念誉昭憲代の授戒会

5月3日、4日、5日にかけてる授戒会(じゅかいえ)を勤修しました。当初は雨の予報でしたが、牛頭天王への成功祈願、氏神の青根天満宮、御澤神社(聖水)への晴天祈祷、さらには 役員や受者85名の熱意によって、3日間とも見事、晴れ渡りました! 本当に神仏のご加護を感じた儀式でした。

3日とも穏やかな晴天でした。
龍雲が祝ってくれてます^ ^

今さらですが、授戒会とは 戒(仏教的習慣)を守ろうとする生き方を通じて 人生の巡りを良くすることを念じる儀式です。鑑真和上の時代から伝わる 宗派を問わず行われる叡智です。

オリエンテーション(足揃え)の様子

僧侶が心得を説明します。

初日は主に「剃度式(ていどしき)」を行い、頭に剃刀(かみそり)を当て 出家の儀式をし、仏教徒の証である袈裟(けさ)を授けました。これで授戒を受ける資格が得られます。

まず聖水で頭を清めます。

次に剃刀を当て得度していただきます。

次に西願寺代々伝わる
袈裟(伝統の重み)を感じていただきます。

最後に仏教徒の証の袈裟を授与して、
授戒会に入る資格を得ます。

2日目は 説教や先祖回向を通じて、仏教の生き方を学びます。「戒=シーラ(仏教的な習慣)」を学び、真なる幸福について聴聞しました。戒を守れる守れないは別にして、仏教では知らない方が罪となります。まず戒を知ってもらう「知戒」が目的です。

戒を6時間かけてお説き下さった
願故寺のご住職、北元明教上人

私のたっての希望でした。

回向師の岸川知徳上人
哀調を帯びた声と共に
先祖さまの回向をして、
感謝の心と一体になります。

最終日は「正授戒(しょうじゅかい)」によって、諸々の仏や菩薩をお招きし、戒を知って行動することによって 頭上から不思議な力が降りるように祈願しました。

まず、脇導師に心得を伝授していただきます。

羯磨(かつま)の段
「如来の働き」等を12項に分けて
授けていきます。

謙虚な気持ちで、力をいただく準備をします。

最後に説戒師の太鼓の音と共に、
不思議な力を下ろしました。

その後「懺悔式(さんげしき)」で、書いてきてもらった人生の反省文を仏の前で燃やしていただき、「戒名」(仏教名)を授けます。本来、戒名は生前に授かるもので、その名前を使うことによって 仏や先祖に護られた生活を送ることができます。特に住職は85名分、画数までこだわりましたので効果は抜群です。

ある受者の巻物
巻中には伝来等が記しています。
度牒(どちょう)は、
剃度で仏教徒になった証で授ける名前
戒牒(かいちょう)は、
授戒を受けた証で授ける名前
浄土宗では、修行の積み重ねで
戒名が長くなり、
家の誉れとして祀られます。

本尊前で反省文を燃やして、
住職から戒名(仏教名)を授与

仏の子として新生していただきます!

戒名を授からずに亡くなった方の為に、
遺族が代わりに受ける風習もあります。
これを「贈り授戒」と言います。

贈り授戒の受者
背中に塔婆を背負い、亡き人と
共に行を受けていただきます。


おそらく、受者は何が起きているかわからないと思います。しかし、その時から「戒体(かいたい)」が発動して 人生の巡りが良くなるのです。

ざっと、このようなプログラムが西願寺の授戒会となります。いわゆる仏教を通じて運気をあげる儀式をした訳です。これが約40年に一回。私(念誉昭憲)の代で最初で最後の授戒でした。

授戒会は ” 洗脳 ” ではなく、” 洗心 ” です。人生の巡りが良くなるかどうかは、今後の受者の心掛け次第です。その種まきは させていただきました。合掌

〜つづく〜

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地元の神々からの加護

いよいよ授戒会が近付いて参りました。今の心境を申しますと、一言・・・孤独だなぁ・・・というのが率直な感想です。これは責任者の宿命だと存じます。

西願寺の檀信徒は 協力的な方々ばかりで、寄り合いを申し出ても 嫌な顔一つせずに集まって下さいます。本当に恵まれています。役員方のお陰で 大きな準備は整いつつあります。あとは本当の意味で 授戒会を成功させるため、唯一儀式を知っている住職が独り、細かな仕上げをしていかねばなりません。これは役員と相談ができません。コロナ禍で一つずつ見直しが迫られる状況と、時代的な人々の価値観、また 受者85人に法灯を繋ぐ重圧に、常に孤独が付きまとっていました。

