晋山式

昨日、近江八幡市のご寺院の「晋山式」(しんざんしき)に招かれました。晋山式とは、” 山(寺)に晋(すすむ) ” と書くように、新住職が就任する際に行なわれる儀式のことです。私は6年前、西願寺に晋山させて頂きました。儀式の流れは、親鳥(おやどり)宅から檀信徒と共に「お練り」をし、門前での「開門式」。そして 本堂で御本尊と対面し、前住職から袈裟と過去帳を授かる「堂内式」。最後は 座敷で長老から 住職心得のご指導を受ける「書院式」と続きます。当時、檀信徒や有縁の皆様にお世話になった事、今も尚 しみじみとこみ上げてきます。生涯尽くしても 返しきれないご恩です。

このように記しますと、晴れやかな お祝いのように見えますが、先輩僧侶から 本来、厳しい儀式なのだと教えられたことを記憶しています。お寺は 今と違って世襲制ではありませんでした。本来、お練りは 初めて見る新住職に対し、どんな坊主なのか?!という村人への公開見物(さらし者)であり、本堂内の儀式は 随喜寺院から、実力をチェックされる場だと言われるのです。実際、私も ある住職より、目がキョロキョロせずによかったと 目線にまでチェックして下さったことには驚きました。やはり厳しい世界だと感じました。最近は 晋山式をされない寺院が増えていると聞きますが、今思うと このような儀式を勤めるのは とても大事だと思います。節目を作ることによって 檀家も住職も決意が変わるものと存じます。

「晋山式」 袈裟授与

「晋山式」 袈裟授与

宗教家・大川隆法氏のお言葉です。
「竹という植物を思い浮かべていただきたいと思うのです。竹の姿を見ていると「立派なものだな」と感じることがあります。みなさんは、節があって先になるほど細くなっていくという竹のスタイルを、単なるデザインとして何げなく思い浮かべるでしょうが、「あの節をつくっていく努力とは何だろうか」と私は考えるのです。竹の節は20センチか30センチぐらいの間隔です。しかし、どの竹も、その節の部分はカッチリとしています。根元からカッチリ、カッチリと伸びてきて、先のほうにいくほど、やわになり細くなって、風に揺れていますが、やわで風に揺れている部分も、時間が経つと、次第しだいに同じような節になっていくのです。そして、さらに大きな節になっていき、その上にもっと細く、先端が伸びていきます。あの竹という植物を見ていると、確実に確実に、節を固めて生長していくのがわかるのです。「ああ、大したものだな」と思います。10メートルになろうが、20メートルになろうが、竹が竹である理由、竹としての独自性を持っている理由は、あの節にあると私は思います。竹という植物は風に強く、いくら風が吹こうとも、そう簡単には折れないのです。やわであるけれども、単にやわなだけではないところは、いつも完全に勝ちつづけていることにあると思うのです。どれほど風が吹こうが、何があろうが、伸びつづけています。そして、自分が生長したという証拠を確実に刻み、それを私たちに見せてくれています。「これが私の生長した部分ですよ」というものを、はっきり見せてくれているのです。竹はその節をつくっていくときに、いったいどのような気持ちなのだろうか、と想像することがあります。一つひとつ節を積み重ねていくたびに、やはり、「これだけ自分は生長したのだ」という気持ちがあるのではないか、そこに充実感があるのではないかと私は思います」(『常勝思考』 幸福の科学出版)

時代は、節目に重きを置かない傾向にあります。冠婚葬祭、節句、祝日・・・自由を謳歌しすぎて 区切りが付けられないのが現代人ではないでしょうか。竹も人間と同じで、グーッと 楽して伸びていきたいのに、節を作らなくてはいけません。この時期は苦しいはずです。苦しいけれども、実際はその節の部分が 伸びていくための 大きな土台になっているはずです。物事には逆境がつきものですが、5年、10年、あるいは それ以上たった時に、その時が いちばん懐かしい時期として思い出されてくるのではないでしょうか。私は 苦しい時「いま節をつくっているのだ」という気持ちを持って、次への生長の道を歩んでいると 自らに言い聞かせています。竹のように節を作り続け、歳を重ねるごとに 強く、美しく、しなやかな人生を送りたいものです。今回、晋山式の随喜に当たり、6年前の節を思い出し、気持ちを新たにさせていただきました。合掌

