今回は「阿弥陀仏の救い」の前提についてお話させていただきます。まず阿弥陀仏に救われるためには「自らが魂の存在である」ということを信じれるかどうかにかかっています。【人間(生きとし生けるすべての存在)は魂であり、輪廻転生をして永遠に生き続けている。亡くなって「無」になるのではなく、永遠に生き死にを繰り返している存在なのだ。今(人間)の生は、永遠の命の一部に過ぎない。】ここがわからないと、その救いの意味すらわかりません。
ご存じ阿弥陀仏は、死後の世界を必ず救う!と誓われた仏さまです。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を唱える身になれれば、縁の力で必ず救って下さるとお説きなのですが…これが現代人にはなかなかピンときません。「死後の世界なんて」と失笑されるのが落ちです。悲しいかな人間は、目先の利害には敏感ですが、一方、長い年月をかけて徐々に押し寄せる危機にはとてつもなく鈍感だからです。
「ゆでガエル」の譬えはご存じでしょうか?それは、煮えたぎった鍋にカエルを入れようとしたら逃げてしまいますが、水が入った鍋であればカエルはおとなしく入ります。そして、この鍋に火をかけても、カエルは自分がゆでられてることに気づかず、最後には「ゆでガエル」になるという話です。
私は、これが現代人そのものの話に思えるのです。我々は目先の損得、利便性、快適さという「生き方」を追求する一方、最も確実な未来である死、つまり「目的地」については考えようともせず、なぜか目をふさいでしまいます。(自殺は死後について考えてるのでなく、この世の逃避だと仏教では捉えます)人間、いつまでも生きておれるものではありません。生まれてきたということは、日々「死に近づく」ということで、死は100パーセント確実な未来なのです。早ければ今晩かもしれません。死後の世界があるかないかは議論のしようがありませんが、公平に見ても5割づつの高確率です。
日々の快適な「生き方」を追求し、幸福を感じることはもちろん大切ですが、もっと大事なのは、必ずおとずれる未来(死後の世界)をいかに救われるのかという「目的地」をはっきりさせることではないでしょうか。明るい「目的地」を生前から意識(感謝)することによって、日々のよりよい「生き方」につながるというのが阿弥陀如来信仰です。そういう「逆転の発想」を念仏信者は持って生活しています。南無阿弥陀仏 合掌