月別アーカイブ: 4月 2013

伝統の精神

新年度となり、新たな環境で精進されてる方も多いことと存じます。奉職寺院にも新僧侶が2人 修行に来ました。なかなか優秀な人材ですが、この緊張感が永く続くことを願います。この時期にいつも思うのは、指導の難しさです。最近、体罰問題が大きく取り上げられていますが、かといって「どんな問題を起こしても排除されることはない」という安心感は、甘えを生じさせます。安住してあぐらをかけば、人間 そこでおしまいです。上に立つ者も、信念がなければ 指導が難しいのではないでしょうか。 その点、お寺の良さは「伝統」があるところです。「住職」というように、寺院に住んで 精神を守り続けてくださる存在は尊いものです。学校では、校長が同一校に5年以上勤務することはまずないようです。このことから、公立学校では着任した校長が長期展望に立って戦略を描くことが出来にくいと聞きます。生前、校長をしていた祖父は、問題さえ起こさなければ「論功行賞」として本人が望む学校に移動できる・・・これでは管理職の「事なかれ主義」や「隠蔽体質」が助長され、学校経営が守りの姿勢になり、積極的な「校風の継承」が出来なくなると嘆いていたことを思い出します。 こんな言葉があります。「一年先を思いては花を育て、十年先を思いては木を育て、百年先を思いては人を育てよ」 私達は、日々の安寧を当たり前のように考えますが、それらは歴史の積み重ねの恩恵であり、先人、先祖への感謝を忘れるべきではありません。自分だけが良ければ他がどうなろうと構わないという考え方では、安定し、秩序が保たれた豊かな社会を築くことはできません。それぞれが自己の責任を果たし、国や社会、他の人々のために自己犠牲を厭わない人材が多ければ多いほど、社会は豊かになります。 新年度に入り 新僧侶が入ってきましたが、「伝統の精神」を伝えられればと思っています。こちらも勉強です。合掌

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清明

「清明(せいめい)」です。全てが柔らかな「光」に照らされる頃をいい、様々な花が咲き乱れ、絶好のお花見シーズンです。京都 嵯峨野にある 奉職寺院の桜も満開で、多くの観光客で賑わっています。 ところで、光を観ると書いて「観光」ですが、この語源はご存じでしょうか。この「観光」という言葉は、中国の『易経(えききょう)』という古い書物にでてきます。元々は「君主の威光を観る」。つまり、観光とは 本来、人の魅力を見に行くという意味だったのです。先日の西願寺チャリティーコンサートでも、琵琶を聴かれた参列者が「観光地に来たみたいや」と喜んで下さいましたが、本来の観光とは そのような感覚ではないでしょうか。遠くの名所に行かなくても 人の魅力に出逢えれば、それが観光となるのです。 確かに「光」という文字は、「人」の頭の上から5方向へ光線(オーラ)を発する様子を表した象形文字です。また、仏像の後ろの光を「五光(ごこう)」といいます。[後光、護光、御光とも] つまり、自らが光れば、その光は 関わった人すべてに共鳴するものであって、人間はその「光」を出す努力を 惜しんではいけないと思います。実際、オーラが出ている人の元には、光見たさに 沢山の人が集まります。 陶芸家の河井寬次郎先生は「一人光る。みな光る。なにも彼も光る。」という言葉を遺してらっしゃいます。職場の中でも、みんなでやろうと言わなくても、私一人、まずコツコツとやる。そのひたむきな姿に共感者が現れてきて、いつの間にかみな光る。そして、さらにそれを徹底して継続をしていると、何もかも光るようになる。この順番です。人間は 義務や役目でやらなくてもいいことがどれだけやれるか ということが人格(オーラ)に比例しているのだと思います。 お念仏も同じです。僧侶は南無阿弥陀仏を多く唱えて 偉くなったように錯覚しますが、そうではありません。法事等でのお役目の念仏は 多いかもしれませんが、自らの念仏をどれだけ唱えているかと言えば 汗顔の思いです。そう考えるならば、我々も一般の方と同じ条件です。もっと謙虚にならねばなりません。自らが光るように、また 阿弥陀様の慈悲に照らされて輝けるように精進したいものです。「清明」 の「光」が目映い時季に、改めて自戒しました。合掌     このブログで、一年間の二十四節季を紹介させていただきました。今後は、年中行事を中心に綴っていきたいと思います。よろしくお願いします。再拝  

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