根気と決意

現在、NHK連続ドラマ小説で「マッサン」が、好評 放映中です。毎朝、楽しみにされている方も多いのではないでしょうか。日本でのウイスキー作りに生涯を捧げたマッサンこと亀山政春と 妻 エリーの二人三脚の物語で、ふたりは 行く手にどんな困難が立ちふさがろうとも決して諦めることなく、ひたむきに夢を追い続けます。大正時代には珍しい国際結婚で、価値観が異なる若夫婦が ” 根気と決意 ” で歩んでいく姿に胸を打ちます。

平成の若者とは対照的です。近年は 大学を卒業して 会社に就職した三分の一が、3年以内に会社を辞めているという調査結果があります。やむを得ない事情で辞める人、起業や独立、希望する転職先からの引き抜きなど、理由は様々だと思いますが、三分の一(十数万人)という数の多さは、若者の「打たれ弱さ」や「根気のなさ」を表しているのでは?!という声もあります。

” 青い鳥症候群 ” という言葉はご存じでしょうか。これは「自分が心から満足できる職場が他にあるはず」「自分の能力や才能を最大限に発揮できる仕事が他にあるはず」と、理想の仕事を求めて転職をくり返す人の心理状態を言いいます。メーテルリンクの童話『 青い鳥 』の中に出てくるチルチルとミチルが、自宅で飼っている鳥には目もくれず、幸福の青い鳥を外に探し求め 追い続けたように  ” 青い鳥症候群 ” の人は、まだ出会っていない仕事の中に、見果てぬ理想を追い続けるのだそうです。

アメリカのジャック・フォスター氏は、『 アイデアのヒント 』(阪急コミュニケーションズ)に次のように述べられています。「 肝心なのは「 根気 」だ。才能じゃない。才能があって成功しない人はうようよいる。金じゃない。金持ちに生まれて、貧しいなかで死ぬ人はたくさんいる。天才じゃない。天才が報われないのは、ほとんど常識だ。教育じゃない。世の中には学のある落伍者があふれている。運じゃない。運命の気まぐれは何人もの王の命を奪ってきた。根気と決意だけがすべての道を拓く 」

もちろん、才能や財産、教育や運も大切ですが、幸福は外からやってくるものではありません。なぜなら外の世界は、己の内から現れる現象に過ぎないからです。まず、内面から湧き出る ” 根気と決意 ” ・・・ここからすべてが始まるのです。「 幸せの青い鳥 は、心の中に住んでいるんだよ。頑張れ! 」こんなことを思いながら、これからもマッサンとエリーを応援していきたいと思います。合掌

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青年と老人の違い

先日、浄土宗・滋賀教区 青年会会長より、青年僧に向けての講演を頼まれました。会長は修行時代の同期で、共に30代最後の年となります。「お互い そんな立場の年齢になるのか・・・」と昔話に花咲きました。 浄土宗では 宗祖・法然上人が43歳で南無阿弥陀仏をお悟りになったことから、その年までが青年僧と呼ばれます。

考えてみれば、一般社会には 青年と老人の境目が明確ではありません。もちろん 会社の定年や、社会保障のために区切ることはありますが、人間として分けるのは不可能です。還暦の方にお年寄り。75歳の方に後期高齢者とは とても言えません(笑)。ある言葉を見付けました。 「 青年と老人の違いは年齢ではない。見つめる方向(目的)によって青年か老人かが決まる。すなわち、将来に希望を抱く者、前を向いて生きる者が青年であり、過去の栄光を引きずって生きる者、後ろを向いて生きる者を老人という 」

前回のブログと合致します。年齢による 体の老いは 仕方ありませんが、 ” 目的意識 ” を持って 心 は充実したいものです。そのために ” 出会いを大切にせよ ” と申しましたが、最高の縁は ” 仏縁 ” です。仏教との出会いによって ” 人生の目的 ” が教えられるのです。生の目的とは ” 後生の一大事 ” を知ること。つまり、死後の行き先(救われ方)を明確にすることです。これさえ腑に落とせば、自らに降りかかる 様々な苦難災難に翻弄されることはありません。なぜなら この世の地位や名誉、財産に関係なく、最期は必ず救われるからです。その ” 目的 ” を持って生きることが信仰です。

