段々と暖かな春の日差しになってきました。奉職寺院の梅や河津桜も見頃になっています。これから一年かけて、様々な花が私たちを楽しませてくれます。日本人は花が大好きです。そのような花たちの終わりを日本語は粋に表現してますので、一部お伝えします。
【桜】⇒「散る」
【梅】【萩】⇒「こぼれる」
【椿】⇒「落ちる」
【朝顔】⇒「しぼむ」
【牡丹】⇒「崩れる」
【菊】⇒「舞う」
【薔薇】⇒「枯れる」
【紫陽花】⇒「しおれる」
では、私たち人間の終わりは何と言うでしょう?
【人間】⇒「往(い)く」
仏教では、仏に救われての亡くなり方を「往生」と言います。往き生まれる・・・人間は死んだら終わりでなく、魂は永遠に生き続けると説きます。ですから、人間のご遺体のことを「亡骸(なきがら)」といいます。” 魂の抜け殻 ” という意味ですね。みんなこの世を去るんです。そう考えると、花にしても人間にしても、今を精一杯生きることが尊くて 成功も失敗もないんだなぁ、と思います。入り組んだ現代社会では、色々考えれば考えるほどうまくいかないもので・・・そんな中、僧侶は「余分なことは考えなくていいんですよ。ただ、魂の次の往き先だけは意識しておいて、この世をハツラツと生きましょう!」と魂中心の生き方を伝える職業です。
宗教評論家のひろさちや氏のお言葉です。
ここで人間というものを二つに定義してみましょう。
毎日の暮らしにあくせくし、そこにとらわれて、何か問題が起きたら、なんとか解決したい、どうしたらもっとよくなるのか、と考える。これが「生活者」です。
一方、ここに人間が生きている、生きている俺は好きなように生きる、どんな生き方をしたってかまわんだろう、と開き直ることができる。こちらは「人生者」です。
人生者と生活者が決定的に違うのは、そのトラブルにどう向き合うかなんです。生活者はトラブルをなんとしてでも解決しようとする。悩みや苦しみもなくしたい、と考えます。人生者はそんなつまらないことはしません。トラブルも、苦労も、悩みも、放っておくんです。
放っておくとはどういうことか?トラブルにみまわれてる自分、悩みに落ち込んでいる自分、苦労のさなかにいる自分を、そのままに生きる、ということですね。
トラブルや悩みも同じです。それをどうにかしようなんてことは考えずに、あるがままにいきたらいい。それが人生者としての生き方です。
(『「ずぼら」人生論』 三笠書房)
最近は、コロナ感染、悲惨な戦争、物価上昇等々、辟易(へきえき)とする話題ばかりです。人の考えも様々になり、正しさの価値観が消えている状態です。これは 一僧侶の努力ではどうすることもできません。放っておくといえば語弊がありますが、ありのままに生きる「人生者」として、もっと自分の心を大切にしたいと思うようになってきました。何の駆け引きもなく、精一杯生きている花を見ると勇気が湧いてきます。人生は、おごらず、比べず、面白がって、平気に生きればいいんです。合掌