東日本大震災から10年

東日本大震災から10年が経ちました。「十年ひと昔」とはよく言いますが、もう10年、まだ10年、ようやく10年。さまざまな思いが聞こえてきます。思えば 西願寺における布教の原点は ここにありました。この体験から 住職が思うことを世に発信していこうと思い ブログを始め、タイトルを『平成 方丈記』と名付けました。もう ” 平成 ” ではないのが、時の流れを感じます。

古典の『方丈記』には、「恐れの中に恐るべかりけるは、ただ地震なりけり」(最も恐ろしいものは地震だ)と書かれています。地震によって生活が一変してしまう現実は、800年前も今も 変わらないようです。「平凡な毎日は続かない」と知らされると、「自分にとって、幸せって何だろう?」と考えさせられます。

鴨長明が、世の無常と人生のはかなさを
随筆として著したのが『方丈記』です

本日は『方丈記』(鴨 長明)の一節をご紹介します。
方丈庵に住んで5年。この山に住み始めた時は、「しばらくだけ」と思っていましたが、もう5年も過ぎてしまいました。仮の庵も、だんだん住み慣れて、屋根の軒に落ち葉が厚く積もり、土台に苔が生えてきました。

たまたま、何かのついでに、都の様子を聞いてみると、この5年間に、身分の高い人が、たくさん亡くなられたことが分かりました。まして、一般の人が、どれだけ死んでいったか、数え切れるものではありません。また、都には、何度も火災が発生しましたので、焼けた家が、どれだけあるか分かりません。

でも、私の、この方丈庵は、安らかで、火災の心配はありません。どんな豪華な家を建て、財産を蓄えても、火災、竜巻、地震などで、あっという間に消えていく喜びであることを知っています。いつまでも長生きしたいと願っても、病気、けが、事故、災害、戦争などで、いつ死んでいくか分からないことを知っています。だから、儚い命、短い人生を、欲や怒り、愚痴のために、振り回されたくはないのです。家や財産、名誉や地位が、多いとか、少ないとか、そんなことにとらわれずに、心から喜べる幸せ、安心を求めていきたいのです。
(『こころに響く方丈記』より 木村耕一 著)

下鴨神社には、鴨長明の方丈庵が復元されています

昔も今も人間の本質は変わらないんだと思います。現代は 目まぐるしく変化する世の中ですが、チャールズ・ダーウィンは「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びる者ではない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である」と説きます。結局 我々は「諸行無常」の中で生きているのです・・・その真理を知れば、自分にとって何が大切なのか 幸せなのかが見えてくると思います。

私達は時間を取り戻すはできません。死ぬ時節もわかりません。一切の現象を止めることが出来ません。先がわからない中で生かされるのが人間界の苦しみであり、修行です。さすれば人間にとって大切なもの(感謝、有り難う、ご恩、おかげさま)だけは心に留める精進をし、心から喜べる幸せ、安心を求めていきたいものです。「諸行無常」の中で、唯一変わらぬ仏法真理を 共に分かち合えれば幸甚です。合掌

心より震災被災者のご冥福をお祈り申し上げます。南無阿弥陀仏

東日本大震災10年にあたり、産経新聞より取材を受けました。
現在、私の手元には原本がありませんが、信徒様がメールをくださいました。
届き次第、正式に掲載しますのでご一読くだされば幸甚です。

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老いについて考える

2月になりました。緊急事態宣言が延長されるなど、相変わらずコロナの影響を強く感じる日々です。皆様、いかかお過ごしでしょうか。

住職も1月に誕生日を迎え、また一つ年を取りました。一休禅師のお言葉に、
「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」とあります。
昔は数え年で、年が明ける元旦で一つ年をとる計算法でした。門松を飾る(正月を迎える)ということは、一歩づつ死(冥土)に向かっているのだ。はやく真理に目覚めて 心安らかに生きなさい!という一休さんからの教訓です。現代で言うところの誕生日ケーキが 門松にあたる感覚でしょうか。

私は阿弥陀仏信仰なので 冥土(死)に対して それなりの覚悟を持ってますが、それより怖いのが 世間の価値観が大きく変わっている現実です。この世相において 老いることに不安に感じます。これこそが魂の器を広げる修行であり、この世に生まれてきた意味なのだと思いますが・・・現代の風潮は、過去の価値観を否定し、目上の方をこけ下ろし、一つの過ちでその方の全てを抹殺する、、、まるで修羅界のようです(汗)。昔のありがとう、お陰さま、ご恩、感謝の日本人はどこに行ってしまったのか?というほどの変わりようです。46歳になり、上下世代の良さも悪さも知っている私は、それがうまく融合できないかと考えてしまう今日この頃です。

