「当たり前」からの脱却でうまくいく

こんにちは。今年のウサギ年はピョンピョン飛び跳ね、ポジティブに動くのが吉と申しましたが、物価や公共料金がジワジワ値上がりし、若者のモラル問題、コロナや戦争の世界情勢も重なり・・・未来への閉塞感が拭いきれない世の中になっています。

賢く生きるための情報を集めれば集めるほど 損得勘定の心(煩悩)が出てきて、仏教的人生観とは真逆の生き方になりそうです。知識ではなく ” 智慧 ” を学ばなければ幸せになれないと感じる今日この頃です。

住職は日頃のお詣りで、多くの人の話を聞き 世相を感じています。先日も和菓子店の社長宅に参り、経済のことをご教授いただきました。最も印象に残っているのは「過剰なサービスが経済を悪くしている」というお言葉です。

一見、サービス(おもてなし)は美徳に思えますが、それが当たり前になると、もっともっとの連続で際限が無くなり、結局は自分の首を絞めていると仰るのです。

つまり、サービスに満足できなくなった顧客を満足させるためには、安さを売りにするしかなく、価格競争がはじまり、サービスと低価格の時代になります。利益が取れず、人件費もかかりますが、それでも企業は「選ばれる」事に必死になるしかありません。過剰なサービスをしても顧客は感謝するどころかクレームを言うようになる・・・それが今の日本の現状であり、完全に負のスパイラルに陥ってると教えていただきました。

たしかに 日本は食堂に行けば、当たり前のように水が出されます。しかし、ハワイではその水を出してもらうのに サービス料として18パーセントが取られています。日本のように愛想良くでなく、無愛想にドン!と水を出してのサービス料が消費税の倍ほど(笑)。日本の有り難さがよくわかります。

他にも「不在にしていても、何度でも無料で宅配便を届けてくれる」「ガソリンスタンドに入ると窓ガラスを拭いてくれる」「必要なものを買い忘れても、いつでもお店は開いている」・・・今では当たり前になっているサービスですが、日本人を ” 客だったら何でもありの 欲望モンスター ” に育成しているように思えてなりません。だからこそ、 ” 感謝 ” を説く仏教の存在が必要なんだと考えます。

お寺のお布施はなぜ高いのか・・・住職自身もよく考える問いですが、それは年中無休、24時間体制でプライベートを削り、できる限りの応対をしているからだと思います。日常は他所でのアルバイトで生計を立てつつ、檀信徒の依頼に備えます。その間、寺管理や接待は無償サービスで行い、お寺からいただく収入は 法事での布施となります。固定給はないので、体調不良になれば無収入の月もあります。補償は一切ありません。とても多い誤解ですが、もちろん所得税は支払ってます。個人資産は無税優遇されるわけありません。

急なことかあれば、仕事はもちろん 旅行やコンサート、スポーツ観戦の途中でも帰ります。すべてのスケジュールを檀信徒に捧げて当たり前の立場になっています。年に数回のやっと取れた休みでも、法事や相談を申し込まれば空けます。今月はいっぱい働いたから、お葬式や法事はパス!とは言えないんですw。やはり、お布施には ” 住職の人生をかけたサービス料 ” が入っているんでしょうね(笑)。もちろん、皆様の協力があってこそ成り立つ運営です。

海外では「水とサービスと安全はお金で買う」と言いますが、それが本来なのかもしれません。日本の手厚いサービスは、互いの信用の積み重ねから成り立つものだと思います。みんなが権利の主張をしていては 世の中がギスギスします。そう考えると、京都の「一見さんお断り」は 上手い知恵なのかもしれません。

色々申しましたが、我々はまず「当たり前」から脱却することです。そして、いつも申している「ありがとう、おかげさま、感謝、ご恩、死後の幸福」を見つめるクセを付けることが、その身そのままで幸せに生きられる秘訣なんだと思います。みんなが感謝し合える世の中になれば、日本の経済はもちろん、個々の幸福度合いが増していくのだと確信します。合掌

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