日本から学ばない日本人

連日、ソチオリンピックが放映されています。眠い目をこすりながら応援されている方も多いのではないでしょうか。今まで練習してきたことを存分に発揮できた選手、惜しくも実力を出しきれなかった選手は色々ですが、国の代表として 懸命に競っておられる選手のおもいを察しますと 頭が下がります。近年はオリンピック以外にも、スポーツ選手のグローバル化が進み、海外に進出する日本人が増えました。流暢な言葉が話せるか否かはともかく、自分を持ってる(母国の精神や文化を発信できる)選手は 魅力があります。

少し前になりますが、「日本人は なぜ日本から学ばないだろう ー 日本文化の根底を知ることがグローバリズムの出発点 ー」と、外国人教授が語っている大学案内を見かけました。実に簡潔ながら意味深い言葉だと思います。なるほど 小学校の教科書では、マザーテレサやキュリー夫人の外国人が多く副読本に取り上げられ、また 中学校家庭科の教科書には、バレンタインデー、ハロウィーン、クリスマス・イブは載っていても、日本古来の伝統行事である”花まつり”や”重陽の節句”については触れられていません。

古文の授業でも同じです。たとえば、このブログのタイトルに選んだ『方丈記』は、平安時代末期の都を襲った五大厄災(火災、地震、竜巻、飢饉、遷都)を、ルポライターのように鴨長明(かもの ちょうめい)が記したものです。彼が「諸行無常」と向き合いながら、人はいかに生きるべきかを『方丈記』に込めたことに感銘を受け、ブログのタイトルにしました。しかし現代人は、暗記が主流で、編著者と書名は線で結べても、その真意である震災に対する心構えや対応までは学ぼうとはしません。これは、日本の古典は古臭いものという風潮で、先達の体験や知恵を無視し、否定してきた結果ではないでしょうか。

西願寺では微力ですが、このたび3年目となる東日本大震災の追悼法要を勤め、その時代に生きた者として 何か教訓を残せればと思っています。「琵琶説教」は、琵琶で物語を語り、長きにわたり 様々な時代の苦難や困難を超え、必死に生き抜いてきた日本人のおもいを紹介します。今回は『隅田川』です。お時間のある方は、ぜひ ”日本” を体験しに来て下さいませ。合掌

カテゴリー: 未分類 | 日本から学ばない日本人 はコメントを受け付けていません

ヘッドピンの法則

前回、ぎっくり腰の話をしましたら、多くの方から励ましや お見舞いの言葉をいただきました。おかげさまですっかりよくなりましたが、油断せずに精進して参ります。

腰痛時にお世話になった整体の先生は、私と同年代の方でした。お互い あと数年で厄年ということもあり、無理は禁物!という話になりました。「40歳前後になると、若い頃のように無理がきかなくなる。しかし 社会的には まだまだ若者で、ストレスのかかる仕事がどんどん舞い込んでくる。弱音は怠惰に思われ、また自らも体力低下を認めたくない。そして無理に無理を重ねることによって心身に支障をきたす。これが ”厄の正体” ではないか?今回のぎっくり腰はその警告である」というのが二人の結論でした。結局、災いの正体は 様々な ” ズレ ” によって起こるということです。厄年でしたら体力と精神(年齢と経験)のズレ。また、ぎっくり腰も腹筋と背筋(筋肉と骨)のズレというように、人生は 物事の ” ズレ ” というものを最小限に抑えることが大切なんだと思います。そのためには、年相応の ” 力み加減 ” を極めなくてはなりません。

前回のブログで学んだ「運(ツキ)」。ツキの大切さを啓蒙されてる斎藤一人さんの教えに「ヘッドピンの法則」というものがあります。ヘッドピンとはボーリングの1番ピンのことで、先頭の一番手前にあるピンのことです。そのヘッドピンをうまく倒すと、後ろのピンが全部倒れる。そこを狙えという法則です。しかし経験の浅い者は、力任せに端っこから一本づつ倒そうとする。それでは効率が悪い。本当に成功しようと思うならば、10回投げるのでなく、” 渾身の一投 ” で 感動の連鎖 を起こしなさいというのです。