若年でも人生の目的を求めていない者は、もはや ” 老人 ” です。なぜなら、いずれ迎える死を顧みない 後ろ向きの人生 だからです。やはり真理は 若いうちから味わい、ブルー(青年)やシルバー(老人)を超越した、ゴールド(仏)の境地になりたいものです。極楽に生まれた者は、人生で最も輝いていた頃(人生の目的を悟った頃)の姿になるともいいます・・・そう考えると 皆さん、真理獲得は 急いだ方がいいのです。仏教を取りますか? アンチエージングをとりますか? 早くに 人生の目的を悟れば、 ” 永遠の若大将(美女) ” でいられますよ(笑)。合掌

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目的意識

” 暑さ寒さも彼岸まで ” というように、過ごしやすい気候になってきました。これからの行楽シーズンには 様々な行事があり、僧侶は休む間もなく、布教活動に明け暮れます。周りは 過密なスケジュール を心配して下さいますが、私は ” 目的 ” を鮮明にして、前へ進むように心がけています。

こんな話があります。動物園の動物とサーカスの動物を比較すると、サーカスの動物の方が強くて 長生きするそうです。サーカスの動物は、より強いストレスを受けているわけですが、そのストレスはマイナスではなく、プラスに作用しているというのです。つまり、サーカスの動物は ” 目的 ” を与えられています。人間によって与えられた ” 目的 ” であるにせよ、目的を持つことによってストレスに耐えることができ、それが強くて長生きする原因になっているというのです。

たとえば、厳しい寒さの中に滝に打たれたり、水をかぶって行をしたりする修行がありますが、進んで修行する人にとっては、それが心身の鍛練となります。しかし、イヤイヤ 滝に入ったりしたら、とたんに風邪をひいてしまいます。一般社会でも同じです。目的を持っていれば、辛いことも、先輩のお叱りもプラスになります。

現代は「 ストレス = 悪 」 という言葉が蔓延していますが、それが逃げ控除になっていては、すべてがマイナスに働いてしまいます。何事も ” させていただく ” という意識が、ストレスをプラスに転ずるのです。まず 与えられた出会いに感謝しましょう。それが立派な ” 目的意識 ” となるのです。引きこもるのではなく、一歩 踏み出す勇気あれば 意外となんとかなるものです。昔、アグレッシブな先輩が「 病気は仕事をしながら治す !」 と仰ってましたが、目的意識 があれば これぐらいの大胆さがあっていいのかもしれません(笑)合掌

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憧れの師

今月4日、琵琶をご指導いただいてた先生が往生されました。所属の師匠ではなく、個人的にお願いしていたお方です。10年程前、琵琶の方向性に悩んでいた私は、先生の『耳なし芳一』のテープに感銘を受け、居ても立ってもおられず稽古場に押しかけたのが出逢いでした。所属の関係で 稽古は断り続けられましたが、連絡を取り合ううちに 心やすくなり、昨年8月から丸一年、ご指導いただけるようになったのです。先生は86才の女性でしたので、10年越しの恋愛成就といったところでしょうか(笑)。

一年前にお電話で、「 残された時間、私に教えられるものは教えておきたいんや」と、先生の方からご連絡をいただいたのです。まさかのお誘いに、職場から高速道路を使って2時間の長距離を喜んで向ったことを 昨日のように覚えています。一年間続けられたのは、芸もさることながら、聡明な、気品のある人間像に惹かれた部分も大きかったと思います。最後に伺ったのは7月31日。いつもと変わらない熱心な稽古でした。「 来月はお盆の行事があり、後半に伺えれば・・・ 」と日にちを決めず失礼しましたが、疲れもあり8月は休んでしまいました。そして、8月31日晩に 次回の稽古の約束をしたのが最期の会話で、翌日9月1日晩にお倒れになり 往生されたのです。今思えば、8月の稽古を休んだのが とても悔やまれます。

