授戒会準備委員会の発足!

西願寺に軸足を置いて、1年余りが経ちました。徐々に檀信徒とコミュニケーションが取れるようになり、今後の西願寺興隆に繋がる種植えをしています。

無から有を作り出すのは 相当なエネルギーが必要です。皆様が私の念いを どこまで理解して下さるかはわかりません。誤解されることもあるでしょうが、すべては西願寺の未来ためです。「やらねばならぬものは、やる!」の精神で 粉骨砕身していきたいと思っています。

昨年の秋、市内の正福寺さまで授戒会が勤められ、その法灯を受け継ぐ覚悟をしたのが、昨年の11月12日(日)。それから半年あまり、、、満を持して6月19日に「授戒会(じゅかいえ)」の準備委員会の初会合をしました。当山では30~40年に一度開く修行道場です。前回は昭和61年に開催されましたので、ちょうど考える時期にきています。

授戒とは、迷いのない心を得て 人生を歩むための指針を、お釈迦様の教えに基づいてお伝えする修行です。金品では得られない心の置き所を会得し、仏弟子となって迷いのない人生を全うするのです。

よって授戒をお受けいただくと「戒名」を授与しますが、戒名は仏弟子となった貴方の名前あり、人生再出発の名前となるのです。このため 本来は亡くなってから付けるものではありません。その仏縁を結んでいただくのが授戒会です。

仏教には「一念三千(いちねんさんぜん)」という言葉があります。これは、人の心の針は 常に めまぐるしく動き、三千種類の世界が展開するという意味です。つまり、人間に生まれれば、形の上ではたしかに人間ですが、心の働きからみれば餓鬼であったり畜生であったり地獄であったりします。

この定まらない心の動きこそが苦しみの根源であり、このような状態から脱皮して、仏の内容が備わるよう人間改革するのが「戒」なのです。

「一念三千」のしくみ

・・・という理念を申しても、価値観が多様化する現代社会では、3日も休み取れない!、戒名なんか要らない!、お金がもったいない!等々の本音が聞こえてきそうです(笑)。これを粘り強く布教して、個人やお家の幸せを祈るのがお寺の役割です。

『言いにくいことをうまく伝える会話術』(草思社)にこんな言葉がありました。
わたしたちは相手の意図を知らなくても、それを知っていると思いこむ。さらに悪いことに、わたしたちは人の意図がよくわからないにもかかわらず、それを往々にして、悪いものだと決めつけてしまう。実のところ人の意図は目に見えない。わたしたちは相手のふるまいからその意図を想定する。言い換えれば、相手の意図をこちらでつくりだすのだ。しかし、相手の意図についてわたしたちがつくり出したストーリーは、自分で考えるよりもはるかに不正確であることが多い。

なぜか?人の意図とは、複雑なものだからだ。人はときに複数の意図をもって、あるいはなんの意図もなく、少なくとも わたしたちと関係ある意図は何もなしに行動する。そして善意から行動したにもかかわらず、ときに、私たちを傷つけたりもする。相手の意図に対するわたしたちの見方(あるいはわたしたちの意図に対する相手の見方)は 重要なもので、根拠のない思い込みに走るのは 大きな失敗を招きかねない。(ダグラス ストーン、シーラ ヒーン、ブルース パットン著)

人は 自分の経験値で物事を聞き、判断する生き物です。時には仏よりも偉い存在に錯覚しがちです。しかし 自分本位な ” 想像 ” を超え、” 行動 ” で示す人は立派だと思います。そうなると 誰もが聖人ではありませんので、途方もなく粘り強い精神が必要となってきます。

しかし「戒」を受けると、仏の方向性が しっかり観えてくるのです。心の針が安定すれば、苦難困難が ” 有り難さ ” に変わってきます。現代のように「したくないものは しなくてもいい」、あるいは「損得勘定の価値観」ですと、心の針がグルグル動くだけで いつまでたっても幸福(ご恩、感謝、ありがとう、お陰さま)がおとずれません。

おそらく授戒会を開かねば 精神が骨抜きになり、50年後には寺は無くなるでしょう。繰り返しになりますが、「やらねばならぬものは、やる!」の精神で粉骨砕身していきたいと思っています。まだ 皆様をお誘いできる環境は調いませんが、3年後をめどに考えています。ブログを読んでらっしゃる方で、私を通じて仏弟子になりたい方は意識なさって下さいませ。他の案内とは訳が違います。今回を逃せば40年後(笑)。またお誘いします。合掌

授戒会準備委員会の初会合。一致団結して勧めてまいります!宜しくお願いします。

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念仏同行の発足!

