なが~い歯のゲタ

一本歯下駄はご存じでしょうか。ここ数年、この高下駄を愛用しています。平安時代より、修験者が山中を行くときに履いていたといわれ、通称・天狗下駄ともいいます。

愛用の一本歯下駄

愛用の一本歯下駄

現代は健康志向で 様々なトレーニング機器がありますが、文化的なもので 体感やボディバランスが鍛えられるものを探した末、この下駄にたどり着きました。お陰で 徒競走が苦手な息子達も、一本歯で寺の境内を走り回り、運動会で1位がとれました。またリハビリ機器の側面もあり、腰痛や膝痛にも効果があるようです。一本歯は 常に重心が不安定で、体重の負荷が一カ所に集中できにくくなります。つまり負荷は他の部位に分散しますので、腰や膝への負荷は軽くなるのです。さらに体重が減り、足のO脚も改善され、何より姿勢が良くなります。和文化は凄いですね。楽しみながら鍛えられるのは嬉しいです。

普通の下駄と比べ、歯の長さが倍ほどあります。

普通の下駄と比べ、歯の長さが倍ほどあります。

教育者・上原春男氏のお言葉です。
車のハンドルには「あそび」が不可欠です。あそびがないと「余裕」がありません。余裕がないと「危険」です。このように「安全なもの」「丈夫なもの」には、かならずあそびというすき間が用意されているものです。すき間やあそびが、力を吸収したり、逃すクッションの役目を果たしてくれるわけです。つまり「力を抜く」仕組みがないものはもろいです。本当に強いものは柔軟である。真に頑丈なものは柔らかい部分をもっているといえましょう。このことは人間にも当てはまることです。 (『「抜く」技術』 サンマーク出版)

一本歯下駄は楽しいですが、慣れるまで努力がいります。そんなものを履く意味がわからない…と笑われます。しかし、この遊び心が必要だと思うのです。何でも合理性や理由が求められる今、無駄に見える物が一転、とても価値があることに気付く瞬間があります。あそび、余裕、余白、柔軟性・・・大切です。力を抜いて生きていくことが、真なる力強さにつながるのではないでしょうか。合掌

重心線をキープしながら、バランスを取って体のバランストレーニングに最適です。

重心線をキープしながら、バランスを取って     体のバランストレーニングに最適です。

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なが~いお付き合い

今年も東京の寺院で琵琶説教を勤めてきました。この時期、何度も登場する生年月日が同じ副住職のお寺です。毎年、一年の報告をしつつ 食事をするのが楽しみです。彼は この4月で 全国浄土宗青年会の理事長に就任しました。43才までの浄土宗侶の先頭に立つ役目です。これはなりたくてもなれるものではありません。人望、根回し、タイミング … 様々な仏縁で拝命されたことは 凄いことです。貫禄が出てきて、存在感があり、環境を調えてくれる檀家の団結がある・・・私には そんな人徳はありません(苦笑)。羨ましさというより、ただただ 同じ年月を生きてきた彼の活躍が 眩しく思えました。

会食は奥様も同席してくれました。本音をズバッという気持ちいい女性です。そんな彼女が、私達の会話を一通り聞いて 一言・・・「主人の立場は金森さんには似合わない。あなたは 寺世界での出世より、一般人を導く存在だと思うわ。これまで通り、坊さんらしさを貫いてネ!」・・・なるほど、色々な目標があっても分相応。シンプルに似合う似合わないで判断する ・・・そうすれば煩悩も整理できそうな気がします。内助の功ですねぇ。ここは羨ましく思います(笑)。

