人は二度死ぬ

先日、信徒さまのお葬式を勤めさせていただきました。引導を渡したのは 享年41歳の男性で、2年間の闘病生活をされた方でした。あまりに若すぎる死です。節目毎にご母堂さまと墓詣りに来られる心優しい人でした。

僧侶は葬儀を司りますが、いつまでも慣れることがありません。 亡き人の生涯、ご遺族の思いがそれぞれ 異なるからです。しかし どのような状況であっても、私が導師を勤める葬式は、参列者すべてに南無阿弥陀仏を唱えていただくようお願いします。色々な考えはおありでしょうが、できるだけ法話に時間をとり、念仏を唱えるよう説法するのです。僧侶は冷静になって ” 真なる救い ” を示さねばなりません。一緒になって嘆き悲しむことや、良い声でお経を唱える事が ” 救い ” だとお釈迦様がお説きならそうしますが、本当に故人やご遺族が救われる道が 念仏なのだと伝えるのが私の役割です。今回も通夜、葬儀と参列者の念仏の声がだんだん大きくなり、大きな慈悲に包まれながら、故人をお送りすることができました。ご遺族や葬儀社の方も、一体感のある葬式だったと申して下さいました。

霊柩車出発の時、中学時代からの親友だとおっしゃってた男性が、最前列で 呆然と立ってらっしゃってたのが印象的でした。昔、引っ越しのため、仲の良かった友達を見送った 辛く悲しい体験を思い出しました。あの瞬間はやるせないものがあります。二度と会えないと思うと、胸が張り裂けそうな気持ちになります。そう考えると、やはり阿弥陀如来の存在は必要です。来世に必ず再会させる!と約束された阿弥陀さまは居ていただかないといけません。念仏信者にとって ” 死 ” は、 しばしの別れなのです。

「人は二度死ぬ」といいます。一度目は ” 肉体の死 ” 。 二 度目は ” 人々の心の中から忘れ去られる事の死 ” 。遺された者の心の内に生き続け、誰からも忘れ去られないように勤めるのがお寺の役割だと思います。そのために南無阿弥陀仏を唱えるのです。念仏を唱え続けるかぎり繋がっているのです。またその縁で、亡き人が 我々の死に際し、仏と共に迎えに来てくれることでしょう。念仏とは ” 大きな慈悲の中で生かさせて下さること ” だと教えてくれます。毎週伺いする中陰参りは、故人の救いと、ご遺族の心のケアに勤めたいと存じます。

亡き人の ために手向けし念仏は 生きるわが身の 教えなりけり  合掌

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利他の心

毎年、恒例となっている新社会人へ向けた伊集院 静氏のメッセージがあります。サントリーの新聞広告ですが、先日4月1日掲載されたのは以下のような内容でした。

先駆者になれ。

新社会人おめでとう。
今日、君はどんな職場で目の前を見ているだろうか。
どんな仕事であれ、そこが君のスタートラインだ。
新しい道が君の前にある。
しかしその道はまだ見えない。
新しい道とは何だろうか。
それはまだ誰も分け入ってない場所に
君の足で踏み込んで
初めてできるものだ。
そこはまだ闇のような
世界かもしれない。
光も音も感じないかもしれない。
しかし勇気と信念があれば、
必ず光はさしはじめる。
明るい音も聞こえてくる。
新しい道を踏み出せ。先駆者になれ。
そうして誰もまだ見たことのない、まぶしい世界を見せてやろう。
そのためには力が、汗が必要だ。
やわらかな発想と強靭な精神を持って、ともに汗を流そう。
新しい道をつくろう。後から続いて来る人たちの歌声を聞く日まで
私たちは、一人一人が先駆者になろう。
仕事は辛いぞ。苦しいぞ。でも自分だけのために
生きていることではないことがわかれば、必ず道はひらく。
少し疲れたら夕日を仰ぎ美味しい一杯をやろう。
新しい道を踏み出す君に乾杯。

