立春

冬と春の変わり目「節分」の翌日が「立春」となります。旧暦では、一年の始まりは「立春」からと考えられていました。昔は「節分=大晦日」で、「立春=元旦」だったことから、年賀状に「迎春」「初春」と書くのは、その名残りからきています。

私事ですが、数日前に誕生日を迎え、多くの方から温かい励ましや、プレゼントを頂戴しました。皆様のお心遣いに心より御礼申し上げます。その中のお一人から、こんな話を聞かせていただきました。それは、アフリカのある部族では、プレゼントをあげた側の人が「ありがとう」とお礼を言うのだそうです。なぜ、あげた側なのにお礼を言うのか?理由はこうです。誰かに贈り物ができる、つまり、恵むことができるということは、すでに自分は恵まれているという証拠だから。また、プレゼントをしたくなるほど「大切な人」がいてくれることの幸せに喜び、感謝するのだというのです。

思えば南無阿弥陀仏も同じです。本来は「往生(死後の魂の救い)」を求めるのが念仏ですが、しかしお唱えする時点で、もう阿弥陀仏の慈悲に包まれてます。それは、遠い過去からの様々な「縁」によって今、救いの道にたどり着いてる訳ですから・・・それを感じた方が心から唱えた念仏は、究極の御礼「ありがとう」を意味しているのだと存じます。「往生の念仏」「感謝の念仏」といった議論は抜きにしても、多くの南無阿弥陀仏を唱えられる人生こそ幸せな生き方です。朝起きた時、寝る前、三食の前後、出勤帰宅の際、感謝や節目の折々、意識をして十念をすれば軽く100遍は越えます。これを生涯に渡り続ける方と、そうでない人の「幸せの差」は・・・考えるだけでも恐ろしいですね。やはり「大切な存在(阿弥陀仏)」を持つことで、「絶対の幸福」が得られるのです。

「立春(旧元旦)」を迎え、今年一年、沢山の「ありがとう」の心を持ち、また私も、多くの「ありがとう」を受けられる「大切な人」になりたいと思いました。改めて、今年も宜しくお願いします。合掌

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大寒

「大寒(だいかん)」です。「大寒」とは、一年でもっとも寒い時期という意味です。全国で 耐寒のための様々な行事が行われ、また、寒気を利用した食物(凍り豆腐、寒天、酒、味噌など)を仕込む時期にもあたります。極寒という「負」を転じて、万物が強くなる時期でもあります。

この時期は、書家・相田みつを氏の『負ける練習』という詩が心に染みます。

「柔道の基本は受身 受身とは投げ飛ばされる練習 人の前で叩きつけられる練習 人の前でころぶ練習 人の前で負ける練習です。つまり、人の前で失敗をしたり 恥をさらす練習です。自分のカッコの悪さを多くの人の前で ぶざまにさらけ出す練習 それが受身です。柔道の基本ではカッコよく勝つことを教えない 素直にころぶことを教える いさぎよく負けることを教える 長い人生には カッコよく勝つことよりも ぶざまに負けたり だらしなく恥をさらすことのほうが はるかに多いからです。だから柔道では 始めに負け方を教える しかも、本腰を入れて 負けることを教える その代り ころんでもすぐ起き上がる 負けてもすぐ立ち直る それが受身の極意 極意が身につけば達人だ

若者よ 失敗を気にするな 負けるときにはさらりと負けるがいい 口惜しいときには「こんちくしょう!!」と、正直に叫ぶがいい 弁解なんか一切するな 泣きたいときには 思いきり泣くがいい やせ我慢などすることはない その代り スカッーと泣いて ケロリと止めるんだ 早くから勝つことを覚えるな 負けることをうんと学べ 恥をさらすことにうまくなれ そして下積みや下働きの 苦しみをたっぷり体験することだ 体験したものは身につく 身についたもの それはほんものだ

若者よ 頭と体のやわらかいうちに 受身をうんと習っておけ 受身さえ身につけておけば 何回失敗しても すぐ立ち直ることができるから・・・そして 負け方や受身の ほんとうに身についた人間が 世の中の悲しみや苦しみに耐えて ひと(他人)の胸の痛みを 心の底から理解できる やさしい暖かい人間になれるんです。そういう悲しみに耐えた 暖かいこころの人間のことを 観音さま、仏さま、と 呼ぶんです。」