そんな中、地元の和尚さまと法談をする機会があり、心情を吐露しましたら、住職の儀式計画を 丁寧に一つ一つ見直して下さり、孤独の不安から ひとすじの光明が差し込んだ気がしました。「なんかあったら言ってや~」という人は多いですが、面倒臭いことに向き合って 一つずつ応対して下さる方は中々いません。その和尚さまから、住職の人生の課題と目標、そして今までの反省を明確にして下さった気がします。

その和尚より、もう一つ感銘を受けた話がありました。それは仏教であっても、地元の神様や大いなるものを敬うと、儀式の際、自然と人知を越えたお力を戴けると言うことです。教えの通り、東近江市にある御澤(おざわ)神社に参り、名水を戴いて参りました。儀式のすべてに関わる水に使わせていただいき、授戒会の成功を祈ります。これで開催期間の天気が必ず良くなるとご教授いただきました。

今回の法談で『平家物語』の「扇の的」という段を思い出しました。いわゆる 有名な那須与一が弓矢を放つ場面ですが、与一は成就を祈り、何を祈ったかというと・・・それは ” 地元の神々からの加護 ” でした。

・・・与一目をふさいで「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の温泉大明神、願くは あの扇の真ん中 射させ給へ」・・・

現代人のように、自分を信じろ!、ポジティブシンキング!、楽しくやろう♪ という その場しのぎの祈りではなく、二十歳の若者・那須与一は 地元の神々に自分の心身を委ねたのでした。すると北風が弱まり、見事、扇に矢を当てるのです。この史話には、もの凄い重圧やストレス、孤独を超える術を教えてくれてるように思います。つまり、日頃いかに心を鎮めて 感謝の生活しているかが問われてるのだと思います

現代人は家系を敬う、家を守るという意識が無くなってきました。税金にしても ふるさと納税等で損得に走る方が多くなりました。我々は育てていただいた恩を忘れてはなりません。地元の神々や親先祖に感謝する意識は 日頃の丁寧な積み重ねであって、その〝 恩の根元の温もり〝 を感じると 孤独を超越できるんだと学びました。

そこで授戒会では、今一度 原点に立ち返り、受者の皆様と先祖回向をし、お釈迦さまの教えを学び、共々に真なる幸福を学びたく思っています。合掌

地元の氏神、青根天満宮
拝殿横の大杉は住職が小さい頃から見守ってくれてます。

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「目的」と「目標」の違い

突然ですが、「目的」「目標」の違いをご存じですか?

『広辞苑』の定義です。
目的・・・目で見える的。「最終的に目指す到達点」、すなわち「終点」
目標・・・目で見える標。的に近づくための標。「目的を達成するために設けた手段」

つまり「目標」は、「目的」を実現させるためにどのようにしていくか、その過程を具体的に設定していくことになります。

今までの住職は、「目的」に向かって直行するタイプでした。もちろん目的達成のためには、小まめな「目標」を立てますが、どちらかといえば「目的」のための「目標」であって、目的が第一だった人生だったように思います。かっこよく言えば、人に喜んでもらう為に精一杯 生きてました。その反面、その道中(目標)や縁を味わう余裕がなかったかのように思います(^_^;。

旅行でも、目的地直行派?、道中を楽しむ派?と聞かれれば、断然、目的地直行派でした。琵琶説教で遠方に伺っても 迷惑をかけないことが第一で、寄り道は一切しませんでした。しかし 最近は、一気に目的達成できる事案が少なくなり、だんだん目的までの道中を噛み締めるよう変わってきた気がします。

常に親切で、最高のパフォーマンスが出せるよう節制をし続けても、身近な檀信徒や仲間が求める僧侶像でないことに気付いたんです。つまり 人々に綺麗なゴールを魅せるより、グチャグチャになりながらも その道中を共有することが思い出となり、こういった絆を求めてらっしゃるんだと思います

ということから最近は、魅せることより 自分の楽しみを優先していいんだ・・・と〝 進歩〝 より〝 調和〝 寄りの考えになりました。お釈迦さまの「明らめる」(明らかに見て我を捨てる、アキラメル)。親鸞聖人の「まは、さてあらん」(ま、所詮、人間なんてそんな偉いもんやない。しゃーないわ。阿弥陀さんに任せよ~)って感じです(笑)。

