月別アーカイブ: 6月 2012

夏至

今日は「夏至(げし)」です。1年の中で最も昼間が長く 夜の短い日で、「 冬至(とうじ)」(12月22日頃)に比べると、昼間の時間差は4時間50分もあるそうです。私はもちろん日が長い方が好きですが、夏至と冬至のどちらが好きかと聞かれれば、なぜか「冬至」と答えてしまいます。わけは「冬至」はこの日を境にどんどん日が長くなり、先に希望が見えてくるからです。一方「夏至」は、その日が頂点で、これから暗くなるイメージがあるからです。 この考えは、仏教の影響からきていると思います。例えば、浄土宗の総本山は「知恩院」ですが、徳川家が建てた立派な大殿のてっぺんには、不自然な2枚の瓦がのっています。この瓦は、名工・左甚五郎(ひだりじんごろう)が【 完成したものは滅びに至る】・・・ とあえて瓦を残し、未完成にした為だといわれます。完全な姿 に造ってしまうと、繁栄の頂点を意味し、それから後は下り坂を 意味するからだそうです。西願寺の「骨佛」の壁画もあえて「二十五菩薩」から、「二十四菩薩」にしてるのもこのためです。(西願寺の七不思議③参照)物事は、ここが頂上だと思うと上手くいかなくなるものです。 先日「ノミの特集」がテレビでやってました。サーカス用のノミは訓練の最初の段階で、背の低い箱に閉じ込められるそうです。ジャンプすると頭を箱の天上にぶつけるので、その箱の高さ分だけしかジャンプしなくなります。その後、箱を取り払っても箱の高さ分だけしかジャンプしなくなります。本当はもっと高くジャンプできるはずなのに飛べません。自分で壁を作ってしまうんですね。現状が完全だと思うと、伸びなくなる例えだと思いました。 本日は「夏至」の悪口みたなブログになってしまいましたが(笑)、私が言いたかったことは、この世の中には「完全なのもの」はないということです。昼間が最も長い「夏至」であっても、梅雨時で日の長さをあまり感じません。要は、現状を完璧だと思い、おごり高ぶること…これこそが、我々の敵であります。日々の精進に勝るものはありません。 最後に、法然上人のお言葉を紹介いたします。 一丈の堀を越えんと思う者は、一丈五尺を越えんと励むべきなり 合掌      

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父の日

今日は「父の日」です。父親に対し感謝を表す日とされ、1909年、米国のドット夫人が「母の日が制定されたのに父の日がないのはおかしい」と「牧師協会」へ提唱したのがきっかけだそうです。しかし「母の日」に比べて地味で忘れがちな日です(笑)。ある花屋さんにお聞きしても、母の日の贈花の出荷数の30分の1程度というから驚きです。それほど「父の存在」は薄いのでしょうか。 昔、祖父から「艾(もぐさ)と苺(いちご)」という話を聞いたことがあります。「艾と苺」という字は「父と母」の漢字に「草冠(くさかんむり)」を付けた字であり、草冠の下(心の中)に秘められた父母の姿、思いがここにあるんだと教わりました。つまり「苺」は甘くて酸っぱい。優しさと厳しさのある母親のような味がします。これに対して父親は「艾」のような存在です。お灸をすえてびしっと躾けるのが父親の役割というのです。 昨今は「父の威厳」がなくなったと言われて久しくなりました。まず、給料が銀行振り込みになり、母から父が小遣いをもらうようになって、家庭の中で父親の存在感が薄くなったといいます。さらに「雇用機会均等法」や「男女共同参画活動」ができ、家事もできる融和的なマイホームパパ(兄弟のような親子付き合い)が推奨され、子供に対しても威厳がなくなってきたといいます。これも時代の流れでしょうが、お寺はまだ旧態依然です。お布施のカード払いはありません。(ご本尊にお供えしてからお寺に納めるからです)また立場上、僧侶は外での布教、家族は寺内を守るという役割がはっきりしています。 やはり、私(僧侶)の使命は「布教活動」だと思っています。父として家族を命懸けで護るのは言うまでもありませんが、やはり僧侶である以上「佛さま第一」であります。「家族第一」ですと、尊いお布施が商売になってしまいます。私の現状は「自坊(西願寺)」と「奉職寺院」を往復伝道し、「琵琶説教」では、今年の上半期で2100名余りの方々に布教いたしました。これが「佛の手足」である私自身であり、それ(仏事)を支えてくれる家族を思うと、感謝の心が沸々を湧き上がります。僧侶である私は「父の日」を「家族(サンガ)への感謝の日」であると思ってます。普段は「艾」のように「ふにゃ」としている私ですが、佛さまのことになれば、お灸のように「ぴりっ」とした存在でありたいと思います。そして、それを支えてくれる皆々様に、心より感謝申し上げます。合掌  

