あげる幸せ

先日、大阪明星中学校の1年生に琵琶説教をして来ました。平成21年より毎年お招きを受け、今年で9度目のご縁でした。この学校はキリスト教を旨とする 6年間の中高一貫教育ですが、中一時に 私の講演に触れることになり、現在の明星学園 全生徒が私を知ってる計算となります(笑)。積み重ねは怖いものです。

群読発表

群読発表

私の出番は、古典の授業の一コマです。今年は生徒256名が礼拝堂に集まり、保護者聴衆の元、群読をされました。群読とは複数で分担しながら行う朗読のことです。この授業では、『平家物語』の「扇の的」をいかに臨場感を付けて読めるかを競います。その後、私が 「扇の的(那須与一)」の物語に節や音を付けて琵琶を披露します。

表彰式

表彰式

高橋佳子氏のお言葉です。
私は、人間の成長の法則を、誰にでもわかりやすい言葉を使って「3つの心」という形で示しています。どんな人も、赤子の時代は、誰かに支えてもらい、助けてもらい、与えてもらって、初めて生きてゆくことができます。私たちは皆、その段階から人生を始めています。もらうことによって生きる。このときの心は、「もらう心」と表すことができます。赤子は「もらう」ことが何よりの喜びです。その心を持つ私たちは、何かを与えてもらい、支えてもらい、助けてもらうことを当然とするでしょう。

しかし、成長するにしたがって、人は、何かをしてもらうだけではなく、自分で「できる」ことを求めるようになってゆきます。歩くことができるようになり、文字が書けるようになり、話ができるようになり、算数ができるようになり、仕事ができるようになり・・・といった具合に、「できる」ことを増やしてゆくのです。「できる」ことを喜びとし、それを増やしてゆこうとする心を「できる心」と呼びます。「できる心」は、今日、もっとも多くの人々が抱いている心と言えるかもしれません。それは様々な自己実現を求める段階です。

しかし、私たちの魂の成長は、そこで終わるわけではありません。さらに、その先があるのです。それは、自分のことを超えて、誰かに、出会う人々に、関わる方々に、何かをしてさしあげることを何よりもの喜びとする「あげる心」です。この「あげる心」こそ、私たちが本来抱いている「魂の力」を引き出すものです。自己の完成をめざすだけではなく、共に生きる人たちの力になる。周囲の人たちを励まし、支える力になる。同じ時代を生きる人たちを押し出す力になること。

「もらう心」「できる心」「あげる心」

単純な言葉ですが、これは、与えられる自分から、自分の力を育む段階を経て、さらに自分を超えて、広がるつながりに応えてゆく私たちの魂の成長の法則を表しているのです。 (『運命の逆転』 三宝出版)

中学一年は、新たなことを学ぶ年となり、すべてが受け身(学ぶこと)が前提となります。つまり「もらう心」の段階です。そして努力をし、自信がつくと「できる心」になり、やがては「あげる心」へ。年を重ねるにつれ、だんだん質が高くなっていくものと存じます。こんな不器用な私でも、何かをあげることができ、得も言われぬ幸福感を味わってます。と考えると、「あげる心=布施」が人間の幸福の根源なのだと思います。

今年も人々から様々なものを「もらい」ました。この嬉しさ、苦しさを噛みしめ、また私なりに「できる」よう精進し、人々に「あげれる」よう布施したいと思います。それが、自他共の幸せに繋がれば幸甚です。今年一年、本当にありがとうございました。よいお年をお迎え下さい。合掌

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根の大切さ

今年も12月8日の釈尊成道(お釈迦様の悟り)に合わせ、仏名会(三千礼拝)の座に着かせていただいています。私はもっぱら、お給仕に徹しています。朝は4時半起床、就寝は午前 … 黒子の役割も陰徳の喜びです。