先日、皆様のお陰で「回番御忌」が無事に終わり、実行委員会も解散しました。その後、有志の方から この会をなんらかの形で継続して お寺に集いたいという要望がありました。住職にとってはこの上なく嬉しいことです。今回は 6月12日の晩に 実行委員会ののメンバー6人と総代、副総代に集まっていただき「別時念仏(べつじねんぶつ)」をしました。

別時念仏とは、時間と場所を 定めて念仏(南無阿弥陀仏)を唱える修行です。他寺では30分唱える所もあれば、一時間という寺もあります。私の経験上、初心者はイタズラに長いと心が散漫になるので、千遍の念仏としました。私は日課として 自分のために唱える南無阿弥陀仏を、一日千遍と定めています(もちろん法要での念仏は省きます)。それを体験していただきました。現代は 先祖のために念仏を唱える風潮がありますが、本来は自分と向き合い、自分のために唱えて 初めて救いというものを実感するのです。今回は なぜ念仏を唱えるのかと言うことをお話し、私が訳したお経を読み、十数分の念仏の後に法話、最後、水晶と音叉を使った特別なお清めを致しました。合計40分。私が長年 皆様と分かち合いたかったことが実現し、悦びに満ちた別時念仏となりました。

百遍の念仏を唱えれば、○1つに色を塗ります。全て塗りつぶすことができれば、最高の御利益が待っています。        ※参加者には この徳本行者の念仏紙を差し上げます。

特注の五百遍数珠。2周回せば千遍の念仏となります。下はお清め用の水晶。

アメリカの臨床心理学者、アルバート・エリス氏のお言葉です。
心に動揺があると自己実現はそう簡単に達成されません。追い立てられる気がして自滅的な行為をしたり、暇になることを避けたいために脅迫観念を抱いたり、衝動的になったり、パニックになるかもしれません。動揺することは実際、興奮をかき立てます。人生をエキサイティングにするために、動揺したいと思うかもしれませんが、そんな価値はありません。動揺に伴う興奮を楽しみながら、もっと楽しめることを見つけ出す、ということは不可能です。なぜなら、動揺するとそれに費やされる時間やエネルギーは非常に大きく、自分の幸せをどうやって育てるかを考えるための時間とエネルギーがほとんど残らないのです。そうして、あなたの動揺は、あなたの自己実現的な目標の達成を妨害します。(『性格は変えられない、それでも人生は変えられる』ダイヤモンド社)

私は多くの後輩僧侶の指導に当たりますが、まぁ このタイプが多いこと …(笑)。何を焦るのでしょうか。1、2年経験を積んだだけで勘違いし、輝き続けるために動揺し、恩人を否定、周りとの温度差に嘆き、新しい環境を求めていきます。そうして苦難に入り、被害者意識の塊(餓鬼)となる・・・残念ながら、人は苦労しすぎると、卑屈になってしまいます・・・致命的な遠回りです。そういう方を何人も見てきました。しかし、仏縁はもっとシンプルなものです。

この世は ” 光と陰 ” があります。光り輝けるのは陰があるからこそ。自己実現が出来ないのは、陰の有り難さがわからないからです。陰を知って ” お陰さま ”・・・この境地が動揺や不安、憂うつを超えた安らぎの世界なのです。あとは時間と縁が自己実現に導いてくれるのです・・・焦らなくてよろしい。

まずは理想論ではなく、千遍の念仏から始めようじゃありませんか。今回、真っ暗な本堂で、ろうそくの光を見ながらの別時念仏に、ご恩、感謝、お陰、有難うの本来の自分を見つめさせていただきました。皆様も 私の修行の一環を共に体験しませんか。どちら様も大歓迎です。月に一度、自分を見つめてみましょう。近江八幡の方なら、家の玄関を出て 帰りの玄関までで一時間!。別時念仏は賽銭だけで結構。次回は7月31日(火)19時開始です^^。合掌

輝きは、暗闇があるから成り立つのです。これが解れば、自分にあった招福が 必ずおとずれます。                静寂の中、無我無心で南無阿弥陀仏を唱えてみませんか。

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骨佛法要(平成30年)

6月3日、「骨佛法要」を厳修しました。去年までは「東日本大震災物故者法要」として勤めてきましたが、7回忌法要も終わり、その間、骨佛や住職に縁を持たれる方も増えてきました。そこで震災法要と併修し、有縁の方々と供養の場を持つことにしました。

参詣者と共々に東日本大震災物故者、有縁の方々を偲びました。

数あわせのイベントにしたくありませんので、骨佛と縁を持たれる方だけに案内を送り、あとは口コミで広げていただきました。当日は60名の方々がお参り下さり、本当に楽しい時間を過ごしました。法要や琵琶説教はもちろん、後輩僧侶の心の込もった回向、有志の方々(お気楽さん)によるハーモニカ演奏、里田さま御一行による手作りオハギの供養、また参詣人がそれぞれ お供えを持ち寄って下さり、皆様の心遣いによる ” 手作りの法要 ” を勤めることができました。みんなが笑顔の法要でした^^。骨佛造立が ここまでの形を成したことは、発願者の住職冥利に尽きる瞬間でした。