ひすいこたろう氏のお言葉です。
「淡々と過ぎていく普通の毎日が幸せの本質です」
by 小林正観

成功しても、幸せを感じられない人がいる原因は、ここにあります。幸せの青い鳥は、「未来」にではなく、「我が家(現在地)」にいたわけですから。「成功しないと幸せになれない」という不幸な幻想から覚めてください。「成功しないと幸せになれない」と思っていると、成功しても幸せになれませんからね。

幸せになるのに条件はいらなかった。もうあったんです。これが幸せです!忘れないでください。幸せ(幸福)はゴールではなく、スタートにあるのです!そして、「幸せ」から人生を始めたら、どこに行っても、何をしていても幸せだってことです。だって、「あなた」=「幸せ」だから。あなたは幸せから逃れられない。どこに行っても、もれなく幸せ(あなた)はついてきます。幸せから人生を始めよう。
(『見る見る幸せが見えてくる授業』 サンマーク出版)

幸せをゴールに置くと、幸せの期間は瞬間で、山登りでいったら「山頂」だけ、旅でいったら「目的地」だけが幸せということになります。しかし、その過程も含めて幸せと思えたなら、もちろん山頂もしあわせですが、そこに辿り着くまでの道中で咲いている花や、空気の味や、急な坂道で転んだことや、星降る夜の空や、荷物の重さや、疲れたときのチョコレートや、急な土砂降りの雨まで、「幸せ」を感じることができます。つまりは、今現在への感謝が 幸せの本質なんだと思います。

感謝から人生を始めると、
いつも楽しくて、いつも幸せです^ ^

最近は 少し時間ができると、以前紹介したレブルで 目的もなく走るのが楽しみです。だんだん暖かくなってきましたので、とても心地よいです^^。風を受け、季節を感じ、景色を見て、五感のストレスを洗い流している感覚です。

コロナが明ける気配で世の中が動き出しました。西願寺の法務、奉職寺院での責務、琵琶説教のご依頼がドンドン押し寄せてくる感覚です。仕事の質と量は増す一方ですが、その道中(目標)を楽しむことを決意すると幸せしかありません!! 私ほどスリリングな生き方をしてる人は そうありませんからね ♪(笑)合掌

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「当たり前」からの脱却でうまくいく

こんにちは。今年のウサギ年はピョンピョン飛び跳ね、ポジティブに動くのが吉と申しましたが、物価や公共料金がジワジワ値上がりし、若者のモラル問題、コロナや戦争の世界情勢も重なり・・・未来への閉塞感が拭いきれない世の中になっています。

賢く生きるための情報を集めれば集めるほど 損得勘定の心(煩悩)が出てきて、仏教的人生観とは真逆の生き方になりそうです。知識ではなく ” 智慧 ” を学ばなければ幸せになれないと感じる今日この頃です。

住職は日頃のお詣りで、多くの人の話を聞き 世相を感じています。先日も和菓子店の社長宅に参り、経済のことをご教授いただきました。最も印象に残っているのは「過剰なサービスが経済を悪くしている」というお言葉です。

一見、サービス(おもてなし)は美徳に思えますが、それが当たり前になると、もっともっとの連続で際限が無くなり、結局は自分の首を絞めていると仰るのです。

つまり、サービスに満足できなくなった顧客を満足させるためには、安さを売りにするしかなく、価格競争がはじまり、サービスと低価格の時代になります。利益が取れず、人件費もかかりますが、それでも企業は「選ばれる」事に必死になるしかありません。過剰なサービスをしても顧客は感謝するどころかクレームを言うようになる・・・それが今の日本の現状であり、完全に負のスパイラルに陥ってると教えていただきました。

たしかに 日本は食堂に行けば、当たり前のように水が出されます。しかし、ハワイではその水を出してもらうのに サービス料として18パーセントが取られています。日本のように愛想良くでなく、無愛想にドン!と水を出してのサービス料が消費税の倍ほど(笑)。日本の有り難さがよくわかります。

他にも「不在にしていても、何度でも無料で宅配便を届けてくれる」「ガソリンスタンドに入ると窓ガラスを拭いてくれる」「必要なものを買い忘れても、いつでもお店は開いている」・・・今では当たり前になっているサービスですが、日本人を ” 客だったら何でもありの 欲望モンスター ” に育成しているように思えてなりません。だからこそ、 ” 感謝 ” を説く仏教の存在が必要なんだと考えます。