今回は時間もありませんので、稲垣栄洋氏の言葉を紹介して 座に戻ります。

植物にとって根っこは水や養分を吸収したり、体を支えるための大切な器官である。

根っこがなければ、植物はたちまち干上がってしまうし、根っこが十分に張っていないと、茎が簡単に倒れてしまう。

同様に、人間にとっても「根っこ」は大切なものだ。

「根気」や「根性」「根本」など、「根」という言葉が人の本質を表すことからもそれがわかる。

それでは、その根はいつ伸びるのだろうか。

水栽培されているヒヤシンスなどを見ると、短い根が出ているだけで、根っこはあまり伸びていないし、細かい根はほとんど生えていない。

水が十分にある条件では、必要以上に根を伸ばす必要がないのだ。

水がないところでは、植物の根は水を求めてグッと深く伸びる。

そして、四方八方に張りめぐらされた根が、大地をしっかりとつかむのである。

根が成長するのは、条件に恵まれたときではない。

苦しいときにこそ、根が伸びるのだ。

恵まれたときは、茎を伸ばしたり葉を茂らせるのに忙しくて、根は伸びている暇がない。

干されたときこそが成長のチャンスである。

土の下に伸びた根っこは、目に見えないがその植物の実力そのものである。

毎日、水を与えている庭の草花が夏の日照りで萎れているのに、誰も水をやらない道ばたの雑草は青々と茂っている。

日照りにあったときに、その植物の真の強さがわかる。

雑草に水をやる人はいない。

けっして恵まれた条件に生えているとはいえない。

だからこそ、毎日、水を与えられている草花とは根の張り方が違うのである。

(『雑草に学ぶ「ルデラル」な生き方』 亜紀書房)

大事な「根っこ」は 目に見えないところで育っています。ハレな環境が調っているから機嫌がいいのではなく、どんな条件でも上機嫌でありたいものです。仏は見てござる・・・これが修行の真骨頂です。

追伸:文面柄 … 私は干された環境ではありませんよ(笑)。修行はみんな大変です。住職と行者、お手伝いの方々が円滑に進むよう、四方八方に「根」を張り巡らして頑張っています^^!

修行は礼拝を三千回します。五体(両膝・両肘・頭)を 地に着け、立ち座りを繰り返します。

修行は南無阿弥陀仏を唱え、礼拝を三千回します。  五体(両膝・両肘・頭)を 地に着け、立ち座りを  繰り返します。

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地獄と極楽

先日、蔵掃除をしてると懐かしい本が出てきました。『地獄と極楽』という絵本です。幼い頃、食い入るようにこの本を見て、自然と「勧善懲悪」を学んだ気がします。

今、子供のしつけに地獄の絵本が流行っているようです。何でも合理的に、目に見えるものだけを信じる現代社会に 歪みが出ているのかも知れません。思わず目を背けたくなる地獄の光景が生々しく描かれて、幼い子にとっては衝撃的な絵本だと思います。地獄に落ちるぞ!と突き放すのではなく、良いことをするあなたを親や先祖は見守っているよ♪と、コミュニケーションをとりながら 親子で読めれば最高の一冊だと思います。

地獄の段

地獄の段

極楽の段

極楽の段

印象的な場面に「1メートルの長い箸でうどんを食べる話」があります。 地獄にも極楽にも 真ん中に大きな釜があり、美味しいうどんが煮えているというのです。ただし、その食べ方は 1メートルの長い箸で食べなければならないのです。つまり、釜の大きさも、釜を囲んでいる人数も一緒で、そこにいる人の心だけが違っている のです。地獄では 自分でうどんを掴み取り、自分の口に持って行こうとしますが、1メートルの箸なので 口まで届きません。反対側からは、こいつに食われてたまるかと奪い合う。結果的にうどんが飛び散ってしまい、誰もうどんを口に出来ないのです。一方 極楽では、みんなで分け合えるように、自分が箸で掴んだうどんを、反対側の人に食べさせてあげる。今度はあなたがどうぞと、今度は自分が食べさせてもらう。そうして全ての人がニコニコしながらうどんを食べるのです。欲を捨て「一たん止まる = 正」 … そして自他共の幸せを考えるのが極楽的な正しさです。当たり前の話ですが、みんなで助け合えば幸せになれるのです。