野坂礼子さんの言葉です。
自分を変えるということは、今の自分をゴミ箱に捨て、新しい自分をゲットすることではありません。スミレはスミレだからこそ、可憐ですてきなのです。タンポポは黄色の花で綿毛のような種が見事です。タンポポが「雑草は嫌、花屋で高く売れるバラがいい」といって、真っ赤なお化粧を始めたら、美しいでしょうか。スミレが、高い値段のランの花を真似して突っ張って生きたらどうでしょうか。花たちは比べないし、うらやまない、淡々とユリはユリ、サクラはサクラのまま生きています。天命を生きているからです。今のままの自分です。根っこ、つまり生き方を変えるということです。すると見事なバラやスミレ、サクラが咲き、種が実るのです。そのことが、あなたがあなたらしく幸せになる道です。どんな花もすてきです。あなたは、スミレ、ナズナ、カサブランカですか?その自分の個性を「ありがとう」で生かし天命を生きましょう。(『世界一簡単に幸せになれる「ありがとう」の魔法』マキノ出版)

” 自分らしく ” というのは、聞こえはいいですが大変です。責任を伴うからです。しかし 与えられた環境、白鳥の水かきのように 水面下では必死にもがきつつ、顔は平然と進んでいくしかありません。それが粋なんだと思います。表面にあらわれる現象しか見れず、嫉妬や悪口、無責任発言やトンチンカンな批判をする輩が蠢く中、水面下(自分らしさ)を共有できるのは至福の時でした。これも仏教を礎にして、長い付き合いの中でなされた信頼関係だと思います。合掌

副住職はいつも良いホテルを布施してくれます。高層から見ると景色が綺麗です。地上におりるとゴミゴミしたところが目に付きます。悟りとはこのような高い静かな境地なんだろうなぁ・・・と瞑想にふけました。

副住職はいつも良いホテルを布施してくれます。   高層から見ると景色が綺麗です。地上におりるとゴミゴミしたところが目に付きます。悟りとはこのような高く静かな境地なんだろうなぁ・・・と瞑想にふけました。

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なが~い歴史のある法要

先月後半の1週間は、山口県へ琵琶説教に行ってきました。合計10回の長席。ご住職や法類さま、若い僧侶、裏方の皆様がお世話をして下さり、無事に勤めることができました。控えの間では 私の一挙手一投足に気遣いを頂戴し、こんな王様気分は 後にも先にもないかもしれません(笑)。おかげで体調も万全。最終席は、聴衆の皆様に大きな拍手で見送られ、次回へのアンコールまで頂きました。法要は 心で味わうものですので、説教での拍手は本来ありません。しかし、みんなの力で成し遂げた法要です。おもいを形で表して下さるのも良いものでした。

今回は2ヶ寺での説教でしたが、後の5日間お世話になった御寺院は 210年の歴史のある法要でした。画像を見れますでしょうか。本堂の前には大きな角塔婆が建立されています。

本堂の屋根にも届きそうな角塔婆。子供たちと比べると、その大きさがよくわかります。

本堂の屋根にも届きそうな角塔婆。子供たちと    比べると、その大きさがよくわかります。

法要中の塔婆回向の様子。僧侶や役員が総出で 塔婆をまわしておられます。

塔婆の大きさに、檀信徒さまの先祖をおもう気持ちが込められています。

塔婆の大きさに、檀信徒の先祖を          おもう気持ちが込められています。

その他にも お稚児さん、二十五菩薩お練り、露店等で賑わい、盛大な法要でした。

斎藤 茂太氏のお言葉です。
人もお酒もゆっくり熟成する、「一夜漬け」はそれだけのもの。「早く、早く」と急いでばかりいては、ゆったりとした豊かな人間は育たない。人は菜っぱや豆とはちがって、なかなか促成栽培というわけにはいかない。最初はたっぷりと時間を与えよう。効率や早い結果を望む気持ちは誰しもあり、それがわからないわけではないが、本当によい結果を生むのは、あまり焦らぬこと、急がぬことだと思う。(『「ゆっくり力」ですべてがうまくいく』新講社)

この法要も一日にして成らずです。210年の歴史で 様々な変遷を経て、今の形に成ったと思うと感慨深いものがあります。世知辛い現代社会ですが、将来を考えるならば、効率を求めるより効果(信頼や満足)を1つづつ作っていくことが大切だと学びました。長い歴史ある法要、長い塔婆の回向、長席の説教・・・またまた長いものつながりで、福をいただいた気がします(笑)。皆々様、本当にお世話になりました。合掌