嵯峨野の竹林ライトアップ

嵯峨野の竹林ライトアップ

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衣替え

10月は衣替えの季節です。僧侶の世界は ” 和服 ” が中心です。僧服は種類も限られてますので 暑さ寒さに関係なく、浄土宗では 一斉に6月1日から夏衣、10月1日から冬衣への衣替えと定められています。

昔の日本人の着衣は 晴着、普段着、仕事着の三つを用意していたと言います。このうち晴着と普段着が、上下が一つにつながったものを帯で結ぶという、いわゆる着物(和服)に相当するものですが、これらは作業をする時のものではありませんから、機能性はあまり重要ではありませんでした。一方、仕事着のほうは、機能性を重視して上下を分離し、上半身には腰までの丈の短い服、そして下半身にはズボン状の服(作務衣、もんぺ、袴)という組み合わせをしていました。

なぜ昔は 洋服のようなものが発明されなかったのでしょうか。その一つに素材の問題があります。Tシャツや短パン等の 身体に密着した衣類を作るには、容易に屈曲、伸縮する柔軟な素材が必要ですが、日本でこれが可能になったのは、江戸時代に入って木綿が大量に生産されるようになってからのことです。それまで絹は 庶民には手が届きませんでしたから、衣服の素材といえば 麻が主体の植物繊維が利用されていました。これらの素材は 肌に密着するには硬すぎますから、Tシャツや短パンのような衣類を作ることは困難でした。その代わり 仕事着が発明され、身体にまとわりつくようなこともなく、仕事着として適切であったと考えられます。

時代の流れと共に、服装も変化するんですね。” 温故知新 ” の精神で、古きものの良さが伝えていければと存じます。和服も堅苦しいものばかりでなく、和洋折衷に対応できる ” 粋 ” なものへと進化しています。人時所に合わせて着こなすと楽しいですよ。合掌

僧侶の晴着は やはり 法衣(ほうい)です。

僧侶の晴着は やはり 法衣(ほうえ)です。     袈裟衣は着脱ごとにお経を唱えて大事に扱います。

デニム着物。普段着に最適です!

おすすめのデニム着物。普段着に最適です!外出時は 型にはまらず、ハットやブーツ、インナーにパーカー なんかも面白いですよ。帯もストールで十分です。力を抜いて、家にあるもので合わせると気楽に楽しめます。

住職愛用、樹亜羅の作務衣。綿が心地よいです。

住職愛用、樹亜羅の作務衣。綿が心地よいです。   今や仕事着の域を超え、僧侶や板前さんだけのもの  ではなくなりました。よそ行き用でも大丈夫です。

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中秋の名月(十五夜)

今宵は ” 中秋の名月 ” でした。彼岸行事も無事に勤まり、自分へのご褒美に 月見をして来ました。中秋の名月は ” 十五夜 ” ともいいますが、意味はご存じでしょうか。これは 旧暦の8月15日のことを指します。暦が普及する前、日本人は 満月を生活の節目と捉え、この月の満ち欠けの周期が旧暦の元となりました。昔、この日は初穂祭でもあり、収穫したばかりの作物を供え、神仏に感謝をし、満月を愛で、団子や芋を供えたのです。明治の文明開化で新暦が採用され、季節感がなくなってしまいましたが、こういうことを知っておくことは 大事だと思います。

京都に長く居ますので、月見の穴場を知ってます。それは 五山送り火・舟山の山腹、西賀茂のひっそりとした地にある正伝寺です。この日は 夜景拝観をされてるにも関わらず、案内板もなく 山道は真っ暗です。地元の人や写真を撮られる方が来てらっしゃいました。毎年、いや 毎秒見える景色が違いますので、これぞ ” 一期一会 ” と思えるのが月見の醍醐味です。十五夜に 毎年(あたり前)はないのです。