今年は、” 正しさ ” について考えさせられる年でした。地獄にいたら地獄の正しさ、極楽にいたら極楽の正しさがある … 先日ご紹介した良戒師の あたたかいお言葉を思い出します。「あの世には地獄も極楽もある。みんなが思っているほどの違いはない。外見上は地獄と極楽はまったく同じなんだよ。違っているのは、そこに住んでいる人の心だけ。地獄には自分のことしか考えない利己的な人が住んでおり、極楽には思いやりにあふれた利他の心を持っている人が住んでいるんだよ」 … まさに、その通りです。己の ” 正しさ ” にかこつけて、仲間や恩人を踏み台にし、自らの幸福のみを考える人は地獄的な発想です。幸い、我が西願寺では ますます団結を深め、明るく、和やかに事が進んでます。極楽の波動で 楽しく勤めていることを喜んでいます。西願寺バンザイです^^。合掌

追伸:最後に「ぬかに釘じじいの寝言のブログ」を紹介して終わります。 

『天国』と『地獄』はどの様に違うのか。『天国』も『地獄』も、どちらもテーブルの上に ご馳走が同じように置いてある。そして、一人一人1メートルもある長いお箸を持たされているのであるが、様子が全然違う。

よく見ると、地獄の人は全員やせ衰えてガリガリである。一方、天国の人を見ると、全員ふくよかに肥えてニコニコしている。何が違うのか。もっと近づいて時間を掛けて、その様子を良く見てみると、原因がはっきり分かった。地獄の人は、その1メートルもある長いお箸で食べ物を挟んで自分の口へ入れようと必死で 足掻き もがき しているが、上手く食べられず落としてしまう。又 お箸で挟んでは自分の口へ持って行くが駄目。地獄の誰もがそれを繰り返しているが、食べる事が出来ない。しかし、諦めず止めない。

一方、天国の人たちを見ると、ご馳走を挟んでは自分の口でなく 前に座っている人の口へ食べ物を運び、食べて頂いている。相手の人はニコニコ感謝しながら食べている。与えた人も相手の人の差し出すご馳走を感謝して食べている。まさに『求める世界』と『与え合う世界』の違いである。

条件が同じでも、その人の持つ心で 天と地 の違いが出現する話であります。自分の事は後回しで、先ず相手の事を考える人は のちに栄えていく。その逆に、相手の事を考えず、人の事は考えず、自分の事 自分さえ良ければ良いと考え行動する人は、先で想像を絶する苦しみが待つ。その様な人は目先より考えない。今が良ければ良い。それで生きて来て、一端困ると、人が悪い 自分以外が悪いと思い 言う。最後には神仏は無いのか と、神仏まで恨む。

『欲』と言う字は谷辺に欠けると書く。自分の事を先に考え、儲けようとする人は、底の無い谷へ落ちて行く。無限に落ちると言う事です。字は良く出来ている物です。

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母校訪問

昨日、佛教大学の学園祭(鷹陵祭)に招かれ、琵琶説教をしてきました。私の母校になります。平成10年の卒業ですので、大方 20年ぶりに寄せていただきました。

当時とは、全く違う雰囲気に驚きました。私が学んでいた校舎は駐車場になっており、お世話になった学生食堂の場所が礼拝堂に変わり … まさに諸行無常・・・浦島太郎の気分でした。考えたら、私が卒業した時に生まれた子達が 学生をしてる計算になります。よい意味での諸行無常・・・進歩がなければダメなわけです。

礼拝堂で講演をしました

礼拝堂で講演をしました

「七年後あなたは何歳になっていますか?」というお話です。
面白い会話が行われていた。十八歳の少女と、経験豊かな老人との対話である。老人は少女の人生の方向、特にどんな分野の職業を目指しているかについて尋ねた。少女は答えた。「そうですね、私は心理学者になりたいんですけど、そのためには長いこと勉強をしなければなりませんから、なったところで年を取りすぎているんじゃないかと心配なんです」賢明なる老人はしばらく黙って座っていた。それから微笑んで、こう聞いた。「お嬢さん、心理学者になるには何年かかるのですか?」「七年くらいです」と少女。「七年経つとあなたは何歳になっていますか?」「二十五歳です」それから老人はこう尋ねた。「心理学者にならなかったら、七年後あなたは何歳になっていますか?」当然ながら、少女の答えは同じだった。「二十五歳ですけど」(『あきらめなかった人々』 デニス・キンブロ 著 ナポレオン・ヒル 著 田中 孝顕 訳 きこ書房)