伊集院 静

 

「自分だけのために生きていることではないことがわかれば、必ず道はひらく」。この言葉に感銘を受けました。働くことは「ハタの人を楽(ラク)にさせること」が原点です。この精神を仏教では「利他(りた)」といい、天台宗開祖・最澄(さいちょう)さまの「好事は他に与え、悪事は己に迎え、己を忘れ 他を利するは 慈悲の極みなり」という教えが由来となります。平たく言えば 自分のことは置いておいて、とにかく人のためになるようなことをしましょう!っていう意味になります。

” 利他 ”の譬えとして、祖父からこんな話を聞いたことがあります。「実は地獄と極楽は、見た目だけからしたらそれほど違いはない。どちらにも大きな釜に美味しそうな「うどん」が煮えている。そして、みんなが1メートルもある長い箸を持っている。地獄の住人は、われ先にと箸を突っ込んで食べようとするが、箸が長すぎて自分の口にうまく運べず、そのうちに、他人の箸の先のうどんの奪い合いを始めてしまう。結局、ちゃんと食べられなくて、うどんを目の前にしながら、誰もが飢えて痩せ衰えている。ところが極楽では、誰もが箸で掴んだうどんを、向かい側の人に先に食べさせてあげている。だから全員がうどんを食べられて、満ち足りているのだ」と。

同じ環境で仕事をする人でも、差が出てくるのはここからだと思います。皆さんの身近にもいらっしゃいませんか? 自分を守るためだけに生きている人・・・(笑)。本人は 世界で一番仕事をしてる感覚ですが、こういう方は、残念ながら ” 利他の心 ” ではありません。利他の反対は ” 我利我利(ガリガリ)” と言って、心が貧しい人を指します。

伊集院 静氏の「自分だけのために生きていることではないことがわかれば、必ず道はひらく」。この言葉は深いなぁ・・・と思い 拝見させていただきました。新社会人への最高のメッセージだと思います。合掌

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素直な心

4月になりました。新年正月は 自らの内面を切り替える時期ですが、新年度は 環境自体が変わる月となります。奉職寺院にも ある企業が新入社員研修の一環で 参拝に来られました。立場上、助言を求められることがありますが、私は 「素直な心」が大切だとお答えしています。

その実践は「挨拶(あいさつ)」から始まります。この言葉はもともと仏教の言葉だということはご存じでしょうか。禅寺で行われていた問答が由来で、「挨」は押す「拶」は迫るという意味です。自らの心を押し開き、相手に迫る(コミュニケーションを交わす)のが挨拶です。” 心のドアノブは内側にしかついていない ”という言葉がありますが、まず自ら心を開くことが全ての基本だと存じます。

松下幸之助氏は「素直な心というものは、すべてに対して学ぶ心で接し、そこから何らかの教えを得ようとする謙虚さをもった心である」「素直な心というものは、広い視野から物事を見、その道理を知ることのできる心である。素直な心がない場合には、とかく物事にとらわれがちとなり、ついつい無理をしてしまうことになりやすくなる。素直な心になれば、すべてに対して順応していくことができるから、何でも自分の思い通りにすることができるようになる」とお説き下さってます。

物事には道理(物事のそうあるべきみちすじ)があります。道理に従えば順調に進む。道理に逆らうと無理が生じ、思うようにはいきません。たとえば、人に不満があるからと言って相手を変えようとしても無理な場合がほとんどです。人にイライラしてしまうのは(無意識に)相手が変わることを期待しているからです。「相手がそのままでいい」と思えるのなら、そんなにイライラしないはずです。人にイライラしたくないのなら相手が変わることを期待するよりも自分(の考え方)を変えるほうが道理ではないでしょうか。

私は新年度になると、いつもこの言葉を反芻します。4月は心のドアを開いて世の中に順応する時期だと存じます。皆様、御自愛の上、精進なさって下さいませ。合掌

オアシスあいさつ運動  オ「おはようございます」 「ありがとうございます」 「失礼します(失礼しました)」 「すみません(すみませんでした)」

 