お気楽さんによるハーモニカ演奏

里田様ご一行との記念撮影

けい氏のお言葉です。
子供の頃、電話を持ち歩けるなんて思ってもみなかったけど現実になり、携帯電話がスマホに変わり、スマホが喋りだしサポートしてくれて、顔認証でロックが解除されるなんて、僕が子供の頃には誰一人信じなかったでしょう。江戸時代(150年前)の人がもしスマホやドローンや自動運転車を見たらどうするでしょう?おそらく「妖怪め~!」といって斬られます(笑)しかし、それほどの進化を遂げていることも事実です。

和菓子の老舗 “ 虎屋 ” さんは、約500年続いています。その “ 虎屋 ” さんは、「変えるものと変えてはいけないものをハッキリさせてきたことが、虎屋が500年ちかくも続いてきた大きな要因」と語ります。変えてはいけないものとは?「お客様への感謝の心」。では逆に変えるものとは?「味は変えてしかるべきだと考えている」。味は、時代の変化に対応し、変えているそうです。500年続いている虎屋さんをもってして、変え続けているのです。(『魂が震える話』)

時代の速さは想像を絶します。便利になり、価値観が多様化し、人々は 大事なものを見失いかけてるのではないでしょうか。そんな中、参詣人の笑顔を拝し、虎屋さんの教訓の大切さを感じました。変えてはいけないものは ” 感謝の心 ”。末永く続くため、時代にあった ” 味付け(布教方法) ” に変える ・・・真理(救い)は妥協してはいけませんが、壇信徒と向き合う姿勢(工夫や精進)が大切だと思いました。偉そうなことはいえませんが、感謝やお陰、ご恩や有難うの精神だけは外してはいけないと思っています。だから 西願寺に集まる方々は笑顔なのだと思います。

本日、回向師デビューをした後輩僧侶の「西願寺さんの あたたかい雰囲気に触れることができ、私はラッキーでした。今後ともお世話になりたいです!」という言葉に、嬉しく思いました。慢心がなければ、西願寺の阿弥陀様は さらなるチャンスを与えられることでしょう。仏縁はそれほど尊いものです。私自身も お育ていただいてます。本当に幸せです。ご参拝の皆様、誠にありがとうございました。合掌

琵琶説教は、『曲垣平九郎』から、節目の大切さをお話しました。

本堂内いっぱいの方々に参拝いただきました。皆様、ありがとうございました!

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汝、自ら愛すべし

今年も東京で琵琶説教を勤めてきました。毎年ブログで紹介してますが、修行中の同期が副住職を勤めるお寺で、14回目のご縁になります。今回の演目は「曲垣平九郎(まがき へいくろう)」。江戸 芝、愛宕坂の故事に因みます。私は琵琶説教をする演目は、現地に行くように心掛けています。

以前、愛宕神社の参拝を勧めて下さったのが、副住職のお祖母様でした。今回は その演目を語るので、御礼を申そうと楽しみにしてましたが、前日の打ち合わせの際、ご訃報を聞きました。3月1日に往生され、49日も済まされたとのこと・・・御霊に届けばと、心を込めて 琵琶を語らせていただきました。翌日は 愛宕神社に御礼参りをし、感謝の念を捧げました。また お祖母様を追悼のため、宮司に祈祷をして頂く経験もしました。

参道は、傾斜40度、86段の急勾配の階段です。曲垣平九郎の逸話より、出世の石段とも呼ばれます。

曲垣平九郎

祝詞の際、ド~ン!とインスピレーションが降りてきて、急いでメモをとりました。
「遊べ、遊べ、楽しめ、楽しめ・・・ムダなことこそ宝なり・・・汝、自ら偽れば、ホントの自分は孤独なり・・・真剣に、遊び 楽しむべし・・・自分を愛し、誇るべし・・・これより後、質良き者と交わるべし・・・汝が汝を愛さねば、誰が自分を愛すのか・・・心を乱し 見下す者、汝の敵だと いい加減、悟る心を持つべきなり・・・優しさのみでは、火は消えず・・・」

愛宕神社の祈祷札

お祖母様は、以前、私にこう仰って下さいました。「金森君の長所は 一生懸命なところね。でも、もっと肩の力を抜いて、自分のために楽しんだらどうだろ? 主人のように人生の幅が広がるわよ」・・・ご主人は、直木賞作家の寺内大吉氏のことです。たしかに孫に当たる副住職を見ていても、苦労の中でも いつも楽しそうで、自分のやりたいことを貫いて 人々に貢献しています。