正伝寺

正伝寺

美しい枯山水は 落ち着いた雰囲気が漂います。   借景は雄大にそびえる比叡山と満月。

美しい枯山水は 落ち着いた雰囲気が漂います。   借景は雄大にそびえる比叡山と満月。

明治大学文学部教授、諸富祥彦氏のお言葉です。
「私は、私たちに最も力を与えてくれる視点は、「“自分はいつ死ぬかわからない”という動かしようのない事実をたえず思い出しながら生きること」だと考えています。私たちは、自分がまだ何十年も生きると思えばこそ、つまらないことにこだわってしまうのです。地位や名誉、世間体などを気にして悩んでいられるのも、まだかなり生きると思っているからです。でも、もしも自分が、あと一年しか生きられない、1年後には確実に死ぬと、と想定したらどうでしょう。のんびりしてはいられないはずです。他人の目や世間体を気にするのはやめて、自分自身にとって本当に大切なことを優先して、生きていこうと思うのではないでしょうか」 (『「他人の目」を気にせずに生きる技術』大和出版)

月見をしていると 心が軽くなります。それもそのはず、月の語源は もともと「ツク」と発音したところから始まるといいます。着く、付く、突く、就く…たくさん意味がありますが、民俗学では本来「憑く」という意味があったとされます。つまり、月には全知全能の神仏が「憑いている」という考えが根底にあると伝えられるのです。現代でいう ” ツイてる♪ ” の元ですね。今宵の 中秋の名月から、ツキをいただきました(笑)。全知全能の神仏を味方に憑け、諸行無常や一期一会を偲ぶと、今 やるべき事がしっかり見え、明日への活力が湧いてくる・・・日本文化の素晴らしさを再認識した十五夜でした。合掌

月に向かって瞑想中、頭上に神仏が憑きました! 撮影:後ろの方

月に向かって瞑想中、頭上に神仏が  憑きました!(笑) 撮影:後ろの方

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”あの時”に感謝

9月に入りました。盆行事が終わり ホッとしています。今年は 先代が体調を壊し、私と弟子が 引き継ぎなしの状態で迎えましたが、無事 勤められたことは 大きな自信となりました。もちろん周りの協力は忘れてはなりません。

盆参りは 体力と時間の勝負です。多い日は一日40軒 詣ります。「家族がそろってるので ちょっと相談にのってくれ!」というお宅もありますが、正直 難しいです。気力や体力の面はもちろんですが、1軒 たった3分づつの時間オーバーでも、最終のお宅が2時間遅れになるのですから・・・。もちろん 誠意を持って聴くように努めますが、やはり時間には限りがあります。最終的にお伝えできることは「今、起きている現象は 必ず意味があります。嘆くばかりじゃ つまらないので、それを逆手にとって 悩みに感謝できるまで頑張ってみましょう! 思い出にしてしまえば 勝ちですから!」と投げかけます。仏教は 別の見方 を伝え、あとは自身で問答してもらうのです。

さとう やすゆき 氏のお言葉です。
「あなたにとって、もしも変えられるものなら変えたい過去とは、どんなものですか?「あのとき彼とケンカしていなかったら・・・」「あのとき仕事でミスをしなければ・・・」「病気にならなければ・・・」おそらく、すべてネガティブな気持ちから出発していると思います。そこで、こう言い直してみましょう。「あのとき、彼とケンカしてよかった」「あのとき仕事でミスしてよかった」「あのとき病気になってよかった」脈絡はいっさい捨てて、まずはすべての出来事に「これでよかった」と言ってみてください。そうしたら「なぜよかったか」を考えてみましょう。一見マイナスのように思える出来事でも、見方を変えてみれば自分を成長させてくれるきっかけになっていることがわかるはず。過去の「事実」を変えることはできなくても、過去の「イメージ」を変えることはできます。そして過去が変われば、現在も未来も変わってくるのです」(『ココロ・言葉・行動 1日にひとつ、変えてみる』 三笠書房)

先代は元気になりましたが、本格的な法務復帰は まだまだ先になりそうです。色々な困難はありますが、視点を変えれば、私は住職として 他寺のご住職や檀信徒と触れ合う機会が増えた訳ですし、弟子や家族も心構えが変わります。先代も新たな修行の始まりだと存じます。さとう氏が仰るように、” 未来を嘆くのでなく、まず過去(あの人、あの時、あの場所)を許し、感謝する ” ・・・ 起きた出来事を真摯に受け止め、未来への一歩を踏み出す勇気が 幸福へと繋がるのだと思います。仏前に手を合わす行為は、まさしくこのことにつながります。合掌