書家の 相田みつを氏が、次のような お言葉を述べてらっしゃいす。                                     「そのうち お金がたまったら そのうち 家でも建てたら そのうち 子供が手を放れたら                         そのうち 仕事が落ちついたら そのうち 時間のゆとりができたら そのうち・・・そのうち・・・そのうち・・・と できない理由を くりかしているうちに 結局は何もやらなかった 空しい人生の幕がおりて 頭の上に 淋しい墓標が立つ そのうちそのうち 日が暮れる いまきたこの道かえれない」

このお言葉が身に染みます。人は、そのうち・・・そのうち・・・そのうち・・・と「 できない理由 」をさがして怠惰の方向へ行きがちですが、まず「 できる可能性 」をさがすことが大切ではないでしょうか。今回のご縁は「 できる可能性 」を必死にさがした結果が、この一年に繋がったんだと確信します。急なお隠れで、今も心にポッカリ穴があいてますが、幸い 次の稽古を約束してのお別れでした。これには きっと意味があるはずです。次に逢うまでの課題を与えられたのだと思います。私の人生もいつまで続くかわかりませんが、もう「 できない理由 」を雄弁に語っている暇はありません。もっともっともっと研鑽を積んで、来世の極楽では「よう、稽古しゃはったな」と微笑んでいただけるよう精進します。先生は 私の ” 憧れの師 ” でした。ご指導いただいたことを噛みしめ、先生に少しでも近づけるように頑張ります。南無阿弥陀仏

 

本日、先生の中陰棚に お詣りすることができました。胸のつかえが取れた気持ちです。極楽浄土での再会をお約束しました。また会える・・・やはり、お念仏の教えはありがたいものです。

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人を引き寄せる力

先日、西願寺で地蔵盆を勤めました。今年は おつとめ・法話の後に、大道芸をされる方をお招きして披露いただきました。若い方でしたが、汗をかきながら懸命にされるお姿に、子供たちは目を輝かせていました。やはり、生の緊張感や息づかい、そして迫力。これが人を惹きつける醍醐味ではないでしょうか。

それは 大勢の子供たちが遊んでいる風景を観察していれば わかります。その中に、人を引き寄せる子が 必ず現れるのです。それはどんな子かというと・・・ ” 楽しそうに遊んでいる子 ”、” 夢中になって遊んでいる子 ”、” 思いっきり本気で遊んでいる子 ”です。本気で楽しんでる人の周りには、楽しくさせてくれそうな気配があります。その空気を、子供たちは敏感に感じとっているのだと思います。

最近は、どの地域も 地蔵盆に子供が集まらないと聞きます。その要因の一つに、地蔵盆 本来の精神をなくしていることがあげられると思います。見守り下さるお地蔵さまに感謝を捧げるのがこの行事で、それを ただのお楽しみ会 にしてしまうから、大人も子供も戸惑うのではないでしょうか。要は 本質をどれだけ 本気で楽しめるかです。「子供には難しいことはわからない。面白いことをすれば喜ぶだろう」という安易な発想では、心は通いません。現代の人間観は、人の幸不幸は ” 体の外 ” から来るものと信じられますが、仏教では ” 心の中 ” にあると断言します。” 人を引き寄せる力 ” で申すならば、本気で楽しむ心 が 大事になってくるのです。

現代は、世代を超えて 集まる環境が少なくなりました。このような時代だからこそ、地蔵盆という行事が  ” 心の教え ” を真剣に語れる場になることを願います。インターネットや本等の 好きなものを選んで得る知識 では、成長や感動の幅が少ないのではないでしょうか。やはり、人と腹を割って話すことが大切です。お寺には利害関係がありません。参拝の老若男女が、夢中に、本気で、楽しく真理を話せる空気が、西願寺に醸し出せるようになるのが住職の夢です。合掌