何かを成しえるのも、何者かになるのも、時間がかかるものです。しかし、何もしなくても時間は経過するということを忘れがちです。私も琵琶をしなければ、生涯 母校に行くことはなかったかもしれません。20年経てば 20歳年をとる。 人の評価なんて二の次です。そんなことを考えだしたら 何もできません。大切なのは、20年分成長しているかどうか。批評家は 20年間成長しないというリスクは、意外と見えていなかったりします。自分にできることをコツコツしていけばいいのです。

我々は20年後、何をしてるのでしょうか? 人によっては「もう死んでるよ」 と 乾いた笑いが聞こえてきそうですが、ならば それに伴う準備や信仰が必要だと思います。人生はアッという間だなぁ … と感じる今日この頃です。合掌

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器の大きい人

先日、親族の3回忌法要参列のため、岐阜へ行ってきました。祖母せつ の実家が善教寺という古刹で、祖母の弟、前住職・良戒上人の法事でした。法要後、琵琶説教をさせて頂きましたが、私を幼い頃から知る方々の前での法話は不思議な気分でした。まさに諸行無常です。良戒上人は 僧侶であり、教育者でもありました。今回もお育ていただいてるんだなぁ … と感謝の心でいっぱいです。

善教寺本堂 祖父母は岐阜の出身です。金森宗和や落語の開祖・安樂庵策伝も岐阜出身の金森性。縁を感じます。

善教寺本堂                        祖父母は岐阜の出身。金森宗和や落語の  開祖・安樂庵策伝も岐阜出身の金森性。  縁を感じます。

師は いつもニコニコ、何事にも動じず、穏やかに過ごされた印象があります。目標は、この器が広い良戒師の境地です。現在の私は予定に追われ、心身の余裕がありません。「器が大きい人」って何なのかなぁ … と考えた時、それは 他の物を受け入れる「余白」「余裕」がある人だと思います。器が小さい人というのは、今あるもので精いっぱい、器の中がギッシリ埋まっていて「余白」「余裕」がない状態の人ではないでしょうか。勤めや評判、重責に追われ、地に足が着いていないのかもしれません。 余裕がある時に 人は優しくなれます。それが器なのだと存じます。

ひすいこたろう氏の著書からです。
2匹の狼が闘っている。1匹の狼は恐れ、怒り、嫉妬、哀しみ、後悔、欲、傲慢、自己憐憫(じこれんびん)、罪悪感、恨み、劣等感、そしてエゴの象徴。もう1匹は、喜び、平和、愛、希望、分かち合い、安らかさ、謙虚さ、親切、友情、共感、寛大さ、真理、思いやり、そして信頼の象徴。この2匹が闘っている。ひとりの子どもがおじいさんに尋ねます。「Which wolf will win?」(どっちの狼が勝つの?)おじいさんは答えた。「The one you feed」(君が育てるほうだよ)。『あなたの人生がつまらないと思うんなら、それはあなた自身がつまらなくしているんだぜ。』(ディスカヴァー)

「君が育てるほうが勝つ」・・・結局、人生は自分で選択しているのです。 好きだと思えば好きになるし、嫌いだと思えば嫌いになる。 簡単だと思えば簡単だし、難しいと思えば難しくなる。イライラすることも、落ち着くことも … そのどちらも自分で選択できるのです。つまり 我欲を いったん置き、真理に沿って歩むことができれば、良戒師のように いつもニコニコ、何事にも動じず、穏やかに過ごせるのだと存じます。余分なエゴ(恐れ、怒り、嫉妬、哀しみ、後悔、欲、傲慢、自己憐憫、罪悪感、恨み、劣等感)が「余白」「余裕」をなくし、器を小さくしてるのです。さすれば、常に 信頼(喜び、平和、愛、希望、分かち合い、安らかさ、謙虚さ、親切、友情、共感、寛大さ、真理、思いやり)に心の針を向け、仏や先祖が喜ぶ 器作りに励みたいと思いました。一歩づつ頑張ります。良戒さま、祖父母と一緒に極楽から見守って下さい。合掌