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真空チタンカップ

前回、厄年の方に「長いもの」を贈るとよい。長いものは、厄を超え ” 長寿を祈る ” の意味だと申しました。この度は、チタンカップを頂戴しました! 新潟県燕市にあるサスギャラリーの真空チタンカップです。ご存じでしょうか? 特徴は、バーナーで炙っても中の氷が溶けないという驚きの保温力にあります。長時間 保温できるコップですので、まさに「長いもの」です(笑)。

桐箱に入れられた真空チタンカップ  

桐箱に入れられた真空チタンカップ  

その秘訣は、カップの二重構造にあるようです。真空状態の空間部分は 熱を通しにくい性質があるため、冷たさも熱さも外部の影響を受けずに 温度を維持できます。つまり、氷が解けにくいので 飲み物の味も薄まらず、また 熱いものを入れても 持つ手は熱くなりません。さらに 結露で手やテーブルが濡れてしまうこともなく、コースターもいりません。さすがの一言です・・・ここまで来るのに、相当の努力と知恵が重ねられたと存じます。サスギャラリーは、元々 魔法瓶の会社でしたが、その技術を 茶の間で活かせないだろうかと、高い目標と地道な努力を積み重ねられたとお聞きしました。

断面図             ※戴いたものではありません・・・。

断面図                  ※頂戴したものを分解した          のではありません・・・

高原 慶一朗氏のお言葉です。
「高い目標と地道な努力、それが仕事で成功するための両輪ではないでしょうか。人生においても、自分の血肉となる体験は非凡な出来事だけから得られるものではありません。ドラマチックな出来事だけが「体験」ではないのです。これといって特別なことがない平穏無事な1日からも、私たちはたくさんの栄養を得ているはずです。平凡さから得た栄養と、非凡さからもたらされた滋養の間に差があるわけではなく、平凡な日の積み重ねの果てに、非凡な1日が訪れてくるのです。むずかしい球をときどきホームランする打者。やさしい球を確実にヒットにする打者。野球にも、こういうタイプの別があるようです。非凡なひらめき型と平凡な積み重ね型ともいえますが、私が買うのは後者です。そこに「平凡のなかの非凡」を見るからです」(『理屈はいつも死んでいる』  サンマーク出版)

まさに日本文化の結集が詰まったカップを頂戴しました。斬新な商品のように見えますが、実は 伝統工芸フロアに売ってるようです。伝統の中にモダンを感じる一品です。” アラブの富豪が爆買いした魔法のコップ ” だとか、” 各国首脳への贈答品 ” と云われる 日本の誇りの品ですが、その原点は「平凡のなかの非凡」の精神にあります。お寺のあり方でも同じです。刺激を求めて 熱しやすく冷めやすいの繰り返しでは長続きしません。このカップのように 一定の熱量を保ち続ける精進をする・・・ここから得る幸福こそが本物なんだということを学びました。お施主さま、誠にありがとうございました。僧侶は布施でお育ていただいてます^^。合掌

機能性はもちろんですが、持った時の軽さや手にしっくりくる持ちやすさと手触りが最高です。

機能性はもちろんですが、持った時の 軽さや手にしっくりくる持ちやすさと 手触りが最高です。

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リラックス涅槃像

本日は、お釈迦さまの誕生日(降誕会)です。インドにあるルンビニーの花園でお生まれになったので 「 花まつり 」 ともいい、竜が産湯の代わりに甘露水を降らせたという逸話から、誕生仏の頭から甘茶をかけて祝う風習があります。お釈迦さまは 我々に真理をお説きになり、心の自由(魂の解脱)への方法を与えて下さいました。しかし 同じ正しさでも、世の中の正論は 窮屈だと感じる今日この頃です・・・世間の風潮は こぞって過去や世代を否定します。ご恩の否定、おかげさまの否定、お互いさまの否定 … 潔癖になりすぎて、自分一人で生きている と錯覚する時代になってしまいました。