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根なき花

今月はお盆の月で、多くのお宅にお参りさせていただきました。私の心構えは、自分自身が先祖になったつもりで伺うようにしています。お家の雰囲気は様々です。ほとんどのお宅は居心地よくして下さいますが、正直「ここには帰りたくないなぁ・・・」と思う家があるのも事実です。お迎えをするお経を唱える身でも、ご先祖さまの心を察してしまいます(汗)。

ある英霊を祀ったお宅にお参りした時のこと。玄関先で ご主人が車を洗っておられてました。しかし、私に目もくれず洗車を続けられるのです。結局、たった5分のお参りにも手を合わすことなく、数台の高級車に向き合っておられました。おそらく裕福なお宅でしょうが、あまりの心の貧しさに哀れになってきました。この家を守るため 戦場に出られたご先祖様はどんな思いで、この子孫を見ておられるのでしょうか。

法然上人の師匠である善導大師は、人生について こうお説き下さいます。               「人は生きている時に 精進しなければ、たとえてみるならば、植木に根がないようなものだ。花をとって日中に置いても、根がなくて養分を吸うことができなければ、どれだけの間、あざやかに咲いていることがでいるだろうか。人の命ももそのようなものだ。無常の、ほんのつかの間だ。もろもろの仏教徒に勧める。精進して、どうか速やかに真実に至りたまえ。そして真実の仏法に根を張って、本当に美しく咲き続ける命を生きなさい」(「日中無常偈」)

先祖を思うことができない人は、” 根なき花 ” と同じです。いくら 有意義な人生(花)を咲かせてるように見えても、その  命の根源 (根) に感謝できないのならば、真実の幸福は望めません。見せかけの繁栄は すぐに枯れ果てることでしょう。仏法に根を張ることができた私は、本当に幸せ者だと この時期 しみじみ感じます。合掌

 

咲いた花見て 喜ぶならば 咲かせた根元の 恩を知れ

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人間の五衰

前回のブログで「木の五衰」から因果応報の過程を記しました。今回は「人間の五衰」について、安岡正篤 氏の言葉から学びたいと思います。

「 人間もそうだ。いろいろの欲ばかり出して、すなわち貪欲・多欲になって修養しない。  つまり ” 省 ” しない。そうすると風通しが悪くなる。

つまり心理や教えが耳に入らなくなる。                                                                                            善語・善言を聞くということをしなくなる(「懐(ふところ)の蒸れ」)。
そうすると「裾(すそ)上がり」といって(理性や謙虚さを失い)、
人間がオッチョコチョイになってくる(「末(うら)枯れ」)。
そうするともう進歩は止まってしまう(「末(うら)止まり」)。
すると悪いことばかりに親しむようになる、虫が食うのだ(「虫食い」)。       つまらないやつにとりつかれ、そして没落する。これは「人間の五衰」だ。      だから植物の栽培もこの ” 省 ” という一字に帰する。

「省みる」ということは、別にいえば「省く」ということだ。それによって、人間本来の進歩・向上力が生まれる。すなわち克己(こっき)だ」               (『知命と立命』:「Ⅲ達人の人生哲学」より)

先日、震災被災地に慰問して学んだのが、” 省 く” 大切さ でした。無駄な欲望を省くことによって、人間は 真に豊かな生活ができるのだということを 目の当たりにしました。とりわけ戦後の日本人は、過度な文明至上主義となり、近代化(個人化、効率化、高速化、巨大化)し過ぎたのかもしれません。その結果、経済を抜きにした精神的連帯や、自然や生命の持つリアリティの喜びを暮らしの中で感じられなくなり、かえって無機質的なものになってしまったのではないでしょうか。