善教寺庭園。眺めていると、心に余裕、余白が出来てきます。

善教寺庭園                眺めていると心に余白、余裕ができそうです。

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徳本行者200回忌

先日、和歌山県は有田の西法寺さまにご縁をいただきました。このお寺の近く徳本上人が修行された場所があり、檀家の皆様で200回忌をお勤めになりました。

200回忌法要

200回忌法要

徳本さま名号

徳本さま名号

徳本行者はご存知でしょうか。上人は厳しい修行を行いながら南無阿弥陀仏を唱えて日本全国を行脚をし、庶民の苦難を救った江戸時代の念仏行者です。食事は豆の粉一日一合。朝は2~3時に起きて礼拝し、日中は山を歩きながら、夜は堂内で念仏を唱え、生涯を通して粗食だったと言われています。ちなみに睡眠時間は、16歳の頃からずっと2~3時間しかとらず、亡くなるまで横になって寝ることは無かったと言います。「五体投地の苦行」では、2月の寒さの中、真夜中に谷に入って水浴びをし、全身アカギレで血が吹き出し、「松の木の様だった」と伝えられています。信者は近畿、東海、北陸、信州、関東地方にも及び現在でも「徳本講」は引き継がれ、清貧の生き方は今なお人々に影響を与えています。いつも思いますが、どういった心境で修行されていたんでしょうか。

修行をされた岩室

修行をされた岩室

佐藤 富雄氏のお言葉です。
「ほめ言葉の御利益」というものがあります。きれいだとほめられた人ではなく、ほめた人のほうが美しくきれいになるという摩訶不思議な現象です。自律神経系は、人称の区別がつきません。主語を解さず、すべて言葉を発した当事者のこととして読み取ります。ですから、まわりにいる人をほめまくっていると、ほめ言葉の影響により、自分自身がどんどん美人になっていけるのです。(『自分を変える魔法の「口ぐせ」』 かんき出版)

修行の怖いところは、人称(主語)の区別がつかないので、恨みや自己顕示欲等にかられると、そのまま自分に返ってくるのです。その志いかんで、身を滅ぼすか、多くの人を救えるか・・・同じ修行をするにも結果が大きく変わってきます。その点、徳本行者は各地に徳本講ができ、200年後にも讃えられるということは、よほどの志の持ち主だったと存じます。前回のブログではありませんが「利己心」が身を滅ぼす・・・これは謙虚に受け止めねばと学びました。恩や感謝、お陰さま、ありがとう、こういった感情が自他共に救うのです。合掌

今年は記念講演が行われます。写真中央は西法寺の徳本像。

今年は記念講演が行われます。 写真中央は西法寺の徳本像。

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介護施設へ慰問

先日、ある介護施設へ慰問に行きました。大事な檀家さまがお勤めの場所なので、喜んで参りました。利用者さんは地元の方々が多く、私の祖父母や父母のことをよく知る方々が多かったです。様々な ” 縁 ” によって、この場所に来たんだなぁ…と実感しました。

正直言いますと、京都での勤めと同時に 住職の役目を全面的に担うようになり、私のプライベートの時間は皆無です。ですから琵琶のお稽古は ほとんどできてません。現在は綱渡りの布教活動ですが、その分 私の人柄が音色や説教に出て良い と仰って下さる方も多くなりました。自己を高めることに懸命になっていた私にとって、不思議なほめ言葉です。それはその時期なんだなぁ … と 今を楽しんでします。

西郷隆盛師のお言葉です。
「人は克己心によって成功し、利己心によってしくじる。八分方(はちぶがた)うまくやってきたのに、後の二分でしくじる人が多いのはなぜか。うまくいくと利己心が大きくなる。そうなると用心を怠り、楽をしたがり、結果的にしくじるのだ」

