花祭り

本日は「花祭り【お釈迦さまの誕生日】」です。寺院では 花を飾った水盤の上に誕生仏【お生まれになった時のお釈迦さまの像】を安置します。もともと「灌仏会(かんぶつえ)」ともいうように、誕生仏の頭の上から甘茶をかける風習があります。花をまつる所以は、ご誕生の聖地・ルンビニの花園を表しています。甘茶をかける由縁は、お釈迦さまが誕生された時、九龍が天から降りてきて、口から吐いた香水で洗浴したという言い伝えからきています。産湯の役目をしたのかもしれません。古来より 甘茶は霊力があると云われ、参詣者は水筒に入れて持ち帰り、家族で飲み合って健康を祈願されます。

 

さて、この季節は気温も上がり 虫が出てくる頃です。様々な言い伝えがありますが、花祭りの甘茶で墨をすり、「虫」の字を書いた紙、また「卯月八日は吉日よ、神さけ虫を成敗ぞする」と書いた紙を逆さまにして、柱や壁、天井などに貼ると虫除けになると云われるのはご存じでしょうか。ぜひ是非 お試しあれ。

 

誕生仏の不思議なポーズは、お生まれになった直後、すくっと立ち上がり、七歩 歩いた後、右手を上に挙げ 左手を下に指されたことに由来します。そして「天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」とお唱えになります。現在 この言葉は ” 自己中心 ” とか ” 傍若無人 ” と同じ意味で使われることがありますが、本来は「天上・天下広しといえども、我々人間にしか果たせない、たった一つの尊い目的があって生まれてきたのである」ということです。

お釈迦さまのお言葉です。「人の身 受け難くして 今すでに受く。仏法 聞き難くして 今ここに聞く。この身 今生において度せずんば、いずれの世においてか この身を度せん。今、至心に三宝に帰依し奉る」(生まれ難い人間に生まれ、聞き難い仏法を聞けてよかった。何がなんでも今生で ” 生死の一大事(死んだらどうなるのかの大問題)” を解決しなければ、いつの世でできるであろうか。永遠のチャンスは今しかない。みな人よ、真剣に仏法を聞かねばならぬ)。釈尊のお勧めのように、すべての人の生まれてきた唯一の目的は、南無阿弥陀仏と称える身となり、極楽往生をすることにあるのです。この人生 究極の目的が解った時、天と地に向かって「天上天下 唯我独尊」と叫べずにおれなくなるのです。花祭りを機縁に、たった一度の人生、私たちは何に命を尽くすべきか深く考えてみたいものです。合掌

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臨終行儀

今月4日に隣寺の御老僧がご遷化され、本日 中陰二七日の導師を勤めさせていただきました。朴訥として余計なことを語らず、泥だらけになりながら掃除に明け暮れ、お寺を50年間守られた和尚様でした。檀家の信望も厚く、3年前には本堂や庫裏の立て替え、昨年末に住職を交代、すべてをやり遂げられ、最期はホスピスで延命治療をせず、臨終行儀(りんじゅうぎょうぎ)[臨終時における作法]を行い、往生なされました。

臨終行儀はご存じでしょうか。わかりやすく説明した文章がありましたので紹介します。
「 昔は入院できる病院などなく、医者にかかることさえ贅沢といわれていたぐらいなので、誰しもみな自分の家で死を迎えていた。そのため死んでいく人と、それを看取る人の心得としての臨終行儀があった。安らかな臨終を迎えさせたい、迎えたい、という願いとそれを実現する智恵を集めたものが臨終行儀である。現在ではほとんどの人が病院で死を迎えており、延命治療のしすぎが問題になるほど治療に関しては恵まれているが、その反面、病気や死に関することの多くが病院まかせになってしまった。自分や親しい人の死と向き合い、それを受けいれることはすべての人に訪れる試練であり、死から眼をそむけることは、生から眼をそむけることでもある。昔は多くの人が辞世の言葉を残しているが、今そうしたことを聞かないのは死を見つめることが疎かになった証拠かもしれない。死から目をそむけている人は、死にゆく人と深い交流を持つことはできない。死にゆく人と接するときには、自らがしっかりとした死生観を持っていなければならないのである。それでは死をどうとらえて臨終を迎えた人と接したらいいのか、ということを考えた場合、もっとも説明しやすく、また納得してもらいやすいのは、死はこの世からあの世への通過点であり、極楽浄土への入り口である、ととらえることである。そう信じることができれば死後の世界は明るいものとなる。反対に死は永遠の暗闇であるとか、無に帰るだけというのでは、死にゆく人を慰めるのは難しい。つまり死の問題の核心には、私たちは死後どうなるのかという問題が隠れている。臨終行儀は人生の一大事に対処するための智恵の集積であり、それは誰もが心得ておくべき事である」

