父の遺言

今月28日は先代住職の7回忌に当たります。檀信徒や縁ある方々に葬儀を挙げていただいて丸6年。長かったような短かったような・・・一言では言い表せない年月でした。率直に言いますと、かなりしんどかったです。一家の大黒柱を失うというのは、これほど大変なものなのかと痛感しました。この6年の経験が糧となり、器を広げることが先代への親孝行だと存じます。

西願寺430年の歴史の重みと、
伝統と伝承を考えさせられた6年でした。

そんな先代が亡くなる前に発した言葉が今でも忘れられません。
「お金を使いたい・・・」
私にとっては衝撃的な言葉でした。仮にも僧侶ですから、清浄な悟りの言葉をいただけると思っていたからです。しかし、この言葉の意味をずっと考え続け、様々な体験をし、今回の節目を迎えると、実に奥深い言葉だと捉えられるようになりました。それは お金に対しての価値観です。

「時は金なり」という諺の通り、時間は有限です。その貴重な時間を割いて、人が何かを費やす対価が 現代で言うお金です。つまり「人生の貴重な時間を費やすエネルギー=対価(お金)」ですから、貯蓄ばかりでは意味がありません。エネルギーは動いてなんぼのモノです。 色々な経験に使ってこそ、恩送りという循環ができるのだと存じます。お金に対する執着や他人の目のために ” 人生という時間 ” を犠牲にすべきではなく、また仕事や物質の奴隷になってはけないのだと思います。特に風の時代は、得体のない(土のように)ガチガチに固まった美徳の奴隷になってはいけないのではないでしょうか。

尊敬するビル・パーキンス氏の言葉です。
死は人を目覚めさせる。
死が近づいて初めて、私たちは我に返る。
先が長くないと知り、ようやく考え始めるのだ。
自分はいったい何をしてきたのだろう? 
これ以上、先延ばしをせずに、今すぐ、本当にやりたいこと、大切なことをすべきだ、と。
ふだん私たちは、まるで世界が永遠に続くかのような感覚で生きている。
だが残念なことに、私たちは喜びを先送りしすぎている。
手遅れになるまでやりたいことを我慢し、ただただ金を節約する。
人生が無限に続くかのような気持ちで。

(『DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール』)

先代は常々「今日が人生で一番若い日だ」と申していました。この言葉は、何をするにしても遅いことはないという意味だと理解しています。しかし、お金に関して言えば 活きた使い方にはタイミングがあります。

人生の最期に思い返すのは ” 今まで経験してきたこと ” と ” 死後のこと ” (後悔と恐怖)だとお経に記されています。

住職は死後の救いについては専門家ですので、信仰の力で恐怖を打ち消す努力はできると思います。しかし、後悔という面では先代のようにフツフツと沸き上がる気がするのです。今まで、財産の大半を寄付して 私生活の充足を考えずに生きてきた私は、美徳というものを隠れ蓑にして、お金(エネルギー)の使い方を放棄していた気がします。もちろん功徳としては貯まっているはずで、神仏に護られている自覚はありますが、この世的な経験や喜びが圧倒的に足りないと思う今日この頃です。そう考えると「お金を使いたい・・・(死を前に 後悔せぬよう多くの経験をしなさい!)」・・・これが父の遺言だったのか!?とさえ感じます。

父との別れは早かったですが、私が晩年、このことに気付かされていては 生きる価値が全然違うかったかもしれません。”人生で多くの経験をすることが一番の充足に繋がる”・・・これを合い言葉に、また私の趣味や最近始めたこと等をお話できればと思っています。合掌

親族にご参列いただき7回忌と納骨法要を勤める準備をしてきましたが、
残念ながらコロナの影響で家族内でさせていただきました。
骨仏の存在として、西願寺や子孫を極楽から見守ってくれればと願います。

願蓮社成誉上人法阿慈光邦雄和尚 7回忌 荘厳浄土 南無阿弥陀佛

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