人生は、人と人の繋がりによって成り立ちます。環境によって色々回り道はするでしょうが、克己心(自分の欲望をおさえる心・自制心)は忘れてはいけないと思います。人間は縁によって生かされているのですから … 。逆に 利己心(自分の利害だけをはかって、他人のことを考えない心)のみに生きる人は、一見、得しているように思えても、最後の肝心なところで 大きくつまづきます。大きな目標を持ちつつ、克己心を忘れないことが成功の秘訣です [これは ある檀家さまから学びました]。恩やお陰を忘れ、利己心だけの 餓鬼にならぬよう、バランス良く人生を送りたいものです。人生の晩年に、利用者さんのような笑顔がでれば最高です。そんなことを感じさせられた慰問でした。合掌

利用者さんたちと「次の世代に伝えられることは何か?」を話し合いました。

利用者さんたちと「次の世代に伝えられることは何か?」を話し合いました。

皆様の幸せをお祈りして終了しました。

皆様の幸せをお祈りして終了しました。

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地蔵盆

先月24日に地蔵盆を勤めました。毎年 船木町3ヶ寺が当番となって子供たちを迎えます。今年は西願寺が担当寺院でした。最近、子供の集まりが悪いので、寺内で色々作戦を立てて挑みました(笑)。その戦略が見事的中して、多くの子たちが参詣してくれました!

予想を超える多くの参拝。しっかり靴を並べて 上がってくれます。

予想を超える多くの参拝              しっかり靴を並べて 上がってくれます。これも教育。

地蔵盆とは、地蔵菩薩の縁日(24日)に勤める行事で、お盆に近い8月か 旧暦の7月に勤めます。経典によれば、地蔵菩薩が 親より先に亡くなった子供が ” 賽(さい)の河原 ” で苦しんでいるのを救うという功徳があることから、お盆の時期に 子供の守り本尊として加護を祈る習わしがあるのです。

賽の河原(三途の川) 親よりも先に死んだものがここで石積の刑を科せられるといわれ、あと少しで積み上がるというところで鬼が来て、それを崩してしまう。最終的にお地蔵様が救って下さいます。

賽の河原(三途の川)                   親よりも先に死んだものがここで石積の刑を科せられるといわれ、あと少しで積み上がるというところで鬼が来て、それを崩してしまいますが、最終的にお地蔵様が救って下さいます。

船木の地蔵盆では、この一年間に亡くなられた町内の物故者の方々の供養から始まります。その後、住職の法話、自治会長の挨拶、法楽(出し物)、お菓子を配り子供は解散。その後 座敷に移動し、遺族との親睦会があって全体の解散となります。つまり イベントを楽しむ行事ではなく、世代を超えて地蔵菩薩の加護や町内物故者の遺徳を偲び、時間と空間を共有する場所になっています。年代を超えて、一つのものに思いを馳せることが、今の日本にあるでしょうか?!。とても素晴らしい行事だと再認識しました。

物故者に手を合わす子供たち

物故者に手を合わす子供たち

船木にまつわるお地蔵様の伝説をお話ししました。西願寺七不思議を参照下さい。

船木にまつわるお地蔵様の伝説をお話ししました。   西願寺七不思議⑤を参照下さい。

法楽は 寺井純子さんによるオカリナ演奏。琴線に触れる音色に、参詣者はもちろん、物故者も悦んでおられるように感じました

法楽は 寺井純子さんによるオカリナ演奏       琴線に触れる音色に、参詣者はもちろん、      物故者も悦んでおられるように感じました。

刹那的な喜びを求める現代人に、しみじみと湧き上がる悦びを教えてくてた ひとときでした。夏の思い出として、子供たちの心に深く刻まれたことと存じます。ご協力いただいた皆々様に、心より感謝申し上げます。合掌

今回の作戦とは、カブトムシとクワガタのプレゼントでした! 女の子は怖がるかと思ってましたが、逆に喜んでました(笑)。これも時代です。夜な夜な採取してくださったS山様、心より感謝申し上げます。

