白露

「白露(はくろ)」となりました。これは大気が冷えてきて、露ができ始めるころを指します。昔は夏から秋への節目を、この「白露」が目印となったようです。

季節の変わり目で体調を崩される方も多いのではないでしょうか。その要因となるのが、夏にたまった疲れです。夏にかかった様々なストレスが、この時期にどっと出てきます。それはちょうど、筋トレをして筋肉痛になるのに似ており、若いうちはすぐ治りますが、年を取ると忘れた頃に痛み出し、しかも尾を引くという感覚です(笑)。この時季の体調不良の原因の一つに、夏場の冷食とエアコンがあげられます。身体を冷やして夏を過ごした人は、体温調整の働きが上手くいかず、秋口に風邪を引きやすくなるというのです。環境上仕方ない方もありますが、人間もやはり動物です。日頃から自然に身を任せる習慣が、健康に過ごせる秘訣となります。その点、お寺の生活は理に適っています。早寝早起き。読経での腹式呼吸や精神統一。掃除での適度な運動。聞香、書道、水行、精進料理等々、四季折々、自然と共に生活をしています。

室町時代の禅僧、一休さんは、こんな詩を残されています。
白露の 己が姿をそのままに 紅葉に置けば 紅の玉
「白露はありのままの自分でいながら、紅葉の上では紅の露になる」

朝に草花をぬらす露は、それ自身は透き通り、何の色もついていませんが、赤く色づいた葉っぱの上に宿ると、紅色に輝きます。しかし、無色透明という露本来の姿は少しも変っていません。春が来れば花が咲き、夏になれば雷が鳴る。秋になればすすきの穂が揺れ、冬になれば雪が降る。こういう、ものの本当のありようを見失ってはいけない。ありのままを受けとれる自分になることが大切だと説かれています。合掌

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処暑

「処暑(しょしょ)」となりました。処暑とは「暑さが終わる」という意味で、日中はまだまだ暑いですが、朝夕は心地よい風を感じます。夕暮れ時には、夏に別れを告げる虫たちが鳴き始め、秋の気配を感じる今日この頃です。

お寺では、盆行事の大半が終わり、残すは「地蔵盆(じぞうぼん)」のみとなりました。これは子供が主役のイベントで、子供の守り本尊であるお地蔵様に願いを込め、縁日の24日前後に、大きな数珠を子供達みんなで回す儀式です。けなげに数珠繰りをする子供達に幸せになって欲しいと願うばかりですが、私が子供の頃と変わったことは、お菓子を与えても大して喜ばなくなったことです(笑)。昔はそれが楽しみで参加したものですが、今は好きなお菓子だけを選り好みして置いていく子供が増えています。それだけ間食が当たり前になったんだと思います。

ある本によると、食事の代わりに、お菓子やジャンクフード、飲料類ばかり 飲食している子供や大人は、栄養失調[体]だけでなく、精神状態[心]も不安定なると書いてありました。母性愛が乏しく、育児を放棄したり殺したりする犯罪者の女性の多くは、右脳の中に「マンガン」が不足しているというデータまで出ているようです。ウサギをマンガンなしのエサで育てると、子を育てなくなることから、「愛情のビタミン」とも呼ばれているようです。マンガンは、穀物やひじきや青野菜に多く含まれ、ホルモン分泌を活性化させる働きをするようです。

考えてみますと、「愛情のビタミン」はお盆にご先祖様にお供えをしたものばかりでありますね。夏バテであまり食が進まない時季ですが、ちゃんとした旬の食物を取ることが大事なんだと、またまたご先祖様から学ばせて頂いた気がします。明日、隣寺の厳浄寺様をお借りして地蔵盆(19時より)を行います。合掌

 

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立秋

明日は「立秋(りっしゅう)」です。文字通り秋に入ることですが、実際は夏一番の熱い時季です。今日から「残暑見舞い」になりますが、これほど暦と季節感のずれを感じる日はありません。

自坊の西願寺は、立秋前の土日が墓回向の日と決まっており、今年も沢山のお詣りがありました。終日炎天下におりますので「おっさん、暑くないのか?」とよく聞かれますが、私は必ず「あきらめていますから!」とお答えします。半分ウケ狙いですが、実は「あきらめる」は仏教用語からきています。今では「仕方がない状態を断念する」という否定的な意味で使われますが、本来は、仏教の「(物事の真理を)明らかに見る」が次第に変化して「あきらめる」になりました。ですから、とても意欲的な言葉で、私は好んで使っています。

