臨終行儀

今月4日に隣寺の御老僧がご遷化され、本日 中陰二七日の導師を勤めさせていただきました。朴訥として余計なことを語らず、泥だらけになりながら掃除に明け暮れ、お寺を50年間守られた和尚様でした。檀家の信望も厚く、3年前には本堂や庫裏の立て替え、昨年末に住職を交代、すべてをやり遂げられ、最期はホスピスで延命治療をせず、臨終行儀(りんじゅうぎょうぎ)[臨終時における作法]を行い、往生なされました。

臨終行儀はご存じでしょうか。わかりやすく説明した文章がありましたので紹介します。
「 昔は入院できる病院などなく、医者にかかることさえ贅沢といわれていたぐらいなので、誰しもみな自分の家で死を迎えていた。そのため死んでいく人と、それを看取る人の心得としての臨終行儀があった。安らかな臨終を迎えさせたい、迎えたい、という願いとそれを実現する智恵を集めたものが臨終行儀である。現在ではほとんどの人が病院で死を迎えており、延命治療のしすぎが問題になるほど治療に関しては恵まれているが、その反面、病気や死に関することの多くが病院まかせになってしまった。自分や親しい人の死と向き合い、それを受けいれることはすべての人に訪れる試練であり、死から眼をそむけることは、生から眼をそむけることでもある。昔は多くの人が辞世の言葉を残しているが、今そうしたことを聞かないのは死を見つめることが疎かになった証拠かもしれない。死から目をそむけている人は、死にゆく人と深い交流を持つことはできない。死にゆく人と接するときには、自らがしっかりとした死生観を持っていなければならないのである。それでは死をどうとらえて臨終を迎えた人と接したらいいのか、ということを考えた場合、もっとも説明しやすく、また納得してもらいやすいのは、死はこの世からあの世への通過点であり、極楽浄土への入り口である、ととらえることである。そう信じることができれば死後の世界は明るいものとなる。反対に死は永遠の暗闇であるとか、無に帰るだけというのでは、死にゆく人を慰めるのは難しい。つまり死の問題の核心には、私たちは死後どうなるのかという問題が隠れている。臨終行儀は人生の一大事に対処するための智恵の集積であり、それは誰もが心得ておくべき事である」

御老僧はしっかりと死と向き合われました。臨終行儀は 仏のお迎えを待つ作法であり、まず臨終の人からよく見えるように阿弥陀仏の像を安置し、仏像の左手から五色の糸をのばし、臨終者の左手に持たせます。これはお浄土へ導いてもらうための糸であり、付きそいの人が 南無阿弥陀仏を死にゆく人と声をあわせて称え、その息に合わせるように念仏します。その際、魔除けの鐘を 早すぎず、強すぎず、柔らかく静かに、絶やさないように打ち、正念を与えます。また臨終を迎える人は喉がかわくので、きれいな紙に水を含ませて、くちびるを潤してあげるとよいと云います。そして、ときどき声をかけて 何か見えるものがあるかを聞きます。これは阿弥陀仏の来迎を確認するためです。 臨終の間際になったら、看取る人は鐘を打ちながら念仏のみを称え、臨終者から目を離さず息を引き取る瞬間を必ず見とどけます。大事なことは、息絶えた後もしばらくは耳にお経やお念仏を入れるようにすることです。これが本来の 枕経 と呼ばれるものです。

御老僧は、ご家族や檀家に見守られながら「最高!」という合図をされ、「してやったり」のご尊顔で往生なされました。死を超越することは、地位や名誉、権力、お金・・・何にも勝るものだからです。南無阿弥陀仏は凄いなぁ~と感じる最期でありました。宗教は現世利益や道徳のためにあるのではなく、魂が救われるためにあるのです。これこそが真の救いです。ただ臨終行儀は、ご家族の理解はもちろんのこと、何より心より尊敬する導師(僧侶)を見つけねばなりません。この状況を作るには、まさしく日頃の心構えが大事になるわけです。また宗教を理解するには、この死生観が必要です。御老僧のお姿から、僧侶として、また人間としての大切な心構えを学ばせて頂きました。南無阿弥陀仏

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