 

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一つの言動が未来を変える

今月9日、京都・太秦映画村東側の住宅で殺人事件が起きました。まだ記憶に新しいと思いますが、クリーニング店の店主が隣家の男性に包丁で刺され亡くなった事件です。私は5年程前まで6年間、 この町内に住んでいました。殺された店主は私の二軒隣の方で、大変お世話になった方でした。報道の通り、よく声をかけてくださり ” 地元の顔役的な存在 ” でした。そして犯人は・・・実は、私の隣に住んでいた方だったんです。ですからこの事件はとてもショックでした。

店主との思い出は尽きませんが、ある時 こんな会話がありました。私がその地域に住んで1年程した時、隣家の方が引越しをされました。その時、この店主が 私の将来を考え「その家を買ってみては?」と強く勧めて下さることがあったんです。色々悩みましたが 断念後、その容疑者が入られました・・・今から思うと、もしあの時、家を購入していれば未来は変わったんだなぁ としみじみ思います。

選挙の時、” あなたの一票が未来を変える ”というキャッチフレーズをよく耳にします。その時は「まさか!?」とは思いますが、今回の体験により、一見 意味のないと思える行動でも、着実に未来は変わっていくのだと確信をしました。また、僧侶をしてますと「あなたの一言に救われました!」とわざわざ御礼を言いに来て下さることがあります。忘れていることも多く 気恥ずかしく思っていましたが、今回の事件で 日々の言動は大事にせねばならないと肝に銘じました。

以前のブログでも述べましたが、ひとりの人間は、家族や友人、知り合いなど、およそ300人と深いつながりをもって生活しているといいます。つまり ひとつの言動で、300人に直接影響を与えることができるのです。さらに、その一人ひとりがまた別の300人とつながりをもって生きているわけですから、300人×300人で、ひとつの言動が9万人に伝染する計算となります。

覚えておかなくてはなりません。私たちは9万人以上の人とつながっているのです。

人間は完全な言動ばかりできませんが、各人の言動によって補い合い、世の中が少しでも明るくなるよう祈るばかりです。今回、被害に遭われた店主のご冥福を心よりお祈り申し上げます。南無阿弥陀仏

 

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3度目の追悼法要

本日、西願寺で東日本大震災追悼法要を勤めました。あれから3年の月日が経ちました。この ” 3年目 ” というのが、物事を継続するのに大事な時期となります。例えば法事。丸2年の3回忌までは 熱心に勤められますが、3年目からは 手を合わされる機会が減ってくるのが現状です。また この時期から震災の意識や報道も惰性的になりつつあります。

諺にも「石の上にも3年」、「3つ子の魂百まで」とあります。また 例えは悪いですが「3年目の浮気」という歌もあるほどです(笑)。つまり 物事を継続するのに3年目に入れば、もう一時の気まぐれではなく 継続することに意味が出てきて、それが大事な習慣になってくる。これが3年目の意義です。そんな中、今回の法要は 広報や組織の力を一切借りず 口コミでだけで、41人の方々にご参集くださいました。震災物故者の霊も さぞかしお喜びのことと存じます。ご参列の皆様には、心より感謝申し上げます。

実はこの法要は、寺内の者だけでも勤めようと思っていました。もし参詣の方があれば、琵琶説教を法楽にしようと思っていましたが、当日、飛び入りで 岡田さま、浅尾さまにハーモニカの奉納演奏をしていただきました。哀調のある音色で、場内があたたかな雰囲気になりました。また 昨年に引き続き、京都の里田さま御一行からボタモチの供養がありました。有志の方々と早朝から作って振る舞って下さり 大好評でした。

