ブレない信念

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。今年は申(さる)の年です。十二支の運勢でいえば、9番目の干支になりますので、9月をあらわします。つまり、草木が成長から成熟の段階へと移行していく運勢とされ、形となって 今までの成果が得やすい年となります。注意すべきことは、「申」という字は ” 稲妻 ” を表した象形文字だということです。稲妻は空をふたつに割ることから、吉凶が分かれ 流動的になりやすい年となります。しっかりとした見極めや舵取りが求められますので、目先の利益に捉われない ” ブレない信念 ” を忘れてはなりません。

アンドリュー・マシューズのお言葉です。
「今日種をまいたら、明日どんな見返りがあるの?」と質問する人がかならずいる。だが、明日得られる見返りは、「水を吸ってふくらんだ種」でしかない。今日まいた種が収穫となるのは、ずっと後なのだ。いま種を植えれば、実りが刈り取れるのは4ヶ月後になるだろう。自給自足の時代には、人々もこの考えをすぐに理解できた。しかしインスタントヌードルで食事をすませる時代では、それも難しい。フレッドは言う。「ちゃんとした職につけたらまじめに働くよ。皿洗いの仕事なんか、まじめにやってられるか」 それはちがうぞ! フレッド! まず努力ありきで、収穫はそのあとだ。この順序を入れ換えることはできない。(『自分らしく生きているかい?』主婦の友社)

世間には 種をまかずに収穫のことばかり考える人もいれば、種をまいても実にならないと考え、種をまかない人もいます。また、せっかくまいた種が実になるのを待てない人もいれば、種をまきすぎて 手に負えなくなる人もいます。どちらにせよ 申年(9月)は、草木が成長から成熟の段階へと移行していく年です。台風シーズンでもあり、人生設計が狂う場合もあるかもしれませんが、 ” ブレない信念 ” で中長期的な視野で精進したいものです。

私の今年の目標・・・それは檀信徒としっかり向き合うことです。西願寺を護持して下さる方々に還元していきたいと考えてます。具体的には 西願寺通信を発行したり、セミナー的なものを行ったり・・・保守的な地域ですので、戸惑われる方も多いと思いますが、楽しみながら 中長期的な寺作りをしていきたいと計画しています。近頃、イタズラに寺離れが叫ばれますが、まずは努力ありきで、収穫は後だと肝に銘じます。住職の ” ブレない新年 ” の誓いでした(笑)。今年もよろしくお願いします。合掌

日光東照宮の三猿「見ざる、言わざる、聞かざる」 これが”ぶれない信念”を作るひとつのコツだと存じます。

日光東照宮の三猿            「見ざる、言わざる、聞かざる」これが”ブレない信念”を作るひとつのコツだと存じます。

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淡々と

今年最後のブログとなりそうです。一年間お付き合いありがとうございました。文才がないので恥ずかしい限りですが、「読んでるよ~」という励ましは嬉しいものです。どんな忙しい時期でも、月2回、コンスタントに記せたことだけは、自分で自分を褒めてやりたいと思います。

よく 特別なことがある時に 必要以上に頑張って、終われば ” 燃え尽き症候群 ” みたいになる方がいらっしゃいます。そのような 後先考えず進めていかれる方も 組織には必要ですが、住職という存在は 常に一定の力を出せるようにならねばと思っています。例えば永代供養で、ある年は一霊に2時間ほど回向をして、翌年は気乗りしないからやめる…なんてことがあれば嫌じゃないですか?(笑)。布施の額、参詣者人数、相性…そんなもので 力の入れ具合を変える昭憲を見たいでしょうか?(笑えません)。
「” 働く ” とは ” 傍(ハタ)の人を楽(ラク)させる ” ことである 」と修行時代に教えていただきました。その時の調子に合わせた熱量を 人に押しつけるのではなく、緩急や好不の波があっても、常に一定の力を出せるのが尊いことだと思います。ブログも 始めた時だけ頑張って、飽きたら何年も放置・・・よくあるパターンですが、そのようなところで信用が計れるのだと思います。

