雨水

「雨水(うすい)」となりました。これは空から降る「水」が、雪から雨に変わる頃をさし、「雨水」になるになるという意味が込められています。

水は不思議です。冷やせば氷となり、熱せば水蒸気になります。ある時は液体で、ある時は固体、ある時は気体にもなる。これら水の変化は、どれもが水の本当の姿であり、その変化に中にも「H2O」という本質があるから、いつまでも水が水であり得るのです。もし水を冷やして大根になり、熱せば猿になるなら大変です!(笑)。

我々の「本質」も同じです。人間は「魂」が肉体に宿った存在であって、外見の中にある、目には見えない部分こそが「真実の自分」なのです。水で喩えると、肉体に宿っている間は  氷のような固体の姿を取っていますが、やがて死を迎えて肉体を去ると、水蒸気のような普遍の存在になるイメージです。水(H2O)という本質は変わらないように、我々の本質も「魂」であるからこそ、芯の部分は変わらず永遠の存在でいられるのです。「輪廻(りんね)」という生まれ変わりの思想がありますが、次に生まれ変わる世界が畜生であっても、動物そのものになるのではなく 仮に魂が宿るだけで、死した後、魂の存在のまま また違う世界に生まれ変わるのです。

人間は長く生きても100年程の存在です。ならば我々は「自らの本質(魂)」の救済について、もっと考えてもよいのではないでしょうか。今、その方法が説かれてるのですから。毎日の生活に追われ、そこまで眼を向けられる方は少ないようですが、宗教はそういう部分に警鐘乱打しているのです。何も怖いものではありません。

全ては自分自身の問題であり、他人事ではないのです。

仏教では、阿弥陀仏にすがる事によって「自らの本質(魂)」丸ごと救って下さると説きます。一心に南無阿弥陀仏とお唱えし「アミターの光」に包まれたあかつきに「絶対の幸福しかない世界」に交わることができるのです。始めは疑いながらでも構いません。1、2遍の念仏では その境地に達することができないので、生涯唱え続けよと教えられるのです。死んで遺族に唱えてもらう念仏でなくて、生きてる間に唱える念仏だから幸せなのです。

どうぞ、この世的な地位や名誉、財産等という「相対の幸福(他と比べて満足する幸福)」を捨て、魂救済の「絶対の幸福(この世とあの世を貫く幸福)」に目を向けて生きてみましょう。「水」の如く、とらわれることのない感覚で念仏を唱えれば、魂が喜びます。その身そのままで救われるのですから・・・あとは幸福観を少し変えるだけです。合掌

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