私が目指しているお寺は、みんなで作り上げていくものだと常々思っていましたが、本日  その形が見えてきたような気がします。これは震災被害者と、本日参詣の皆様との「出会い」によって できたものです。現代人が忘れかけてるもの、大切なものを思い出させてくれてくれた気がします。また来年も勤めます。また皆様の力で法要を作りあげたいと思っています。3度目の法要で多くのことを学ばせていただきました。合掌

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日本から学ばない日本人

連日、ソチオリンピックが放映されています。眠い目をこすりながら応援されている方も多いのではないでしょうか。今まで練習してきたことを存分に発揮できた選手、惜しくも実力を出しきれなかった選手は色々ですが、国の代表として 懸命に競っておられる選手のおもいを察しますと 頭が下がります。近年はオリンピック以外にも、スポーツ選手のグローバル化が進み、海外に進出する日本人が増えました。流暢な言葉が話せるか否かはともかく、自分を持ってる(母国の精神や文化を発信できる)選手は 魅力があります。

少し前になりますが、「日本人は なぜ日本から学ばないだろう ー 日本文化の根底を知ることがグローバリズムの出発点 ー」と、外国人教授が語っている大学案内を見かけました。実に簡潔ながら意味深い言葉だと思います。なるほど 小学校の教科書では、マザーテレサやキュリー夫人の外国人が多く副読本に取り上げられ、また 中学校家庭科の教科書には、バレンタインデー、ハロウィーン、クリスマス・イブは載っていても、日本古来の伝統行事である”花まつり”や”重陽の節句”については触れられていません。

古文の授業でも同じです。たとえば、このブログのタイトルに選んだ『方丈記』は、平安時代末期の都を襲った五大厄災(火災、地震、竜巻、飢饉、遷都)を、ルポライターのように鴨長明(かもの ちょうめい)が記したものです。彼が「諸行無常」と向き合いながら、人はいかに生きるべきかを『方丈記』に込めたことに感銘を受け、ブログのタイトルにしました。しかし現代人は、暗記が主流で、編著者と書名は線で結べても、その真意である震災に対する心構えや対応までは学ぼうとはしません。これは、日本の古典は古臭いものという風潮で、先達の体験や知恵を無視し、否定してきた結果ではないでしょうか。

西願寺では微力ですが、このたび3年目となる東日本大震災の追悼法要を勤め、その時代に生きた者として 何か教訓を残せればと思っています。「琵琶説教」は、琵琶で物語を語り、長きにわたり 様々な時代の苦難や困難を超え、必死に生き抜いてきた日本人のおもいを紹介します。今回は『隅田川』です。お時間のある方は、ぜひ ”日本” を体験しに来て下さいませ。合掌

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ヘッドピンの法則

前回、ぎっくり腰の話をしましたら、多くの方から励ましや お見舞いの言葉をいただきました。おかげさまですっかりよくなりましたが、油断せずに精進して参ります。

腰痛時にお世話になった整体の先生は、私と同年代の方でした。お互い あと数年で厄年ということもあり、無理は禁物!という話になりました。「40歳前後になると、若い頃のように無理がきかなくなる。しかし 社会的には まだまだ若者で、ストレスのかかる仕事がどんどん舞い込んでくる。弱音は怠惰に思われ、また自らも体力低下を認めたくない。そして無理に無理を重ねることによって心身に支障をきたす。これが ”厄の正体” ではないか?今回のぎっくり腰はその警告である」というのが二人の結論でした。結局、災いの正体は 様々な ” ズレ ” によって起こるということです。厄年でしたら体力と精神(年齢と経験)のズレ。また、ぎっくり腰も腹筋と背筋(筋肉と骨)のズレというように、人生は 物事の ” ズレ ” というものを最小限に抑えることが大切なんだと思います。そのためには、年相応の ” 力み加減 ” を極めなくてはなりません。