本日は クリスマスに因み、シスターの鈴木秀子さんのお言葉を拝借しましょう。 
「愛というのは、多くの場合、小さなことの積み重なりです。その人の気持ちを大事にしながら、気持ちを受け入れ、気持ちに添っていくこと。そうしながら、いちばんいい解決を目指して、解決につながる行動をとっていくというのが、ほんとうの愛の行為ではないでしょうか。愛というと「大好き」というような感情を伴うものと思うかも知れませんが、聖書には、「愛は感情とは関係なく、小さな行為で示されるものである」とあります。感情が生まれることが多いけれど、そうでない場合もたくさんあって、淡々と平凡なことをしていく中で、愛が通じ合うことがあるのです」(『「愛」は伝わっていますか』講談社)

日本に ” 愛 ” という概念が輸入された当時、 ” 親切 ” という言葉に訳されたそうです。好き嫌いや優劣という対立した感情の中にあるのが愛ではなく、淡々と平凡なことの中にある愛が誠であり、そっと寄り添うこと、話を聴くこと、想いを伝えること、信じること、微笑むこと・・・このような親切を大切にしたい思います。来年も淡々とブログが続けられればと存じます。では、よいお年を。合掌

住職は「倍返りお守り」に”初心にかえる”功徳を祈っています。

住職は「倍返りお守り」に”初心にカエル” 功徳を祈っています

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「ワル」のススメ

昨日、毎日新聞の朝刊に私を取り上げて下さいました。新聞には幾度となく載せていただいてますが、個人を対象とした取材は いつまでたっても身が引きしまる思いがします。取材時に言われました。「住職の人生は 面白みに欠けますね。反抗期のエピソードや失敗談はありませんか?」。記者はユーモアのあるお方で、魅力を引き出したかったのだと思います。おじいちゃんおばあちゃんっ子だった私は、素直に育ちすぎて 記事にしづらいのかもしれません(笑)。

前回のブログ以降、人脈や組織に頼らず自己実現するには どうすればよいのか?という質問をよく受けます。人それぞれビジョンが違いますので 何ともお答えしづらいですが、何も世間に反抗する必要はないと思います。大きな失敗談も聞く分には楽しいですが、ないに越したことはありません。要は 限られたエネルギーの使い方が大切です。日々、どんな環境においても素直に学ぶ精神を持ち、「反省→感謝→報恩」を繰り返して 徳を積むのです。そして神仏や先祖を大切にすることで必ず導きがあります。これは ” 絶対の法則 ” です。さらにコツをあげるなら、人とは違うベクトル(方向性)をもって ピンポイントで精進すれば 結果が付きやすいと思います・・・つまんないですね~(笑)。そこで、心の師である松浪健四郎氏のお言葉を紹介しましょう。

「そこそこの大学、そこそこの会社にはいれたと満足していて、何がおもしろいのか。女にモテないとなにをウジウジ悩んでいるのか。やりたいことをやらない人生なんて、結局は会社や金、女の奴隷になって、一生を終わらせるだけじゃないか。男なら、もっと自分を輝かせる「ワル」になれ。「ワル」は、逆に会社も金も女も”手玉”にして、やりたいことをやる。かくいうオレが「ワル」の見本だ。オレは三流大学を出た”落ちこぼれ”だが、いまでは”ちょんまげヘア”の大学教授として、ちょっとした”有名人”にもなった。べつにへつらい努力をしたわけではない。他人とは違うオレのやりたいことに夢中になっただけだ。好きでやっているから楽しいし、ライバルが少ないからすぐにトップだ。どんなマイナーな分野でもトップになれば”東大エリート”なみの扱いを受けるから、女や金は向こうからやってきた。頭のよし悪しなんか関係ない。”みんなと同じ”ではなく、ちょっと違ったことをすれば、ビッグになる道はいくらでもある。それが「ワル」の生き方なんだ」(『もっと「ワル」になれ』 ゴマブックス)