お寺のお布施はなぜ高いのか・・・住職自身もよく考える問いですが、それは年中無休、24時間体制でプライベートを削り、できる限りの応対をしているからだと思います。日常は他所でのアルバイトで生計を立てつつ、檀信徒の依頼に備えます。その間、寺管理や接待は無償サービスで行い、お寺からいただく収入は 法事での布施となります。固定給はないので、体調不良になれば無収入の月もあります。補償は一切ありません。とても多い誤解ですが、もちろん所得税は支払ってます。個人資産は無税優遇されるわけありません。

急なことかあれば、仕事はもちろん 旅行やコンサート、スポーツ観戦の途中でも帰ります。すべてのスケジュールを檀信徒に捧げて当たり前の立場になっています。年に数回のやっと取れた休みでも、法事や相談を申し込まれば空けます。今月はいっぱい働いたから、お葬式や法事はパス!とは言えないんですw。やはり、お布施には ” 住職の人生をかけたサービス料 ” が入っているんでしょうね(笑)。もちろん、皆様の協力があってこそ成り立つ運営です。

海外では「水とサービスと安全はお金で買う」と言いますが、それが本来なのかもしれません。日本の手厚いサービスは、互いの信用の積み重ねから成り立つものだと思います。みんなが権利の主張をしていては 世の中がギスギスします。そう考えると、京都の「一見さんお断り」は 上手い知恵なのかもしれません。

色々申しましたが、我々はまず「当たり前」から脱却することです。そして、いつも申している「ありがとう、おかげさま、感謝、ご恩、死後の幸福」を見つめるクセを付けることが、その身そのままで幸せに生きられる秘訣なんだと思います。みんなが感謝し合える世の中になれば、日本の経済はもちろん、個々の幸福度合いが増していくのだと確信します。合掌

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卯年の心構え

新年、明けましておめでとうございます。旧年中はお世話になりました。どうぞ、本年もよろしくお願い申し上げます。令和5年はウサギ年です。丁度、住職も 年男になります^ ^

ウサギという字は2種類あります。。動物では「兎」、干支では「卯」を使います。この使い分けはご存じでしょうか?

いつも申しておりますが、「干支(えと)」の「支」は12種類あり、「十二支」とも言います。この十二支の各文字は、草木の栄枯盛衰を表したものとされます。つまり、この世界の森羅万象を12に区切り表したものが「干支」になる訳です。それを 動物に当てはめているんですね。


 
子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥

動物としての読みは・・・。
ね・うし・とら・う・たつ・み・うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・い

これらは聞き慣れてますが、これを音読みににますと・・・。
し・ちゅう・いん・ぼう・しん・し・ご・び・しん・ゆう・じゅつ・がい

ですから、今年は4番目。4月の年ですので ” ぼう ” の年。つまり、草木の栄枯盛衰を表す茂(ぼう)の字が、同じ読み(意味)の卯(ぼう、しげる)に置き変わり、動物のウサギに当てられたようです。
 
ここから、
1.子年は1月、十二支の最初ということで活発に種をまくべき年。
2.丑年は2月、まいた種が芽を出し、成長するのを忍耐強く見守る年。
3.寅年は3月、その芽が勢いよく伸びはじめる年。
4.卯年は4月、その芽が若葉となり成長していく年。
になります。

「しげる」と読みます。若葉が生い茂るということから、成長発展を意味します。「茂」という字を意識して、情報のアンテナを張り巡らしたり、人脈の輪を広げたり、新しい分野にも挑戦したりと、自分の世界を広げる努力が必要であり、それによって今後の展望を期待することが吉と出ています。

厳しく言えば、世界情勢に翻弄されている 今の自分のあり様を、環境や他人のせいにして生きるのは大凶です。今年はポジティブに動くことが、今後の12年を左右することを肝に銘じる必要があります。まさしく「風の時代」が進むと読んだ方がいいと存じます。

 
 
一方、動物の「卯(うさぎ)」は、” 門がひらく(心を開く)“ とも意味し、平和や豊かさを象徴しています。平和は偶然ではできません。互いの努力があってなし得るものです。

ピョンピョン跳びはねるウサギは、跳びはねる前に一度、折れ屈みます。折れかがむ前に一度、頭を下げますが、日本では頭を下げて謙虚になる行為を「拝む」といいます。

「おれかがむ」⇒「恩を噛みしめる」⇒「拝む」

平和や豊かであることは、” ありがとう、おかげさま、ご恩、感謝 ” ・・・これらの拝む条件がそろって 始めてなし得るのです。

今年の卯年は、世界情勢や時節柄、困難は沢山あると思いますが、互いに 卯の精神 で乗り越えたいものであります。皆様、ご家族御一族にとって、よい一年であることを心よりお祈り申し上げます。合掌