一休さん
昔、懐かしのアニメですが、様々なエピソードも、人間社会の葛藤を乗り越えた結果なのだと存じます。

世代間ギャップについて面白い言葉がありますので ご紹介します。
「18歳と81歳の違い」
・道路を暴走するのが18歳、逆走するのが81歳
・心がもろいのが18歳、骨がもろいのが81歳
・偏差値が気になるのが18歳、血糖値が気になるのが81歳
・受験戦争で戦っているのが18歳、アメリカと戦ったのが81歳
・恋に溺れるのが18歳、風呂で溺れるのが81歳
・まだ何も知らないのが18歳、もう何も覚えていないのが81歳
・東京オリンピックに出たいと思うのが18歳、東京オリンピックまで生きたいと思うのが81歳
・自分探しの旅をしているのが18歳、出掛けたまま分からなくなって皆が探しているのが81歳
・ドキドキが止まらないのが18歳、動悸が止まらないのが81歳
・恋で胸を詰まらせるのが18歳、餅で喉を詰まらせるのが81歳
・道路を暴走するのが18才、逆走するのが81才
・「嵐」というと松本潤を思い出すのが18才、鞍馬天狗の嵐寛寿郎を思い出すのが81才

60年の差があると これほど見方が変わるんですね(笑)。しかし、世代によって考え方が変わるのは 今に始まった事ではありません。2600年前のお釈迦さまも「老い」の苦しみを説いてらっしゃいます。僧侶として十分勉強したつもりでしたが、最近 目上の方と話していると、老いの苦しみは 衰えや病気、あるいは死に向けての恐怖だけではないと気付きました。それは時代に対応できない孤独です。時代の流れと共に価値観が変わり、今までの言動では老害扱いされてしまい、「孤独」の苦しみに苛まれる方が本当に多くいらっしゃいます。「浦島太郎」なんて その典型の話かもしれません。身体はそのままで 新しい時代を迎えても、必ずしも幸せではないのだと存じます。やはり、自分が生きた時代が一番いいのだと思います。

私はまだまだ中年の部類ですが、目まぐるしい時代の変化に 老いに対する考え方が深くなってきました。できるだけ 縁ある方に寄り添うように心掛けてますが、時代の流れは如何ともし難いものがあります。そのような移り変わりの人間界で変わらぬもの・・・それが「手を合わせる心」です。最終的にこれしかありません。敗戦国として精神を骨抜きにされた日本。さらにコロナでの文化破壊は加速の一途です。しかし、幸せの妙法(ありがとう、お陰さま、ご恩、感謝)だけは心に留めたいと思います。合掌

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丑年の心構え(令和3年)

新年あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願いします。さて、毎年初ブログは十二支に因んだお話をしてますが、今年の干支は丑(うし)です。丑年はどのように生活すればよいのでしょうか。

古来より丑年は忍耐が必要であるとされます。現在の世界情勢や景気を考えても、今年は耐えることが求められそうです。ですから 焦る気持ちを抑え、さらなる発展に備えるための年となるでしょう。昨年は子(ね)年で、良くも悪くも最初の一歩を踏み出しました。最初の一歩を踏み出した時、もう片方の足はまだスタート地点にあります。ですが丑年で二歩目を踏みだすと、完全にスタートから離れ後戻りはできなくなります。丑年を迎えるにあたり、これから12年の目標を確認し、そのための基礎を作る心がけが大切と心得て下さいませ。

また、牛は十二支の動物の中で最も歩みの遅い動物です。ですから 先を急ぐのではなく、着実な一歩を大切にしていかなければなりません。反芻(はんすう)を繰り返しながらの土台作りが大切ですね。私は物事を進めるときに、魔が差さないよう「おい、あくま!」と念じつつ取り組んでいます。

お・・・おこるな
い・・・いばるな
あ・・・あせるな
く・・・くさるな
ま・・・まけるな

西願寺は、今年、授戒会の年です。準備委員会の皆様が懸命に動いて下さり、80人以上のご参加を申し込んで下さいました。時節柄、なかなか難しい舵取りになりそうですが、未来のお寺にとっては、本当に大事な年になると存じます。それこそ忍耐の年になりそうです。怒らず、威張らず、焦らず、腐らず、負けないで精進して参ります。本年も宜しくお願いします。合掌

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牛頭天王像の安置(廣峯、八坂、今宮、津島の御魂をご勧請)