年を重ねるというのは、どの年代でも 様々なジレンマが起きることだと存じます。しかし真理のヘッドピンを狙い続けることによって、「見抜く力」と「倒す力(感動の連鎖)」が磨かれていくんだと思います。それが ” 智慧 ” というものではないでしょうか。心身に余分な力を入れず、はつらつと生きていく…これが物事のズレを最小限に抑える妙法だと学びました。合掌

カテゴリー: 未分類 | ヘッドピンの法則 はコメントを受け付けていません

運(ツキ)

皆様、お元気でお過ごしのことと存じます。私は昨年からの無理がたたってか、ぎっくり腰になってしまいました。腰痛はつらいですね。しばらく寝返りすらうてませんでした。「腰」 ”月 ”” 要 ” と書くように、やはり体の中心だと痛感しました。

療養期間は何もできません。ひたすら寝転がっていました。こんなゆっくりしたのはいつ以来でしょうか。テレビは昼番組が懐かしかったです。「笑っていいとも」、「たかじんの胸いっぱい」、「よしもと新喜劇」。昔、楽しみにしていた番組ばかりですが、タモリさんの番組が今春終了、たがじんさんの死去、新喜劇の出演者が大幅に変わってることを目の当たりにし、諸行無常を感じました。昔から当たり前のようにある存在がなくなるのは寂しいものです。体が動かなかったことで、様々なことを直視することができました。

読書もしました。印象に残ったのは 萩本欽一氏の『ダメなときほど運はたまる』という著書。この本は「運」について萩本氏の視点から捉え、運のため方、使い方をわかりやすく解説した内容です。成功するためには「運」が必要であることを説き、実際どのようなことで運がたまったり失ったりするのかを述べておられます。ダメなとき、逆境にあるときに運がたまるということで、「今は運ためてる時なんだ!」と勇気づけられました。特に感銘を受けたのは「石の上にも5年」という話です。

「たいていのことは努力すれば3年で達成できます。どんなにつらくても3年我慢すれば今度は楽しいことがやってくる。「石の上にも3年」と昔の人はうまいこといった。3年努力したり我慢すれば確かに状況は変わるかもしれないが、そこに「運」はないの。折角3年踏ん張ったんだから、あと2年続ければ運が生まれます。「石の上にも5年」。僕はいつも5年周期で物事を完成させています。」

運は5年周期・・・考えて見れば、私は今年 数えで 40才になります。また僧侶になって20年。住職は5年。琵琶説教は11年目・・・物事が5年周期で完成であるならば、今年は本当に節目の年になります。今まで「運」(ツキ)は、走るためのガソリン程度にしか思ってませんでした。しかし、一旦立ち止まることで「ダメなとき、無駄と思えることこそ運(ツキ)がある」と学び、そろそろ懐の深い生き方をすべき時なのかと思いました。

” ツキ(月) ”” 要 ”と書いて「腰」。今回の腰痛から、仏のメッセージをいただいた気がします。ありがたい”2度目の成人式”でした(笑)。合掌

 

 

カテゴリー: 未分類 | 運(ツキ) はコメントを受け付けていません

ウマくいく方法

新しい年となりました。どうぞ 本年もよろしくお願いします。

今年は平成26年。干支(えと)は、午(うま)になります。干支は十二支ともいい、この世の運気を12に区切ったもので、森羅万象、生々流転を12年間であらわします。日本人は、この流れに乗ると吉とされます。

十二支を一年であらわすと、子丑寅卯辰巳午…今年は7番目。7月に当てはまりますので、季節は初夏となります。草木の成長が一段落し、夏の猛暑や秋の実りへと力を蓄えるべき時期として、 将来へ力を養うの年としてお過ごし頂ければと思います。また「午」の原字は、餅をつく「杵(きね)」で「つきあたる」とか「つらぬく」の意味がありますので、打てば響く 結果の伴いやすい年になります。安易な行動によって、思わぬ事態に翻弄されぬよう用心しましょう。

また運勢とすれば、十二支の折り返しですので、最も気の抜けやすい年と出ています。「午(うま)」の字は、「牛(うし)」の角が抜けてできたという俗説。午の刻の12時(正午)頃は、一日でホッコリする時間帯で、気を引き締めよと云われます。馬は骨折すると、取り返しがつきません。