昨日は信者会旅行で輪島の總持寺祖院に参拝しました。總持寺といえば横浜が有名ですが、明治31年の大火まではここが布教道場の中心地でした。その当時の方々の失望感は計り知れませんが、災いが転じて全国に禅が広まります。未来を嘆くことなく、先人が一歩づつ護寺された結果、この地が 一大聖地として護られてることに感動しました。

昨日は信者会旅行で輪島の總持寺祖院に参拝しました。總持寺といえば横浜が有名ですが、明治31年の大火まではここが布教道場の中心地でした。その当時の方々の失望感は計り知れませんが、災いが転じて全国に禅が広まります。未来を嘆くことなく、先人が一歩づつ護寺された結果、この地が 一大聖地として護られてることに感動しました。

念願の輪島塗を購入! ”文化の伝承”は”心の伝承”  毎日のお茶が楽しみです♪

念願の輪島塗を購入! ”文化の伝承”は”心の伝承”  毎日のお茶が楽しみです♪

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敗戦70年

大東亜戦争の敗戦から70年が経ちました。寺院では12時に一斉に梵鐘を鳴らし、英霊、戦争犠牲者へ追悼の誠を捧げました。私の小さい頃は、戦争の体験をよく聞いたものですが、だんだん機会がなくなり寂しいものです。

世間では 安保法案や談話 等で、議論が交わされています。皆が幸せを望んでいるのに、国民がもめているのは悲しい事です。我々は過去を直視し、教訓にせねばなりません。そのために まずできること・・・それは英霊や戦没者への供養ではないでしょうか。過去の方々に畏敬の念を抱くことが大切です。今の日本の礎を築いて下さった先祖に手を合わすことなく、勝手な持論を述べている人は、全くもって信用できません。過去を顧み、「今」に感謝できる人は、未来が輝きます。もう 揚げ足取りや理想論は結構です。手を合わすこと。ここからすべてが始まることと存じます。南無阿弥陀佛

最後に昨日の「内閣総理大臣談話」を掲載します。

終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

 そして七十年前。日本は、敗戦しました。

 戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。

 先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。

 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。

 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。

 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。

 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。

 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

 ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。

 ですから、私たちは、心に留めなければなりません。

 戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。

 戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。

 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。

 寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。

 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。

 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。

 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。

 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。

 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。

平成二十七年八月十四日
内閣総理大臣  安倍 晋三

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心の港

西願寺では この土日、お盆を迎える墓参りがありました。檀家各家が一心に掌を合わせ、先祖を偲ばれます。これが 人間の最も美しい姿ではないでしょうか。亡き人と生者の 魂の拠り所 がお寺です。このような ” 心の港 ” を 末永く護るのが檀信徒の勤めであり、それを鼓舞するのが僧侶の役割です。

とても暑い墓参りでした。

とても暑い墓参りでした。

子供たちに手書きメッセージ入りのお菓子を配っています。

子供たちに手書きメッセージ入りのお菓子を配ります。

臨床心理士の金盛 浦子さんのお言葉です。
「ちゃんと港を持っている心は、どこまででも旅をし、ときには戦い、傷つくこともありながら、帰る港があるからこそ頑張れるのです。他人の中でもまれても耐えることができるのです。でも心が港を持っていなかったとしたら・・・。心はさまようしかありません。癒される場所はありません」(『「自分を信じる」ただそれだけでいい』大和出版)

人それぞれ ” 心の港 ” は違うかもしれません。それは 家族の待つ家かもしれませんし、故郷、旅館、居酒屋、喫茶店・・・色々な思いがあると存じますが、しかし この世は ” 諸行無常 ” です。住居があっても 家族を見送り 独りぼっち・・・生まれ育った故郷も 世代が変わると居づらくなり・・・なじみの場所が店じまい・・・震災での仮設住まい・・・あの お釈迦さまであっても、生前中に戦争で 故郷が滅んでしまいました・・・残念ながら、癒やされる ” 心の港 ” は移り変わってゆくのです。