記者は、こういう言葉を待っておられたのかも知れません(笑)。若かりし頃の私は、この「ワルの生き方」に 大きな影響を受けました。世間の価値観に流されず、群れずに我が道を進む。それも 人がしないことがよい・・・松浪氏の言葉は過激で 人を魅了しますが、でも結局、面白みがないと言われる 私の生き方に通じます。(女性にモテるモテないは別として・・・w)。何が成功か自己実現かは人それぞれですが、「ワル」の生き方はオススメです!。衣を着て こんな法話はしませんが・・・(笑)合掌   

松浪健四郎氏

ちょんまげヘアでおなじみの松浪健四郎氏


 

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自分らしく

「人生の分岐点」という言葉があります。人生を振り返えると、ああすればよかった、こうすればよかったと後悔することが多々あります。しかし、自分は自分でしかない訳で、いくら背伸びをしても、結局 ” 今の自分 ” にしかなれないんだとつくづく思います。私は昔から群れて行動することが苦手でした。秩序を乱す言動こそしませんが、学生時代や修行時代を振り返ると、なぜか組織に入ると個性が死に、全く面白みのない人間になってしまうのです。団体の中に居場所を見つけるのが苦手なタイプかもしれません。ですから 出家後は、他の僧侶と共に行動することはなく、独りコツコツと行動し、不器用な私が 世の中に いかに貢献できるかということだけを考えてきました。

このたび、地元の僧侶青年会から役員の依頼がありました。もちろん人望や能力ではなく年齢から回ってくるものです。本来ならばお受けをしてしかるべきですが、拠点の大半を県外に置き、奉職寺院、自坊、説教とガチッとした三角形を組んでしまい、それぞれ待っておられる方があります。その上、先代の体調不良が加わり、組内寺院や檀信徒との交流も増え、スケジュールが目一杯となり、継続をした責務はお断りをするしかありません。これは同世代の方々のペースに合わせず、ガラパゴス化したツケかもしれません。大げさな物言いかもしれませんが、今回のご依頼を断ると、今後、同世代の僧侶と疎遠になる可能性があり、またお受けすると自動的に役職が上がって行き、組織での関係が深まる分、待っておられる方にお断りせねばならないことは目に見えています。青年会は 私如きがいなくても成り立ちますが、これらの方々は私の代わりはありません・・・おそらく読者は、そんな難しく考えなくてもいいのに・・・と苦笑いされてることと存じます(笑)。しかし、このように 世間が一笑に付すソフトな悩みを聞いて(わかってあげたい)と思うのが私の個性であり、需要があるということは、これはこれで生かされている証だと思っています。

心理カウンセラー・スピリチュアルセラピストの野坂 礼子さんのお言葉です。
「自分を変えるということは、今の自分をゴミ箱に捨て、新しい自分をゲットすることではありません。スミレはスミレだからこそ、可憐ですてきなのです。タンポポは黄色の花で綿毛のような種が見事です。タンポポが「雑草は嫌、花屋で高く売れるバラがいい」といって、真っ赤なお化粧を始めたら、美しいでしょうか。スミレが、高い値段のランの花を真似して突っ張って生きたらどうでしょうか。花たちは比べないし、うらやまない、淡々とユリはユリ、サクラはサクラのまま生きています。天命を生きているからです。今のままの自分です。根っこ、つまり生き方を変えるということです。すると見事なバラやスミレ、サクラが咲き、種が実るのです。そのことが、あなたがあなたらしく幸せになる道です。どんな花もすてきです。あなたは、スミレ、ナズナ、カサブランカですか?その自分の個性を「ありがとう」で生かし天命を生きましょう」(『世界一簡単に幸せになれる「ありがとう」の魔法 』マキノ出版)

