て、自然と「勧善懲悪」を学んだ気がします。

今、子供のしつけに地獄の絵本が流行っているようです。何でも合理的に、目に見えるものだけを信じる現代社会に 歪みが出ているのかも知れません。思わず目を背けたくなる地獄の光景が生々しく描かれて、幼い子にとっては衝撃的な絵本だと思います。地獄に落ちるぞ!と突き放すのではなく、良いことをするあなたを親や先祖は見守っているよ♪と、コミュニケーションをとりながら 親子で読めれば最高の一冊だと思います。

地獄の段

地獄の段

極楽の段

極楽の段

印象的な場面に「1メートルの長い箸でうどんを食べる話」があります。 地獄にも極楽にも 真ん中に大きな釜があり、美味しいうどんが煮えているというのです。ただし、その食べ方は 1メートルの長い箸で食べなければならないのです。つまり、釜の大きさも、釜を囲んでいる人数も一緒で、そこにいる人の心だけが違っている のです。地獄では 自分でうどんを掴み取り、自分の口に持って行こうとしますが、1メートルの箸なので 口まで届きません。反対側からは、こいつに食われてたまるかと奪い合う。結果的にうどんが飛び散ってしまい、誰もうどんを口に出来ないのです。一方 極楽では、みんなで分け合えるように、自分が箸で掴んだうどんを、反対側の人に食べさせてあげる。今度はあなたがどうぞと、今度は自分が食べさせてもらう。そうして全ての人がニコニコしながらうどんを食べるのです。欲を捨て「一たん止まる = 正」 … そして自他共の幸せを考えるのが極楽的な正しさです。当たり前の話ですが、みんなで助け合えば幸せになれるのです。

今年は、” 正しさ ” について考えさせられる年でした。地獄にいたら地獄の正しさ、極楽にいたら極楽の正しさがある … 先日ご紹介した良戒師の あたたかいお言葉を思い出します。「あの世には地獄も極楽もある。みんなが思っているほどの違いはない。外見上は地獄と極楽はまったく同じなんだよ。違っているのは、そこに住んでいる人の心だけ。地獄には自分のことしか考えない利己的な人が住んでおり、極楽には思いやりにあふれた利他の心を持っている人が住んでいるんだよ」 … まさに、その通りです。己の ” 正しさ ” にかこつけて、仲間や恩人を踏み台にし、自らの幸福のみを考える人は地獄的な発想です。幸い、我が西願寺では ますます団結を深め、明るく、和やかに事が進んでます。極楽の波動で 楽しく勤めていることを喜んでいます。西願寺バンザイです^^。合掌

追伸:最後に「ぬかに釘じじいの寝言のブログ」を紹介して終わります。 

『天国』と『地獄』はどの様に違うのか。『天国』も『地獄』も、どちらもテーブルの上に ご馳走が同じように置いてある。そして、一人一人1メートルもある長いお箸を持たされているのであるが、様子が全然違う。

よく見ると、地獄の人は全員やせ衰えてガリガリである。一方、天国の人を見ると、全員ふくよかに肥えてニコニコしている。何が違うのか。もっと近づいて時間を掛けて、その様子を良く見てみると、原因がはっきり分かった。地獄の人は、その1メートルもある長いお箸で食べ物を挟んで自分の口へ入れようと必死で 足掻き もがき しているが、上手く食べられず落としてしまう。又 お箸で挟んでは自分の口へ持って行くが駄目。地獄の誰もがそれを繰り返しているが、食べる事が出来ない。しかし、諦めず止めない。

一方、天国の人たちを見ると、ご馳走を挟んでは自分の口でなく 前に座っている人の口へ食べ物を運び、食べて頂いている。相手の人はニコニコ感謝しながら食べている。与えた人も相手の人の差し出すご馳走を感謝して食べている。まさに『求める世界』と『与え合う世界』の違いである。

条件が同じでも、その人の持つ心で 天と地 の違いが出現する話であります。自分の事は後回しで、先ず相手の事を考える人は のちに栄えていく。その逆に、相手の事を考えず、人の事は考えず、自分の事 自分さえ良ければ良いと考え行動する人は、先で想像を絶する苦しみが待つ。その様な人は目先より考えない。今が良ければ良い。それで生きて来て、一端困ると、人が悪い 自分以外が悪いと思い 言う。最後には神仏は無いのか と、神仏まで恨む。

『欲』と言う字は谷辺に欠けると書く。自分の事を先に考え、儲けようとする人は、底の無い谷へ落ちて行く。無限に落ちると言う事です。字は良く出来ている物です。

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母校訪問

昨日、佛教大学の学園祭(鷹陵祭)に招かれ、琵琶説教をしてきました。私の母校になります。平成10年の卒業ですので、大方 20年ぶりに寄せていただきました。

当時とは、全く違う雰囲気に驚きました。私が学んでいた校舎は駐車場になっており、お世話になった学生食堂の場所が礼拝堂に変わり … まさに諸行無常・・・浦島太郎の気分でした。考えたら、私が卒業した時に生まれた子達が 学生をしてる計算になります。よい意味での諸行無常・・・進歩がなければダメなわけです。

