11月15日、琵琶説教の復帰として、地元 近江八幡で 豊臣秀次公の物語を語らせていただきました。本来 11月1日に開く予定でしたが、手術のため、泣く泣く延期の運びとなったのです。担当役員の皆様、そして、楽しみにして下さった方々には 多大なご迷惑をお掛けしましたが、無事に勤められ安堵しています。
今回の延期公演は、奉職寺院での休み(火曜日)に合わせて 15日になった訳ですが、丁度、秀次公の月命日に当たりました【 文禄4年7月15日寂 】。また(講演中に思い出したのですが)披露した『秀次物語』は、平成19年11月15日に完成し、秀次公の墓(京都・木屋町三条の瑞泉寺)に楽譜を奉納をさせていただいてたのです。あれから 丁度9年。” たまたま ” といえば それまでですが、偶然とは「然(しか)るべくして、人と禺(あ)う」と書きます。急性垂炎も意味があったんだなぁ・・・と良い方向に考えたいと思います。(今回 参れなかった御寺院さまには、次回があれば 懸命に勤めさせていただきますm(._.)m)
講演内容は、前に用意した原稿を すべて作り替えました。今回 ” 切腹(手術)” した体験から(笑)、” 人の死 ” ということに焦点を置き、辞世の句【人生の最期に残した おもい】の比較から、秀次公の偉大さをお伝えしました。
石田三成公の辞世の句(「真田丸」では 山本耕史さんが演じた武将)
「筑摩江(つくまえ)や 芦間(あしま)に灯(と)す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」
筑摩江(現在の米原)の辺りで、三成公が処刑される前に、「ああ、あの芦(あし)の間に燃えているかがり火が やがて消えていくように、自分の命も もうすぐ潰えてしまうのだな」と、死に際に半分のあきらめと 半分の覚悟のこもった詩だと云われます。
天下人、太閤・豊臣秀吉公の辞世の句
「露(つゆ)とおち 露と消えにし わが身かな 難波(なにわ)のことも 夢のまた夢」
天下を統一した、関白になった、大坂城を造り、聚楽第を築いた、金と女にたわむれて遊びまくった … 今から思えば、「朝露(あさつゆ)」が消えるような、アッという間の一生だったなぁ。わしが作った「難波(なにわ)の帝国」も夢の中で夢を見ているような、儚いものであったことよ … と、死の前に泣いておられます。
豊臣秀次公の辞世の句(諸説あり)
「月花(つきばな)を 心のままに見つくしぬ なにか浮き世に 思い残さむ」
天に浮かぶ月も、地に咲く花も、心のまま、隅々にまで見尽くした。もうこれで、この世に思い残すことは何もない。
このお三方を比べても、秀次公の精神性の高さがうかがえます。皆、無念の思いがあるのは確かですが、石田三成公は、心の半分はこの世に執着を残され、秀吉公に至っては、死にたくないモードが全開です。秀次公は、無念は変わりませんが、素晴らしい死生観がうかがえます。仏教では、この世とあの世を貫いてまでが ” 人生 ” であり、生前の地位や名誉、財産、権力だけでは評価しません。
元気なうちは、” 死生観(死と向き合う生き方)” は持ちにくく、ダラダラと過ごしがちです。現代人は 限りある命にも関わらず、「何かを残す!」という意気込みではなく、平均寿命まで「生きるために生きる」という感覚ではないでしょうか。だから不安しかないんです。この世は 諸行無常・・・何事も ” たまたま ” ということはなく、「然るべくして、人と禺う」であり、すべては意味があるもの(日々の積み重ねの結果)だと思います。然るべくして偶う・・・後悔しないためには、日々を無駄にしない ” おもい ” が大切です。単純ですが これが真理であり、秀次公からのメッセージだと存じます。合掌