お立場によって賛否があると存じますが、おそらく同じ気持ち(自らの居場所)で悩んでらっしゃる方もあろうかと思い記しました。人間は 違う何かになろうとするよりも、今の自分をより自分らしく成長していくことが、天命を全うすることになるのだと思います。何年か後に このブログを読み返して、後悔するか、これでよったと胸を張れるかわかりませんが、自分に今できることをしていきたいと思います。もちろん 青年会をお守りされている方々があっての仏教界です。心より敬意を表します。陰ながらの支援は惜しみません。私は私で丁度良い。あなたはあなたで素晴らしいのです。合掌

仏花に一輪挿しはありません。様々は種類、色、大きさの花が一つになって”和”を表します。それぞれの個性を尊重し、仲良く生きることを象徴します。

仏花に一輪挿しはありません。 様々な種類、色、大きさの花が一つになって ”和”を表します。それぞれの個性を尊重し、仲良く生きることを象徴します。

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夕霧祭

観光の季節となりました。京都にある奉職寺院では、本日「夕霧祭」で賑わいました。この行事は 昭和35年、井筒八ッ橋本舗6代 津田佐兵衛 氏が 夕霧太夫(ゆうぎり たゆう)を偲び、生地であり、墓所に近い当山で 第一回の法要を営み、以来 今日まで続いている供養法要です。江戸時代に活躍した夕霧は、京都・島原の扇屋の太夫となり、のちに扇屋が大坂・新町に移転したため、大坂随一の艶名をうたわれました。しかし、延宝6年(1678)正月6日、わずか26才で花の生涯を閉じられます。姿が美しく、芸事に秀でた名姑でありましたので、「歌舞伎狂言」、「浄瑠璃」に劇化上演され、現在でも多くの人気を博している 伝説の太夫です。

今回で55回目の法要でしたが、毎年、島原から太夫が参列されます。京都市の無形文化遺産に指定された 花街の文化には、舞妓、芸妓、太夫がいらっしゃいます。おなじみの舞妓や芸妓は、唄や踊り、三味線などの芸で宴席に興を添えることを仕事とする女性の事をいいます。舞妓とは 芸妓になる前の未成年(15歳から20歳くらいまで)の少女。舞妓として約5年間修行した後、芸妓になります。一方、太夫は 京都の島原に籍を置く、芸妓の最高位に当たる方です。島原とは 元禄年間に最も栄えた江戸幕府公認の遊里で、かつては天皇に謁見できる官位が与えられていました。夕霧祭には、毎年 太夫が供養の舞を指され、私はいつも間近で拝見しています。役得です(笑)。

太夫道中が始まると 多くの見物人で賑わいます。

太夫道中が始まると 多くの見物人   で賑わいます。  写真は如月太夫

こういう文化に触れますと、 時間がゆったり流れていることを感じます。ある意味、昔の方はその場を楽しみ、贅沢な時間を送ってらっしゃったんだなぁ…と思います。しかし現代はどうでしょうか。観光に来られても、皆さんは口々に「急いでる!」「時間がない!」「早くして!」と効率ばかり求められます。紅葉の美しさもカメラのレンズを通してしか見ず、5分法話をしていても、心ここにあらず・・・もったいないことです。

アンドリュー マシューズ氏のお言葉です。
「どんな小さなことにも、必要なだけの時間をかける。急ぎ足の人生は願いさげだ。私たちが「充分な時間がない」と思いこんでいる限り、時間が足りるなんてことはない。だからエレベーターに駆け込み、電車に駆け込み、電話の合間にあわただしく昼食をすませる。何をするときでも、自分にこう言いきかせよう。「この手紙を書いているあいだは、(このシャツにアイロンをかけているあいだは、このダンベルをもちあげるあいだは)、いまやっていることに集中しよう。どうせかかる時間は大して変わらない。急ぐなんてごめんだ」(『自分らしく生きているかい?』 主婦の友社)

目の前ことに集中するために、必要な時間をかけるのです。すると 時間をかけた分だけ満足感に繋がりますし、自信をもてるようになると思います。慌ただしく行ったことは流れていき、時間をかけたことは 自分のものとなっていくことと存じます。” 観光 ” は、” 光を観る ” ことです。つまり、その土地の空気や御利益、人の温かさという ” 光 ” に触れることから来ています。ゆったりとした気持ちで、お詣りいただければ幸いです。合掌