前回のブログで学んだ「運(ツキ)」。ツキの大切さを啓蒙されてる斎藤一人さんの教えに「ヘッドピンの法則」というものがあります。ヘッドピンとはボーリングの1番ピンのことで、先頭の一番手前にあるピンのことです。そのヘッドピンをうまく倒すと、後ろのピンが全部倒れる。そこを狙えという法則です。しかし経験の浅い者は、力任せに端っこから一本づつ倒そうとする。それでは効率が悪い。本当に成功しようと思うならば、10回投げるのでなく、” 渾身の一投 ” で 感動の連鎖 を起こしなさいというのです。

年を重ねるというのは、どの年代でも 様々なジレンマが起きることだと存じます。しかし真理のヘッドピンを狙い続けることによって、「見抜く力」と「倒す力(感動の連鎖)」が磨かれていくんだと思います。それが ” 智慧 ” というものではないでしょうか。心身に余分な力を入れず、はつらつと生きていく…これが物事のズレを最小限に抑える妙法だと学びました。合掌

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運(ツキ)

皆様、お元気でお過ごしのことと存じます。私は昨年からの無理がたたってか、ぎっくり腰になってしまいました。腰痛はつらいですね。しばらく寝返りすらうてませんでした。「腰」 ”月 ”” 要 ” と書くように、やはり体の中心だと痛感しました。

療養期間は何もできません。ひたすら寝転がっていました。こんなゆっくりしたのはいつ以来でしょうか。テレビは昼番組が懐かしかったです。「笑っていいとも」、「たかじんの胸いっぱい」、「よしもと新喜劇」。昔、楽しみにしていた番組ばかりですが、タモリさんの番組が今春終了、たがじんさんの死去、新喜劇の出演者が大幅に変わってることを目の当たりにし、諸行無常を感じました。昔から当たり前のようにある存在がなくなるのは寂しいものです。体が動かなかったことで、様々なことを直視することができました。

読書もしました。印象に残ったのは 萩本欽一氏の『ダメなときほど運はたまる』という著書。この本は「運」について萩本氏の視点から捉え、運のため方、使い方をわかりやすく解説した内容です。成功するためには「運」が必要であることを説き、実際どのようなことで運がたまったり失ったりするのかを述べておられます。ダメなとき、逆境にあるときに運がたまるということで、「今は運ためてる時なんだ!」と勇気づけられました。特に感銘を受けたのは「石の上にも5年」という話です。

「たいていのことは努力すれば3年で達成できます。どんなにつらくても3年我慢すれば今度は楽しいことがやってくる。「石の上にも3年」と昔の人はうまいこといった。3年努力したり我慢すれば確かに状況は変わるかもしれないが、そこに「運」はないの。折角3年踏ん張ったんだから、あと2年続ければ運が生まれます。「石の上にも5年」。僕はいつも5年周期で物事を完成させています。」

運は5年周期・・・考えて見れば、私は今年 数えで 40才になります。また僧侶になって20年。住職は5年。琵琶説教は11年目・・・物事が5年周期で完成であるならば、今年は本当に節目の年になります。今まで「運」(ツキ)は、走るためのガソリン程度にしか思ってませんでした。しかし、一旦立ち止まることで「ダメなとき、無駄と思えることこそ運(ツキ)がある」と学び、そろそろ懐の深い生き方をすべき時なのかと思いました。

” ツキ(月) ”” 要 ”と書いて「腰」。今回の腰痛から、仏のメッセージをいただいた気がします。ありがたい”2度目の成人式”でした(笑)。合掌

 

 

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ウマくいく方法

新しい年となりました。どうぞ 本年もよろしくお願いします。

今年は平成26年。干支(えと)は、午(うま)になります。干支は十二支ともいい、この世の運気を12に区切ったもので、森羅万象、生々流転を12年間であらわします。日本人は、この流れに乗ると吉とされます。