一方 私は、信者寺で修行してるためか、人の悩みをすべて受け入れて、願いを叶えてあげたい思いが強いです。自分の感情は二の次かも知れません。しかし、袈裟や衣を脱いで プライベートまで傾聴の姿勢を取っていると、法力が半減してしまいます。残念ながら、都合の良い信仰をする人(自分が一番偉いと思っている人)は、どれだけ時間をかけて仏法を説いても 心にまで届きません。愛宕神社の火産霊命(ほむすびのみこと)のお告げのように、ご恩、お陰、感謝、有難うの人を育てるには、逆に ” 交わらない厳しさ ” も必要で、心中してはいけない、もっと自分を大切にせよ!とお叱りを受けた気がします。

速記したインスピレーション

このお言葉は、どんな人にも当てはまるのではないでしょうか。まず 自分で自分を愛さねば、” 本当の自分 ” が可哀想です。空気を読まねばならない環境や、他人の目を気にしなければならない時間を持ち続けると、何をしても満たされませんし、みんなを幸せすることなんてできません。ならば 自分を愛する環境に勤めるべき。ストレスになりそうな対人関係の状況から、いったん ” 自分 ” を切り離す時間をとれ。遊べ、楽しめ … なるほどです。お祖母様の縁を通じて、不思議な体験をさせていただきました。

それからの一日は楽しかったです。ありのままの自分で一日を過ごしました。築地本願寺への参拝。昼食の後、話題の卸売市場を見学。秋葉原では 買い物や喫茶を楽しみました。お告げ通り 真剣に遊んでみたのです(笑)。付き合ってくれた親友は利害関係がないため、格好つける必要もありません。日常生活でも、ありのままの自分でいることが大事だと思いました。

考えてみれば、愛宕神社の火産霊命(ほむすびのみこと)は「防火の神」。人々の ” 煩悩の火種 ” をくすぶらせないような言動(防火)に勤めよ!ということを御指導くださった気がします。久々に心がほぐれました!  滞在中、お世話になったすべての方々に、心より御礼申し上げます。合掌

へい! 苦労 ♪


モダンな作りの築地本願寺

すしざんまい!

店は別です。。。

見学してきました!

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どこにフォーカスするのか

本日は子供の日。次の日本を支える子達に幸あることを心より祈ります。しかし最近、時代の移り変わりの速さを痛烈に感じます。大人の皆さんは付いていってますか?(笑)。私は新しい考え方や価値観に戸惑うばかりです(汗)。世間では、仮想通貨、各種ハラスメント、様々な人工機能化・・・一昔前には考えられない話題ばかりです。これは人間の進化なんでしょうか。” 変わらぬ大事なもの ” を守っていく立場からすると、時代に合った、丁度良い 折り合いを考える今日この頃です。

考えてみましたら「平成」も終わりです。来年の今頃は 新しい年号になっています。私が小さい頃、明治・大正・昭和と3つ年号を体験された方は、凄いなぁ~って、生き証人のように見てましたが、いよいよ私もその立場になるのです。お参りに伺っても「最近、話が合う人がない。面白くない」と仰る方が多いです。昔の価値観が通用しないのです。 ” 愛の反対は無関心 ” ・・・たとえ身内が傍にいても、価値をを共有する人がなけれは、無口になるんだろなぁ と思います。

「新車症候群」というお話です。
お気に入りの新車が発表されたとたん、同じモデルの車を街で見かけるようになったことはありませんか?この現象は「新車症候群」と呼ばれるもので、潜在意識がそれを絶えず探し求めると、何度もそれを見つけることになるのです。要するに、何かを探し求めれば、それは必ず見つかるのです。これと同じ現象は新車だけではなく、ほとんど何にでも当てはまります。こんな実験をしてください。いかなる状況下でも、その中で、恩恵を探し求めるのです。それは必ず見つかります。もしうまくいけば、それは一度きりでやめてしまう必要はありません。毎日、実行してみてください。きっと幸せと感謝の気持ちがこみあげてきます。私たちは常に選択できるのですから、「こんなことになってしまって、もうどうしようもない」と絶望するのではなく、ポジティブな信念を持ち、すべてがうまくいくと予想したほうが得策です。要するにそれは、何を探し求めるかという問題です。(『あなたの潜在能力を引き出す20の原則』 ジャック・キャンフィールド / ケント・ヒーリー 著 / 弓場隆 訳 ディスカヴァー)