本年最後のブログです。今年はコロナウィルスが全世界に猛威を振るい、現在も継続中です。人間が想定していた色々な出来事がもろくも崩れ去ってしまい、これほど「諸行無常」を感じた年はありません。今年一年、コロナだけが思い出となるのは嫌です。未曾有の年となった令和2年の総決算として、疫病封じで名高い 牛頭天王(ごず てんのう)の仏像を製作しました。

牛頭天王像(昭憲念持仏)

牛頭天王とは、お釈迦さまが説法を行った祇園精舎の守護神で、とてつもない霊力を持たれた神仏です。古来より 日本でも牛頭天王信仰は盛んでしたが、明治時代の廃仏毀釈で牛頭天王はスサノオノミコトと同一化され、その存在は人為的に消されてしまいました。今でも各地にある祇園社、八坂社という神社は牛頭天王をお祀りしていた名残になります。では牛頭天王の御魂はどこにいかれたのでしょう? その存在を探してらっしゃる方に、霊能者の桜井識子さまがいらっしゃいます。この方によれば、現在 そのご存在が確認できる神社は4社あり、廣峯神社(姫路)八坂神社(京都)今宮神社(京都)津島神社(愛知)と言われます。私は、この仏像を通じて4社の御魂と交流をしたく、出来上がった念持仏を持って 4神社で神恩感謝のご祈祷をしていただきました。

4社でご祈祷後の念持仏
眼力が変わりました・・・
廣峯、八坂、今宮、津島の牛頭天王が宿って下さってるのを感じます。
【念が強いため、しばらく秘仏といたします】

普段は住職が様々なご祈祷をする側で、逆にしていただくのは緊張しました。何が不安かと言えば、それぞれの神社で私の念いを受け止めて下さるかということです。僧侶が仏像のご祈祷をしに神社を回るというのは滑稽かもしれません。しかし、私はいたって真剣です。このブログ内で笑われるのはいいですが、失礼ながら4神社でその願いを受け止めて下さるかが本当に不安でした。各神社ではそれぞれ応対して下さり、無事にご祈祷いただきました。無理を申したにも関わらず、丁寧に応対してしていただいた各神社には心より感謝申し上げます。逆に言えば、皆様方が住職の所に依頼して下さる願いは切実で、私にとっては多くの中のお一人ですが、皆様方にとっては真剣そのもの・・・丁寧に受け止めることが大切なことだと学びました。

先述の牛頭天王の功徳を伝えて下さった桜井識子さま。お話がしたくて仕方ありませんが、お姿を隠してらっしゃるのでお出会いできる術はありません。しかし 知らぬ間に会っていたようです。著書で私の印象を語って下さってる文章がありましたのでご紹介します。私が勤めている寺院を参拝され、その感想を述べられた後の追記部分です。

と、ここで終わるような書き方をしていますが、もうひとつ、絶対に書いておきたいことがあります。
こうして私は結構長い時間を本堂で過ごしました。最初は受付に女性が1名だけでしたが、後から僧侶の方が1名来られて、受付には2名おられました。何事かお仕事の話をされていたようでした。
私は本堂でずっとひとりでしたし、あっちを見たりこっちを見たり、また戻ってこれを見て・・・というふうに思いっきり見学させてもらっています。ですから、本堂を出る時に会釈だけでもしておこうと受付のほうに顔を向けました。
こちらが頭を下げる瞬間に、お2人ともが ” にっこり! ” と音がするくらい、とびきりの笑顔で頭を下げられたのです。その瞬間に心の中にお花が咲いたような、ものすごい温かいものを感じました。
最後の最後までなんて素晴らしいおてらなんだろう、と思いました。お釈迦様の波動が行き渡ったお寺です。
朝一番の参拝だったので、良い心に整えていただけてありがたかったです。このお寺をでて普段ならちょっとイラッとするであろう出来事がありましたが、全然腹が立たず心は平和なままでした。ここのお釈迦様は本当にすごいです。

(『京都でひっそりスピリチュアル』宝島社 桜井識子)


八坂神社本殿の上に、口を開けた狛犬が出て下さいました。
桜井識子さまも同著書で八坂神社の狛犬と対話をされています。

牛頭天王はお釈迦さまの守護神。私も清凉寺(嵯峨釈迦堂)で釈迦如来像に仕えて25年なりますが、様々な寺社仏閣を巡られてる識子さまより 釈迦如来像の波動と一体になってるとお褒めいただいてました。このお言葉を励みに、微力ですが 様々な悩みを抱えた方の念いを受け止められるよう精進致します。来年は皆様にとって さらに良い年であるよう、心よりお祈り申し上げます。佳いお年をお迎え下さいませ。合掌