国宝 誕生釈迦仏立像         有名な東大寺の寺宝です

国宝 誕生釈迦仏立像               有名な東大寺の寺宝です

仏教でも やっていけないこと(戒)を説きますが、犯してしまった後は、自らの反省に任されます。それは 自ら心を調え、明日への時間が与えられるのです。” 許し” が与えられます。もちろん、教団を陥れるような行為は 律という罰則はあります。しかし、今の世の中のように 関係のない人が 寄ってたかってネットリンチをすると 立ち直れません。いくら正論でも エスカレートする一方です。真理と正論・・・考えさせられます。

フリーアナウンサー・長谷川豊氏のお言葉に感銘を受けました。
『昔よりも面白くない』なんてもの、テレビ以外にもあふれてないか?先週お伝えした逗子海水浴場のニュース。あまりにもお客さんの…特に若い男女のマナーが悪いという苦情が相次いだらしい。このままでは、安心して子供を連れて行けない、と。 逗子市は逗子の海岸を「日本一安全でマナーのいい浜辺」として利用できるようにしよう!と決断。結果…酒はダメ…刺青は論外…音楽もかけちゃダメ…逗子海岸は今年施行された法律により、日本一、間違いなく「マナーが良く」「子供にも安心して楽しめる海岸」へと生まれ変わった。そして、大きな問題が発生した。 海開きは7月1日。そこから2週間がたち、逗子海岸お訪れたお客さんは1万3千人。去年の同時期は…7万4千人だった。なんと、客が激減。7分の1の客数では周囲の海の家や旅館は立ち回らない。そう。地元の観光協会やホテルなどが逗子市を相手取って裁判を検討し始めたのだ! 一体何故?マナーがいい方がいいんじゃないのか?親子で安心して遊べる方がいいんじゃないのか?しかし、行政が良かれと思ってやったことは、逗子海岸が「見捨てられた海岸」となる結果をもたらした。 答えの一つはここにあるように思える。

人間は…もっともっと、リラックスして生きている。ダメなことはダメだ。が、その…ダメなことをしちゃうことも受け入れながら生きているのだ。人間はバカで、だらしなくて、だからこそ愛すべき存在で、だからこそ楽しさや苦しみがあるのだ。人間が生きる生活には…本来もっと『のりしろ』があるべきなのだ。そして、多くの人間はそんなこと、とっくの昔に知っていて、だから人間みんな、うまいことやりながら許し、許され、生きている。ダメなことはダメだ。その通り。が、実は人間はそうは言いながらもう少しリラックスして生きるものだし、ダメなことを許容しながら生きている。逗子海岸はそこをあまりにもきっちりと線引きをした。やだよね。そりゃあ。そんな堅っ苦しい海岸。僕でもやだ。さすがに海なら酒くらい飲みたいし。なので誰も行かなくなった。可哀想だが、逗子海岸周辺の海の家やホテルは経営はもはや成り立たないだろう。いくらなんでも客数7分の1位になると…もうやってはいけないだろう。可哀想だが、たたむところが続出するだろう。そして裁判も勝てないだろう。 逗子の海岸を良い方向に持っていこうと考えた行政に罪はない。事実、苦情は山ほど来ていたのだから。と、言うか、むしろ「安全な海を作りたい」の方がよっぽど正論だからだ。正論が…正論すぎて息苦しくなったのだ。

最近はテレビだけじゃなく、行政も何もかも、「そこまで怒らんでも」ってことに対して、怒りすぎ、「そこまできちきちせんでも」ってことで、きちきちしすぎなんです。 会議室の中で考えちゃうと、それでいいって思っちゃうんでしょうね。違うんだよなぁ。人間ってもっともっとリラックスして生きてます。本当はいろんなこと出来るのに、なんだか形上の「正論」にあぐらをかいて、単に決まりを作って、単にあれもこれも辞めるって決めて安心することに甘えて。テレビがつまらなくなったのも、 今の日本が息苦しくなっているのも、 原点は同じだと思う。