もちろん僧侶といえど、スーパーマンではありません。墓参りは正直しんどいですし、できるだけ体調を整えて何とか出来ることです。お金儲けだと心ないことを言われる方もありますが、バイトの対価として考えるなら絶対にやりません(笑)。それは、住職としての使命とプライド。そして、この墓参りが檀信徒家一族の幸せとなって返ってくる行為だと確信する(明らかに見る)からこそ、心からさせていただけるのです。

人間は嫌なことに直面すると、逃げることを考え、踠(もが)こうとします。しかし、踠けばもがくほど、苦しみという海底に吸い込まれていきます。踠けば体はどんどん沈んでいく…しかし、物事を真理に照らし合わし「明らかに見る」ことができれば、いらぬ力が抜けてきます。力を抜いて、水に身をまかせれば、体はゆっくりと浮び上がっていくのです。つまり人生は、大きな海の中にいるようなものですから、大いなるもの(仏)に身をまかす気持ちが芽生えれば、その信仰心が浮き輪となり、必ず救われるのであります。ここから我身、自心というもの離れた「あきらめの境地」が出てくるのです。この墓参りを通じて、仏様やご先祖様に護られてるという思いの方が1人でも増えていただければ、炎暑での回向も、私は喜んで「あきらめる」ことが出来ます(笑)。西願寺の檀信徒様、今年もよくお参り下さいました。合掌

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大暑

本日は「大暑(たいしょ)」です。一年中で最も暑い日とされ、本格的な夏到来です。奉職寺院では写経会が行われ、怪談話の『土蜘蛛(つちぐも)』を琵琶で語らせて頂きました。暑い中、多くの方が御参拝下さり、また遠くは福島県の方もご縁があり、盛況に終わりました。法要終了後、ある信者様から「鰻の蒲焼き」を頂戴しました。夏の土用の最中で、暑気払いのスタミナを付けて下さいとのことで布施をして下さったのです。こんな事を記しますと「えっ、坊主がウナギ?」と驚かれるかもしれません。この件で言えば、おそらく皆様、生き物を殺す「殺生罪(せっしょうざい)」のことをお聞きになりたいのだと思います。

一言で殺生と言っても、殺し方によって仏法では三通りに分けられています。それは「自殺(じさつ)」「他殺(たさつ)」「随喜同業(ずいきどうごう)」の3つです。最初の「自殺」とは、世間一般に使われる、自らの命を絶つことではありません。自分で生き物を殺すことを言います。次の「他殺」とは、他人に依頼して生き物を殺させる罪をいいます。自分は直接殺さなくても、依頼すれば自分が殺したのと同じ罪だと仏法では教えられます。三番目の「随喜同業」とは、他人が生き物を殺しているのを見て楽しむ罪。殺す場面を見た魚や肉に舌鼓を打つのも、随喜同業の姿といいます。

ですから私は「釣り」や「活け作りを食す」「虫を殺す」等の行為をできるだけ避けておりますが、実際は上手くいきません。先日、ある法事にお伺いした時、ゴキブリが出たのです。「あなた、殺して」と奥さんが頼む(他殺)。「よっしゃ」と引き受けた主人は殺虫剤を手に取り、ゴキブリ目掛けて噴きかける(自殺)。泡の中でもがき苦しむ姿を、私や遺族が見守る(随喜同業)。一瞬の出来事でしたが、それぞれが三つの「殺生罪」を犯した瞬間でした。

このように、私たちはいくら気を付けていても、おびただしい殺生をせずしては生きられません。生きている限りは、深い業を持たざるを得ません。色々と理屈はありますが、我々は多くの犠牲の上に成り立っている存在なのだと認識し、この生かされてる命(使命)を全うしなければいけないと存じます。南無阿弥陀仏  合掌

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お中元

中元(旧暦7月15日)になりました。「お中元」とは、今ではお世話になった人にする「夏季の贈り物のこと」と思われていますが、本来は中国の「三元論」に由来しています。中国では旧暦の1月、7月、10月の15日をそれぞれ「上元」「中元」「下元」に分けて、季節の変わり目に神仏に食物を供え、人々をもてなす風習がありました。これが日本に伝わり、お盆に先祖の霊に供える習慣と結びついたのが、日本の「お中元」だと云われます。感謝の気持ちを捧げるのは、どの国でも変わらない真理ですね。現代は物をもらっても大喜びする時代ではありませんが、盆正月等に交わす気持ちが嬉しいものであります。