十二支を一年であらわすと、子丑寅卯辰巳午…今年は7番目。7月に当てはまりますので、季節は初夏となります。草木の成長が一段落し、夏の猛暑や秋の実りへと力を蓄えるべき時期として、 将来へ力を養うの年としてお過ごし頂ければと思います。また「午」の原字は、餅をつく「杵(きね)」で「つきあたる」とか「つらぬく」の意味がありますので、打てば響く 結果の伴いやすい年になります。安易な行動によって、思わぬ事態に翻弄されぬよう用心しましょう。

また運勢とすれば、十二支の折り返しですので、最も気の抜けやすい年と出ています。「午(うま)」の字は、「牛(うし)」の角が抜けてできたという俗説。午の刻の12時(正午)頃は、一日でホッコリする時間帯で、気を引き締めよと云われます。馬は骨折すると、取り返しがつきません。

新年は 誰もが「幸福になりたい」と祈りを捧げます。ところが 忙しい日々にあっては、足元を見失いがちになります。よく、馬の鼻先に人参をぶら下げる表現がありますが、目先の利益を求めて走り続けるのは憐れです。午年は「自分のあり方」を見つめる年です。焦らず、急がず 将来に向けて力を蓄える年にしたいものです。

最後に ウマくいく方法 として ” 乗馬の心得 ” をご紹介します。「一に心、二に手綱、三に鞭、四に鐙(あぶみ)」。すべてにおいて心が第一です。今年も、仏教の心で何事もウマくいくよう お祈り申し上げます。合掌

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法輪

先日、パソコンが壊れて ホームページの「お知らせ」が更新できなくなりました。いつも琵琶で説いている ” 諸行無常 ” を痛感しています(笑)。復旧するまで、ブログで更新しますので、ご確認くださいませ。

・平成26年1月1日午前10時より、西願寺本堂にて「修正会(しゅしょうえ)」を勤めます。お勤め→ミニ法話→お清め→御守授与→茶話で1時間程の行事です。どちらさまも気楽にお詣り下さいませ。ミニ法話は、住職が「午(うま)年の心構え」をお話します。

・12月21日号の「リビング滋賀」で琵琶説教を記事にして頂きました。インターネットの「今週のリビング滋賀」(P5)でもご覧いただけます。

 

さて、平成25年もまもなく終わろうとしています。今年も様々なことがありましたが、1年の世相を漢字一字で表現する「今年の漢字」は「輪」が選ばれました。選考理由はいくつかに分類できるようです。日本中が歓喜に沸いた「輪」としては、全体のチームワーク=「輪」で、2020年オリンピック・パラリンピックの東京開催、富士山の世界文化遺産登録、サッカー FIFAワールドカップ2014 に日本代表の出場が決定したなど、大きな成果が上がったことがあげられます。

また、人とのつながりの「輪」を感じた例としては、全国で多発した自然災害に対する支援や助け合いの輪が、多くの人の印象に残ったと言います。台風30号で甚大な被害を受けたフィリピンや、NPOやNGOなどの相次ぐ支援と、国内だけでなく国境を越えた支援の輪が広がったこと。他に、NHKドラマ「あまちゃん」や「八重の桜」、プロ野球・楽天イーグルスの優勝によって東北地方が盛りあがるなど、各方面からの「輪」もありました。

未来に向けた更なる「輪」については、環太平洋パートナーシップ(TPP)協定の交渉が佳境、アジア太平洋の「輪」に入るのかにも注目が集まったようです。

ところで、仏教での「輪」といえば「法輪(ほうりん)」を指します。法輪とは、お釈迦さまの説かれた教え(法)を ”車輪” にたとえて呼んだもので、仏教の象徴として祀られます。車輪は ”円盤形の武器” を意味し、仏の教えが行き渡る自由な動き。また、人々の邪見・邪信を砕破するのを、武器としての円盤の働きになぞらえたものです。今年一年、私も懸命に布教活動をして参りました。また来年も法輪の如く、グルグル・・・仏さまを「求心力」とし、我々僧侶は「円心力」となって、法を伝えていく所存です。皆様、良いお年をお迎え下さいませ。合掌

法輪

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