人は自然とフォーカスする方に向かっていくのだと思います。車の免許を取る時、教習所でも教わりました。例えば、左車線にトラックが走っていたとして、意識してトラックの方をチラチラ見ていると、段々そっちに寄って行ってしまいます。だから「もっと目線を上に上げて、遠くを見ましょう!」と言われるのです。カーブでは、カーブの先の自分が行きたい方を見るはずです。行きたい所にフォーカスしないと危険です。それと同じように、幸せや、今あるものに視点を当てていたら、自分はなんて幸せな人生を歩んでいるのだろうと、幸福感に包まれます。不幸や、無いもの、足りないものばかりに視点を当てていたら、自分ばかりなぜ こんなにつらい人生を送っているのだろうと悲しくなります。「木を見て森を見ず」という言葉がありますが、今こそ現代人は 本当の幸せを考えねばならないと時期だと思います。いずれ自分に返ってくるのですから・・・私も微力ながら、時代に翻弄されない、ご恩、お陰、感謝、ありがとうといった ” 幸せの本質 ” を見つめて、法を説ければと思っています。合掌

法然上人のお言葉で、浄土宗の宗歌です。
「月影(月の光)は 届かない場所はないけれども、眺めている人の心にのみ 住んで(澄んで)いる」          月光と仏の慈悲を掛け合わせたお言葉です。

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回番御忌(かいばんぎょき)

皆様のお陰をもちまして、法然上人「回番御忌」の担当寺院を無事に勤めることができました。本堂での私の挨拶を掲載し、有縁方々への御礼に代えさせていただきます。合掌

本日は、新年度 ご多用の中、部内寺院の御住職さま、ご随喜ありがとうございます。また、各ご寺院の役員さま、そして、有縁の参詣者の方々、ようこそ西願寺へお参り下さいました。遠くは、静岡県の藤枝から参詣下さった一般の方々(7名)もあります。法然上人のお言葉に「念仏の声する所が、我が遺跡である(念仏の声がする所に私はいます)」とあります。本堂に参詣人がいっぱいで、中に入れない方もございますが、老若男女・遠近問わず、お集まり下さった方々の大きな念仏の声に、法然上人も さぞお悦びのことと存じます。

さて、法然上人の年忌法要のことを「御忌」と言いますが、それを近江八幡市内12ヶ寺の浄土宗寺院で、毎年「回番」していくので「回番御忌」と申しております。今回は3巡目の3番目の当番。もしかしたら、平成最後の「回番御忌」かもしれません。諸先輩方にお聞きしますと、この法要は当山の先々代(定雄)が長老格であった頃、西光寺様のご先代と提案をし、今に到っているとお聞きしました。実は本日、4月21日は両上人のご命日に当たります。西光寺の先代さまは丁度3年前、定雄におきましては17回忌の当日になります。本日の雲一つない晴天から、お二人の喜んでおられる顔が思い浮かびます。

私自身、西願寺での「回番御忌」は3回とも出勤しております。1回目(平成5年)は10代の頃、先々代の定雄の「先進」として … 2回目の前回(平成17年)は30成り立ての頃、先日3回忌を迎えた先代・邦雄が導師を勤めましたが、その後「琵琶説教」をさせていただき … そして今回は43才(法然上人のお悟りの年になりましたが)、「導師」として … 阿弥陀さまの一番近いところに座らせていただきました。だんだん景色が変わってきて、「回番御忌」と共に育てられてる気が致します。これまでで特に印象に残っているのが、一番初めの「回番御忌」の定雄の挨拶であります。こんな内容でした。

1年先のことを考えるなら種を播け。
10年先のことを考えるなら木を植えよ。
100年先のことを考えるなら人を育てよ。
人生には様々な苦難困難があると思いますが、「回番御忌」と共に、近江八幡の寺院が興隆していくことを切に望みます・・・。

その時は、何気なく聞いておりましたが、今になると、しみじみ、なるほどなぁ … と思います。私は住職になって10年になりますが、それは名ばかりで、先代やその弟子に任せっきりで、私は他所での布教に精を出しておりました。それは、昔から西願寺に2、3人の僧侶が常住していたので出来たことですが … 先代が病に倒れ、一年の闘病生活の後 往生し、やっとお寺に馴染んできた弟子が 師匠の一周忌を待たず、他寺と縁を作って巣立ち、西願寺を護る相談相手(僧侶)がなくなる状況を強いられました。世の無常(無情)を感じた1年半でした。布教活動、勤め、西願寺の住職 … どれも大事ですが、正直、私の身体は一つであります。しかも待ったなし … 直面した現実に 様々な方の人間性を見ることができました。人の救われ方は色々ですが、やはり仏教は ” 和を以て貴し ” … 人々の心に寄り添った ” 抜苦与楽 ” の精神こそが本当に有難く、真の救いだと学びました。それは 相手の話を丁寧に聞いて、粘り強く応対できる、ジワ~っとした優しさです。偉くなったと錯覚して、善魔になってはいけないのです。その謙虚なあり方が仏教であり、僧侶のあり方です。考えて見れば、先代や先々代はそういう人格の持ち主でした。