集客の作戦とは、カブトムシとクワガタのプレゼント! 女の子は怖がるかと思ってましたが、逆に喜んでました。これも時代です(笑)。夜な夜な採取してくださったS山様、心より感謝申し上げます。

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明るく、正しく、仲よく

盆参りも佳境になりました。もうひと頑張りです。心身の体調を調え、乗り切る所存です。仏の加護を祈ります。さて前回は、理想を求め過ぎ、人の気持ちが分からなくなった鬼を ” 天邪鬼(あまのじゃく)” と呼ぶという話をしました。初めは健気に頑張るので 好感をもたれるのですが、自分のために動くので、徐々に人の願いと反対の行動をとってしまうのです。そして、これが進んだ末期の鬼を ” 餓鬼(がき)” と言い、こうなると存在自体が嫌われ、孤独になり、飢えと渇きに苦しむという話をしました。

ブログを見た方から 多くの共感の声があり、皆さんの周りにも餓鬼はいるんだと実感しました。また 餓鬼にならない方法を具体的に教えてほしいと問い合わせもありました。その方法は理論的には簡単です。仏教思想の根幹の「明るく、正しく、仲よく」生きることです。単純ですが、これが難しい・・・これらの中でも「明るく、仲よく」は感覚的にわかると思います。ポイントは、” 我 ” を入れないこと。” 私が ” 、明るく、仲よくしてあげてる!という感覚で生きてる人は、結果優先の尺度で生きるので 、人付き合いが長続きしません。(一つの環境に1、2年が限界 → 思い通りににならず、恨みを持って退散 … その繰り返しでドンドン居場所がなくなる) 本来は一歩下がり、周りを あたたかく照らし続けるイメージが大切です。努力は他人の為になして、はじめて功徳になるのです。

まさに、「おれが おれがの 我を捨てて おかげ おかげの 下で暮らせ」の境地です。

” 我 ” を捨てるためには、「正しさ」を見つめねばなりません。この正しさが さらに難しいのです。これもポイントを言いますと、正は「一たん止まる」で正しさ・・・先ほどから申している ” 我 ” が入っていないかを確認するためには、一たん止まらねばならないのです。止まって何を確認するのかといえば、恩、感謝、お陰さま、ありがとう・・・まさに人知を超えた恵みなのです。

忘恩のトライアングルを思い出してください。①柔軟性がなく、自らの正義(こうあるべき!という偏った価値観)に生きる人、②効率重視(自らの進め方)しか認められない潔癖な人、③もっと感謝されるべき!と自らの苦労をアピールする人 ・・・すべて「自分、自分、 自分」・・・人知を超えた恵みとは正反対の、自己中心的なトライアングルにはまるのです。これが本当に危ないのです。顔が×の状態で 余裕がなく、近くにいるだけで、ジト~っと 嫌な気分になるのです。まさしく餓鬼です。そういう人に限って、自分の成長をアピールして 人を見下すので要注意です。何が正しい成長かがわからないので、恩や感謝、お陰さま、ありがとうと言ってる人を嘲笑います。また餓鬼は、劣等感が強いため 人に甘えられず、腹いせに 自分がされた嫌なことを仕返しする性質もあるので注意しましょう。自分の行動を一たん止まって見つめられないのです。このように、” 我 ” が入ると、すべての善い行いが、逆効果になります。皆様は 我の鬼(ガキ)にならぬよう、覚えておいてくださいね。恩知らずは絶対幸せになれません。合掌

仁王像や四天王の下に踏まれて、反省しているのが天邪鬼。反省、感謝、報恩のうち、反省はできるようです。

仁王像や四天王の下に踏まれて、反省するのが天邪鬼。反省、感謝、報恩のうち、反省はできるようです。

餓鬼は 我欲を貫いた結果ですので、勉強熱心で知的な者が多いようです。ただ功徳が積まれてないので 報われず、なぜ自分が悪いのと苦しみます。アイツより努力してるのに…っと、恨み 怨みの連続で、反省、感謝、報恩はできません