人間は強そうに見えて、実は弱い生き物です。仏教では、このような我々を「凡夫(ぼんぶ)」と呼び「愚が者」だと断言します。しかし お釈迦さまは「愚者だからこそ救われるのだ!」と説かれます。今世、仏法真理に逢い、救われる身となるのは、凡夫に生まれたこそなのだと。様々なことに失敗し、受け身をとり続ける事によって、人間は凡夫を知り 謙虚になります。我々も人知を越えた 南無阿弥陀仏を信じ、一切万物を救おうとする力(アミターのみ光)を感じましょう。さすれば、魂がこの世一代限りのものでないことがわかってきます。「永遠の命」であるからこそ、今、本当にせねばならないことが見えてくるのです。凡夫(人間)に生まれたという「負」を転じて、今世、勝縁をつかむのが「絶対の幸福」であり、「人生の目的」であります。合掌

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小寒

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。暦は「小寒(しょうかん)」となりました。「小寒」とは、寒さが最も厳しくなる前とか、寒さが加わるという意味で、いわゆる「寒の入り」のことです。寒中見舞いは、本日から出し始めます。

皆様、どのような正月をお過ごしでしょうか。盆と正月は、日本の伝統的な二大行事ですが、最近は長期休暇を利用して、家を空ける方も多くなりました。しかし 盆と正月は、故人や先祖が あの世からお帰りになる期間であり、特に正月は「松の内」という呼び名の通り、「(先祖を)待つ」が訛ってできたという説もあります。本来は、家族親戚が集まって 神仏に思いをはせたり、先祖とともに楽しく過ごすというのが正月でした。

とんちで有名な一休さん(一休宗純)は、こんな歌を残されています。

「門松(かどまつ)は 冥土(めいど)の旅の一里塚(いちりづか) めでたくもあり めでたくもなし」

年齢を「満」ではなくて「数え」で数えていた時代には、誕生日ではなく、正月がくる毎に一つ年齢を加えていきました。めでたい門松も、それを立てるたびに年を重ねることから、次第に死に近づく 標示だと詠まれたのがこの句であります。「絶対の幸福」は、死を超越したものでないと得られないという警鐘ですね。

正月の「正」の字は「一+止」でできてます。何かと慌ただしい現代人ですが、どうかまって、「人生の目的(自らの魂の行き先)」を見つめる月にしてください。菩提心をつにむることができれば、阿弥陀さまはもちろん、ご先祖さまも応援して下さり、「絶対の幸福」が得られます。その答えは、南無阿弥陀仏の中にあります。今年も1年、共に仏法真理を学んでいきましょう。宜しくお願いします。合掌

 

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冬至

「冬至(とうじ)」です。北半球では、正午の太陽の高さが一年中で最も低くなり、昼の時間が最も短く、夜が最も長くなります。この日を境に日が長くなるので、昔はこの日を1年の終点と考えていたようです。夕暮れの闇の濃さが何とも言えない今日この頃です。

先日、金閣寺に雪が散らついたという報道がありました。ご存じ、室町幕府3代将軍・足利義満が造らせた金色に輝く建物ですが、この眩いばかりの金色には、秘密があります。
実は、金閣寺の金箔の下にはまっ黒な漆(うるし)が塗られているのです。昭和61年から始まった金箔総張り替えの時のこと。金箔の下に隠れていた漆黒の金閣寺を見て、住職はあまりの美しさに言葉を失ったといいます。眩いばかりに輝くためには「金」だけでなく、それを内側から引き立てる「闇(黒色)」が必要だったのです。

一年の世相を表す「今年の漢字」は「金」という字が選ばれました。揮毫(きごう)された清水寺の森清範貫主は、「人々が将来に向かって、新しい光を発していこうと希望を持ったのでは」と仰ってました。輝くためには、闇(黒色)が より深みを与えてくれると申しましたが、私たちの人生も、良い時もあれば悪い時もあります。つらく苦しい時こそ、未来に輝く準備期間と考え、毎日の生活を味わえるようになれれば最高です。開けない夜明けはないのですから!

