月別アーカイブ: 2月 2013

雨水

「雨水(うすい)」となりました。これは空から降る「水」が、雪から雨に変わる頃をさし、「雨水」になるになるという意味が込められています。 水は不思議です。冷やせば氷となり、熱せば水蒸気になります。ある時は液体で、ある時は固体、ある時は気体にもなる。これら水の変化は、どれもが水の本当の姿であり、その変化に中にも「H2O」という本質があるから、いつまでも水が水であり得るのです。もし水を冷やして大根になり、熱せば猿になるなら大変です!(笑)。 我々の「本質」も同じです。人間は「魂」が肉体に宿った存在であって、外見の中にある、目には見えない部分こそが「真実の自分」なのです。水で喩えると、肉体に宿っている間は  氷のような固体の姿を取っていますが、やがて死を迎えて肉体を去ると、水蒸気のような普遍の存在になるイメージです。水(H2O)という本質は変わらないように、我々の本質も「魂」であるからこそ、芯の部分は変わらず永遠の存在でいられるのです。「輪廻(りんね)」という生まれ変わりの思想がありますが、次に生まれ変わる世界が畜生であっても、動物そのものになるのではなく 仮に魂が宿るだけで、死した後、魂の存在のまま また違う世界に生まれ変わるのです。 人間は長く生きても100年程の存在です。ならば我々は「自らの本質(魂)」の救済について、もっと考えてもよいのではないでしょうか。今、その方法が説かれてるのですから。毎日の生活に追われ、そこまで眼を向けられる方は少ないようですが、宗教はそういう部分に警鐘乱打しているのです。何も怖いものではありません。 全ては自分自身の問題であり、他人事ではないのです。 仏教では、阿弥陀仏にすがる事によって「自らの本質(魂)」丸ごと救って下さると説きます。一心に南無阿弥陀仏とお唱えし「アミターの光」に包まれたあかつきに「絶対の幸福しかない世界」に交わることができるのです。始めは疑いながらでも構いません。1、2遍の念仏では その境地に達することができないので、生涯唱え続けよと教えられるのです。死んで遺族に唱えてもらう念仏でなくて、生きてる間に唱える念仏だから幸せなのです。 どうぞ、この世的な地位や名誉、財産等という「相対の幸福(他と比べて満足する幸福)」を捨て、魂救済の「絶対の幸福(この世とあの世を貫く幸福)」に目を向けて生きてみましょう。「水」の如く、とらわれることのない感覚で念仏を唱えれば、魂が喜びます。その身そのままで救われるのですから・・・あとは幸福観を少し変えるだけです。合掌

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立春

冬と春の変わり目「節分」の翌日が「立春」となります。旧暦では、一年の始まりは「立春」からと考えられていました。昔は「節分=大晦日」で、「立春=元旦」だったことから、年賀状に「迎春」「初春」と書くのは、その名残りからきています。 私事ですが、数日前に誕生日を迎え、多くの方から温かい励ましや、プレゼントを頂戴しました。皆様のお心遣いに心より御礼申し上げます。その中のお一人から、こんな話を聞かせていただきました。それは、アフリカのある部族では、プレゼントをあげた側の人が「ありがとう」とお礼を言うのだそうです。なぜ、あげた側なのにお礼を言うのか?理由はこうです。誰かに贈り物ができる、つまり、恵むことができるということは、すでに自分は恵まれているという証拠だから。また、プレゼントをしたくなるほど「大切な人」がいてくれることの幸せに喜び、感謝するのだというのです。 思えば南無阿弥陀仏も同じです。本来は「往生(死後の魂の救い)」を求めるのが念仏ですが、しかしお唱えする時点で、もう阿弥陀仏の慈悲に包まれてます。それは、遠い過去からの様々な「縁」によって今、救いの道にたどり着いてる訳ですから・・・それを感じた方が心から唱えた念仏は、究極の御礼「ありがとう」を意味しているのだと存じます。「往生の念仏」「感謝の念仏」といった議論は抜きにしても、多くの南無阿弥陀仏を唱えられる人生こそ幸せな生き方です。朝起きた時、寝る前、三食の前後、出勤帰宅の際、感謝や節目の折々、意識をして十念をすれば軽く100遍は越えます。これを生涯に渡り続ける方と、そうでない人の「幸せの差」は・・・考えるだけでも恐ろしいですね。やはり「大切な存在(阿弥陀仏)」を持つことで、「絶対の幸福」が得られるのです。 「立春(旧元旦)」を迎え、今年一年、沢山の「ありがとう」の心を持ち、また私も、多くの「ありがとう」を受けられる「大切な人」になりたいと思いました。改めて、今年も宜しくお願いします。合掌

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