そこで私は、不義理をせぬよう、他に恩のある方々との兼ね合いを考えつつ、焦らず、一歩づつ歩むことにしたのです。そんな時、助けられたのが、檀家の熱意と、間際に迫った「回番御忌」の行事でした。まず、歴代総代6名に回番御忌の準備委員会を発足をお願いし、当時の役員様と共々に 一から寺を見つめ直す時間を作っていただのです。月一回の集まりの元、忌憚のない議論をかわし、寺の大掃除をしたり、予算に合わせた修復プランをたてて頂いたり … 今の時代に合った「回番御忌」にしようと、皆が一体となって今日を迎えさせていただきました。

それと同時に、他所での布教の種が開花し始めました。外部の方から本堂の畳替えのご寄進を頂いたり、藤枝の方々から大きなお力添えをいただいたり・・・将来の西願寺の土台が「回番御忌」と共にできました。さらに、この法要が近づくにつれ檀家の意識が高まり、有志の方々や尼講さんが、声を掛け合って掃除や草引きをしに来て下さったり、詠讃会のご婦人方が御詠歌の練習に精を出して下さったり・・・檀信徒と歩む・・・今、何にも代えがたい悦びを味わっております。

また、僧侶が独りなったと申しましたが、その間、息子二人が得度を受け、日頃の法事も手伝ってくれるようにまでなりました。本日は、そんな長男二男が私の脇を固めてくれ、また巣立った菊田水月尼も維那を勤めてくれて・・・ ” 西願寺に育てて頂いた者達 ” が法要の肝を勤め、皆様をお迎えさせていただきました。人を育てることに精を出した、本日17回忌の定雄和尚。そして、祖母のせつ。先代の邦雄和尚。西願寺を護って下さった歴代上人、檀信徒の方々に、少しでも恩返しができればと思い、法要においては、住職のプライドを持って勤めさせていただきました。

1年先のことを考えるなら種を播け。
10年先のことを考えるなら木を植えよ。
100年先のことを考えるなら人を育てよ。

ただ、この檀家の団結は、先々代や先代が播いた布教の種が、今、花咲いてるのであります。決して私の力ではありません。おごらぬように、謙虚に、1年先、10年先、100年先の人を育てられるような布教の種播きをさせていければと存じます。第4巡目の「回番御忌」にも本堂いっぱいの方が集まるよう、市内のご寺院さまと共に手を取り合い、精進していく所存であります。本当に皆様、ようお参り下さいました。すべての皆様に感謝の心を捧げます。ありがとうございました。同唱十念

撮影・杉山稔氏

前日に引き続き、当日は朝9時から準備を開始しました。翌日の後片付けを含め、3日間、雲一つない快晴に恵まれました。

受付

本堂いっぱいの方にお集まり下さいました。

内陣の奥は詠讃会。手前が尼講。

各ご寺院一同にそろわれての法要は、大変厳かでした。

部長の正栄寺・山梶賢昭上人のご挨拶

尼僧と縁を結ばれ、新師匠となられた寶泉寺・池上良慶上人の説教

中嶋光政回番御忌実行委員長(右)と伴與四郎総代(左)の挨拶

各ご寺院住職と役員による懇親会

懇親会接待の後、身内での打ち上げ。盛り上がりました!

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自利利他

新年度になりました。新しい環境の始まりです。様々な不調和があると思いますが、柔軟に、信念に沿って歩めればと思います。

新年度は期待と不安が入り交じります。新しい環境では「自らの進歩」と「周りとの調和」・・・このバランスが難しくなります。仏教ではこれを「自利利他(じりりた)」の修行と言います。「自利」とは自分の利益、「利他」とは他人の利益です。つまり、自分が利益を得たいと思ってとる行動や行為は、同時に他人、相手側の利益にもつながっていなければならないということです。 常に相手にも利益が得られるように考えること、利他の心、思いやりの心を持って生活することが仏教者なのです。

例え話に『わらしべ長者』をあげましょう。
何をやっても上手くいかない貧しい男が、運を授けて欲しいと観音さまに願掛けをする。すると観音さまが現れ、お堂を出た時に初めて手にした物を大切にして西へ行くようにと言われる。男はお堂を出たとたん転んで一本の藁を手にする。それを持って西へ歩いていくとアブが飛んできたので、藁でしばって歩き続けた。泣きじゃくる赤ん坊がいたので、藁につけたアブをあげた。すると母親がお礼にと蜜柑をくれた。木の下で休んで蜜柑を食べようとすると、お金持ちのお嬢様が水を欲しがって苦しんでいた。そこで蜜柑を渡すと、代わりに上等な絹の反物をくれた。男は上機嫌に歩いていると倒れた馬と荷物を取り替えようと言われ、死にかけの馬を強引に引き取らされてしまった。やさしい男は懸命に馬を介抱し、その甲斐あって馬は元気になった。馬を連れて城下町まで行くと、馬を気に入った長者が千両で買うと言う。余りの金額に驚いて失神した男を、長者の娘が介抱するが、それは以前蜜柑をあげた娘だった。長者は男に娘を嫁に貰ってくれと言い、男は藁一本から近在近郷に知らぬ者のない大長者になった。