御老僧はしっかりと死と向き合われました。臨終行儀は 仏のお迎えを待つ作法であり、まず臨終の人からよく見えるように阿弥陀仏の像を安置し、仏像の左手から五色の糸をのばし、臨終者の左手に持たせます。これはお浄土へ導いてもらうための糸であり、付きそいの人が 南無阿弥陀仏を死にゆく人と声をあわせて称え、その息に合わせるように念仏します。その際、魔除けの鐘を 早すぎず、強すぎず、柔らかく静かに、絶やさないように打ち、正念を与えます。また臨終を迎える人は喉がかわくので、きれいな紙に水を含ませて、くちびるを潤してあげるとよいと云います。そして、ときどき声をかけて 何か見えるものがあるかを聞きます。これは阿弥陀仏の来迎を確認するためです。 臨終の間際になったら、看取る人は鐘を打ちながら念仏のみを称え、臨終者から目を離さず息を引き取る瞬間を必ず見とどけます。大事なことは、息絶えた後もしばらくは耳にお経やお念仏を入れるようにすることです。これが本来の 枕経 と呼ばれるものです。

御老僧は、ご家族や檀家に見守られながら「最高!」という合図をされ、「してやったり」のご尊顔で往生なされました。死を超越することは、地位や名誉、権力、お金・・・何にも勝るものだからです。南無阿弥陀仏は凄いなぁ~と感じる最期でありました。宗教は現世利益や道徳のためにあるのではなく、魂が救われるためにあるのです。これこそが真の救いです。ただ臨終行儀は、ご家族の理解はもちろんのこと、何より心より尊敬する導師(僧侶)を見つけねばなりません。この状況を作るには、まさしく日頃の心構えが大事になるわけです。また宗教を理解するには、この死生観が必要です。御老僧のお姿から、僧侶として、また人間としての大切な心構えを学ばせて頂きました。南無阿弥陀仏

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東日本大震災追悼法要(平成27年)

本年も西願寺で東日本大震災追悼法要を勤めました。あの大震災から4年が経ちます。人々の記憶からドンドン消されていく中、今回も多くの方(65名)が手を合わせに来て下さいました。これこそが宗教の力だと思います。

私は 義務で参列する法要ではなく、” ぜひ詣りたい! ” と楽しみにして下さる場を目指しています。今年も 里田昭美さま御一行より「ぼたもち」の接待をして下さり、また、お喜楽さんより「ハーモニカ」の奉納演奏、また、近所の高田様より手作りクッキーの差し入れ等々・・・多くのお心遣いをいただきました。自分に出来ること(布施)を持ち寄って法要(追悼や感謝の祈りを捧げる時間)を行うのは、宗教にしかできないことです。お寺は悩み相談の場になることが多いですが、そういう方に是非、法要に参列していただきたいのです。大きな声でお念仏を唱え、法話を聞く・・・この空気を吸うだけで、必ず何かが変わるはずです。

医学博士の吉田 たかよし氏のお言葉です。「前向きな人に変身するには、何らかのきっかけが必要です。このことをなんとなく漠然と感じ取っている人は多いと思います。しかし、脳の仕組みの上からは、きっかけが必要だというのははっきりと断言できることなのです。後ろ向きな脳は、何事についても積極的な行動をとろうとしないので、脳に刺激が与えられません。そうすると、脳の機能は低下し、性格はさらに後ろ向きになってしまうという悪循環に陥るのです。反対に、前向きな脳は、次々と新しいことにチャレンジしようとするので、脳は新鮮な刺激を受けます。そうすると、脳は活性化し、いっそう前向きな性格になる、という好ましい循環を起こすのです。このように、ある分岐点を境にして、後ろ向きな脳は、ドンドン後ろ向きになり、前向きな脳はさらに、前向きになるという傾向があります」(『「前向き脳」のつくり方』 PHP研究所)

西願寺は ” 前向きになるきっかけ ” を作ります。今年も多くのご参列をありがとうございました。皆様のご浄財は、東日本大震災で苦しんでらっしゃる方々に寄付させていただきます。合掌