新年は 誰もが「幸福になりたい」と祈りを捧げます。ところが 忙しい日々にあっては、足元を見失いがちになります。よく、馬の鼻先に人参をぶら下げる表現がありますが、目先の利益を求めて走り続けるのは憐れです。午年は「自分のあり方」を見つめる年です。焦らず、急がず 将来に向けて力を蓄える年にしたいものです。

最後に ウマくいく方法 として ” 乗馬の心得 ” をご紹介します。「一に心、二に手綱、三に鞭、四に鐙(あぶみ)」。すべてにおいて心が第一です。今年も、仏教の心で何事もウマくいくよう お祈り申し上げます。合掌

カテゴリー: 未分類 | ウマくいく方法 はコメントを受け付けていません

法輪

先日、パソコンが壊れて ホームページの「お知らせ」が更新できなくなりました。いつも琵琶で説いている ” 諸行無常 ” を痛感しています(笑)。復旧するまで、ブログで更新しますので、ご確認くださいませ。

・平成26年1月1日午前10時より、西願寺本堂にて「修正会(しゅしょうえ)」を勤めます。お勤め→ミニ法話→お清め→御守授与→茶話で1時間程の行事です。どちらさまも気楽にお詣り下さいませ。ミニ法話は、住職が「午(うま)年の心構え」をお話します。

・12月21日号の「リビング滋賀」で琵琶説教を記事にして頂きました。インターネットの「今週のリビング滋賀」(P5)でもご覧いただけます。

 

さて、平成25年もまもなく終わろうとしています。今年も様々なことがありましたが、1年の世相を漢字一字で表現する「今年の漢字」は「輪」が選ばれました。選考理由はいくつかに分類できるようです。日本中が歓喜に沸いた「輪」としては、全体のチームワーク=「輪」で、2020年オリンピック・パラリンピックの東京開催、富士山の世界文化遺産登録、サッカー FIFAワールドカップ2014 に日本代表の出場が決定したなど、大きな成果が上がったことがあげられます。

また、人とのつながりの「輪」を感じた例としては、全国で多発した自然災害に対する支援や助け合いの輪が、多くの人の印象に残ったと言います。台風30号で甚大な被害を受けたフィリピンや、NPOやNGOなどの相次ぐ支援と、国内だけでなく国境を越えた支援の輪が広がったこと。他に、NHKドラマ「あまちゃん」や「八重の桜」、プロ野球・楽天イーグルスの優勝によって東北地方が盛りあがるなど、各方面からの「輪」もありました。

未来に向けた更なる「輪」については、環太平洋パートナーシップ(TPP)協定の交渉が佳境、アジア太平洋の「輪」に入るのかにも注目が集まったようです。

ところで、仏教での「輪」といえば「法輪(ほうりん)」を指します。法輪とは、お釈迦さまの説かれた教え(法)を ”車輪” にたとえて呼んだもので、仏教の象徴として祀られます。車輪は ”円盤形の武器” を意味し、仏の教えが行き渡る自由な動き。また、人々の邪見・邪信を砕破するのを、武器としての円盤の働きになぞらえたものです。今年一年、私も懸命に布教活動をして参りました。また来年も法輪の如く、グルグル・・・仏さまを「求心力」とし、我々僧侶は「円心力」となって、法を伝えていく所存です。皆様、良いお年をお迎え下さいませ。合掌

法輪

カテゴリー: 未分類 | 法輪 はコメントを受け付けていません

兆し

紅葉のシーズンも終わり、季節はすっかり冬の様相です。奉職寺院では今年も修行の時節となりました。三千礼拝で 一年間の心の垢をしっかり落としていく所存です。よく「修行中は 何を考えていますか?」という質問があります。答えは僧侶よって違いますが、私は「この一年 どれほどの成長ができたか 」と自問自答をしつつ  礼拝に入ります。

成長とは ”外に意識を向け、他にどれほど影響を与えたか” と、 通常「成長=拡大」と捉えますが、私にとっての成長は内なるものです。師匠は ”物事の兆しをいかに感じ取れたか” が成長だと教えて下さいました。「兆し」とは、物事が起こりそうな気配 をいいますが、あらゆる人間の活動は、この兆しを見極められるようになると、相手の動きを一瞬早く予測できるとスムーズに事が運びます。また「お・も・て・な・し」という言葉が流行語大賞になりましたが、これも相手の心の「兆し」(心の状態)を素早く察知できる能力です。僧侶は この ”察する力” が必要だと思うのです。