お釈迦さまは ” 中道 ” という極端に走らない「のりしろ」のある生活をお説きです。まさに包み込む真理対立軸を作る正論の違いですね・・・先日、花まつりの甘茶を求め 京の街に出ましたら、ステキな涅槃像に出逢いました。何とも言えないリラックスした雰囲気で、思わず購入してしまいました。力を抜かれ 長く伸びをされたお釈迦さまです・・・まさしく厄年の「長いもの」つながりですね(笑)。絶対ツキを呼びます! このお釈迦さまを毎日拝し、リラックスを心掛けたいと思います。合掌

日なたぼっこの涅槃像        あわてない あわてない 一休み ひとやすみ♪

日なたぼっこ の涅槃像              あわてない あわてない 一休み ひとやすみ♪     庭園で なが~く伸びをされてるようです

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煙管(きせる)

今年は満年齢で厄年となりました。これは仏教思想ではありませんが、法然上人は「世の習いは大事にせよ」というスタンスですので、慎んだ生活を心掛けたいと思っています。

厄について調べてみました。男性の厄年は、本来の意味は「役年」と言って、昔の日本の風習で村単位で行われていた村の「役」がまわってくる年のことを指し、多くの神事役に参加できるようになる年のことでした。つまり、一定の年齢に達したことへの感謝、社会的な地位にもついて周りからも社会的にも認知される年齢です。その大役を果たすために 災いから逃れるためにも厄払いを受けたり、不浄を避け、行動を慎むことなどが要求されました。現在は、本来の「役」の意味が薄れてきつつありますが、心身の節目として、忌み嫌う部分が残ってしまったと推測します。

では、周りの者は 厄年の人に何をしてあげたらよいのでしょうか。それは「長いもの」を贈るのが良いと言われています。男性だとネクタイやベルト、女性ならスカーフやネックレスなどを贈ることが多いようです。今回 私はなんと・・・「煙管(きせる)」をいただきました! 長いものには長寿を願う気持ちが含まれています。

近代は嫌煙の風潮が強いですが、江戸時代の喫煙率は かなり高かったようです。文政3年(1820)に 江戸の煙草屋、三河屋 弥平次が記した『狂歌煙草百首』によると、「煙草を吸わない者は100人中2~3人であるという」とあります。特に明治期は、失業した刀職人が大量にキセル製造業界に流れ、芸術的な煙管の最盛期を迎えたようです。厄年の慎んだ生活とはかけ離れますが・・・心の長寿を祈り、粋に一服したいと思います! お施主さま、どうもありがとうございました。大事にさせていただきます。合掌

煙管  弘法市で購入した煙管盆と撮影 素敵です♪ 和文化バンザイ!

煙管                         弘法市で購入した煙管盆と撮影            素敵です♪ 和文化バンザイ!

※近代的な生活用品に囲まれた暮らしの中に、日本の伝統的な道具を取り入れ、文明と文化の調和がとれた生活をしたく思っています。素敵な物がありましたら大歓迎です!  着物や小物、SOUSOUの衣服 … 和の暮らしが楽しく、豊かになることを啓蒙する住職を目指してます。

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先代住職の遷化

先日、2月28日1時1分。父であり 西願寺第三十世の金森邦雄が遷化いたしました。思えば、ちょうど一年前の3月6日に入院し、丸一年の闘病生活でした。生前のご厚助に 心より御礼申し上げます。先代の足跡をお伝えするため、私のお通夜の挨拶を掲載させていただきます。

本日は お足元の悪い中、先代・金森邦雄の為にご参列いただきまして、誠にありがとうございました。ご参勤いただいた各御法中・御寺院様や檀信徒の皆様、好みの方々の心のこもった お念仏の声に、父は大変喜んでいることと存じます。