本日こんな事がありました。奉職寺院で、観光客がある手帳を見せて無料拝観をされたのはいいのですが、帰り際に「この手帳で先祖回向もタダにならないのか!」と訴えられるんです。ブランド品を携えた還暦ほどの男性でありました。丁度、関東はお盆の時期で、先祖の回向をしたい気持ちは素晴らしいのですが…「回向(えこう)」とは、「真心を回し向ける」の略で、ご先祖様が喜ばれるのは、やはり施主の気持ちであります。身を削ってでも、先祖を護ってくれる仏様や菩提寺にお供えしたいという真心が回向となるのに、それをあたかも物を値切るような回向では、その方のご先祖様は浮かばれないような気がしました。「親の土地を売って今旅行している」と言ってましたが、先人の財産を食いつぶすだけの人生では寂しいものがあります。

私たちが先人から受け継いだものには、お金や物といった「有形の財産」もありますが、何よりも「無形の心の遺産」を大切にせねばならないと思います。その貴重な心の遺産を花咲かせて、次なる世代へ伝えることが、今命あるものの勤めであり、幸福への第一歩だと存じます。

現代は「お中元」のあり方について色々議論されています。「贈ってもお返しをくれたりするからムダだと思う」とか「虚礼廃止のため」や「エコ活動の一環でやめよう」という考えもあります。しかし、伝統行事には必ず何らかの意味があります。このような時代だからこそ、本来の意味(真心の大切さ)だけは伝えていきたいものであります。合掌

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七夕

明日の「七夕(たなばた)」は、7月7日に行なう星祭りです。この日は、一年に一度だけ「織姫(おりひめ)」と「彦星(ひこぼし)」が天の川の上でデートをする日といわれ、この日にちなんで、願い事を書いた短冊を笹の葉につるし、織姫星に技芸の上達を願います。この物語の概略はこうです。結婚して仲むつまじく暮らしていた二人が、楽しさのあまり怠け者となってしまい、織姫の父である「天の神」の怒りを買って会えなくなってしましました。しかし年に1度会うことを許された二人は、七夕を楽しみに、日々仕事に精を出すようになったという話であります。

幼い頃は可哀相な二人だと同情してましたが、最近、年を重ねる事に、この逸話は真理だと思うようになりました。それは人間、これくらいの距離感が良好なのではないかと(笑)。私が日頃心がけているのは「腹六部(はらろくぶ)」という精神です。食事や睡眠、娯楽や人付き合いも、満足の一歩手前を心がけています。僧侶ですと、そのお家の悩み等々、洗いざらいのことが見えてきます。守秘義務ですので、詳細は口が裂けても言いませんが、だいたいのトラブルは「人の距離感」です。特にプライベートの髄まで知り合っている関係は、何かのボタンの掛け違いが起きた時は悲惨な状況になります。やはり何事も「腹六部」程度が丁度ではないかと思うのです。

「三猿(さんえん)」はご存じでしょうか?日光東照宮に目と耳と口を隠しているユーモラスな猿の彫刻があるのですが、これは「見ざる(猿)、言わざる(猿)、聞かざる(猿)」を現します。その意味は、他人の嫌なところは見ない、そして自分の嫌なところも見せない、他人の悪口、軽口は言わない、それから、そういうことは聞かないようにするという「人生訓」であります。たとえ親、夫婦、兄弟、恋人同士という親しい間柄でも、自分以外の人間と付き合うことが時には「三猿」を心がけることによって、自然と「腹六部」の精神に繋がっていくことと存じます。

そういった意味で、織姫と彦星は、いつまでも新鮮な、良い関係いられるのかなぁ…さすが神様のお計らい!と感じます(笑)。合掌

 

 

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夏至

今日は「夏至(げし)」です。1年の中で最も昼間が長く 夜の短い日で、「 冬至(とうじ)」(12月22日頃)に比べると、昼間の時間差は4時間50分もあるそうです。私はもちろん日が長い方が好きですが、夏至と冬至のどちらが好きかと聞かれれば、なぜか「冬至」と答えてしまいます。わけは「冬至」はこの日を境にどんどん日が長くなり、先に希望が見えてくるからです。一方「夏至」は、その日が頂点で、これから暗くなるイメージがあるからです。

この考えは、仏教の影響からきていると思います。例えば、浄土宗の総本山は「知恩院」ですが、徳川家が建てた立派な大殿のてっぺんには、不自然な2枚の瓦がのっています。この瓦は、名工・左甚五郎(ひだりじんごろう)が【 完成したものは滅びに至る】・・・ とあえて瓦を残し、未完成にした為だといわれます。完全な姿 に造ってしまうと、繁栄の頂点を意味し、それから後は下り坂を 意味するからだそうです。西願寺の「骨佛」の壁画もあえて「二十五菩薩」から、「二十四菩薩」にしてるのもこのためです。(西願寺の七不思議③参照)物事は、ここが頂上だと思うと上手くいかなくなるものです。