豊かな暮らしとは、便利で合理的な「文明」と、特殊で非合理的な「文化」の調和により生まれます。お寺参りは、先人が築きあげた 崇高な「文化」です。ちょうど今月は、ご先祖を迎えるお盆の時期です。これから自分は何を省き、何を得るか。それを考える良い時期です。「人間の五衰」に照らし合わせ、文明と文化の調和のとれた真に豊かな暮らしを 共々に目指していければと存じます。合掌

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確かな猶予(因果応報)

先日、後輩僧侶が うずくまっていました。何事かと尋ねたら、机の角で足の小指をぶつけたとのこと。彼は、あの 誰もが体験したことのある ” 激痛 ” を味わっていたのです。数瞬後、予測を下回ることのない あの痛み ! 。その激痛を待つ覚悟の時間を 格闘漫画 『バギ』 の作者・板垣恵介氏は、うまく譬えておられます。

ー  神が与え給うた 確かな猶予(ゆうよ)ー

言い得て妙です(笑)。これは老若男女国籍時代を問わず、” 因果応報 ” の最少単位ではないでしょうか。仏教でも、我々が作る行動(原因)は  猶予が終えた時、 約束どおり結果が訪れる と説きます。人生は この ” 猶予の繰り返し ” なのかもしれません。この当たり前の現実を なかなか理解できないのが人間ですが、角に小指をぶつけた時、みぞおちの強打、金的等の ” 数瞬後にくる激痛 ” で譬えると よくわかります。

暦は もうすぐ「 大暑 」となり、今が一年で最も暑い頃とされます。この時期、巷では必ずと言っていいほど後悔の言葉を耳にします。日頃の不摂生からくる夏バテ。また弛んだ体で水着をつける勇気がない等々、これは中期的な ” 因果応報 ” です。後悔先に立たず。すべての結果は、過去からの原因で繋がっているのです。

では、 猶予の幅 をさらに広げてみましょう。文豪・幸田露伴 氏は、因果応報の過程を「木の五衰」として伝えておられます。

「第一は、木が生長して繁茂してくると「懐の蒸れ(ふところのむれ)」というものが始まる。枝葉が茂ったおかげで風通しが悪くなり、蒸れはじめる。そうすると、酸素の代謝が悪くなるとか、害虫が付きやすくなるなどの問題が出始めるのだ。

「懐の蒸れ」の結果、第二には木が伸びなくなる。これを「末止まり(うらどまり)」という。つまり、ここで成長が止まるのである。

そうすると、第三には「裾上がり(すそあがり)」が始まる。本来の成長過程にある木ならば、根は深く広く広がらなければならない。だが、裾上がりとは、根が地表に出てしまい、早くから傷ついたり腐ったりする。

裾上がりした木は、やがて根っこからではなく木の上部から枯れ始める。これを第四の「末枯れ(すえがれ)」という。

最後の第五は、「虫食い」だ。末枯れまでいった木は害虫によって完全に枯れていく。最初から害虫にやられたように思われがちだが、その前に 第一、第二、第三、第四の段階があるのです」 (『洗心廣録』)

人生は、急に不幸な結果や 大きな問題が起こるのではなく、それまでに過程が存在しているのです。しかし どのような結果であれ、その 結果 が また 原因 として 縁 は繋がっていきます。我々にできることは、まず起きた現象を まず素直に受け入れること。そして、それをどう捉えるかで未来が変わってきます。これは時間の流れを 永続的に考えていく修行です。” 人の五衰 ” を防ぐのは、” 反省→感謝→報恩 ” の猶予の過ごし方が必要になります。

しかし、角にぶつけた小指の激痛だけは、いま想像するだけでも脂汗がでます・・・哀れな後輩には、とても ” 因果応報 ” とは言えませんでした(笑)。ただただ見舞いを申すばかりです。合掌

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選択の積み重ね

現在、FIFAワールドカップ・ブラジル大会が盛り上がっています。この間、Jリーグは中断されていますが、先日、大宮アルディージャ主将の菊地光将選手が、ご家族と西願寺へ遊びに来てくれました。ご身内の法事を勤められ、翌日、改めてお寺まで来てくれたのです。彼は物静かな好青年で、惚れ惚れするほど均整のとれた体でした。倍返り毘沙門天に祈る姿に、霊像と呼応される精神性の高さを感じました。日頃 どんなストイックな生活をされてるのでしょうか。今後の活躍に期待します。