このブログのタイトル『平成方丈記』。これは鴨長明の『方丈記』から名付けましたが、先月7月26日は 長明800回忌のご命日でした。「方丈」とは、 ” 粗末な庵 ” という意味です。内容は、どんな豪華な家を建てようとも 地位や名誉、財産、健康・・・人が考える あらゆる贅を尽くしても、やがては 苦悩や虚しさだけが残ると訴え、最後に 心の安まる場所は ” 佛の世界 ” しかないと締めくくられます。結局、絶対に崩れぬ港は、佛の世界しかないのです。それを司る お寺は絶対に壊してはなりません。このような真実は、手遅れになってからしか気付かないものですが、西願寺では 僧俗一体となって、” 心の港 ” を護っていく所存です。 合掌

平成27年7月26日、鴨長明800回忌当日に『方丈記』を語りました。インターネット上では、誰も供養をされた形跡がなかったので、勤められて良かったです。

平成27年7月26日、鴨長明800回忌当日に『方丈記』を語りました。インターネット上では、誰も供養をされた形跡がなかったので、勤められて良かったです。譜面は、昨年亡くなられた管公香先生のご遺作。

供養により、鴨長明の”帰る港”を築きました。

供養により、鴨長明の ” 心の港 ” を築きました。

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プロレス観戦

世の中には、初対面の相手にしてはいけない話題があるといいます。「政治と宗教と野球」・・・しかし、宗教家からすれば 特に危険な話題とは思えません。逆に関心が高い分、相手の懐に入れるので 共感を得やすい話題です。しかし、世の中で ほとんど賛同が得られない話題があります。それは・・・プロレス好き・・・という信仰告白です。この話をすれば たいがいの人が眉をひそめ、「あれ八百長でしょ?」とか「流血が気持ち悪い」、「なんでロープに振られて返ってくるの?」・・・プロレスの話題に触れると、それまでの相手の笑顔が消え、冷たい目で見られる・・・あの瞬間はたまりません(汗)。はっきり言いますが、私はプロレスファンです。祖父の影響で もう30年くらいは見てるでしょうか。本日も観戦してきました。京都市武道センターはスゴイ熱気でした。

プロレス会場の熱気

プロレス会場の熱気

 
たぎる中村真輔 イヤァオ♪

たぎる中村真輔 イヤァオ♪

そもそも「日本のプロレス」は力道山が持ち込んだ輸入品でした。アメリカのプロレスはスポーツというよりも、どちらかといえばエンターテイメントという位置づけにあります。選手はプロレスラーではなくスーパースター、その試合を楽しむ人はファンでなく、ユニバースと呼ばれます。一方、日本のプロレスラーはあくまでスポーツ選手のカテゴリーに入ります。武道の国ニッポンでは、プロレスは観賞用スポーツとして発展を遂げてきました。そんな日本のプロレスに全世界が熱狂しているのはご存じでしょうか。

世界中のプロレスマニアが購入している『レスリング・オブザーバー』というニュースレターがあります。目の超えたマニアたちが愛読する世界で最も権威のあるプロレス業界紙ですが、その読者投票で、新日本プロレスの選手が上位を独占してるのです。2014年の投票でMVPのトップ5のうち3人が日本選手で、年間最高試合もすべて日本のプロレスが独占状態です。投票権を持つのは英語圏のファンがほとんどですので、いかに日本のプロレスが支持されているかわかります。このような時代に生で観戦できて、本当に幸せに思います。うんちくは この辺にしておきましょう・・・。

現代は 曖昧なものを排除しようという流れにあります。何でも白黒を付けたがり、正義という名目のもと 人を傷つける・・・もっと 大らかな視野で世の中を見れば、楽になるのになぁ・・・と思う今日この頃です。「昔はよかった」という言葉は、このような意味で使われるのだと思います。その感覚を養う訓練の一つがプロレス観戦にあると思います(笑)。そこには世の中のすべての感情やドラマが詰まっているからです。相手の攻撃を受けて受けて、さらに受けて立ち上がる、そして最後は 耐えきった者が勝つ!。仏教でいう ” 不動明王 ” のようなプロレスラーの姿に感動を覚える住職でした。合掌