礼拝堂で講演をしました

礼拝堂で講演をしました

「七年後あなたは何歳になっていますか?」というお話です。
面白い会話が行われていた。十八歳の少女と、経験豊かな老人との対話である。老人は少女の人生の方向、特にどんな分野の職業を目指しているかについて尋ねた。少女は答えた。「そうですね、私は心理学者になりたいんですけど、そのためには長いこと勉強をしなければなりませんから、なったところで年を取りすぎているんじゃないかと心配なんです」賢明なる老人はしばらく黙って座っていた。それから微笑んで、こう聞いた。「お嬢さん、心理学者になるには何年かかるのですか?」「七年くらいです」と少女。「七年経つとあなたは何歳になっていますか?」「二十五歳です」それから老人はこう尋ねた。「心理学者にならなかったら、七年後あなたは何歳になっていますか?」当然ながら、少女の答えは同じだった。「二十五歳ですけど」(『あきらめなかった人々』 デニス・キンブロ 著 ナポレオン・ヒル 著 田中 孝顕 訳 きこ書房)

何かを成しえるのも、何者かになるのも、時間がかかるものです。しかし、何もしなくても時間は経過するということを忘れがちです。私も琵琶をしなければ、生涯 母校に行くことはなかったかもしれません。20年経てば 20歳年をとる。 人の評価なんて二の次です。そんなことを考えだしたら 何もできません。大切なのは、20年分成長しているかどうか。批評家は 20年間成長しないというリスクは、意外と見えていなかったりします。自分にできることをコツコツしていけばいいのです。

我々は20年後、何をしてるのでしょうか? 人によっては「もう死んでるよ」 と 乾いた笑いが聞こえてきそうですが、ならば それに伴う準備や信仰が必要だと思います。人生はアッという間だなぁ … と感じる今日この頃です。合掌

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器の大きい人

先日、親族の3回忌法要参列のため、岐阜へ行ってきました。祖母せつ の実家が善教寺という古刹で、祖母の弟、前住職・良戒上人の法事でした。法要後、琵琶説教をさせて頂きましたが、私を幼い頃から知る方々の前での法話は不思議な気分でした。まさに諸行無常です。良戒上人は 僧侶であり、教育者でもありました。今回もお育ていただいてるんだなぁ … と感謝の心でいっぱいです。

善教寺本堂 祖父母は岐阜の出身です。金森宗和や落語の開祖・安樂庵策伝も岐阜出身の金森性。縁を感じます。

善教寺本堂                        祖父母は岐阜の出身。金森宗和や落語の  開祖・安樂庵策伝も岐阜出身の金森性。  縁を感じます。

師は いつもニコニコ、何事にも動じず、穏やかに過ごされた印象があります。目標は、この器が広い良戒師の境地です。現在の私は予定に追われ、心身の余裕がありません。「器が大きい人」って何なのかなぁ … と考えた時、それは 他の物を受け入れる「余白」「余裕」がある人だと思います。器が小さい人というのは、今あるもので精いっぱい、器の中がギッシリ埋まっていて「余白」「余裕」がない状態の人ではないでしょうか。勤めや評判、重責に追われ、地に足が着いていないのかもしれません。 余裕がある時に 人は優しくなれます。それが器なのだと存じます。

ひすいこたろう氏の著書からです。
2匹の狼が闘っている。1匹の狼は恐れ、怒り、嫉妬、哀しみ、後悔、欲、傲慢、自己憐憫(じこれんびん)、罪悪感、恨み、劣等感、そしてエゴの象徴。もう1匹は、喜び、平和、愛、希望、分かち合い、安らかさ、謙虚さ、親切、友情、共感、寛大さ、真理、思いやり、そして信頼の象徴。この2匹が闘っている。ひとりの子どもがおじいさんに尋ねます。「Which wolf will win?」(どっちの狼が勝つの?)おじいさんは答えた。「The one you feed」(君が育てるほうだよ)。『あなたの人生がつまらないと思うんなら、それはあなた自身がつまらなくしているんだぜ。』(ディスカヴァー)

「君が育てるほうが勝つ」・・・結局、人生は自分で選択しているのです。 好きだと思えば好きになるし、嫌いだと思えば嫌いになる。 簡単だと思えば簡単だし、難しいと思えば難しくなる。イライラすることも、落ち着くことも … そのどちらも自分で選択できるのです。つまり 我欲を いったん置き、真理に沿って歩むことができれば、良戒師のように いつもニコニコ、何事にも動じず、穏やかに過ごせるのだと存じます。余分なエゴ(恐れ、怒り、嫉妬、哀しみ、後悔、欲、傲慢、自己憐憫、罪悪感、恨み、劣等感)が「余白」「余裕」をなくし、器を小さくしてるのです。さすれば、常に 信頼(喜び、平和、愛、希望、分かち合い、安らかさ、謙虚さ、親切、友情、共感、寛大さ、真理、思いやり)に心の針を向け、仏や先祖が喜ぶ 器作りに励みたいと思いました。一歩づつ頑張ります。良戒さま、祖父母と一緒に極楽から見守って下さい。合掌

善教寺庭園。眺めていると、心に余裕、余白が出来てきます。

善教寺庭園                眺めていると心に余白、余裕ができそうです。

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