もし、ワラをつかまされて観音様を恨むようでしたら、その男は「自利」の心が足りないことになります。せっかくのお告げ(幸福の道)を放棄したわけですから、努力以前の問題です。一方、ワラをつかんで最後まで離さないようでしたら、その男の幸福度は また違ったものになったと思います。泣きじゃくる赤ん坊、苦しんでるお嬢様、倒れた馬・・・これらを見て見ぬふりするようでしたら「利他」の精神に反します。「自利利他」・・・この兼ね合いは難しく見えますが、本来は一つのものであって、その根底には ” 自他共への敬い ” が必要なのです。具体的には、ご恩、お陰、感謝、有難う・・・これを外した不義理者が、餓鬼のように苦しんでる姿をこれ以上見たくありません。まず、目の前の仏縁に感謝するところから始めましょう。一本のワラから幸福が始まる・・・そう考えると、新年度はドラマチックに感じますね(笑)。合掌

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嵯峨お松明式

3月15日、嵯峨釈迦堂・清凉寺でお松明式が行われました。この行事は、釈迦のご命日(2月15日)を一ヶ月遅れ(旧暦)で偲ぶ行事です。7メートルの松明を3基立て、夜に点火し、お釈迦様を荼毘に付した様子を再現します。地元の方々は、その燃え方で豊凶を占われます。

この行事は、寺内の者はもちろんですが、お松明保存会、大念佛講、狂言保存会、各自治会、警察、消防、露店商組合、消防団、少年補導、御用達会、有縁の方々の寄付等々・・・実に様々な方の尽力によって成り立ちます。

嵯峨大念佛狂言のメインは土蜘蛛(つちぐも)です。

嵯峨大念佛狂言のメインは土蜘蛛(つちぐも)です。

鈴木秀子氏のお言葉です。
人の手には指があり、その指1本1本は長い短い、太い細いなど、さまざまに異なるが、それぞれの指は、みな掌(てのひら)でつながっている。人も、一人ひとり比べると、背が高い低い、頭がいい悪い、学歴、職業、地位、家柄とさまざまな違いがあるが、それはこの世で果たしていく一人ひとりの “ 役割 ” 、いってみれば生きていく舞台の上で演じる役にすぎない。一人ひとりのもっとも深いところで、みな1つの大きないのちと愛で結ばれている。(『愛と癒しのコミュニオン』文芸春秋)

お釈迦さまが ” 求心力 ” となって様々な縁を結んで下さり、有縁の者が ” 遠心力 ” となって、この行事を成功に導きます。それぞれの個性があって、役割があります。その役割や使命ともいえるものに気づき、全うしていくことで、優しさや、思いやり、そして愛に生きることになるのだと存じます。みんな仏の慈悲に包まれ、繋がっていると感じたお松明式でした。合掌

今年は良い天気で、あっという間に燃えました。炎が観音様に見えないでしょうか。

今年は良い天気で、あっという間に燃えました。炎が観音様に見えないでしょうか。

炎が鳳凰に見えます。お釈迦さまが喜んでおられます!

炎が鳳凰に見えます。お釈迦さまが喜んでおられます!

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金森家の法事

昨日、先々代17回忌、先代の3回忌法要を勤めました。先々代は祖父、先代は父に当たります。

去年の先代一周忌までは檀家葬で勤めていただきましたが、今年からは金森家が施主になります。大したことは出来ませんが、祖父母や父が喜んでくれることは何だろう … と思いながら準備をしました。まずハードな面としては、この日に向けて本堂の畳替えをし、新畳で 最初に法事をすることができました。これは、来る4月21日の回番御忌(かいばんぎょき)に向け、慶祝事業の一環として成就したのですが、畳替えが完了したのが2月28日。この日は 奇しくも父の命日でした。回番御忌とは近江八幡市内12ヶ寺が当番制で回している10数年に一度の大法要ですが、これは先々代の発案だと聞いています。3巡目の西願寺の当番が今年の4月21日。この日は奇しくも祖父の17回忌の当日に当たります。檀信徒一同で成した、タイミングが合った畳替えでした。

またソフトな面として、自前で法要が出来たことが嬉しかったです。導師が祖母の実家・善教寺上人。役僧が母の実家・重願寺上人、そして先代の弟子だった水月尼。そして、中2の長男、小6二男が音頭をとって読経をしてくれました。私自身も、縁深き僧侶方に勤めて欲しいですし、まして、自分の孫やひ孫にお経を読んでもらったら これほど嬉しいことはないだろうなぁ … と思い、配役を決めました。