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時の記念日

6月10日は「時の記念日」です。この由来は、人々に時間を尊重する意識を持ってもらおうと、1920年に生活改善同盟会がこの日を「時の記念日」に制定したのが始まりだといいます。 『日本書紀』よると、天智天皇が10年4月25日(太陽暦671年6月10日)に近江の大津宮(滋賀県大津市)に水時計を設置されたとあります。当時は2人交代で水の量をチェックし、鐘や太鼓で時報を知らせていたそうです。現在は一日を24等分して数字でいいますが、昔は12等分して区切った時刻を、十二支に当てはめられていました。丁度、太鼓の音が8つ鳴らされる時間(午後1時から3時)になると、お腹がすいてきて軽食を取ることが多く、それを「御八つ(おやつ)」と呼ぶようになりました(笑)。昔の方は、規則正しく、時間を大切にしながら生きてらっしゃったことが伺えます。 お釈迦さまも『無量寿経(むりょうじゅきょう)』に「臨終する時に、後悔と恐れが、代わる代わるおこってくる」と、時間の大切さを説いておられます。 私はよく、人生を「飛行機」に例えます。想像して頂きたいのですが…おぎゃっと生まれた時が、空港を飛び立った時。機内では少しでも快適に過ごそうと、人々は映画や音楽を楽しみ、また美味しい食事や景色の良い席を取ろうと躍起になります。しかし空の旅は、いつも平穏無事ではありません。乱気流や暴風雨、機体のトラブル、さまざまな不測の事態も待ち受けています。会社の倒産やリストラ、不慮の事故や病気、愛する人の離別や死別、嫁や姑の交戦など。それらと悪戦苦闘しながら、それでも私たちは少しでも長く、快適な人生飛行を楽しみたいと願っています。 しかし、飛行機の燃料は、無尽蔵ではありません。やがて尽きる時が来ます。私がいつも申すのは「皆様はその時、果たして安全な着陸地は確保されているでしょうか?」ということです。まさにお釈迦さまのお言葉の真意はここにあると思うのです。私という飛行機は、快適な飛行を楽しむといった「どう飛ぶか(生き方)」も大事ですが、もっと大切なのは「着陸地(目的)」をハッキリさせることにあると思います。 飛行機に墜落以上の大事なことがないように、人生に死ぬ以上の大事なことはありません。人生の終幕に、真っ暗な後生(次の世)に驚いても後の祭りです。仏教では、死後の世界の大問題を解決してこそ、人生の究極の目的だと教えられています。それらは燃料がなくなるまでに、解決したい問題であり、明るい来世を考えながら生きていくこそが、本当の意味での時間を尊重する生き方だと思います。仏教は、その方法(阿弥陀仏の救い)が説かれているんです! 西願寺では、骨佛の生前予約を受け付けております。「人生の目的地」をハッキリさせて、共々に輝かしい時間を過ごしませんか? 南無阿弥陀仏 合掌

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芒種

本日の暦は「芒種(ぼうしゅ)」です。芒種とは、芒(のぎ)【穂が出る穀物】の種をまくのに適した日をあらわします。ちなみに芒種から5日後を「入梅(にゅうばい)」といい、梅雨入りとなります。しとしとと降り続く長雨が「縁」となり、あらゆる植物をいきいきと生かしてくれる時季であります。 仏教でも「種まきの重要性」が説かれており、それが有名な「因果の道理」(原因結果の法則)であります。これは「幸も不幸も、自分に現れる結果の一切は、自分のまいた種ばかり」ということです。しかし人々は言います。「こんなに頑張っているのに、なぜ報われないの?」と。個々の努力の度合いはわかりませんが、この法則で大事なのは、因果の道理の間には「縁」というものが隠されてることです。「因縁」という言葉があるように、因と縁が合わさって、結果が現れることを知らねばなりません。種が発芽し育つには、日光や土、水などが必要なように、縁なしには、どんな結果も生まれないのと同じであります。 私が奉職しているお寺は、国宝をまつる京都の拝観寺院です。有意義な観光をしてもらうには、寺内の者による説明や見所を聞くか聞かないかでは、楽しみ方が何倍と変わってきます。(もちろん個人で楽しみたい方があるのは承知です)ひとりでも多くの観光客に喜んでもらおうと思うのですが、挨拶を無視されては縁ができず、お声がけすらできません。そういう方に限って、晴れないお顔で帰られるのを目にします。つまり、お寺に来る「因」があっても「縁」がなければ、喜びという「果」に結びつきにくいのであります。 「縁」は、心を開くことから始まると思います。いくら良い種(因)をまいても、自分にだけ都合良く育てたら、偏った花しか咲きません。あえて心を開き、周りから沢山の養分や肥料(縁)をもらうことで、力強い、感動の大輪が咲く(果)のではないでしょうか。 本日の「芒種」は、稲などの芒【穂が出る穀物】の種をまくのに適した日ということで、最後に一句ご紹介します。 実るほど 頭(あたま)の下がる 稲穂かな 稲が実を熟すほど穂が垂れ下がるように、人間も徳が深まるにつれ謙虚になるという真理です。実が熟されたお方は、様々な「縁」に育てられたことに感謝されていることと存じます。合掌    

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