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信じることの幸せ

コロナウィルスの蔓延が また活発になってきました。第三波の到来とも言われ、先行きが見えない不安に世間のイライラを感じます。コロナ禍が続く中、特に若い女性の自殺者が増えているようです。30代以下の女性の8月の自殺者数は193人と前年8月に比べ74%も増え、10代では去年の3.6倍にも上るようです。

西願寺も住職がご祈祷や護符、姓名判断をかじっていることが口コミで伝わってか、例年にないほど悩み相談で来寺される女性の方が増えました。私も時間が限られてますので十分な事ができませんが、結局、念力や占いというものを超えて 話したいという思いでリピートされる方が多い傾向にあります。人間は深い部分で共感してくれる人を求めてるんだ … と思う今日この頃です。

西願寺には昔話でおなじみの六地蔵が居られます。
6体とも笑顔で、参拝者の心を和ませて下さいます。

悩みの根源に多いのは ” 疑いの心 ” です。コロナ蔓延で国をあげてのリモートワーク(遠隔での仕事)が推奨されてます。SNSの普及で便利になり 世界が広がったように見えますが、結局 人間同士の本質的な付き合いではなく、バーチャルの世界では 人を能力や興味の対象として見てしまい、用が済めば使い捨て状態 … 発信者は その期待に応え続けることに疲れてしまい、最終的に 一番大事な現実の運気を下げてしまってる方が多いように見えます。常に魅力的で いい人を続けなくては認めてもらえないんじゃないか … 時代の流れに乗り遅れるんじゃないか … 勝ち組に入らなくてはならない … という焦りと、他者に対する ” 疑いの心 ” が本当の自分を見失い、不安や孤独を生んでいるのではないかと思います。

DJあおいさんのお言葉です。
疑う人は裏切られますよ
なぜなら裏切られるまで疑うからですよ

悪い予感ほどよく当たるのは
不幸しか信じていないからですよ

例えば恋人のスマホを覗き見たとして
そのスマホの中に不安を裏付けるものがなかったとしたら
『よかった、何もなかったんだ』と安心できるでしょうか?

疑う人はそれで安心することはありません
スマホ以外のところに不安を証明するものを探すだけです

不安を裏付けるものが見つかるまでずっと疑心暗鬼なまま
その人がどんなに潔白を証明しても安心することはないでしょう
なぜなら『幸せ』というものが信じられないからですね

幸せというのは薄氷の上にいるようなもの
不幸というのは揺るがない大地にいるようなもの
幸せはときに裏切るけど、不幸が裏切ることはありません
裏切られることを過剰に恐れている人ほど
幸せを疑い、不幸を信じてしまうということです

そういう意味で言えば地べたまで落ちてしまった方が楽なんですよ
不幸体質な人というのは不幸の方が居心地がいいんですね
だから『幸せ』というものに疑心暗鬼になってしまうわけですね

自分が幸せであることを信じたからといって
そのまま幸せになれるわけではないけども
自分が幸せを信じなきゃ
いつまで経っても幸せにはなれない

おそらく相談者が住職に求めるのは安らぎであり、信じる心なんだと思います。そこには、私に求める能力や刺激的な現象を超えた、本当の自分を見て欲しい気持ちがあるんだと思います。人は何かを信じてしか生きていけません。食事をするのにも 毒が入っていないことを信じてるから食べられます。車の運転するにしても みんながルールを守ってくれるということが前提だから走ることができます。というように、人は信じることができなくなれば、幸せという心安らかな境地には至ることができません。私にできることは大いなるものに手を合わせて 信仰心を養っていただく為のお手伝いです。現象的には微々たる調整ですが、人間にとって最も大切なことです。少しでも皆様が良き方向にいくよう、心よりお祈り申し上げます。合掌

西願寺では水子地蔵尊の信仰も厚く、
水子供養を依頼される方も多いです。
人に言えない悩みは、みんなお持ちです。
このような時期だからこそ、
一つ一つ不安を解消していきましょう。

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新しい生活の ” 意識と様式 ”

コロナウィルスの脅威を感じるようになり半年以上経ちました。10年後にこのブログを読み返した際、どんなことを感じるんでしょうか・・・コロナ禍が過去のものになっていたとしても、その渦中で目一杯考えることは次なる世代への糧になることと存じます。今を生きている者にとって現在は 未知なる体験の連続です。確固たる答えが見えない中、色々な世代の方とお話をして感じたことを綴ってみます。近代日本人の価値観の変化と言うことについです。