法事を勤めるのは大変です。時間もお金もかかりますし、気疲れもハンパじゃありません(笑)。しかし、施主として法事を行い学んだことは、一つ一つ意味を考えて勤めれば、必ず大きな縁や力に護られてることに気付くのです。あたかも亡き人と会話をして、幸せの確認作業をしている感覚です。この学びは 法事をせねば決してわかりません。法事というものは上手くできてるなぁ・・・また、次なる世代への無言の教えにもなるんだなぁ・・・過去・現在・未来と一本の線がつながり、自分の存在意義がわかり、有り難いなぁ・・・と思いました。また、その法事に携わる 住職の責任の重さも学びました。有縁の皆様、誠に有難うございました。心より感謝申し上げます。合掌

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応援させる人を目指す

現在、南朝鮮で冬季オリンピックが行われています。今までの努力を発揮するため、アスリートがコンディションを調え、懸命に打ち込む姿に感動を覚えます。テレビであっても 選手の鼓動が聞こえる気がして、こちらの方がドキドキしてしまいます(笑)。昨晩は パシュート女子が見事、金メダルを獲りました!。会見で互いの敬意、周りへの感謝等を拝聴すると、自然と応援させらる気持ちになります。同じ競技でも、責任の押し付け合いをしてる某国の状況と比較すると、日本の素晴らしさが浮き彫りとなる形となりました。同じ頑張りでも、応援させる人、応援したくない人が出てくるのは不思議です。

” 応援 ” について、千田琢哉氏が興味深いことを述べられています。
テレビのお笑い芸人たちを観察していると、非常にわかりやすい事実が浮き彫りになってくる。すぐに消える一発屋は例外なく観客から笑われているのに対して、出世する芸人は観客を笑わせている。前者は素人の学園祭レベルの芸であり、後者はプロの仕事師の芸である。観客が笑っているという現象において両者に差はないように見えるが、その本質はまるで対極なのだ。プロの仕事とは、その気のない人をその気にさせてしまうことなのだ。笑う気のないブスッとした客さえも笑わせてこそ、お笑い芸人としてプロの仕事をしたと言えるのだ。

これは応援についても同じことが言える。あなたは応援される人ではなく、応援させる人を目指すべきである。あなたが応援されているということは、相手が上であなたが下だという揺るぎない地位が固定されるということだ。つまり同情されているということになる。同情されて応援されてもその関係は決して長続きしない。なぜならそれは、“憐れみ”をベースとした関係であり、どちらか一方が堪えられなくなって崩壊するからである。人には尊敬されたいという確固たる承認欲求があるのだから、これに反する行為は自然の摂理に反するから継続できないのだ。これに対して応援させるためには、敬意をベースとした関係を築いていく必要がある。相手に同情させるのではなく、敬意を払わせることで自然と相手に応援させるのだ。世界的に活躍するカリスマ歌手や作家を想像してみればとてもわかりやすいだろう。ファンたちは彼らを応援しているのではなく、応援させていただいているのだ。もちろん長期的な成功者たちはファンに応援をさせることで傲慢にはならない。(『大好きなことで、食べていく方法を教えよう』海竜社)

もちろん、オリンピック選手はプロではないので、応援されるために競技をされているわけではありません。今は 自分との戦いだと存じます。どのような結果であれ、一つの物を極めた方は賞賛される存在です。しかし 人生全体として考えると、それは通過点です。仏教の世界でも一緒です。千日回峰(せんにちかいほう)という過酷な修行をされた阿闍梨(あじゃり)でも、悟後(ごご)の修行が大切と言います。

最近思うのは、今、懸命に打ち込める環境があるのは、自分の力もありますが、やはり周りの尽力があってのこと。ここを見失えば、才能による一瞬の輝きがあっても、時間と共に 誰も応援してくれなくなります。毎日の食事、交通機関、仕事、寝る場所、日常の会話、ちょっとした親切・・・決して当たり前の環境ではありません。その中で「自分は頑張っているのに、誰も気付いてくれない。周りが馬鹿だ!」・・・それは嘘です。そんな人は、どの環境に逃げても不満だらけ・・・我利我利亡者(がりがりもうじゃ)の餓鬼に過ぎません。

オレがオレがの「我」を捨てて お陰お陰の「下」で生きる

感謝やご恩、ありがとうやお陰さま・・・ここを大切にすれば、神仏をはじめ、ご先祖さま、有縁の方々が必ず応援してくれます。この真理は、憐れみや同情を超えて、敬意をベースにした関係に繋がっていくのです。またそれが 僧侶の本来あるべき姿だと肝に銘じます。その凛とした心の持ちようが、 ” 応援させる人 ” になることと存じます。合掌

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