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聖バレンタイン

本日はバレンタインデーです。女性が男性にチョコレートを贈って愛を告白するのは日本独自のものだそうですが、バレンタインの歴史は意外に古いようです。

由来は、遠征する兵士の結婚を禁じたローマ皇帝クラウディスに反対したバレンタイン司祭。2月14日に処刑されてしまいますが、愛を守護する聖人と見なされ、殉教が記念日となったそうです。チョコレートを贈る日本の風習は、戦後の菓子業界が考えた独自のものだそうです。

今年は これだけのチョコレートやお心遣いをいただきました。ひとつひとつに温かい想いが込もっています。

もちろん恋愛感情のない贈り物ですが、いくつになっても貰うと嬉しいものです。語弊を恐れず申しますと、私は信者さまとの関係は ” 友達以上恋人未満 ” のお付き合いを目指しています。無粋な人は この言葉をいやらしさに捉えますが、決して 下心があるという意味ではありません。一線を越えず、お互いを理解できる距離感こそが理想だと考えるのです。男性なら利害を超えた信頼関係。女性なら異性間のグレーゾーンを排除した付き合いができればベストです。 どんな人間関係でも ある蜜月を越えると長続きしませんが、 ” 友達以上恋人未満 ” は 相手に好意を持ちつつ、いい意味での緊張感があります。僧侶としての私は、それだけ相手に向き合って 真剣にお付き合いをしてるつもりです。ですので この贈り物は素直に嬉しく思います。最高のお布施です。

あくまで 信者さまの恋愛成就は仏様です。これからも心を込めて、そのキューピット役を勤めていく所存です。粋には ” 色気 ” という意味もありますが、年を重ねるごとに洗練されればと思います。皆様、今年も たくさんの真心を有り難うございました。合掌

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節分

本日は節分です。語源は 「 節分(せちわ)かれ 」 と云われ、季節の分かれ目をさします。もともと古代中国の陰陽思想では、冬と春の分かれ目は 陰と陽の対立が激しく、人々に災いをもたらすと云われてました。つまり、その災いを鬼にみたて邪気を払い、新しい季節を迎えるのが 現在の節分行事になります。

寺院では豆まきをしました。豆には魔を滅(まめつ)する力があると考えられ、まくことで邪気を払い、福を呼び込むと云われます。残った豆は ” 年の数+1 ” だけ食べ、無病息災を祈ります。柊挿(ひいらぎさ)し は 鬼の好物である魚で鬼をおびき寄せ、柊のとげで鬼の目を一気に刺すためだそうです。逆に 焼いたイワシの頭は、悪臭で鬼が近寄らないと云います。枡入りの豆と一緒に玄関先に置くと魔除けになります。

食事は 恵方(えほう)巻き がいいでしょう。関西では太巻きを鬼の金棒に見たてて食べる風習があります。具材は七福神にちなんで、かんぴょう、でんぶ、きゅうりなどの7種類。恵方を向いて 無言で食べ終わることがポイントです。その方角は 京都の神泉苑でわかります。ここは日本で唯一の恵方社があり、平成27年は西南西と出てました。境内にある料亭、祇園平八 で恵方巻きを買って食べると ちょっとした贅沢が味わえます。

こんな紹介をすると、暇な人やなぁ~と笑われるかも知れませんが、忙しい現代人こそ 目に見えないものに思いを寄せる余裕がほしいものです。鬼は元々、「陰(おに)」、「穏(おん)」から変化したと云われ、具体的な姿はなかったそうです。人間の想像力を超えた存在に 畏怖と尊敬の念を持って感謝する・・・こんな時間を作り、新しい季節を迎える方は ” 粋な人 ” だと思います。合掌

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粋な人

今月28日で、いよいよ40歳になります。ここまで育てて頂いた両親、先祖、有縁の方々に 心より御礼申し上げます。『 論語 』 に 「 四十にして惑わず 」 とあります。人は40歳になれば、人生の方向が定まって迷わなくなるといいます。僧侶として、さらに深みのある40代にしたいと思います。人生60年までの 重要な10年間と考えます。