平成9年11月9日に勤めた夕霧祭。導師のお付きが若かりし頃の住職です。この法要は初代と2代の夕霧太夫の供養の様子ですが、上方に2つの青い光が見えますか?供養が届いているように見えます。

平成9年11月9日の夕霧祭            導師のお付きが 若かりし頃の住職です。この法要は   初代と二代目の夕霧太夫を供養している様子ですが、  上方に2つの青い光が見えますでしょうか?お二方に 祈りが届いているようにも見えます。参列は若雲太夫

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晋山式

昨日、近江八幡市のご寺院の「晋山式」(しんざんしき)に招かれました。晋山式とは、” 山(寺)に晋(すすむ) ” と書くように、新住職が就任する際に行なわれる儀式のことです。私は6年前、西願寺に晋山させて頂きました。儀式の流れは、親鳥(おやどり)宅から檀信徒と共に「お練り」をし、門前での「開門式」。そして 本堂で御本尊と対面し、前住職から袈裟と過去帳を授かる「堂内式」。最後は 座敷で長老から 住職心得のご指導を受ける「書院式」と続きます。当時、檀信徒や有縁の皆様にお世話になった事、今も尚 しみじみとこみ上げてきます。生涯尽くしても 返しきれないご恩です。

このように記しますと、晴れやかな お祝いのように見えますが、先輩僧侶から 本来、厳しい儀式なのだと教えられたことを記憶しています。お寺は 今と違って世襲制ではありませんでした。本来、お練りは 初めて見る新住職に対し、どんな坊主なのか?!という村人への公開見物(さらし者)であり、本堂内の儀式は 随喜寺院から、実力をチェックされる場だと言われるのです。実際、私も ある住職より、目がキョロキョロせずによかったと 目線にまでチェックして下さったことには驚きました。やはり厳しい世界だと感じました。最近は 晋山式をされない寺院が増えていると聞きますが、今思うと このような儀式を勤めるのは とても大事だと思います。節目を作ることによって 檀家も住職も決意が変わるものと存じます。

「晋山式」 袈裟授与

「晋山式」 袈裟授与

宗教家・大川隆法氏のお言葉です。
「竹という植物を思い浮かべていただきたいと思うのです。竹の姿を見ていると「立派なものだな」と感じることがあります。みなさんは、節があって先になるほど細くなっていくという竹のスタイルを、単なるデザインとして何げなく思い浮かべるでしょうが、「あの節をつくっていく努力とは何だろうか」と私は考えるのです。竹の節は20センチか30センチぐらいの間隔です。しかし、どの竹も、その節の部分はカッチリとしています。根元からカッチリ、カッチリと伸びてきて、先のほうにいくほど、やわになり細くなって、風に揺れていますが、やわで風に揺れている部分も、時間が経つと、次第しだいに同じような節になっていくのです。そして、さらに大きな節になっていき、その上にもっと細く、先端が伸びていきます。あの竹という植物を見ていると、確実に確実に、節を固めて生長していくのがわかるのです。「ああ、大したものだな」と思います。10メートルになろうが、20メートルになろうが、竹が竹である理由、竹としての独自性を持っている理由は、あの節にあると私は思います。竹という植物は風に強く、いくら風が吹こうとも、そう簡単には折れないのです。やわであるけれども、単にやわなだけではないところは、いつも完全に勝ちつづけていることにあると思うのです。どれほど風が吹こうが、何があろうが、伸びつづけています。そして、自分が生長したという証拠を確実に刻み、それを私たちに見せてくれています。「これが私の生長した部分ですよ」というものを、はっきり見せてくれているのです。竹はその節をつくっていくときに、いったいどのような気持ちなのだろうか、と想像することがあります。一つひとつ節を積み重ねていくたびに、やはり、「これだけ自分は生長したのだ」という気持ちがあるのではないか、そこに充実感があるのではないかと私は思います」(『常勝思考』 幸福の科学出版)