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「琵琶説教」は 弁才天のご加護

本年、最後のブログとなります。令和4年は 住職の様々な節目と言うこともあり、私自身のプライベートを沢山載せました。最後はやはり「琵琶説教」について話したいと思います。

昔は 行事でお寺に集まると、お坊さんによる法話(説教)が付きものでした。幼心のイメージは、檀家がその説教を楽しみにされてるように見えました。しかし、僧侶となり冷静に聴衆を見てますと、時代と共に人々が興味を失っていってるように見えました・・・琵琶という芸能も同じです。日本一有名な楽器なのに 聞く機会がなかなかなく、いざ聞いても言葉が難しく、寝られる方が多いのです。(すべて個人の見解ですが)

そこで、日本的精神的支柱である この2つの和文化に興味を持ってもらえないか?と考え、合体させたのが「琵琶説教」です。お説教の題材は、琵琶物語を教訓にし、琵琶演奏はナレーションや台詞を入れて、人間が集中できる15分までに押さえ、残りの時間は時代背景や仏教的な教訓に当てるようにしました。これによって何席でも応対でき、現在は30ほどの題材を作っています。

「琵琶説教」が近江八幡検定の問題にもなりました。
織田信長公、豊臣秀次公、近江八幡の各文化や
歴史と一緒に 問題の中に入るのは恐縮です(^_^;)

「琵琶説教」を発願するに当たって、頼った神が弁才天でした。ご存じ、弁才天は七福神のお一人です。元々はインドの河の神・サラスバティです。河の流れは音を伴います。その音から弁舌、才能(音楽、芸術)の神として輸入され、日本では琵琶を持たれてます。弁舌、才能の神を略して弁才天。まさに「琵琶説教」そのものです。
*弁財天とも書きますが、これは財宝の御利益目当ての方々の後付けです。

「琵琶説教」を始めてから、各所で弁才天像を見つけると
大小問わずご縁を頂戴しました。

「琵琶説教」10年目を記念して、
八臂弁天と妙音弁天(江ノ島神社)を
特注で製作し、祀らせていただきました。
もちろん後方には、厳島神社の御真影、
竹生島神社の御真影も居られ、日本の
三大弁才天が一つになっておられます。

竹生島弁才天真影

厳島弁才天真影(琵琶)

厳島弁才天真影(八臂)

「琵琶説教」15年目には、
檀家さまが描かれた弁才天の絵を
ご寄贈いただきました。素晴らしいです!

今年で「琵琶説教」20年目。
記念に琵琶説教をしている住職の像を
ご寄贈いただきました。
恐縮して、身が引き締まる思いです。

最近は牛頭天王の名を多く語ってますが、元々は何もないところから弁才天に祈りを捧げたことからすべてが始まりました。今も「琵琶説教」がある時は、必ず弁才天に手を合わせてご加護をいただいてます。私は様々な神仏に守られて幸せです。来年も信仰生活の素晴らしさを伝えられたらと存じます。本年もありがとうございました。合掌

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テニス

今年のブログは、自分をさらけ出しています(笑)。前回は 生まれ育った和文化を軸に 新しいものを取り入れると、運気が上昇するという話題でした。着物の話は 私にしっくりし過ぎましたので、今回は別の趣味を公表します。それは、テニスです。(英国文化で申し訳ありませんw)

私は、中学、高校と軟式テニス部に属してキャプテンを務めてました。強豪校ではありませんのでお遊び程度でしたが、私にとって青春でした。人生の中でも最も楽しかった時期かもしれません。

年季の入った賞状です。
軟式テニス(現ソフトテニス)は、ダブルスです。

もっと成績の良い賞状やトロフィー、
高校時代の物があったはずですが・・・(笑)
でも、無くなる前にブログに残せてよかったです^^

高校卒業後は、2年間の修行生活に入り僧侶となりました。その後、現在の奉職寺院に住み込み(随身)をしつつ、佛教大学に入学します。随身の学生生活は、早朝からの門開け、勤行、掃除、朝礼。それから通学し、夕方からは門閉め、夜警、電話番。また 学校が休みの日はお寺のお手伝いをしていましたので、友達を作ったり テニスをする機会がありませんでした。