お寺の生活は、この「兆し」を感じる絶好の修行場です。朝はお勤めや掃除から始まりますが、その時節の空気や水の冷たさ、樹木の色づき度合い等、我々は 季節のうつろいのような微妙なものを感じながら生活をしています。こういった身近なことに意識を向けながら生きることで 感性が研ぎ澄まされ、ひいては「兆し」が見えてくるのです。

先日、観光客から「堂内が寒い!」とお叱りを受けました。しかし、冬のお寺は寒いのです・・・(笑)。現代人は 快適な生活に慣れすぎ、季節の小さな変化に意識を向け、喜びを味わえない人が増えているように感じます。「成長=拡大」の解釈は、物質的な豊かさ ・快適さにつながりますが、その前に 物事の小さな「兆し」を感じとり、日常に感謝できる心を養っていくことも 大事な成長 だと思います。合掌

 

 

カテゴリー: 未分類 | 兆し はコメントを受け付けていません

快楽の踏み車

今朝、法事に向かっていましたら、冷え込みをものともせず、朝からパチンコに並ぶ人たちの姿を見かけました。早朝から様々な思惑・欲・情熱を抱える行列に出会い、人それぞれ 労力やエネルギーの使い方が違うんだなぁ・・・と思いました。

最近、わが国では 成長戦略の一環として「カジノ構想」が持ち上がってます。それは 外国人観光客を誘致、富裕層の落金、また地域の活性化等、様々なメリットがあげられるようです。一晩で大金をつかめるとあれば 夢のような話ですが、以前、某製紙会社の前会長がカジノに溺れ、連結子会社から約100億ものお金を引き出した事件を見ると、ギャンブルがいかに人間の知性や理性を狂わせるかが分かります。東京に2カ所、大阪に1カ所設置すれば、年間9000億円位の収益があるとの試算があるようですが、この国が乱れないように、合法化の可否は 慎重に見極めていただきたいものです。

不思議なことに、人間は「お金=幸福」とは なり得ません。日本のGDP(国内総生産)は50年で7倍になりましたが、生活満足度は全く変わってないという調査結果がでています。心理学者は、これを「快楽の踏み車(かいらくのふみぐるま)」という言葉で説明しています。「経済など状況がどんなに変わっても、人間はその状況に慣れてしまし、願望を引き上げ、もっともっととさらなる満足を求める」という説です。永遠に満たされることのない欲望とのイタチゴッコを人類は繰り返しているだけかもしれません。

「世界一しあわせな国」とも言われるブータン王国は、仏教の考えに基づき国作りをなされてます。第4代国王は、国家の問題が経済成長だけに特化されることを心配し、優先するべきはGDPではなくGNH(国民総幸福量)であると提唱されました。つまり「お金=幸福」ではないことを、徹底的に追求された国と言えます。国柄の違いがありますので、日本には適用しにくい面はあると思います。しかし「幸福とは感じ方」です。国に誇りを持つことができれば、自然とGNHは上がることと存じます。

今回は「快楽の踏み車」という話をしましたが、いくら真面目な日本人でも、国が積極的に賭博場を助長すると、それが国の基となってしまいます。ギャンブルは 勤労意欲やモラルが低下する可能性があり、さらには幸福度も上がることはありません。これでは先人がせっかく築いてきた勤勉な文化も衰退してしまいます。オリンピック招致で、これから国のあり方が積極的に語られるようになりますが、今こそ より高度で 豊かな文化を目指す時期ではないでしょうか。合掌

カテゴリー: 未分類 | 快楽の踏み車 はコメントを受け付けていません

小さな達成感

本日は「文化の日」です。皇居では文化勲章の授与式が行われます。また、文化庁の主催する芸術祭など、文化にまつわる行事が各地で開催されます。博物館の中には この日を入館無料にする所もあるようで、普段、芸術に興味のない方でも、文化に触れるよい機会かもしれません。日本の文化を 皆で形成していきたいものです。