日本敗戦後の経済成長の中で 豊かさを謳歌してきた時代の方々(60歳以上)とお話していると、日本の近代の発展は 「重い・長い・厚い・大きい」ということに重点を置かれていたように感じます。しかし、いつの頃からか「軽い・短い・薄い・小さい」へと様相と様式が変化していき、50歳以下の我々の世代は 「軽便さと安価さ」 に当たり前の感覚があります。まだこれが ” 物の価値 ” ならばいいのですが、もっと若い世代になると ” 心の価値 ” までもが 「軽便さと安価さ」 に疑問を持たず、古来の日本人の美徳である「もったいない」とか「苦労の後に楽の喜びがある」とか「生き甲斐」という 長い眼を持った人生訓 が影を潜めたように思われます。

幼い時に祖父母と見ていた、時代劇・水戸黄門の歌詞が懐かしく感じます。おおらかないい時代でした。

ところが今、私たちは、その「軽便さと安価さ」という意識と様相を変更しなければ 不安の増幅が終息しないかもしれない事態に陥っています。それは コロナウィルス感染症対策の「3密(密接・密集・密閉)」の回避です。
密接の回避 = 私と他者との間柄の物理的離れ
密集の回避 = 集まって顔と顔を突き合わすことの遠慮
密閉の回避 = マスクの着用や手指消毒による、心の窓である口鼻の隠蔽やコミュニケーションの否定

恐ろしいことに、現代人の「心の軽便さと安価さ」と「3密の回避」が合わさり、本来の人間らしさの最も大切な事柄が無くなってしまうのではないかという危惧があります。

この事態を迎えて今こそ、私たちは現代科学文明の欲の光に圧倒され、眩しさの中で何も考えずに「軽い・短い・薄い・小さい」の「軽便さと安価さ」の経済的価値の感覚(物質的価値)だけに走って、人間ならではの大切さ(心の価値)まで犯されようとしていることに気付くべきだ思います。時計の振り子が左右するように、考えが偏ってきた現代人に、大いなるものが幸せのヒントを与えてくれてるように思えてなりません。

しかしお盆以降、お寺の墓地や骨仏、ペット碑にお詣りする家族連れや若者が多く目につき始めました。皆様は「何を思い願って」手を合わせて祈っておられるのか・・・住職は参詣者の心の動きを尊く感じ取っています。皆様方と共に、” 私たちを生かし護ってくれる大いなるもの・阿弥陀様・先祖へ手を合わせ願い頼む心 ” が教え導くことを、新しい生活へのテコの力に応用して ” 意識と様式 ” とを少しでも変えれる努力をしたいものです。現代科学文明の光より尊い、仏の光に意識を向け、縁者が少しでも良き方向にいくようお祈り申し上げます。合掌

西願寺は、逆手にとった3密の幸せを大切にできるお寺を目指します。
密接 = 私と仏や先祖との間柄の親しさ
密集 = 寺詣りをして、仏や先祖と顔と顔を合わす安堵感
密閉 = 心の窓である口鼻がもたらす表情(お念仏の声)

~ ” なむあみだぶつ ” の一声一声は、あなたの心を整え・先祖を守り・子々孫々の繁栄を培う、心のギアチェンジです ~

葬儀・納骨等をお考えの方は、住職の思いや顔が見える当山へ 是非お気軽にご縁をお結び下さいませ。新しい生活の ” 意識と様式 ”をお手伝いできればと存じます。

コロナ禍の中で少しづつ、お寺の整備をしています。
本堂内に個別用の納骨壇を設置しました。
一棚にご遺骨、位牌等を複数安置ができます。
宗教宗派問わず・年会費不要
(15棚限定ですので お早めに)

境内に 本格的なペット供養塔が完成しました。
基本は合祀(中央下からの納骨)ですが、
懇ろな供養をご希望の方は個別棚も設けてます。
他に探してもない安置場です。
(現在は11棚限定ですので お早めに)

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本物の自信

最近はコロナウィルス感染予防の為、密を避けるようになりました。皆様も同じかもしれません。” 人は現状維持の気持ちでは衰退する ” と言います。独りで精進し続けることは難しいものがあります。やはり人と触れあい、影響を受けて成長することも必要です。はやくそのような環境に戻れることを祈ります。そんなことを思いながら、コロナ禍前に体験したことを思い出してみました。