大学卒業から10年ほど経った頃、少し時間に余裕が出てきた私は テニスを再開しました。硬式テニスは初めてで 初歩クラスから始めました。レッスンは1時間半。75歳の女性と2人でコーチに教えてもらいました。あの時は30歳を過ぎたばかりで 体力には問題ないと思ってましたが、レッスンが始まってから程なくして 座り込んだ記憶があります(汗)。修行生活とスポーツは使う筋肉が違っていたのかもしれません、、、75歳の女性は平然とされてる あの悔しさ、、、今では良い思い出です^^。あれから15年、楽しく体力維持に努めています。

自己啓発書作家の佐藤富雄氏のお言葉を引用します。

唐突だが、ここで自動車を購入した自分の姿を想像していただきたい。
あなたが長年あこがれてきた、ピカピカのヨーロッパ車だ。
おそらく、あなたは週末がやってくるたびに洗車し、ワックスで丹念に磨き、
ほれぼれとしながらその車を眺めるだろう。

それでは、これが長年乗り続けてきた廃車寸前の軽自動車ならどうだろうか。
「どうせ安い中古車なんだから」とろくにメンテナンスもせず、
したとしてもせいぜいガソリンスタンドの自動洗車機にかける程度だろう。

このような話しを持ちだしたのには理由がある。
現在のあなたは、自分を中古の軽自動車のように扱っていないだろうか?
「どうせポンコツだから」
「がんばったところでいまさら遅い」
そうやって、自分を廃車寸前にまで追い込んでいないだろうか?
あなたは決してポンコツの中古車などではない。
もしもポンコツに見えるとすれば、
それは日ごろのメンテナンスを怠っているだけである。

(『ちょっとした習慣であなたの人生は変わる』 フォレスト出版)

テニスを始めた頃からの人生を回想すると、実に様々な方に支えられたなぁ・・・と思います。そういう方々の為にも 心身は大切にしたいと思う今日この頃です。佐藤氏の仰るように初心の感動や緊張は、どれだけ時が経とうとも忘れてはいけないと思います

メンテナンスは自分自身のケアです。決して 他人によく見られる為にするものではありません。しかし、現代社会は公私の時間が入り乱れて〝 無〝 になることが少なくなりました。学生時代が楽しかったのは、何も考えずに物事を取り組めたからなんだと思います。これが幸せの原点なのかもしれません

充足感のある人生を送るために、大人になっても 夢中になれる時間を持ちたいものですね。合掌

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プチ和装のススメ

日ごとに秋めいて参りました。日本には四季があり、春夏秋冬の楽しみがありますが、その一つに 身だしなみの楽しみがあるのではないでしょうか。人間の基本は衣食住ですが、特にファッションは その人自身を表します。住職の着衣は普段、衣や作務衣が多く、和服に違和感がありません。

昔のブログで「和魂洋才(わこんようさい)」の話をしました。和魂洋才とは、日本古来の精神世界を大切にしつつ西洋の技術を受け入れ、両者を発展させていくという意味です。

まず生まれ育った日本古来の精神世界に敬意を払うのです。それだけで神仏や先祖のご加護があり、運気はドンドン上昇します。「和七洋三」の心構え(割合)で、日本人としての精神的な軸を構築すると、自らに誇りが出ることも記しました。そこで 私が推奨しているのは、プチ和装のススメです。

敗戦国の日本は、残念ながら 過去文化の否定から始まっています。住職は、” 心の伝承 ” を伝える勤めをしていますので、そういう流れに非常に敏感です。これからの日本人は どのように生きていけば自信がつき、魅力が出てくるのでしょうか。

斎藤ひとりさんの「これからの時代に求められるもの」というお話があります。。

スピリチュアルっていうのは「内面のかっこよさ」なんだよね。
芸能界は主に「外面のかっこよさ」を競うけど、これからの時代、
それに負けないくらいスピリチュアルもかっこよくないとダメなの。
なぜかっていうと、かっこいいから人はついてくるんだよ。
言ってることが正しいからじゃないの。
理屈をいくら話したって、理屈じゃ人はついてこない。
「その人に惚れる」っていうことが大切なんです。

影響力を使って人を動かそうとするけど、
その人がかっこよかったら、言うことを聞くんだよね。
それで、人を影響力で動かそうとする人って、人を変えようとするんです。
でも、変えようとすると人は逃げていくんだよ。
いつも説教しようとする人からは離れていきます。
それよりも、相手が惚れちゃうような生き方をすればいいの。
そうすれば、人は自然とついてくるんだよ。