先代は 雪化粧の本堂を眺めるのが大好きでした。父の思いが この季節外れの雪に表されていると思います。

そんな父は 昭和22年1月2日、この西願寺に生を受け、地元の岡山小学校、八幡中学校、そして彦根東高校、京都の佛教大学を経て僧侶となりました。いったんは滋賀県庁に奉職をしましたが 僧侶の身・・・地元に居いる方が檀信徒のお役に立てると判断し、近江八幡市役所にお世話になりつつ 西願寺を護ってまいりました。

ただ 先々代の二十九世・定雄の代が長かったため、住職就任は平成14年(55歳)の時でありました。そして 私に住職を譲ったのが、平成21年(62歳)の時でありましたので、三十世としての在任期間は わずか7年でした。しかし その後も、私が自坊に居ない生活をしているため、実質は父が蒲生第三組一部の部長、あるいは西願寺の法務を一手に引き受けてくれたのが現実であります。

隠居後も含めても 約14年という短い期間でありましたが、先代の功績として、本堂が登録有形文化財(平成17年)に指定されるよう尽力し、また 国の重要文化的景観 第一号の指定(平成18年)、本堂屋根ヨシの葺き替え(平成20年)、晋山式で住職の交代、46年ぶりの五重相伝の開筵への準備(平成21年)、また隠居後も 御本尊が県の有形文化財に指定(平成27年)される仏縁に巡り合いました。先代は 自らが輝こうとするのではなく、陰ながら物事をよき方向に導く傾向にあったかと存じます。

また 晩年は弟子をとり、自らの代わりに西願寺や私を支える僧侶を育てました。まさしく ” 陰ながら寺を支える存在 ” であったことを感謝しております。

今から ゆっくりして欲しい と思っていた矢先 … 約一年前の3月6日に肺炎を患い 入院をしました。その後 入退院を繰り返し、母・洋子と二人三脚で復帰を目指してましたが、肺気腫を併発し、最期は心不全で眠るように お浄土へ旅立ちました。享年70歳でありました。

この1年間は病に苦しんでおりましたが、今の先代の安らかな顔を拝してますと、「お父ちゃん よかったなぁ! 阿弥陀さまやおじいちゃん、おばあちゃん、先に往生された西願寺の仲間が ちゃんと迎えに来てはるで!」と思わず声をかけてしまいました。さらに本日は 大好きな雪化粧の本堂の中で、こんなに多くの皆様にお念仏をお唱えしていただき、父は幸せ者だと心より思います。皆様、本当にお世話になりました。

残された遺族は まだまだ未熟で、お叱りを受けることも多いと思いますが、父の代同様 相変わりませぬよう、今後ともご指導のほど宜しくお願い申し上げます。皆さま、本日は誠にありがとうございました。
西願寺第三十世・願蓮社成譽上人法阿慈光邦雄和尚 荘厳浄土  同唱十念

お寺で僧侶が亡くなった時は、門に ” 山主往生 ” の駒札を立てる風習があります。

お寺で僧侶が亡くなった時は、門に ” 山主往生 ” の駒札を立てる風習があります


※本日は本来、東日本大震災追悼法要をお勤めする日でしたが、葬儀の後始末のため、やむなく中止となりました。今朝、寺内の者で震災物故者に念仏回向をさせて頂きました。合掌

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煩悩即菩提(ぼんのう そく ぼだい)

本日2月15日は、お釈迦さまが亡くなられた「涅槃(ねはん)」の日です。語源は「ニルバーナ」で「吹き消す」の意味です。つまり ” 煩悩を吹き消した状態 = 完全な悟り ” を表します。では なぜ「涅槃」は ” 死 ” を意味するのでしょうか。それは 人間界でお悟りになったお釈迦さまでしたが、諸行無常のこの世には 永遠に留まることはできません。そこで目的を果たされた後、本来おいでになるべき次元へ還られた。つまり、生身の身体を脱ぎ捨てられたので、煩悩が完全に無くなった・・・このことから「涅槃 = 死 = 完全な悟り」 の方程式ができています。