よく ”人生は3万日”と言いますが、プロと呼ばれる方は、限られた時間に しっかりとした積み重ね、いわゆる ” 物事の選択 ” をされておられるだと思います。本を読むか、読まないか。学ぶか、学ばないか。続けるか、やめるか。挑戦するか、あきらめるか。自分の責任にするか、誰かのせいにするか。人を愛するか、憎むか。笑うか、怒るか。楽しむか、つまらなくするか。今やるか、今度やるか。すべて自分の態度一つで決まるのです。人は自ら選択を行い、その選択が結果をもたらします。物事を極められた方は、どんな小さな選択も おろそかにされてないはずです。

私は僧侶という役柄、いろいろな著名人とお出会いする機会がありますが、やはり本物と呼ばれる方になればなるほど、表舞台とは裏腹に 物静かな印象があります。それほど高みを帯びる為には、日々の地味で単調な 鍛錬の繰り返しが大切で、その忍耐強いお人柄が にじみ出るだと拝察します。

イエローハットの創業者、鍵山秀三郎氏はこう述べておられます。

「 皆さん方がこれから人生を送っていくについて、自分の人生は人並み以下でいいと思っている人は一人もいないと思います。人並みか、できれば人並み以上になっていきたいという希望を持っているのではないかと思います。けれども、何か特別なことをしないと人並みになれないのではないかと思って特別のことを探しているうちに人生の半分ぐらいきて、特別なことがないと気がついたときにはもう遅いということがあります。特別なことを探すよりも、当たり前のだれでも知ってはいるけれどもやっていないことはいっぱいあります。そういう小さなことに目を向けてそれを徹底していただくことをまずお勧めしたいと思います 」(『凡事徹底』 到知出版社)

人は有名になりたい、刺激的な人生を送りたい、影響力を与える人になりたい等の夢を求めますが、それは、日々の ” 選択の積み重ね ” の結果です。つまり、人は能力で決まるのではなく、 ” どんな選択をするか ” で将来が決まるのです。決して年齢や環境、他人のせいではないことを肝に銘じねばなりません。あわてず、あきらめず、自分は人に何ができるのかを考え続ける・・・そうして、” 最高の自己を差し出せる存在 ” となれた時、本当の輝く人生となるのではないでしょうか。合掌

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和楽な暮らし

本日、志村ふくみ先生が「第30回京都賞」を受賞されました。つい先日、ふくみ先生と洋子先生に自宅に招かれ、食事をご一緒させていただいたばかりですので、嬉しい気持ちでいっぱいです。

ふくみ先生は染色家の第一人者で、人間国宝であられます。志村家は嵯峨にある奉職寺院のお檀家さまで、また同じ近江八幡が出身というご縁で可愛がって下さってます。昨年の米寿を祝う会でも琵琶説教のご依頼をいただき、お祝いをさせていただきました。今回は完全なプライベートでしたので、私も袈裟衣を脱ぎ、3人でお酒を酌み交わしながら、楽しい時間を過ごさせていただきました。仏教と色の話、これからのお寺のあり方、宗教と芸術の融合、万物の成仏を祈るべし、百聞は一見に如かず、身銭を切る大切さ・・・等々、一冊の本になるようなお言葉を頂戴しました。

最後にお話しいただいたのは、昨年開校された「アルスシムラ」の ” 魂の教育 ” でした。今の日本人は、未来への閉塞感から 本質を見失っている。その方向性の一助となればという思いから学校を開かれたのだそうです。本来 宗教がすべきことを、身を投じてしてくださってるお姿に頭が下がりました。染色に限らず、日本には色々な和の文化があり、それぞれに ” 命の叡智 ” が詰まっている。それに触れた時、驚きと憧れ、喜び湧き上がってくる。これからの日本人は 和の文化 から 物事の本質 を探求することが大切だとお話ししてくださいました。(これ以上のことは入校してからお聞きください!笑)