“みんなのコケシ” 本間選手とのツーショット❗️

“みんなのコケシ” 本間選手とのツーショット❗️

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夏越の祓

一年の半分が過ぎました。12月の大晦日には一年の穢れを祓う行事が盛んですが、半年の穢れを祓う行事もあります。種々ありますが、有名なのは「夏越の祓(なごし の はらえ)」です。これは 神社にある「茅(ち)の輪」をくぐり、暑い夏を無事に越せるよう祈る儀式で、お盆を前に心身を清める意味もあるようです。聞くところによると、この時期は 人だけではなく牛や馬も海水に浸って身を清めるようです。生物にとって大事な節目なのかもしれません。皆、幸福を求めて生きているんですね。

くぐる時は脱帽しましょう

くぐる時は脱帽しましょう

安岡正篤 氏のお言葉です。「さいわい」にも幸と福と二字ある。学問的にいうと、「幸」というのは幸いの原因が自分の中にない、偶然的な、他より与えられたに過ぎない幸いを幸という。たまたまいい家庭に生まれたとか、思いがけなく上手い巡り合わせにぶつかったとかいう、これは幸。そうではなくて原因を自己の中に有する、すなわち、自分の苦心、自分の努力によって勝ち得たる幸いを「福」という。福の示偏は神さまのことだ。旁(つくり)は「収穫を積み重ねた」という文字だ。農家でいうならば俵を積み上げるという文字。神の前に蓄積されたるものが「福」である。

昔の日本人は、幸福というものをよくわかっていたのだと存じます。環境や身辺のさいわいは「幸」、心の充実やさいわいは「福」。この二つが合わさって「幸福」なんですね。現代人は「幸」ばかり求めているように思えてなりません。季節と共に生かされてることに感謝し、心身の幸せをバランスよく積むこそが ” 粋 ” だと感じる今日この頃です。

京都では「夏越の祓」に水無月(みなづき)を食します。かつて幕府や宮中では氷を口にして暑気払いををする行事がありましたが、庶民は氷を手に入れることはできないので、氷に見立てたお菓子を食べるようになりました。以来、氷片をを型取った三角形の「外郎(ういろう)」に、マメになるようにと小豆を散らした「水無月」を食べることが習慣になりました。小豆は悪魔払いの意味もあるようです。今年も信者様からの多くのお心遣い(水無月)を頂き、身と心とお腹が飽満(みちたり)ました!二夏は越せそうです(笑)。考えますと、現代は一般家庭にもエアコン等がありますが、昔は一夏を越えることに真剣になっておられたんでしょうね。当たり前のことに感謝したいものです。合掌

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六月病

毎年、5月のゴールデンウィークが終わったころ、よく話題に上るのが「五月病」です。しかし、最近 新社会人では5月よりも6月に症状を訴える人が増えていて「六月病」と呼ばれているようです。「五月病」と同じように「六月病」は医学用語ではありません。医学的には「適応障害」に分類されます。この症状は、急激な環境の変化についていけず、心や体が悲鳴をあげている状態です。入社時に限らず、配置転換や転職、退職、結婚、引越しなど環境が大きく変化する時期に起こりがちです。物事を幅広く見れれればいいのですが、「○○で なければならない!」という人に現れやすい症状だそうです。

諸説ありますが、「五月病」は ” 義務 ” (周りに迷惑をかけないか?)という意識、「六月病」は ” 権利 ” (この環境は 自分に合わないのでは?)という意識から起こると言います。「六月病」という言葉が出てきたと言うことは、現代人に ” 公 ” の精神がなくなり、” 私 ” に生きる傾向があるのかもしれません。しかし、若いうちから ” 私 ”というものに主観を置くと、周りの環境になじみにくくなります。なぜなら、世の中は「需要と供給」で成り立つからです。周りが望んでいること(需要)を、絶妙のタイミングや力加減で遂行(供給)できる人材が望まれるのです。学生時代ならともかく、社会は ” 私 ” に合わせてくれるほど優しいものではありません。よほどの天才なら別ですが・・・。

井上裕之氏のお言葉です。「大きな成功、目標、夢を得るためには、時間がかかることを常に意識します。すなわち、小さなことの積み重ねが、夢をかなえてくれることになるのです。しかし、多くの人は、結果を急ぎすぎ、投げ出してしまいます。仕事においても、人生においてもすべてですが、焦らず、ひとつずつ丁寧に積み重ねていくしかありません。成功や目標、夢を叶えるために、時間を楽しむことです。すぐに成果がでないからといって諦めてはいけません。叶えられた人は、運がよいわけでも、才能があるのでもなく、粘り勝ちをした人だと思っています。つまり、多くの人が勝手に辞めていくので、続けていけば勝てるのです。夢を叶えたいなら続けよう!!」(『コーチが教える!「すぐやる」技術』  フォレスト出版)