思えば20代は 「 信仰 」 をテーマに全力で駆け抜けました。質素倹約に努め、20代最後に 10年間貯めた全財産を 世のために寄付したのは よい思い出です。
30代は 「 布教活動 」を全力でなしました。組織に属さず、自らの持ち味を生かし、唯一のジャンルを築けたことは 私の誇りです。
では40代は・・・「 粋 」な生き方がしたいです。粋とは、” 気質・態度・身なりなどがさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気があること ” とあります。つまり、粋になるには 言動だけでなく、色気も必要になるわけです。それは 内面から湧き出るオーラや余裕のようなものだと思います。色気には、様々な意味がありますが、一つに ” おもしろみ ” とあります。40代は ここを磨こうと思うのです。

昨年末、お寺を離れた忘年会に伺いました。プライベートでは学生以来です。一般の方と酒を酌み交わし、どんな話ができるのかと楽しみに出かけたのですが・・・そこで痛感したのは、僧侶でない私に 魅力がないことでした(汗) 。私は役柄、悲しい場面に対面する事が多く、人に楽しんでる姿を見せてはいけないと、どこか人生を我慢していたのだと思います。そこが 人間としての ” おもしろみ ” を奪っていたのかもしれません。世間の人は そんな気遣いを望んでらっしゃらないことがわかりました。

もちろん 根本の精神が変わる訳ではありません。しかし 40代は「 粋な生き方 」・・・つまり ” 楽しいことに全力 ” になって、来たる50代には ” 粋な人 ” として新たな伝道できればと思います。これも修行です(笑)。媚びるのではなく、老若男女国籍を問わず、自然と人が寄ってくるようになれればと存じます。良寛さんのように 遊びが悟りになれれば嬉しいです。合掌

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未年の心構え

新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。平成27年の未年となりました。動物に当てはめると羊の年になります。

羊は群れをなして行動するため、国家の平和、家族安泰をもたらす縁起物とされます。胃袋を4つ持ち、食物を何度も噛み直して 健全な体を作り、乳や羊毛を、また皮や肉や骨、命までも捧げ提供し、社会に貢献します。

つまり、羊は ” 陰徳(いんとく)の動物 ” です。陰徳とは 人知れずよいことを行うこと。仏教は この行為を大切にします。ことわざに 「 陰徳あれば 必ず陽報あり 」 とありますが、「 人知れず良い行いをする者には、必ず良い報いが現れること 」 を信じるのです。これが大事だと 羊は教えてくれます。世間では 得することばかりを考える情報にあふれていますが、結局 その中から何が大事なのかということを 今一度、咀嚼する年なのだと思います。

また、未は「いまだ」とも読めますが、今が完成ではないとを自覚する年でもあります。自分に足りないものを見直してみましょう。羊のように陰徳を大きく積めば、(羊が大きいと書いて) ” 美 ” という漢字になります。特に今年は 謙虚な心で、羊のように、おだやかな、美しい心で過ごしたいものです。皆様にとって、良い年になることを祈念して、正月の挨拶に代えさせていただきます。合掌

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オンリー・ワン

本年 最後のブログです。今年も 多くのご縁をいただきました。かけがえのない人との出会いや別れがあり、様々なお陰を感じた一年でした。そのような中、自分は何ができるのかと いつも考えます。人生は ” 恩返しの旅 ” なのかもしれません。その過程で、人は 喜び、ぶつかり、怒り、笑い、悲しみ、葛藤・・・色々な体験をします。人間関係に苦しみながら、されど独りでは生きられません。矛盾に満ちた世で、魂は成長してゆくのです。

世の中に恩返しをするには、自らの特性を見極めることから始まります。つまり、自分にしかない能力や個性を見つけることです。 ” オンリー・ワン ” と よく言いますが、これは結果平等の言葉でなく、自分には何ができるのかを考える前向きな言葉です。活躍の場は与えられるのではなく、自らが探さなくてはなりません。それが、オンリー・ワンの考え方です。近藤裕先生の言葉を見てみましょう。

「ナンバー・ワンになるには、ナンバー・ツーが必要だ。自分がナンバー・ワンになるには、競争相手を負かさねばならない。また、ナンバー・ワンになってからは、ナンバー・ワンを維持するために、追い越されないようにいつも気を遣っていなければならない。一方、自分にしかない能力や個性を伸ばし、1つのことの達人になることに専念するという生き方がある。それが、オンリー・ワンになる生き方である。オンリー・ワン(何かの達人)はひとりだけとは限らない。何人もいるかもしれない。あるいは自分一人だけであるかもしれない。それが結果的にナンバー・ワンになっているということもある。結果的にナンバー・ワンになるかどうかはともかく、大事なのは自分にとって満足のゆく人生を送ることではないか。そうすれば、オンリー・ワンになるための過程において充実した日々を過ごし、また、つねに輝いて生きることができるのではないか」(『人生をもっと楽しんで生きられる心理学』 三笠書房)