平成25年、皆様の1年がさらに良い年になる事を心よりお祈り申し上げます。闇の深い「冬至」から「大晦日」の過ごし方が、黄金に輝く未来へつながることと存じます。合掌

 

 

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大雪

「大雪(たいせつ)」です。山は雪で覆われて北風が吹き、本格的な冬の到来を意味します。北国や日本海では根雪になるほどの大雪が降り、動物たちは冬眠の時期を迎えますが、仏教では恰好の修行時期となります。

奉職寺院では「仏名会(ぶつみょうえ)」が行われてます。別名「三千礼拝(さんぜんらいはい)」とも言い、文字通り3000回の礼拝をします。南無阿弥陀仏を唱え、立って座って五体を投げ出し、1年の罪を拭うのです。12月8日のお釈迦様の悟り日にあわせ、3日間(12月6,7,8日)で行いますので、毎年、この「大雪」の頃が修行期間となります。浄土宗内でも最も厳しい行だと言われます。

私はここ数年、3000回の満行ができてません。というのも、寺の修行が長くなった為、世話係に回ったからです。布団の手配、食事の準備、風呂の支度、僧侶と奉仕団とのパイプ役等々…地味ですが、大切な仕事を仰せつかりました。修行とは真逆の立場です。礼拝をしている時は、とにかく満行に向かって突き進みます。自らの「進歩」を目指して懸命になります。一方、世話係は、礼拝がスムーズにいくよう、我を押さえ「調和」を図ります。そこには「進歩と調和」の世界があります。一つの目的に向かって、この二大原則がバチッとはまった時、大歓喜が起きるのだと世話係をして学びました。これは、世の中のいかなる場面でも当てはめられるのではないでしょうか。これを意識すれば、皆が尊く見えてきます。奢り高ぶることが無くなります。

奉職寺院の住職はいつも仰います。「仏名会は1人では満行できない。皆の力が一つになり、仏の導きがあって成し得るのだ」と。私も自らの立場を全うできるように、あと1日精進します。「大雪」という暦通り、北風が強まってきました。修行者は寒い思いをしてると思います。『北風と太陽』というイソップ寓話がありますが、心地よいあたたかさで、受者の方々を調和できればと思います。合掌

 

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小雪

「小雪(しょうせつ)」になりました。これから雪がちらつくようになり、北風によって木の葉が散るようになります。現在、「二十四節気(にじゅうしせっき)」ごとにブログを更新してますが、暦を意識すると本当に季節を感じます。

この時期になると、子供の頃に母が読んでくれた絵本を思い出します。雪が降り始めると、決まって『白雪姫』を読んでくれました。あの頃も季節感がありましたね(笑)。久しぶりに読み返えすと、昔とは違った感想があり驚きました。私の記憶では、白雪姫は「魔女に騙された可哀そうな女性」という印象でしたが、実は彼女は「騙されたとも、毒リンゴを食べさせられたことも知らず、幸せになった女性」だと気付いたんです。なぜなら白雪姫は、リンゴを口にした途端、深い眠りに落ちたので、魔法使いの正体が意地悪な継母であることも、魔法のリンゴが毒リンゴだったことも知るよしもないからです。ただ白雪姫は、魔法使いのお婆さんに親切をして、夢を叶えただけでした。つまりこの物語は、「夢を信じ、素直な優しい心を持ち続ければ、毒リンゴも幸せのリンゴになる」ということを教えてくれます。言い換えれば「物事は受け取り方次第で、幸にも不幸にもなる」という教訓を訴えてるのだと思います。

もし白雪姫が現代に生まれていたら…おそらく、見知らぬ老女を家に招いて親切にすることはないでしょうし、初対面の方にリンゴをもらっても怖くて食べれないと思います。現代は「まず疑うことが正しい」という風潮があるからです。もちろん否定的に見ることで、被害を最小限に食い止る「想定内での幸せ」はつかめると思いますが、時には世の中を肯定的に見ることで、「感動的な幸せ」が訪れるのではないでしょうか。