今、みんなスマートフォンとか持ってるよね。
それで、これさえあればなんでも調べられるの。
東大の試験に出るような問題だって知ることができます。
そうなったとき、これからの時代に人が何を求めるかというと、
学歴よりも “ 人格 ” であり、“ 魅力 ” なんです。
もちろん、これからも学歴は必要だけど、
それ以上に人から好かれることが大切だよね。
これからの時代、社長でも先生でも、
人に対して影響力を与えたいなら好かれないとダメなんです。

(『品をあげる人がやっていること』 サンマーク出版)

その通りだと思います。ただ、ひとりさんは人への影響力を申されてますが、承認欲求を求めない住職は、プライベートは他人に認められようと思ってません。あくまで神仏と向き合っています。

神仏は、その人の「言っていること」よりも「やっていること」、つまり ” 生き方 ” を見て下さってるのではないでしょうか。見てないようで見ておられます。応援したくなる人というのは、生き方がかっこいいんです。

そのためには、軽くていいので ” 和の根幹 ” を持つのです。過去から積み上げてこられた先人の思いを感じつつ生きると、自ずと内面が安定し、自信や魅力に繋がっていきます。神仏や先祖の力を借りつつ、各々が思うかっこいい生き方を貫ければいいですね。合掌

追伸
先日、奉職寺院でNHKの撮影があり出演しました。そのゲストが大久保汰佳(おおくぼ たいが)君でした。ご存じでしょうか? 幼少より仏像作りに励み、TV出演も多数ある有望な若者です。

私はこの和文化を大切にされてる彼に魅了され、会いたくて逢いたくて、ずーっと牛頭天王にお願いしてましたら、汰佳君から訪ねてきてくれました。さずが牛頭さまです♡ 彼とは牛頭天王復興の話で盛り上がり、今生の友達になりました。法縁に感謝です。九拝

和文化、和装つながり?です(笑)

汰佳上人から頂戴した手作の地蔵菩薩。
大切にお祀りいたします。

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熱帯魚

こんにちは。いつまでも暑い日が続きます。昨年の今頃はコロナの影響で外に出れなかったので、おうち時間の楽しみとして 熱帯魚を飼いだしました。今月で丸1年になります。その泳ぐ様子を見て涼むという ささやかな楽しみを得ています。

飼育の動機は、先月話したように経験からくる憧れから来ています。昔、友人宅に行って あまりに綺麗な熱帯魚たちを ずっと眺めて、家でも癒されたいと思った記憶があります。

もう一つは、琵琶説教で山陰の方に参ることがあるのですが、そこで見かける「牛頭(ゴズ)」という魚を飼いたかったんです。もちろん牛頭天王にかけてるんですが(笑)、あの愛嬌のある顔に惹かれたんです。釣り人からいただくわけにいかず、食用以外売ってないので諦めましたが、、、ゴズの云われについては面白いブログがありましたので、以下に掲載させていただきます。

牛頭(ゴズ)
愛嬌のある顔だと思いませんか?(笑)

出雲地方や中海沿岸では沙魚(ハゼ)のことを「牛頭(ゴズ)」と呼びます。
ちなみに「牛頭(ゴズ)」とは、頭は牛、身体は人の形をした地獄の鬼のこと…。
何故そう呼ぶのか?…その由来は定かではありませんが、物心ついた時から「ハゼ」ではなく「ゴズ」と呼んでいましたね。

ただ、オロチ退治で知られる出雲の神、「スサノオノミコト(素戔嗚尊)」が「牛頭(ゴズ)天王」とも呼ばれており、その「スサノオノミコト」が開いたと言われる出雲の国で「ハゼ」を「牛頭(ゴズ)」と呼んでいるという事実…。
まさか「スサノオノミコト(=牛頭天王)」が退治した八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が、斐伊川から宍道湖に流れて「ハゼ」になり、それで「ゴズ」と呼ばれるようになったとか … 色々な想像を掻き立てられますね。

まぁ、ただ単にその姿が牛の頭に似ているからその名が付いたのかもしれませんが…。
(ブログ「キス好きの投げキッス」)

この方の文章を拝見して、ひとつの興味を深めると 様々な知識に派生するのだと感じました。何でも勇気を持って一歩踏み出すことから 様々な出会いが始まるんだと思います。

今までの住職は、「忙しさ」というレールに何の疑問も持たず、ただひたすら走ってました。眼前の楽しいことに目もくれず、責務のみを考えていた感じです。しかしコロナ禍になり、一旦立ち止まると見えてくるものがありました。

・ただ無難に、非難されないように生きているのでは?
・〝 本当の私〝 ってなんだろう?
・どうしたら 人生の楽しみを享受できるだろうか?