今年1月に こうじょう雅之氏のライブアートにお邪魔しました。この方は、自らを武人画師と名のり、各方面でご活躍されています。どんなことが起こるんだろう・・・と期待を膨らませてましたら、こうじょう氏は 「武人とは覚悟を持つ者。真っ白なところから、それぞれの覚悟を持った武人が生まれる瞬間を味わってほしい」と話され、曲に合わせて20分ほどで武人の姿を描いて下さいました。それは 戦場の霧の中から接近してくる武人が、突如 キャンパスに現れるような迫力でした。

挨拶をされる こうじょう雅之氏

今回は 真田幸村を描いて下さいました

ライブアートの後、各テーブルを巡って下さり、私も色々な話をさせていただきました。彼は 結婚をして30才を過ぎた頃、安定していた運送業をやめ、幼い時から夢だった絵描きになったということでした。「一度きりの人生 楽しまなきゃ!」と豪快に笑うお姿を拝し、同年代の肝の据わり方に感服しました。まさしく武人のごとく「覚悟を持った者」でした。逆に 私は僧侶として、そのお役目を全うする責務があります。夢だからと言って、いきなり長髪金髪のロックンローラーになるわけにはいきません(笑)・・・自由があるというのは ある意味うらやましいですが、積み上げてきた立場を壊して、夢に走るというのは 相当な覚悟が必要です。夢が理想郷とは限らないからです。「自信はあったのか?」と尋ねると、「まったくなかった」とのことでした。

体重100キロを超える、心身ともに大きな方でした。
手には西願寺のパンフレットを持ってらっしゃいます。
当山の毘沙門天像の後絵に こうじよう師の武人画をお迎えできたら…とお話しました。想像するだけでワクワクします。

心屋 仁之助氏のお言葉です。
「自信は足し算じゃ生まれないんです。
むしろ、どんどん引いて、引いて・・・
資格もない、
人に誇れる長所もない、
誰かに自慢できる特技もない。
そんな自分も「認める」ということ。
弱い自分。
ダメな自分。
不器用でおもしろみのない自分。
そんな自分でも「それでいいんだ」と「許す」ということ。
自信は、ありのままの自分を
「それでも、私はすごいんだ」と思うところからしか生まれません。
がんばったから、自信がつくんじゃない。
「自分は、すごい」と思えるから、自信がつく。
どんな自分でも「すごい」と思ってみるんです。
いつまでたっても、
「自信探し」の旅を続ける人になってしまうのでは、楽しくないよね。」

(『がんばっても報われない本当の理由』 PHP研究所)

結局、「自分を認め、許し、すごいと思う境地」は、自らを過信したり、ナルシストになれというのではなく、「自分はこんなに守られているんだ!」という自信から来るんじゃないでしょうか。こうじょう氏も、ご縁に感謝!としきりに仰ってました。つまり、人間はどんな立場になっても、神仏や先祖、様々なご縁に守られてるという感性が大事なのだと思います。そこから踏み出す第一歩(覚悟)が、どの環境に変わっても 一本の筋が通った人生に繋がるのだと存じます。ありがとう、おかげさま、感謝、ご恩・・・こうじょう氏との出会いで、この仏教的な精神が ” 本物の自信 ” を得られる妙法なのだと 改めて学びました。合掌

追伸:現代は ” 変化 ” することが素晴らしいという意見が大多数ですが、逆に ” 守る ” ということも同様以上の大変さがあります。目まぐるしい環境の変化が起こる中、一つのことを続けていくということ・・・とっても地味で、評価どころか批判の対象になる風潮にありますが、これも肝(覚悟)が据わってなくてはできません。私は そういう保守的な方々も応援しています。変化を ” 逃げ ” の口実にならないように、また私欲に走りすぎないように冷静に見ていかなければならないと思います。どんな道でも ” 覚悟 ” と ” 次世代までの責任 ” ・・・この武人の言葉がキーワードです。ふわっとした民意に流されないように、一緒に勉強していきましょう!