時代は、節目に重きを置かない傾向にあります。冠婚葬祭、節句、祝日・・・自由を謳歌しすぎて 区切りが付けられないのが現代人ではないでしょうか。竹も人間と同じで、グーッと 楽して伸びていきたいのに、節を作らなくてはいけません。この時期は苦しいはずです。苦しいけれども、実際はその節の部分が 伸びていくための 大きな土台になっているはずです。物事には逆境がつきものですが、5年、10年、あるいは それ以上たった時に、その時が いちばん懐かしい時期として思い出されてくるのではないでしょうか。私は 苦しい時「いま節をつくっているのだ」という気持ちを持って、次への生長の道を歩んでいると 自らに言い聞かせています。竹のように節を作り続け、歳を重ねるごとに 強く、美しく、しなやかな人生を送りたいものです。今回、晋山式の随喜に当たり、6年前の節を思い出し、気持ちを新たにさせていただきました。合掌

嵯峨野の竹林ライトアップ

嵯峨野の竹林ライトアップ

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衣替え

10月は衣替えの季節です。僧侶の世界は ” 和服 ” が中心です。僧服は種類も限られてますので 暑さ寒さに関係なく、浄土宗では 一斉に6月1日から夏衣、10月1日から冬衣への衣替えと定められています。

昔の日本人の着衣は 晴着、普段着、仕事着の三つを用意していたと言います。このうち晴着と普段着が、上下が一つにつながったものを帯で結ぶという、いわゆる着物(和服)に相当するものですが、これらは作業をする時のものではありませんから、機能性はあまり重要ではありませんでした。一方、仕事着のほうは、機能性を重視して上下を分離し、上半身には腰までの丈の短い服、そして下半身にはズボン状の服(作務衣、もんぺ、袴)という組み合わせをしていました。

なぜ昔は 洋服のようなものが発明されなかったのでしょうか。その一つに素材の問題があります。Tシャツや短パン等の 身体に密着した衣類を作るには、容易に屈曲、伸縮する柔軟な素材が必要ですが、日本でこれが可能になったのは、江戸時代に入って木綿が大量に生産されるようになってからのことです。それまで絹は 庶民には手が届きませんでしたから、衣服の素材といえば 麻が主体の植物繊維が利用されていました。これらの素材は 肌に密着するには硬すぎますから、Tシャツや短パンのような衣類を作ることは困難でした。その代わり 仕事着が発明され、身体にまとわりつくようなこともなく、仕事着として適切であったと考えられます。

時代の流れと共に、服装も変化するんですね。” 温故知新 ” の精神で、古きものの良さが伝えていければと存じます。和服も堅苦しいものばかりでなく、和洋折衷に対応できる ” 粋 ” なものへと進化しています。人時所に合わせて着こなすと楽しいですよ。合掌

僧侶の晴着は やはり 法衣(ほうい)です。

僧侶の晴着は やはり 法衣(ほうえ)です。     袈裟衣は着脱ごとにお経を唱えて大事に扱います。

デニム着物。普段着に最適です!

おすすめのデニム着物。普段着に最適です!外出時は 型にはまらず、ハットやブーツ、インナーにパーカー なんかも面白いですよ。帯もストールで十分です。力を抜いて、家にあるもので合わせると気楽に楽しめます。

住職愛用、樹亜羅の作務衣。綿が心地よいです。

住職愛用、樹亜羅の作務衣。綿が心地よいです。   今や仕事着の域を超え、僧侶や板前さんだけのもの  ではなくなりました。よそ行き用でも大丈夫です。

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中秋の名月(十五夜)