先日「ノミの特集」がテレビでやってました。サーカス用のノミは訓練の最初の段階で、背の低い箱に閉じ込められるそうです。ジャンプすると頭を箱の天上にぶつけるので、その箱の高さ分だけしかジャンプしなくなります。その後、箱を取り払っても箱の高さ分だけしかジャンプしなくなります。本当はもっと高くジャンプできるはずなのに飛べません。自分で壁を作ってしまうんですね。現状が完全だと思うと、伸びなくなる例えだと思いました。

本日は「夏至」の悪口みたなブログになってしまいましたが(笑)、私が言いたかったことは、この世の中には「完全なのもの」はないということです。昼間が最も長い「夏至」であっても、梅雨時で日の長さをあまり感じません。要は、現状を完璧だと思い、おごり高ぶること…これこそが、我々の敵であります。日々の精進に勝るものはありません。

最後に、法然上人のお言葉を紹介いたします。

一丈の堀を越えんと思う者は、一丈五尺を越えんと励むべきなり 合掌

 

 

 

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父の日

今日は「父の日」です。父親に対し感謝を表す日とされ、1909年、米国のドット夫人が「母の日が制定されたのに父の日がないのはおかしい」と「牧師協会」へ提唱したのがきっかけだそうです。しかし「母の日」に比べて地味で忘れがちな日です(笑)。ある花屋さんにお聞きしても、母の日の贈花の出荷数の30分の1程度というから驚きです。それほど「父の存在」は薄いのでしょうか。

昔、祖父から「艾(もぐさ)と苺(いちご)」という話を聞いたことがあります。「艾と苺」という字は「父と母」の漢字に「草冠(くさかんむり)」を付けた字であり、草冠の下(心の中)に秘められた父母の姿、思いがここにあるんだと教わりました。つまり「苺」は甘くて酸っぱい。優しさと厳しさのある母親のような味がします。これに対して父親は「艾」のような存在です。お灸をすえてびしっと躾けるのが父親の役割というのです。

昨今は「父の威厳」がなくなったと言われて久しくなりました。まず、給料が銀行振り込みになり、母から父が小遣いをもらうようになって、家庭の中で父親の存在感が薄くなったといいます。さらに「雇用機会均等法」や「男女共同参画活動」ができ、家事もできる融和的なマイホームパパ(兄弟のような親子付き合い)が推奨され、子供に対しても威厳がなくなってきたといいます。これも時代の流れでしょうが、お寺はまだ旧態依然です。お布施のカード払いはありません。(ご本尊にお供えしてからお寺に納めるからです)また立場上、僧侶は外での布教、家族は寺内を守るという役割がはっきりしています。

やはり、私(僧侶)の使命は「布教活動」だと思っています。父として家族を命懸けで護るのは言うまでもありませんが、やはり僧侶である以上「佛さま第一」であります。「家族第一」ですと、尊いお布施が商売になってしまいます。私の現状は「自坊(西願寺)」と「奉職寺院」を往復伝道し、「琵琶説教」では、今年の上半期で2100名余りの方々に布教いたしました。これが「佛の手足」である私自身であり、それ(仏事)を支えてくれる家族を思うと、感謝の心が沸々を湧き上がります。僧侶である私は「父の日」を「家族(サンガ)への感謝の日」であると思ってます。普段は「艾」のように「ふにゃ」としている私ですが、佛さまのことになれば、お灸のように「ぴりっ」とした存在でありたいと思います。そして、それを支えてくれる皆々様に、心より感謝申し上げます。合掌

 

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時の記念日

6月10日は「時の記念日」です。この由来は、人々に時間を尊重する意識を持ってもらおうと、1920年に生活改善同盟会がこの日を「時の記念日」に制定したのが始まりだといいます。

『日本書紀』よると、天智天皇が10年4月25日(太陽暦671年6月10日)に近江の大津宮(滋賀県大津市)に水時計を設置されたとあります。当時は2人交代で水の量をチェックし、鐘や太鼓で時報を知らせていたそうです。現在は一日を24等分して数字でいいますが、昔は12等分して区切った時刻を、十二支に当てはめられていました。丁度、太鼓の音が8つ鳴らされる時間(午後1時から3時)になると、お腹がすいてきて軽食を取ることが多く、それを「御八つ(おやつ)」と呼ぶようになりました(笑)。昔の方は、規則正しく、時間を大切にしながら生きてらっしゃったことが伺えます。

