正しい信心

昨日、4月25日に往生した 祖母の四十九日(満中陰)法要を勤めていただきました。通常は 私自身が導師となり、遺族に法を説く機会が多いのですが、今回は参列の立場となりました。母方の祖母は真宗寺院の坊守でしたので、浄土真宗(同じ南無阿弥陀仏)の御法話を 新鮮な気持ちで拝聴しました。有り難かったです。

我々僧侶の法話は、すべて「信心」の話で帰結しますが、遺族からは必ずと言っていいほど「いやー、私は無信心なもので」という言葉が返って来ます。私は この言葉を聞くにつれ、おかしくてなりません。というのも、私達は何かを信じなければ、一日たりとも生きていけない存在だからです。例えば、我々は健康であれば 明日も生きておれると 命を信じて生きています。そうでなければ 一時間後の約束すらできないはずです。また、夫は妻を 妻は夫を信じ、子供は親を 親は子を信じて はじめて家族が成り立ちます。あるいは、お金の信心もあれば、地位や名誉の信心もあります。宗教を否定する共産主義者は、共産主義を信じている人達です。ですから、神や仏を信ずるのみが信心ではありません。何かを信じていれば、それはその人の信心です。無信心などあり得ません(笑)。つまり「生きる」とは、まさしく「信じる」ことなのです。

おそらく 無信心だという遺族は、神仏など信じないという意味で言っておられるのでしょうが、どうせ「信心」を持つならば、やがては裏切られるものを信じて生きるのは愚かなことです。では、この世で 信じても後悔のない、絶対に裏切ることのない信心はあるのでしょうか。結論を急ぎますと、それは「死」というものを超越したものでないといけません。なぜなら 上に紹介した信心は、死ぬ時に 何のあて力にもならないからです。人間の苦悩は、信じていたものに捨てられたことから生じます。しかし、この今 死ぬという時でも 絶対に崩れぬ信心、それが「南無阿弥陀仏の信心」であります。今日は詳細を説きませんが、祖母の満中陰法要にて、改めて 今の世界はもちろん、死後の世界も救われる「正しい信心」を教わりました。

正しい信心。「正」という字は、「一に止まる」を書きます。つまり、正しいものは「1つしかない」ということです。2つも3つもあるものではありません。人間、何を信じても自由ですが、「死を超越した信心」だけは離してはなりません。坊守であった祖母は、いつもお念仏を唱えていました。この「正しい信心」を、生涯をかけて教えてくれたような気がします。尊い財産をありがとうございました。また、極楽浄土で再会する日を楽しみにしています。合掌

 

カテゴリー: 未分類   パーマリンク