信仰も同じです。はじめから仏を疑う人は、もとから加護を放棄する人です。縁すら繋がりません。白雪姫にとって「幸せのリンゴ」となり得たのは、彼女の心映えによるように、やはり、心の現れがその人の世界を作っていくものだと思います。それを正しく導くのが宗教の役割です。現代では共感を得にくい話というのは重々承知ですが…このような時代だからこそ、今、信仰の大切さが問われてると思います。大人になってから『白雪姫』を読み返し、こんなことを学びました。合掌

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立冬

「立冬(りっとう)」になりました。暦では、今日から冬に入ります。「立」には新しい季節になるという意味があり、これから「立春」の前日までが冬になります。

寒い時期になりましたが、お寺には変わらず信者さまが手を合わしに来られます。人間、色々な「心配事」がありますが、信仰心のある方は、いかにして人生を輝かすことが出来るかを真剣にお考えになる素晴らしい人々です。先日、将来に不安を持つ方にこんな法話をしました。

あるアメリカの大学が「心配事」の80%は起こらずに済んでいるという調査結果を発表しました。ということは、実際に起こる心配事は20%となります。しかし、その20%のうちの80%は、信仰心等を持って心の整理をし、準備さえ怠らなければ、大事に至る前に解決できるというのです。つまり、どうしようもない心配事は、全体のわずか4%ということになります。ここから学ぶことは、我々を悩ませるの96%は、ただの取り越し苦労(96・クロー)だといえます。そのように「人生は取り越し苦労(96)が大半なんだ!」と割り切ると(÷2)と、幸せ(48)になるのです。でも、もし心配事が出て来てしまったら?その時は「明らめる」のです。神仏が与えて下さった試練として、有り難く頂戴すればよいのです。その4%が我々を成長させる糧となるはずです。因みに、人間の前頭葉にある「成長ホルモン」の分泌率は、「心配事」と同じ4%だそうです。

こんな法話をしましたら、信者さまは心が軽くなったと笑顔でお帰りになりました。もちろん、人間の根本苦は「生老病死」であります。特に「死」は100%確実な未来です。これは、どうあがいても逃げられません。しかし、大半の「取り越し苦労」を取り去り、それを根本問題を解決する時間に充てられれば、もっと輝かしく生きられるのではないでしょうか。その救いは「お念仏」しかありません。冬はそうのようなことを考え、実践する修行の時季でもあります。合掌

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霜降

「霜降(そうこう)」となりました。秋が一段と深まり、霜が降る頃となりました。朝晩の冷え込みが厳しくなり、日が短くなったことを実感する今日この頃です。

先日12日、人間国宝であられる志村ふくみ先生の「米寿をお祝いする会」のサプライズゲストとして、琵琶説教をさせて頂きました。夕方5時頃、しょうざん庭園をバックに、かがり火のほのかな明かりの中、荘厳な雰囲気での演奏でした。まだその頃は、日暮れでも心地よく感じましたが、たった10日でグッと冷え込んだ気がします。1年の中でも、丁度よい季候はわずかで、後になってその有り難さがわかります。

米寿というと88歳。失礼ながら日数に換算すると、3万2千日あまりの人生を積み重ねて来られた計算となります。また、先生は31歳で本格的に染色の分野に入られたとのことですので、2万日あまりの研鑽となられます。私は琵琶と出逢って17年ですので、6千日あまり。まだまだハナタレ小僧にもならない存在だなぁ…と痛感しました(笑)。

同じく来賓として来ておられた、滋賀県知事・嘉田由紀子先生は「もったいない」とスピーチされておられました。もったいない…例えば、人生を1日1円として譬えますと、1年間で365円の財産となります。米寿の3万2千円に比べたら微々たるものかもしれません。しかし、どんな方でも人生は積み重ねであって、1日1円を投資するか浪費するかはその人次第であります。今日の1円を大切にすることが、この1年間(365円)の価値を高めてくれるはずであります。まさしく人生は「もったいない」の精神であります。

霜降の時季になると、ほど良い気候の有り難さが身に染みます。私達の人生も、後悔なく、1日一歩づつ、着実に歩んでいければ、これほど素晴らしいことはありません。志村ふくみ先生、本当にお目出度う御座いました。これからもご指導宜しくお願いします。合掌

 