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オキシトシン的幸せ

今年のお盆も佳境に入りました。コロナウィルスの影響で、今期の盆参りはどうなるかと思いましたが、西願寺では「むしろお願いします!」と こぞってお参りされる方が多いです。これは一日にしてはならない心境です。歴代住職と各家による 長いながい間の信仰の受け継ぎが成すものです。皆様の熟成されたお心に、こちらがパワーを頂戴しました。

今日は「オキシトシン的幸せ」というお話をします。
脳の仕組みを知ると、幸せになるのは大きく二つの方法があることがわかります。
一つは、目標達成や夢の実現によって得られる幸せで、
これをドーパミン的幸せと呼びます。
もう一つは、オキシトシン的幸せで、親切やふれ合いによって得られる幸せです。

ドーパミン的幸せには、得られたときの喜びや快感が大きいという特性があります。
大好きな野球チームがサヨナラ逆転満塁ホームランで勝ったりしたら、
それこそ大喜びでしょう。
また、一生懸命に勉強してきて、第一志望の大学に合格したときなどの喜びも
これに当たります。しかし、このドーパミン的幸せは長続きしません。
そのうえ要望がエスカレートして、今日も勝ったのだから、明日は連勝だ、
と他者との競争のためにストレスにさらされるなど、マイナス面もあります。

一方、オキシトシン的幸せの方は、他者とのふれ合いや思いやりから生まれます。
電車でお年寄りに席を譲ると、譲った方にも譲られた方にも
オキシトシンが分泌されます。
親切にされた方ばかりでなく、親切にした側にもオキシトシンが出るのです。
そして、こちらは、ほんのりと長続きする喜びです。
(『笑育のすすめ』 百瀬和夫)

今、世の中に蔓延してるのはドーパミン的な幸せだと存じます。自分の夢や欲望に向かって、やりたいようにできることは世間一般に言う幸せです。しかし、ドーパミン的な幸せを求めるがあまり、不寛容な社会が出来上がったのは事実です。

一方、仏教が求める幸せというのは、オキシトシン的な幸せであり、刺激や物質、合理的なものではありません。コロナウィルスが蔓延している時代、現代のお寺は もっとこのオキシトシン的な幸せのアプローチが必要なんじゃないでしょうか? 盆参りに伺うと、他者とのふれ合いに飢えてらっしゃる方が大勢おられます。人々の生活に直に接すると、人間は理想や自己保身だけでは生きていけないんだということを学びます。

諏訪中央病院名誉院長・鎌田實氏はこう仰います。
「オキシトシンとは、『人を幸せにすることでめぐりめぐって自分を幸せにするホルモン』であり、オキシトシンが増えると、人と人との絆は深まり、生きる力が強まる」

どうか、日本国民がこの不自由な現状から足元を見つめ直し、信仰心のある生活(オキシトシン的な幸せ)を喜べる民族であることを切に祈ります。合掌

篤信な信徒様のお布施から、大威徳明王(だいいとくみょうおう)の仏像をお招きしました。
阿弥陀如来の憤怒のお姿といわれ、疫病退散や勝負運に効力を発揮される仏様です。

ご真言は、オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ
ある霊能者から、西願寺の御本尊の下地(金箔塗りの中)に大威徳明王の姿が見えるとお聴きしたことがあり、
仏縁を感じてます。二尊に祈れば、慈悲と憤怒の二つの側面(進歩と調和)で御守りいただけることでしょう。

御本尊の記事

檀家の三方庵さまにお願いして、コロナウィルス退散のお煎餅を作っていただきました。
大威徳明王の前で祈祷をし、壇信徒の皆様にお配りしました。これこそオキシトシン的な幸せだと存じます。

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おかえり

全国の豪雨における被災者の皆様、心よりお見舞い申し上げます。
近年は「50年に一度」といわれる大雨が毎年のように続き、災害映像を見るに付け 心が痛みます。コロナウィルス感染拡大によって、毎日のマスク・手洗いが習慣づいた頃に、特別警報が出るほどの豪雨が追い打ちをかけました。

なかでも見るに堪えないのが、街全体が災害に遭い、消滅してしまう様子です。先祖から護り続けてきた土地、住み慣れた場所を離れ、親しい人々と別れることは、今までの自分を全否定された気分になるのではないでしょうか。昨日まで「おかえり!」と迎えてくれた所がなくなる・・・これは悲しみの中の悲しみだと存じます。

熊本・球磨川水害

熊本・球磨川水害

僧侶の大來尚順住職のお言葉です。
「おかえり」という言葉とは、まさに「よく無事に帰ってきたね」「あなたを待っていたよ」「あなたには、そのままで帰ってこられるところがあるんだよ」というメッセージでもあるんです。

「帰ってこられるところ」の「ところ」とは、家族の待つ家であったり、地元であったり、「場所」の意味もありますが、私は「私はあなたをあなたのまま、そのまま優しく迎え入れて受け止めてくれる人や空間」を指すと思うのです。