このような悩みの方は意外に多いんじゃないでしょうか。その一因に、昨今は〝 土の時代〝 から〝 風の時代〝 へ移り変わり、選択肢が増え、価値観が大きく変化しているからだと推察します。(詳しくは令和4年1月のブログを参照下さい)

ただ、どのような時代であっても 人間の根幹は変わりません。人間が生まれる目的は「たくさんの感動をして、魂を震わせる」ためと桜井識子さんが仰ってますが、激しく同感します。

自分自身が感動をしたり、いい話・心あたたまる話を聞いて感涙したりすると、魂がその感動で震えます。魂が震える感覚は、心が洗われる感じ、浄化されるような感じです。スッキリ爽やかで、晴れやかな心になります。

嬉しいことがあって喜ぶ、感謝せずにはいられないことがあってそっと合掌する、人のあたたかみにふれて涙する、など、心がいい方へ動くことは、すべて感動です。この地上でしか体験出来ないこと、それを、心や肌で感じる…。

たくさんの感動を経験して、あちらの世界に持って逝く。そして、その感動の数々を応援して下さったご先祖さまに報告できたら、最高の喜び(極楽)になるのだと思います。これが〝 生まれてくる目的〝 と捉えれば、他人の目を気にしてウジウジすることなく、人生がさらに豊かになるのではないでしょうか。

熱帯魚の優雅で自由に泳ぐ姿を見て、残りの人生、感動に向けて目一杯 時間を使おうと思いました。そんなことを学んだコロナ禍の期間でした。合掌

熱帯魚の飼育は楽しいです^^
古代風に造形してみました。

隠れ穴には仙人が座っています。
魚たちへのドッキリですw
流木右下のスケルトンフィッシュは見えますか?

水草にも挑戦してみました。

ゴズが飼えなかったため、
風貌が似ているコリドラス
コケ掃除が得意なオトシンクルス
仕草が可愛いミナミヌマエビ
キラキラ光るネオンテトラ
が仲間になりました。

追伸 住職の感性は10年早いと言って下さる方がありますが・・・熱帯魚を飼って思ったこと。それは寺院消滅が叫ばれるこの時代。それを避ける起死回生の策として、本堂の壁一面を熱帯魚の水槽で囲むと、その寺はどんな田舎でも繁盛して生き残ると思いました^ ^

感動することを真剣に熱中すれば、人々を動かす力になると思います。

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真心の贈り物

残暑お見舞い申し上げます。

世間で言うお盆は終わりましたが、田舎のお盆はまだまだ続いています。今は施餓鬼(せがき)法要の手伝いに各寺院をまわり、24日の地蔵盆まで続きます。

前のブログでは、バイクの話をして余裕を見せましたが(笑)、実は過密スケジュールで 体調不良すら許されない状態なんです(^_^;

そんな中、全国の信者様から「お盆を乗り切って下さい!」と多くの励ましやお供えをいただき、毎年、なんとかやっています。縁ある方々に心より感謝申し上げます。

全員のお心添えはお伝えできませんが、今朝、広島の青木様ご夫婦からブルーベリーと手作りジャム等を送っていただきました。

青木家は病気平癒を願われてますので、
まず薬師如来と日光菩薩、月光菩薩に
お供えさせていただきました。

薬師如来の眷属、十二神将にも護ってもらいます。
ミカンも青木さまからのお供えです。

新鮮なブルーベリーと手作りのジャム
自然の恵みに感謝です^^
私が祈祷してるように見えて、
住職に必要なお心遣いが集まることが不思議です。
すべては神仏の計らいごとです。
すべてに感謝申し上げます。

青木さまは このブログを通じ、ご家族の病気平癒の祈祷のご依頼があり、見事、神仏のご加護がありました。それがご縁で願い寺に琵琶説教にも参らせていただいたりし、もう5年のお付き合いになります。

農家をされているご夫婦で、節目節目に農作物を送って下さいます。住職、今年のお盆は暑さのせいか、目がかすんでしまう症状にありましたが、このブルーベリーにあたたかさとパワーを感じ、盆行事を乗り切れる確信がしました。

信仰の力は凄いと感じる朝でした。凄いタイミングで、嬉しくてブログを追伸しました。

皆様方のお供えも 各家にあった神仏に供養し、ご祈祷してますので、どうぞ功徳の回向をお感じいただければと存じます。住職も皆様に守られてます。九拝

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