先日、京都當道会さま主催の演奏会で、ゲストとして琵琶を語らせて頂きました。この催しは「京都府次世代等古典芸能普及推進事業」として、文化の継承と発展を目的とされたものです。実は 会場となった、京都府民ホール・ALTI(アルティ)での演奏は 私の あこがれ でした。その理由は、以前このホールで 盲僧琵琶の故 永田法順氏、薩摩琵琶の須田誠舟氏、そして筑前琵琶の師匠、田中旭泉先生という豪華メンバーでの琵琶コンサートを拝聴したことがあり、私もいずれ この舞台に立ちたいと思っていたからです。人から見れば とても小さな夢ですが、私は 常々、”今の自分” にできた「小さな達成感」を大事にしています。他人との比較で得る達成感では、自分を見失うからです。

お釈迦さまは、『因果経』に次のようにお説き下さいます。「過去の因を知らんと欲すれば 現在の果をみよ。未来の果を知らんと欲せば 現在の因をみよ」。因は”原因”で、果は”結果”のことです。つまり、過去や未来の自分を知りたいならば、”現在の己の姿” を見よと仰せなのです。

よく悩み相談で、日々の努力が なかなか形に表れないと嘆く方がおられます。未来が見えないのは本当に苦しいことですが、しかし そのような時こそ、”現在の己の姿” を見つめ直すべきだと思います。この世界は、完璧な ”因果の法則” で成り立ちます。一寸の狂いもありません。そのために、大きな夢も大事ですが、まず ”今の自分” にできた「小さな達成感」を素直に喜び、未来への励みにすべきではないでしょうか。世界に誇る日本文化も、先人による 日々の努力や 達成感の積み重ねが、今日に伝わっているものと存じます。「文化の日」は、そういった ”積み重ね” を感じる日でありたいと思います。合掌

 

カテゴリー: 未分類 | 小さな達成感 はコメントを受け付けていません

教育勅語

最近、よく尋ねられることがあります。それは「宗教を抜きにして、人として誇れる生き方を教えてほしい」「時代に左右されない真っ当な生き方はないのか」という問いです。私に宗教を抜きにしてというのは失礼な話ですが(笑)、一般の方が 宗教の話をすると 変人扱いをされる・・・悲しいですが よくわかります(汗)。僧侶である私は、「どう生きるのか」ではなく「なぜ生きるのか」を説く立場ですが、現代社会には、それ以前の ”生き方の指針” がないのかもしれません。そう言う時は、やはり この国の原点(基本)に戻るべきではないでしょうか。

日本は 明治維新の後、近代の学校制度が始まりました。しかし、当時の学校では、人として「どう生きるべきか」ということについて学ぶ機会がなかったそうです。そのため、明治20年頃の学校の現場では「人としてどう生きるべきかについては、教師も生徒も向かうべき方向も分からず、あてもなく漂う船のように途方に暮れている」(能勢栄『徳育鎮定論』)状況でした。

そうした状況に、日本人らしい生き方の指針を確立し、実行することが期待される心の教育を、明治天皇から直接、国民に賜ったのが『教育勅語』でした。本文は315字からなり、大正生まれの祖父は暗記し、心の糧 としていたのを記憶しています。いらぬ解説は無用ですので、現代語訳をご紹介し、今回のブログとさせて頂きます。合掌

『教育勅語』(現代語訳)わたくし(明治天皇)は、わたくしたちの遠いご先祖様が、大きな夢や希望に燃え、どこにも負けないすばらしい国をつくろうと、この日本の国をおはじめになったものと考えます。その限りない理想のもとに、何億何兆というこれまでこの国に生きた先人たちは、自分一人のことよりも国の平和にとって大切な考え方を重んじてきました。そしていつの時代も変わらず心を合わせて努力し、今日に至るまで、人として美しい生き方を継承してきたことは、この日本の国のすぐれた国柄と言えます。このように一人ひとりが善く美しく生きることであり、品格のある国柄もまた、一人ひとりの生き方の結集であると言えます。