お釈迦さまも『無量寿経(むりょうじゅきょう)』に「臨終する時に、後悔と恐れが、代わる代わるおこってくる」と、時間の大切さを説いておられます。

私はよく、人生を「飛行機」に例えます。想像して頂きたいのですが…おぎゃっと生まれた時が、空港を飛び立った時。機内では少しでも快適に過ごそうと、人々は映画や音楽を楽しみ、また美味しい食事や景色の良い席を取ろうと躍起になります。しかし空の旅は、いつも平穏無事ではありません。乱気流や暴風雨、機体のトラブル、さまざまな不測の事態も待ち受けています。会社の倒産やリストラ、不慮の事故や病気、愛する人の離別や死別、嫁や姑の交戦など。それらと悪戦苦闘しながら、それでも私たちは少しでも長く、快適な人生飛行を楽しみたいと願っています。

しかし、飛行機の燃料は、無尽蔵ではありません。やがて尽きる時が来ます。私がいつも申すのは「皆様はその時、果たして安全な着陸地は確保されているでしょうか?」ということです。まさにお釈迦さまのお言葉の真意はここにあると思うのです。私という飛行機は、快適な飛行を楽しむといった「どう飛ぶか(生き方)」も大事ですが、もっと大切なのは「着陸地(目的)」をハッキリさせることにあると思います。

飛行機に墜落以上の大事なことがないように、人生に死ぬ以上の大事なことはありません。人生の終幕に、真っ暗な後生(次の世)に驚いても後の祭りです。仏教では、死後の世界の大問題を解決してこそ、人生の究極の目的だと教えられています。それらは燃料がなくなるまでに、解決したい問題であり、明るい来世を考えながら生きていくこそが、本当の意味での時間を尊重する生き方だと思います。仏教は、その方法(阿弥陀仏の救い)が説かれているんです!

西願寺では、骨佛の生前予約を受け付けております。「人生の目的地」をハッキリさせて、共々に輝かしい時間を過ごしませんか? 南無阿弥陀仏 合掌

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芒種

本日の暦は「芒種(ぼうしゅ)」です。芒種とは、(のぎ)【穂が出る穀物】のをまくのに適した日をあらわします。ちなみに芒種から5日後を「入梅(にゅうばい)」といい、梅雨入りとなります。しとしとと降り続く長雨が「縁」となり、あらゆる植物をいきいきと生かしてくれる時季であります。

仏教でも「種まきの重要性」が説かれており、それが有名な「因果の道理」(原因結果の法則)であります。これは「幸も不幸も、自分に現れる結果の一切は、自分のまいた種ばかり」ということです。しかし人々は言います。「こんなに頑張っているのに、なぜ報われないの?」と。個々の努力の度合いはわかりませんが、この法則で大事なのは、因果の道理の間には「縁」というものが隠されてることです。「因縁」という言葉があるように、因と縁が合わさって、結果が現れることを知らねばなりません。種が発芽し育つには、日光や土、水などが必要なように、縁なしには、どんな結果も生まれないのと同じであります。

私が奉職しているお寺は、国宝をまつる京都の拝観寺院です。有意義な観光をしてもらうには、寺内の者による説明や見所を聞くか聞かないかでは、楽しみ方が何倍と変わってきます。(もちろん個人で楽しみたい方があるのは承知です)ひとりでも多くの観光客に喜んでもらおうと思うのですが、挨拶を無視されては縁ができず、お声がけすらできません。そういう方に限って、晴れないお顔で帰られるのを目にします。つまり、お寺に来る「因」があっても「縁」がなければ、喜びという「果」に結びつきにくいのであります。

「縁」は、心を開くことから始まると思います。いくら良い種(因)をまいても、自分にだけ都合良く育てたら、偏った花しか咲きません。あえて心を開き、周りから沢山の養分や肥料(縁)をもらうことで、力強い、感動の大輪が咲く(果)のではないでしょうか。

本日の「芒種」は、稲などの【穂が出る穀物】のをまくのに適した日ということで、最後に一句ご紹介します。

実るほど 頭(あたま)の下がる 稲穂かな

稲が実を熟すほど穂が垂れ下がるように、人間も徳が深まるにつれ謙虚になるという真理です。実が熟されたお方は、様々な「縁」に育てられたことに感謝されていることと存じます。合掌

 

 

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