しかし、一般人が涅槃とはいきません。死ねば皆、仏になるというのは間違っています。凡夫には 「煩悩即菩提」(煩悩=悟りの種)という言葉があるように、煩悩の火を吹き消すことは 極めて難しいです。つまり、いかに煩悩と うまく付き合うかがポイントとなります。そこでよくあげられるのが 蓮の譬え です。仏教の花である蓮は、泥の中に根を下ろして 水面に綺麗な花を咲かせますが、 汚い泥は人間の煩悩を表します。蓮の花は泥が深ければ深いほど、大きく綺麗な花を咲かせます。つまり、自分は業が深い 煩悩だらけだと悲観する事はなく、この苦しみがあるからこそ、大きく綺麗な 魂の花を咲かせることができると考えるのです。これが念仏思想の根本です。煩悩を否定せず、幸福のためには その身そのまま…自分の時間を持ちたいものです。実際、お釈迦さまも法然上人も お一人の時間を大切になされていました。

泥水を養分に 美しい華を咲かせる蓮

泥水を養分に 美しい華を咲かせる蓮

精神科医・斎藤 茂太氏のお言葉です。
1日24時間を「人のため」だけに使わない。ストレス解消のためにも、ひとりになれる時間を大切にしてもらいたい。そのために趣味を持つのもよい。散歩の習慣をつくるのもいいだろう。「自分のため」に使う時間を持ってもらいたいのだ。24時間、毎日毎日「人のため」では、あげくには自分という人間が壊れてしまう。競走馬のサラブレッドは、夏場は北海道の広い牧場に解放され、好き勝手な時間を過ごす。そういう休養の時間がなければ、人のために走ることはできないのだ。(『「ちょっとした言い方」が上手い人下手な人』新講社)

これは怠惰のススメではありません。この世は 煩悩によって成り立っています。いわゆる、目的を持った「煩悩即菩提」が大切ではないでしょうか。世のため人のためにも、自分の時間をしっかりと持ちましょう。自分が幸福でないのに、人に幸せを伝えることは出来ないと思います。” 欲 ” を活用するのです。その目的を仏教が教えてくれるのです。涅槃の日に煩悩について考えてみました。合掌

猫がいる西願寺の涅槃図

猫がいる西願寺の涅槃図

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バカボンのパパなのだ~

本日は「立春」。暦の上では春となりました。私事ですが、先日41歳の誕生日を迎えました。去年、30代から40代に入った頃は 感慨深いものがありましたが、今年はすんなり…といった感じです(笑)。昭和生まれの私には、” 41歳 ” と聞くと 赤塚不二夫氏のテレビアニメ『元祖天才バカボン』のエンディングテーマ曲を思い出します。「♪41歳の春だから~」・・・バカボンのパパと同じ年齢になったんですね・・・やはり感慨深いです・・・(汗)。

このアニメは 仏教思想が背景として描かれてるのはご存じでしょうか。まず「バカボン」とは「薄伽梵(バガボン)」= ” 覚れる者 ” という意味で、お釈迦さまを指します。また バカボンのパパは、出産と同時に歩行して「天上天下唯我独尊」と叫んだといいますが、これも お釈迦さまご誕生の伝説と同じです。そして、有名なバカボンのパパの言葉「これでいいのだ」は “ あるがまま ” を表し 、ありのままを受け入れる という悟りの境地なのです。さらに「レレレのおじさん」についても、実際にお釈迦様の弟子である「周利槃徳(シュリハンドク)」がモデルになっていて、徹底した掃除により 心の垢を落とした阿羅漢を示します。まだまだあります。「タリラ~リララ~ン」は、チベットのターラ菩薩の真言でもあると言われていたり、バカボンの弟である天才「はじめちゃん」は東京大学名誉教授でインド哲学・仏教学者であられた中村元(はじめ)氏から名づけられたとか。そう思うと、なんとも深い仏教的なマンガなのです。

平成20年8月2日にお亡くなりになった 赤塚不二夫氏の葬儀で、タモリ氏が 白紙の弔辞の中で、故人を次のように称えています。
「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち ” これでいいのだ ” と」。