新しい環境に身を置くと、周りのアラがよく見えるものです。でも ” 私の正義 ” に需要がなければ、誰も見向きをしてくれません。主張だけして 責任が取れなければ、それは ただのワガママです。まず 世の中の矛盾を受け入れ、器を広げることが大切ではないでしょうか。物事を修めるには時間(忍耐)が必要です。才能ではなく、物事を続けていける人が最終的に勝つのだと思います。そういった意味で人間は平等です。男と女、本能と理性、権利と義務、過去と未来、需要と供給、公と私、主張と責任、平等と公平、忍耐と効率、正と負・・・あらゆる二極に分かれるものを包み込む精進こそが、真の修行(中道)だと存じます。合掌

感情が消化しきれなくなったら、海に向かって叫びましょう!・・・私は琵琶湖ですが・・・。

感情が消化しきれなくなったら、海に向かって叫びましょう!・・・私は琵琶湖ですが・・・。

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大坂の陣終結400年

本日6月4日は豊臣秀頼公のご命日です。先月、旧暦の5月8日に合わせ 奉職寺院では 「 秀頼公忌(秀頼公を偲ぶ法要)」 が行われました。境内に秀頼公の首塚が祀られることから 毎年勤められますが、今年は大坂の陣終結から400年の節目の法要でした。秀頼公は 天下人となった豊臣秀吉の子息と云われ、母は茶々(淀君)です。秀吉亡き後、豊臣家と徳川家の関係は微妙な状態が続き、大坂の陣が勃発。最終的に豊臣軍は敗北し、秀頼と淀君は自害したと伝えらます。秀頼公は 享年23歳でした。今回の秀頼公忌は 「淀君」という琵琶歌を奉納演奏させていただきました。

しかし 今回の供養はとても複雑で・・・私の立場は、豊臣秀次公がお建てになった西願寺の住職です。秀次公は 秀吉の姉、とも様の息子で、跡継ぎがいなかった秀吉の後継者として養子に入り、関白にまでなられたお方です。しかし、秀吉晩年に秀頼公がご誕生されたことから 秀次公は疎まれてしまい、三条河原で一族もろとも殺されてしまいました。ですから、秀頼公と秀次公は因縁深い関係となります。

さらに申せば、奉職寺院も西願寺も浄土宗に属しています。浄土宗は 豊臣家を滅ぼした徳川家康公が信奉された宗派です。先日6月1日が家康公の400回忌に当たり、総本山の知恩院では 盛大に法要が勤められました。こういったご縁から、浄土宗紋は徳川家の「葵の御紋」を使用しています。実は、秀頼公を祀る奉職寺院も徳川家による建立です・・・つまり、このたびの豊臣秀頼公400年忌の奉納演奏は、敵方の徳川家が建てた本堂で、因縁のある豊臣秀次公寺院の住職が供養する空間となったのです。まさに恩讐を超えた不思議な感覚でした。

    

しかし、これが佛教の真骨頂ではないでしょうか。諸説ありますが「佛」という字・・・弗(ふつ)を合わせた字ですが、 弗は ” 反対に曲がった二本に木に綱を掛け合わす意味 ” で、この網が慈悲をあらわします。いかなるものを包み込む、推し量る出来ない大きな慈悲を持った人・・・これを佛と言って崇拝するのです。この400年という時の流れで、恨み、憎しみというものを越えて、大坂の陣に縁のあったすべての方が、佛の大きな慈悲に包まれればと思い 奉納演奏させていただきました。

佛教は「和をもって貴し」の精神です。この大きな節目に立ち会えたこと、本当に嬉しく思います。この法要で 様々な因縁が解消されればと存じます。また奇しくも、今年は大東亜敗戦から70年の節目の年でもあります。世界の情勢は混沌としてますが、すべての人々が、様々な因縁を越えて 佛の慈悲に包まれることを 心よりお祈りします。合掌

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