今宵は ” 中秋の名月 ” でした。彼岸行事も無事に勤まり、自分へのご褒美に 月見をして来ました。中秋の名月は ” 十五夜 ” ともいいますが、意味はご存じでしょうか。これは 旧暦の8月15日のことを指します。暦が普及する前、日本人は 満月を生活の節目と捉え、この月の満ち欠けの周期が旧暦の元となりました。昔、この日は初穂祭でもあり、収穫したばかりの作物を供え、神仏に感謝をし、満月を愛で、団子や芋を供えたのです。明治の文明開化で新暦が採用され、季節感がなくなってしまいましたが、こういうことを知っておくことは 大事だと思います。

京都に長く居ますので、月見の穴場を知ってます。それは 五山送り火・舟山の山腹、西賀茂のひっそりとした地にある正伝寺です。この日は 夜景拝観をされてるにも関わらず、案内板もなく 山道は真っ暗です。地元の人や写真を撮られる方が来てらっしゃいました。毎年、いや 毎秒見える景色が違いますので、これぞ ” 一期一会 ” と思えるのが月見の醍醐味です。十五夜に 毎年(あたり前)はないのです。

正伝寺

正伝寺

美しい枯山水は 落ち着いた雰囲気が漂います。   借景は雄大にそびえる比叡山と満月。

美しい枯山水は 落ち着いた雰囲気が漂います。   借景は雄大にそびえる比叡山と満月。

明治大学文学部教授、諸富祥彦氏のお言葉です。
「私は、私たちに最も力を与えてくれる視点は、「“自分はいつ死ぬかわからない”という動かしようのない事実をたえず思い出しながら生きること」だと考えています。私たちは、自分がまだ何十年も生きると思えばこそ、つまらないことにこだわってしまうのです。地位や名誉、世間体などを気にして悩んでいられるのも、まだかなり生きると思っているからです。でも、もしも自分が、あと一年しか生きられない、1年後には確実に死ぬと、と想定したらどうでしょう。のんびりしてはいられないはずです。他人の目や世間体を気にするのはやめて、自分自身にとって本当に大切なことを優先して、生きていこうと思うのではないでしょうか」 (『「他人の目」を気にせずに生きる技術』大和出版)

月見をしていると 心が軽くなります。それもそのはず、月の語源は もともと「ツク」と発音したところから始まるといいます。着く、付く、突く、就く…たくさん意味がありますが、民俗学では本来「憑く」という意味があったとされます。つまり、月には全知全能の神仏が「憑いている」という考えが根底にあると伝えられるのです。現代でいう ” ツイてる♪ ” の元ですね。今宵の 中秋の名月から、ツキをいただきました(笑)。全知全能の神仏を味方に憑け、諸行無常や一期一会を偲ぶと、今 やるべき事がしっかり見え、明日への活力が湧いてくる・・・日本文化の素晴らしさを再認識した十五夜でした。合掌

月に向かって瞑想中、頭上に神仏が憑きました! 撮影:後ろの方

月に向かって瞑想中、頭上に神仏が  憑きました!(笑) 撮影:後ろの方

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”あの時”に感謝

9月に入りました。盆行事が終わり ホッとしています。今年は 先代が体調を壊し、私と弟子が 引き継ぎなしの状態で迎えましたが、無事 勤められたことは 大きな自信となりました。もちろん周りの協力は忘れてはなりません。

盆参りは 体力と時間の勝負です。多い日は一日40軒 詣ります。「家族がそろってるので ちょっと相談にのってくれ!」というお宅もありますが、正直 難しいです。気力や体力の面はもちろんですが、1軒 たった3分づつの時間オーバーでも、最終のお宅が2時間遅れになるのですから・・・。もちろん 誠意を持って聴くように努めますが、やはり時間には限りがあります。最終的にお伝えできることは「今、起きている現象は 必ず意味があります。嘆くばかりじゃ つまらないので、それを逆手にとって 悩みに感謝できるまで頑張ってみましょう! 思い出にしてしまえば 勝ちですから!」と投げかけます。仏教は 別の見方 を伝え、あとは自身で問答してもらうのです。

