寒露

「寒露(かんろ)」となりました。寒露とは、寒冷によって露が宿るという意味です。長雨が終わり、秋も深まり始める頃となりました。秋は「読書の秋」「スポーツの秋」「芸術の秋」というように、自らを磨き、見つめ直す最適な時節です。

仏教では、私達の行いを身(からだ)、口(くち)、心(こころ)の三方面から教えます。特に重視するのが「心の行い」です。それは、心で思わぬことを言ったり、やったりはしないからです。私達のどんな言動も心の命令によるものですから、司令塔である「心」を、仏教では最も重要視するのです。

こんな話があります。2人の禅僧が諸国行脚(あんぎゃ)中、小川に差しかかった。美しい娘が、連日の雨で川が増水し、飛び越えられずにモジモジしている。「どれどれ、私が渡してあげよう」僧の1人が、無造作に抱いて渡してやった。途方に暮れていた娘は、顔を赤らめ礼を言って立ち去った。同伴の僧はがそれを見て、かりにも女を抱くとはけしからんとでも思ったのか、無言の行に入ってしまった。戒律のやかましい禅宗では、女性に触れてはならないとされているからだろう。日が暮れて、女を渡した僧が「どこかで泊まることにしようか」と声をかけると、「生臭坊主との同伴はごめん被(こうむ)る」。連れの僧は、そっぽ向いた。「何だ、まだあの女を抱いていたのか」くだんの僧はカラカラと笑った。連れの僧は、いつまでも抱いていた心の生臭さを突かれて、返す言葉がなかったという。

現代は、世の中のほとんどがマニュアル管理され、最も重要な「心」がなおざりになっている気がします。人間の社会では、どんな悪い考えを抱いても、それだけでは法律に抵触(ていしょく)するわけではありません。しかし、先程の「連れの僧」のように、いつまでも心に含んでいれば、いずれは口や身までに現れてしまいます。つまり、口や身で殺さなくても、心で思えば殺生であり、直接イジメをしなくても、心で犯せば立派な犯罪となります。法を犯すわけでも、道徳に背くわけでもないのに、心で思うだけで何が悪いのかと思われるかも知れませんが、真理は「心のあり方」で決まると教えられます。

悲しいかな、心を見れば、人間は綺麗なものではありません。むしろ「悪人」であります。そんな我々をお見抜きで、「その身そのままで必ず救う」と阿弥陀仏は誓われておられます。現代人はもっと謙虚にならなくてはなりません。一年中で最も過ごしやすい「寒露」の頃に、そんな思いでお念仏を唱えたいものです。南無阿弥陀仏 合掌

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