昨年は ” 不惑の年 ” となったはずでしたが、色々な出来事に翻弄された一年でした。今年は、ありののままを「これでいいのだ!」と言えるよう、バカボンのパパに少しでも近づければと存じます。合掌

41歳・・・貫禄ありすぎです。。。

バカボンのパパ        41歳・・・貫禄ありすぎです

レレレのおじさん 「おでかけですか~」っていう声かけ運動も見直されています。

レレレのおじさん           「おでかけですか~」という声かけ    運動が、現在 見直されています

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やりたいことをやる

本日、灘(なだ)中学校へ講演に行ってきました。灘校といえば進学エリート校で有名です。どんな子達が集まっているのか興味がありましたが、色々お聞きをすると、創立にあたって 講道館柔道の創始者・嘉納 治五郎 氏が顧問として参画しましたので、柔道の精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」が校是となっているようです。ですから、柔道が全員 必須になっており、講演も柔道場で行いました。まさに文武両道の学校です。

また、生徒をできるだけ紳士として扱おうとしている為、明文化された校則がなく、風紀について大部分を生徒の良識に委ねるなど、自由な校風が特徴のようです。もちろん制服もありません。まさに” やりたいことをやる ” 。自主性を重んじた雰囲気の学校でした。

森山 透 氏のお言葉です。
「歩けるうちに、行きたいところへ行け」山へ、川へ、森へ、浜辺へ、外国へ…「目が見えるうちに、見たいものを見よ、美しいものを見よ」青い空や海を、緑の山々を、木々の青葉や紅葉を、子供たちのはね回る様を、色と形と大きさの違う花々を…「耳が聞こえるうちに、聞きたいものを聞け」鳥のさえずりを、岸辺に打ち寄せる潮騒を、木の葉を縫ってそよぐ風の音を、あどけない幼子たちの上げる喚声を。「やれるうちに、やりたいことをやれ」ピアノが弾きたい人はピアノの前に座って鍵盤を叩き、写真を撮って回りたい人はカメラのシャッターを押して回り、泳ぎたい人はプールに入って、民謡が好きな人は腹の底から声を張り上げ、絵が描きたかった人は絵の具をつけてキャンバスに置く…なぜそんなに急ぐのかと訊かれそうですが、せかそうというわけではなく、行うに躊躇する必要はないという意味です。何故なら「やりたくてもできない」ときがきます。それもそのときになって振り返ってみると、今との間にそれほどの長い時間が流れたとは思えないほど近い将来かもしれません。過去を振り返れば、10年、20年、いや30年という歳月が、どれほど短いものだったかは、私たちがよく知るところです。(『自分の「好きなこと」「やりたかったこと」をやろう』 サンガ)

まさに その通りだと思います。住職も 正月から過密スケジュールになってしまい、やりたいことも ママなりません。やりたいことをやれるのは 若者の特権です。歳月の流れがいかに速いものか・・・聴講してくれた182名の子達は、阪神大震災を知らない世代です。21年前、当校も震災に遇い、保健室が臨時の診療所として使用され、体育館は緊急の遺体安置所として開放されていたことを記憶しています。先人の尊い行いは風化させてはいけません。人生の先輩は、謙虚に 歴史や経験を伝え、若者は、素直に その精神を継承しつつ、様々なことにチャレンジすることで 世の中が活性するものと存じます。その核となる精神が 現代人に足りないのだと思います。灘校の生徒諸君には、「精力善用」「自他共栄」の精神で、将来の日本国を牽引して頂きたいものです。合掌

「精力善用」・・・「心身の持つすべての力を最大限に生かして、社会のために善い方向に用いる」という精神。
「自他共栄」・・・「相手に対し敬い、感謝することで、信頼し合い、助け合う心を育み、自分だけでなく他人と共に栄えある世の中にしようとする」という精神。

※浄土宗新聞2月号に琵琶説教が掲載されました。トップ画面の「掲載記事」から ご覧ください。

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