難しい理屈は抜きにして、やはり母国に親しむことが豊かな暮らしへの出発点だと思います。文化や芸術というと腰が引ける方に、私は ” 和楽な暮らし ” として、身近な和の実践 を推奨していますので、最後にご紹介します。ここからも、物事の本質が見えてくることと存じます。

【和楽な暮らし】

我々は、近代的な生活用品に囲まれた暮らしの中に、日本の伝統的な道具を取り入れ、文明と文化の調和がとれた暮らしの実践をしよう。

現在、日本人は実の多くの便利なものに囲まれて暮らしている。車、地下鉄、新幹線。テレビ、コンビニ、インターネット。ファミコン、パソコン、カーエアコン…このような文明的な暮らしを否定する気は毛頭ない。しかし、戦後、とりわけ高度経済成長以後の日本人の暮らしは、過度に文明至上主義に偏重し、近代化(個人化、効率化、高速化、巨大化)した。その結果、経済を抜きにした精神的連帯や、自然や生命の持つリアリティの喜びを暮らしの中で感じられなくなり、かえって無機質的なものになってしまった。日本人が文明的な生活を目指すばかりに、真に豊かな暮らしを考えることを怠ってきたからだ。

我々は、豊かな暮らしとは便利で合理的な「文明」と、特殊で非合理的な「文化」の調和により生まれると考える。かつて(明治から戦前にかけて)の先人たちには日本の文明化に対し、「和魂洋才」の精神で日本文化との融合をはかろうという気概があった。その先人たちのたゆまない努力に感謝し、またその精神を受け継ぐ覚悟をせねばならない。我々は新しく「七和三洋」というスローガンのもとに、文明と文化の調和のとれた真の豊かな暮らし、「和楽な暮らし」の構築をめざし、和楽の目的を達したい。

では和楽な暮らしとはどういうことか。答えは明快である。伝統的で民族的な生活道具「和の生活道具」を各々の暮らしの中で使うことである。つまり、近代的な生活用品を「和の道具」にすり替え、切り替えることによって、「和楽な暮らし」をつくり上げることができる。和の道具とは、単なる暮らしの構成要素だけではなく、自然の素材の活かし方、用途の転用性といった日本人のシンプルなライフスタイルの思想、知恵を具現化したものでもある。

我々はそのような和の道具を「使う」ことによって、いろいろなことに気づくであろう。そういった「経験・体験」に基づく発見こそが、本当の意味での「知識・知恵」として日本の文化を理解し、受け継ぐことつながる。その実現のために、我々は具体的な三つの方策で望む。

一つ目は感覚、感性の名の下にあいまいにされてきた和の道具を、素材、形態、用途、思想などの観点からドラスティックに探求することである。二つ目は和の道具が伝統的工芸品、古美術となっている現状から解放することである。三つ目は和の道具が暮らしを楽しく、そして豊かにする道具であることを啓蒙していくことである。

環境問題に関心のある者。老人福祉の道を志す者。お金より精神的満足を求める者。そして日本文化に興味のある者。これら「これから日本人」は和の道具を単なる骨董品や古いものとしての対象とする視点を排して、民族的な生活道具として取り戻そう! 暮らしの中にある近代的な工業製品を少しずつ民族的な生活道具に切り替えよう! そして文明と文化の調和のとれた暮らしが一つの形態となるよう、「和楽な暮らし」をともに希求し、想像し、実践しよう! (「和楽宣言」より)

※明日は、京都・東寺(教王護国寺)の「弘法市」です。空海さまのご命日である21日は、毎月 1200ほどの露店が立ち並び、約20万人の参拝があるそうです。こういった縁日に詣るのも、和の文化に触れる絶好の機会だと思います。合掌

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