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寒露

「寒露(かんろ)」となりました。寒露とは、寒冷によって露が宿るという意味です。長雨が終わり、秋も深まり始める頃となりました。秋は「読書の秋」「スポーツの秋」「芸術の秋」というように、自らを磨き、見つめ直す最適な時節です。

仏教では、私達の行いを身(からだ)、口(くち)、心(こころ)の三方面から教えます。特に重視するのが「心の行い」です。それは、心で思わぬことを言ったり、やったりはしないからです。私達のどんな言動も心の命令によるものですから、司令塔である「心」を、仏教では最も重要視するのです。

こんな話があります。2人の禅僧が諸国行脚(あんぎゃ)中、小川に差しかかった。美しい娘が、連日の雨で川が増水し、飛び越えられずにモジモジしている。「どれどれ、私が渡してあげよう」僧の1人が、無造作に抱いて渡してやった。途方に暮れていた娘は、顔を赤らめ礼を言って立ち去った。同伴の僧はがそれを見て、かりにも女を抱くとはけしからんとでも思ったのか、無言の行に入ってしまった。戒律のやかましい禅宗では、女性に触れてはならないとされているからだろう。日が暮れて、女を渡した僧が「どこかで泊まることにしようか」と声をかけると、「生臭坊主との同伴はごめん被(こうむ)る」。連れの僧は、そっぽ向いた。「何だ、まだあの女を抱いていたのか」くだんの僧はカラカラと笑った。連れの僧は、いつまでも抱いていた心の生臭さを突かれて、返す言葉がなかったという。

現代は、世の中のほとんどがマニュアル管理され、最も重要な「心」がなおざりになっている気がします。人間の社会では、どんな悪い考えを抱いても、それだけでは法律に抵触(ていしょく)するわけではありません。しかし、先程の「連れの僧」のように、いつまでも心に含んでいれば、いずれは口や身までに現れてしまいます。つまり、口や身で殺さなくても、心で思えば殺生であり、直接イジメをしなくても、心で犯せば立派な犯罪となります。法を犯すわけでも、道徳に背くわけでもないのに、心で思うだけで何が悪いのかと思われるかも知れませんが、真理は「心のあり方」で決まると教えられます。

悲しいかな、心を見れば、人間は綺麗なものではありません。むしろ「悪人」であります。そんな我々をお見抜きで、「その身そのままで必ず救う」と阿弥陀仏は誓われておられます。現代人はもっと謙虚にならなくてはなりません。一年中で最も過ごしやすい「寒露」の頃に、そんな思いでお念仏を唱えたいものです。南無阿弥陀仏 合掌

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秋分(秋彼岸)

「秋分(しゅうぶん)」は、秋の「彼岸(ひがん)」の中日になります。「彼岸」は本来、阿弥陀仏の極楽浄土を指し、「あちらの岸」という意味です。一方、私達の住む苦しみ悩みの世界を「此岸(しがん)」といい、「こちらの岸」に例えられます。つまり、春・秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈む日であり、沈む夕日に「西方極楽浄土」を念じたのが始まりといわれます。仏教は、我々の世界を「海に浮かぶ岸」に譬え、救いの方角(彼岸)を教えてくれます。

何年か前に『オープン・ウォーター』という、実話を元にした映画がありました。カリブ海でダイビングしていた夫婦が、ツアースタッフのミスで海に取り残されてしまう話です。サメや小魚に襲われ、脱水症状や体温の低下、波や強い日差し、風雨や夜の闇など、彼らが味わう恐怖、極度の緊張が克明に描かれています。水平線しか見えない海の真ん中で、あてどなく漂い、行く先が見えない不安や絶望…こんな時、救いの方角がわかれば、どんなに有難いことかと思いました。

まさしく人生も同じではないでしょうか。何のために勉強し、働き、苦しくとも生きねばならないか分からないまま、次から次とやってくる苦しみの波に、子供から大人まで翻弄されています。いくら立派な生活基盤を調え、「どう生きる」の手段に熟知していても、肝心の生きる方角、目的が示されないままの一生では悲劇です。しかし、救いの方角がハッキリして、そこに向かって力強く泳いでいく人生は、知らなかった時とは比較にならない素晴らしいものになります。秋分「彼岸」(救いの方角)をお考え頂ける時節になれば幸甚です。南無阿弥陀仏 合掌

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