そこで国を挙げて、皆で次のことを心掛けていきましよう。子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹はたがいに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく、友人はともに信じ合い、自分の言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、仕事に専念し、教養を高め、人格をみがきましょう。さらに進んで、社会公共のために貢献し、また法律や、秩序を守ることは勿論のこと、国が大変な状況のときには、真心をささげて、その平和と安全のために奉仕しなければなりません。それが国民としてのつとめであり、私たち祖先が残された日本人としての生き方を、未来の子孫に伝えていくことにもなります。

このように日本人として歩むべき道は、祖先からのバトンとして、私たちが子孫に受け継いでいけなければなりません。そして、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本だけでなく、外国に行っても、人として決して間違いのない道です。わたくしもまた、国民の皆さんとともに、父祖の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から願うものであります。

 

本日、10月30日(明治23年)は 丁度、『教育勅語』が施行された日であります。皆で「生き方の指針」を今一度 考えみましょう。再拝

カテゴリー: 未分類 | 教育勅語 はコメントを受け付けていません

勝林院一千年紀

昨日10月10日。京都大原・勝林院(しょうりんいん)で「開創一千年紀 慶讃法要」に出勤し、琵琶説教を勤めました。この地は、お経を独特な節回しにのせて唱える「声明(しょうみょう)」発祥地として有名です。声明は、琵琶や能、浄瑠璃、そして民俗芸能に大きな影響を与えた ”日本音楽の原点”と言っても過言ではありません。一千年紀は 各宗派の代表が日替わり出演し、声明法要をなされます。10月5日から20日まで勤修されますが、私は「節談説教」と並び、法要ではなく 説教形式の出番でした。琵琶説教を開創して丁度10年。そうそうたる皆様と名を連ねることができ、感無量です。

この勝林院は、法然上人が名だたる高僧と議論を交わした「大原問答(談義)」の舞台でも有名です。時は文治2年(1186)。当時、お念仏の教えを掲げ注目を集めていた法然上人(53才の御時)が勝林院に招かれ、秀才と評される名僧が集まる中、南無阿弥陀仏の論議をされました。そうそうたる顔ぶれは、当時の仏教界のオールスター戦とでも呼ぶべきものだったようです。居並ぶ僧の質問の嵐に、的確な答えを返していく主役の法然上人は…

「私は皆さまの教えを妨げるつもりはありません。ただ、この乱れた世の中では、この修行を全うすることは難しいのです。誰でもできるお念仏こそが、愚かな私をはじめ、この乱れた世に生きる庶民にとって、最も適したものだと思うのです」

この問答は、なんと一昼夜ものあいだ続けられました。法然上人の教えに感服した僧は、一般の聴衆も交えて念仏を唱え、その声は三日三晩途切れることなく、大原の山々に響き渡ったと伝わります。(『法然上人行状絵図』第14巻) つまり、勝林院は浄土の教えを各宗に宣言した、いわば南無阿弥陀仏のターニングポイントといえる地となります。

今回は、その問答に唯一お供をしたといわれる「熊谷直実」の話を語らせて頂きました。単独で問答に臨まれた法然上人の心意気に、私もあえて檀信徒を募りませんでしたが、堂内に入りきれない程の人で溢れました。終了後、108枚用意した「散華(さんか)」を、ひとりづつ手渡しさせて頂きました。この蓮華の形をした「散華」が、極楽浄土への救いの切符となるよう 心込めて作らせて頂きました。

千年もの間、人々を導いて来られたご本尊さまから見れば、この時間は 一瞬の出来事だと思いますが、我が宗祖・法然上人と同じ場所で説教し、また時空を越えて 聴聞の方とお念仏を共有できたことは 生涯の思い出です。長い間、法灯を守り続けて下さった諸大徳さま、すべての有縁の方々に 心より感謝申し上げます。まさに「千載一遇」のご縁でした。合掌

 

追伸:西願寺の本尊・阿弥陀如来像は 大原問答と同時期の制作です。制作年[文治4年(1188)]や、胎内に千体仏(梵字)が記されてることが、一千年紀 出演依頼の直後に発見されたことは、大きな因縁を感じます。南無阿弥陀仏

参詣者にお配りした結縁散華(けちえんさんか)

 

一千年紀ポスター

カテゴリー: 未分類 | 勝林院一千年紀 はコメントを受け付けていません