来年も 世の中のために、自分は一体何が出きるのかを考えていきたいと思います。どのようなご縁があるのか楽しみです。皆様、よいお年をお迎え下さい。合掌

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すべてに無駄なし

紅葉も一段落し、師走となりました。先日までの観光客の賑わいも 嘘のように 静かです。それほど 紅葉は人の心を魅了するのだと思います。紅葉は 樹木が冬じたくをしている姿といいます。葉を落とすために、秋になって気温が下がりだすと 糖分や水分などの供給を止めます。すると、葉の中に残った糖分によって色素が目立ってくるので、イチョウは黄色、カエデなら赤の紅葉 になるのです。

紅葉が終わると、人は樹木に見向きもしなくなりますが、植物にとっては目標達成の瞬間です。散り紅葉は 決して ” 虚しさの象徴 ” ではありません。日本には春夏秋冬があり、生物は冬を乗り越える知恵をめぐらしています。物言わぬ植物でさえ、このような生々流転をくり返し生きているのだと思うと、感慨深いものがあります。

アンドリュー ・マシューズの言葉です。「この地球上においては、何事もスムーズな直線では進まないということです。時に歩みを止め、時に逆行しながら進んでいくのです。潮が満ちてくる時、それは引いては返しながら、少しずつ進んでいきます。木の成長過程では、季節によって葉を落としながら、そのたびに少しずつ縦に大きく伸びていきます。葉を失い、自然と戦いながら、木は大きく成長するのです。ですから地球上の自然現象においては、後戻りするように見えることも、実は成長過程の1つの段階なのです」 (『人生の愉しみと成功 5つの決心』三笠書房)

今年一年、順調だった方、逆境続きの方、様々おられると存じます。しかし、この言葉より、目に見えた右肩上がりの人生はなく、逆に困難の時にこそ、明るい未来への準備期間ということがわかります。すべての出来事に無駄はありません。すべてが成長の糧だと捉えれば、さらに有意義な人生が歩めるのではないでしょうか。合掌

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チャンス

先週は琵琶説教で、様々な寺院を回らせていただきました。山口県で3ヶ寺、和歌山県、福井県と 移動続きの5日間で、8席の布教でした。各お寺さまには あたたかいお心遣いを頂いたこと、心より御礼申し上げます。

ただ今回は 1カ所での説教ではありませんので、毎日が初対面の方々となります。その場の雰囲気をつかむのにすごいエネルギーを使い、口の中がカラカラになりました。また 説教の時だけではありません。お給仕の際も、各所で真剣な質問をして下さるのです。一番多かったのは、琵琶を説教に取り入れようとした理由。つまり、” 新しいことを成す秘訣 ” をよく聞かれました。色々な談話をしましたが、最終的に「今、持ってる自分をどう活かすか」が大切だと、互いの結論に至りました。本当に有意義な布教の旅でした。

作家の中谷 彰宏氏は、こう述べてらっしゃいます。「どうしたらチャンスを手に入れることができますか」と質問する人は、いつも「今度チャンスが来たら」と考えています。頭の中は、常に次のチャンスの方を見ているのです。今、目の前や手の中にあるチャンスもあります。「どうしたら次のチャンスを手に入れることができますか」ではなく、大切なのは、今、持っているチャンスをどう活かすかです。「次をどうしたらいいですか」と言う人は、いざという時、目の前に来たチャンスを活かせません。目の前を全然見ないで、次ばかりを見ているからです。今している仕事があるなら、今の仕事でつかむチャンスを考えることです。仕事が変われば別のチャンスがつかめるとは考えないことです。今、関わっていることでチャンスを活かす方法を考えればいいのです。(『 チャンスは目の前にある 』ベストセラーズ)

その通りだと思います。特に僧侶が 一般の方の需要にお答えできるとすれば、” 真心 ” しかないと思うのです。それを勘違いして、新しいものを取り入れることばかりを考えているのは 本末転倒です。私自身、つかみ損なったチャンスは山ほどあります。しかし、今できることを懸命にしているだけで、それ以上でもそれ以下でもないと思っています。巷では自己啓発本が出まわっていますが、魔法のような解決法はありません。最終的には、「今、持ってる自分をどう活かすか」「脚下照顧」に帰結するものと存じます。合掌

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