私は、この英語では表すことのできない「おかえり」に含まれている気持ちこそ、日本人の思慮深さを表していると思うのです。では、その表現できない思慮深さとは一体何かというと、それは「すべては当たり前ではない」(縁起)と「何が起きるかわからない」(諸行無常)という真理です。

だからこそ、戻ってきた方を見ると、無意識にも当たり前ではない再会が嬉しくて、また有り難くて「おかえり」という言葉が自然と口から出るのです。
(『訳せない日本語』 アルファポリス文庫)

まさに、この世は「縁」と「諸行無常」で成り立ち、人は無力なんだと思い知らされます。すべては一期一会なんですね。これが真理とわかっていても、帰る所がなくなった方々に、励ましの言葉が見当たりません・・・。

こういった状況下、江戸時代の禅僧・良寛師は、災難にあった方の見舞いの手紙に、
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候

と述べられました。

やはり、この世は「縁」と「諸行無常」。現実をありのままに受け入れるしかないのだと思います。これがこの世の悟りです。あとは時間をかけて人々に寄り添い、真理を説くことが僧侶の勤めだと心得ます。そして、来世に「おかえり!」と言って下さる、永遠の幸福しかない世界の行き方をお伝えする・・・自分は一人じゃないんだ。神仏や先祖に護られてる存在なんだと・・・不安定で何が起こるかわからない昨今に、一人でもそんな方を増やせればと存じます。次々と押し寄せてくる災害に、これが宗教の役割だと再認識しました。南無阿弥陀仏

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比叡山に参拝

先日、比叡山にある無動寺に参拝して来ました。このお寺は 千日回峰行の阿闍梨さまが拠点とされてる所で、根本中堂より歩いて約30分の谷にあります。大雨の中でしたが、どうしても詣りたい衝動に駆られて行ってきました。到着は14時30分頃。通常、こんな時間に阿闍梨さまはいらっしゃいませんが、たまたまお勤めをなされてました。(約束をしてませんが、必ず会えると確信して参ったのが不思議です)

ノウマク サンマンダー バーザラダン センダン マーカロシャナ ソワターヤ ウンタラター カンマン・・・

霊験あらたかな不動明王の前で、しばらく阿闍梨さまと一緒に真言を唱えてましたら、「情けは人の為ならず・・・」と聞こえたように感じました。「情けは人の為だけではなく、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ」という意味です。よく「情けをかけることは、結局その人の為にならない(ので、すべきではない)」と解釈する人もありますが(笑)、親切にすることの大切さと説く諺です。

この言葉は私の心に響きました・・・コロナ禍の現在、 ” 寄り添っての親切 ” ができにくくなり、僧侶としての存在意義を自問自答していました。こんな時期なのに 何もできないジレンマがあります。私だけではなく、今、皆さんが 漠然と心にモヤモヤを持たれてるとしたら、根底はこの部分があるのかもしれません。経済的な苦しみはもちろんありますが、人間としてのふれあい(仕事、趣味、娯楽)が強制的にできなくなったり、また 人が喜んでくれることが できにくくなってる現状にストレスを感じ、苦しんでらっしゃる方が多いのかもしれません。今は 皆が指針を失っている状態です。

大阪大学の教授が検証し、アメリカの科学誌に発表された実験があります。
保育園で5歳~6歳の子供を対象に行われたのですが、「同じ歳の子供が、親切な行為をしているのを見た時、その親切を行った子供に対して優しく接する」というもので、親切な行為をした子供と、そうじゃない子供を比べると・・・

なんと、約12倍!
親切をした子供の方が、その後、親切にされる回数が高かったそうです。

この実験結果から想像できると思いますが、人に感謝されることをして、感謝をされて、今度は自分が有り難いことをしてもらった時にも きちんと感謝を伝えて、また喜んでもらえることをして・・・この流れを自然にできるようになると、人は見返りなんかどうでもよくなくなり、自然に幸せを感じているというのです。

今はコロナの影響で、そような自然な流れが立ち消えてしまいました。人間はいったん先を見失うと、動きたくなくなるものです。しかし、人に親切を施すことは 道徳や倫理ではなく、幸福になる方法論です。まして12倍の幸福が得られると思えば、その努力は楽しいものになるのではないでしょうか? 

一隅を照らす、これすなわち国宝なり(比叡山・最澄)

国民ひとり一人が 今 置かれている場所で、自分ができる親切をする気概を持てば、世の中が寛容な社会になっていきます。なんでも批判的、合理化されつつある現代に、いま一度 足元を見つめよ! 原点に返れ!と、不動明王から 今を生きる指針を教えていただきました。合掌

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