さとう やすゆき 氏のお言葉です。
「あなたにとって、もしも変えられるものなら変えたい過去とは、どんなものですか?「あのとき彼とケンカしていなかったら・・・」「あのとき仕事でミスをしなければ・・・」「病気にならなければ・・・」おそらく、すべてネガティブな気持ちから出発していると思います。そこで、こう言い直してみましょう。「あのとき、彼とケンカしてよかった」「あのとき仕事でミスしてよかった」「あのとき病気になってよかった」脈絡はいっさい捨てて、まずはすべての出来事に「これでよかった」と言ってみてください。そうしたら「なぜよかったか」を考えてみましょう。一見マイナスのように思える出来事でも、見方を変えてみれば自分を成長させてくれるきっかけになっていることがわかるはず。過去の「事実」を変えることはできなくても、過去の「イメージ」を変えることはできます。そして過去が変われば、現在も未来も変わってくるのです」(『ココロ・言葉・行動 1日にひとつ、変えてみる』 三笠書房)

先代は元気になりましたが、本格的な法務復帰は まだまだ先になりそうです。色々な困難はありますが、視点を変えれば、私は住職として 他寺のご住職や檀信徒と触れ合う機会が増えた訳ですし、弟子や家族も心構えが変わります。先代も新たな修行の始まりだと存じます。さとう氏が仰るように、” 未来を嘆くのでなく、まず過去(あの人、あの時、あの場所)を許し、感謝する ” ・・・ 起きた出来事を真摯に受け止め、未来への一歩を踏み出す勇気が 幸福へと繋がるのだと思います。仏前に手を合わす行為は、まさしくこのことにつながります。合掌

昨日は信者会旅行で輪島の總持寺祖院に参拝しました。總持寺といえば横浜が有名ですが、明治31年の大火まではここが布教道場の中心地でした。その当時の方々の失望感は計り知れませんが、災いが転じて全国に禅が広まります。未来を嘆くことなく、先人が一歩づつ護寺された結果、この地が 一大聖地として護られてることに感動しました。

昨日は信者会旅行で輪島の總持寺祖院に参拝しました。總持寺といえば横浜が有名ですが、明治31年の大火まではここが布教道場の中心地でした。その当時の方々の失望感は計り知れませんが、災いが転じて全国に禅が広まります。未来を嘆くことなく、先人が一歩づつ護寺された結果、この地が 一大聖地として護られてることに感動しました。

念願の輪島塗を購入! ”文化の伝承”は”心の伝承”  毎日のお茶が楽しみです♪

念願の輪島塗を購入! ”文化の伝承”は”心の伝承”  毎日のお茶が楽しみです♪

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敗戦70年

大東亜戦争の敗戦から70年が経ちました。寺院では12時に一斉に梵鐘を鳴らし、英霊、戦争犠牲者へ追悼の誠を捧げました。私の小さい頃は、戦争の体験をよく聞いたものですが、だんだん機会がなくなり寂しいものです。

世間では 安保法案や談話 等で、議論が交わされています。皆が幸せを望んでいるのに、国民がもめているのは悲しい事です。我々は過去を直視し、教訓にせねばなりません。そのために まずできること・・・それは英霊や戦没者への供養ではないでしょうか。過去の方々に畏敬の念を抱くことが大切です。今の日本の礎を築いて下さった先祖に手を合わすことなく、勝手な持論を述べている人は、全くもって信用できません。過去を顧み、「今」に感謝できる人は、未来が輝きます。もう 揚げ足取りや理想論は結構です。手を合わすこと。ここからすべてが始まることと存じます。南無阿弥陀佛

最後に昨日の「内閣総理大臣談話」を掲載します。

終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

 そして七十年前。日本は、敗戦しました。

 戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。

 先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。

 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。

 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。

 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。

 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。

 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

 ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。

 ですから、私たちは、心に留めなければなりません。

 戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。

 戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。

 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。

 寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。

 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。

 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。

 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。

 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。

 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。

平成二十七年八月十四日
内閣総理大臣  安倍 晋三

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