餓鬼は 我欲を貫いた結果ですので、勉強熱心で知的な者が多いようです。ただ功徳が積まれてないので報われず、なぜ自分が悪いのかと苦しみます。アイツより努力してるのに…と、恨み 怨みの連続で、反省、感謝、報恩はできません。

修行が完成し、穏やかな境地に至ったのが菩薩。×の顔ではなく、〇の顔のイメージが伝わるでしょうか。

反省、感謝、報恩の修行が完成し、心穏やかな境地に至ったのが菩薩。×の顔ではない、〇の顔のイメージが伝わるでしょうか。はじめは みんなこの境地を目指すのですが・・・。

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恩は返すより、まず知るもの

いよいよお盆です。多くの方が墓参りをされています。参られる理由は様々でしょうが、やはり、ご先祖様の「恩」を噛みしめ、幸せを再認識する為ではないでしょうか。これは 人間の最も尊い行為です。ただ 「恩」は、誰も教えてくれません。気付くしかないのです。「恩を感じろ!!」っていう説教は、野暮ですから…(苦笑)。こういった機微は、ある意味センスなのかもしれません。

今回も彼岸寺さまの説法を引用します。
インドでは恩を「クリタジュナ」と言いました。「なされたことを知る」というのが語源です。自分がご両親からどんなことをしてもらったか。まずは思い出してみましょう。仏教での恩は「返す」より、まずは「知る」ものです。そもそも、人は人に完全な恩返しをすることはできません。これまでかけてもらった愛情も時間もお金も、そのまま返すことはできない。それに、ご両親もそれを望んではいないでしょう。それならば、いまのあなたができる形で、身近な方に振り向けてみてください。パートナーやお子さんなど、身近な方を大事にしましょう。(『小さな心から抜け出すお坊さんの1日1分説法』 永岡書店)

このように「恩」は、知ることから始まります。” 心 ” の上に ” 原因 ” と書いて「恩」。恩知らずの特徴は、①柔軟性がなく、自らの正義(こうあるべき!という偏った価値観)に生きる人、②効率重視(自らの進め方)しか認められない潔癖な人、③もっと感謝されるべき!と自らの苦労をアピールする人 が挙げられます。すべて「自分、自分、 自分」・・・自己中心的なトライアングルにはまるのです。このような人は、最初はいい人を演じますが、時とともに自分が偉くなったと勘違いし、人を見下す傾向にあります。そして、常にイライラ … 忘恩のトライアングルの中でしか生きられず、他人を批評し、恩を恨みに変えてしまうのです。どんな恩を受けても満足がいきません。周りのお陰でなく、自分のお陰・・・最終的に、自らの正当性を主張して 責任放棄の繰り返し・・・色々な方の心遣いがあっての自分なのに … 。孤独の ” 原因 ” を 自らの ” 心 ” が作り出しています。つまり「我」を捨てることが、「恩」を知る第一歩なのです。

先日、ある女性芸能人の告白がありましたね。綺麗な方なのに、目や眉がつり上がり、口がへの字になって … ☓(バツ)の顔になっていました … 失礼ですが ” 鬼 ” の状態です。本来 目指すのは、目尻が下がり、口角が上がる人 … つまり、〇(マル)の顔の人です。これを ” 菩薩 ” の状態といいます。恩知らずは、周りとの波長が合わなくなり、「自分には もっと素晴らしい世界があるんじゃないか?」と気になり始め、今を恨み、自分の正しさ・憐れさを主張して、次の環境へ進みます ・・・恩を感じることなく、環境をコロコロ変える鬼を ” 天の邪鬼(あまのじゃく) ” といいます。こういう人の行動は、次の環境で活躍できても ” 恩返し ” とはいいません。功徳が全く積まれていないので、幸せにはなれないのです。環境に慣れれば、また恨みとイライラの渇きの生涯を送ることでしょう。ただ、天の邪鬼は まだ可愛い鬼ですが、恐ろしいのは 最終的に ” 餓鬼(がき) ” の状態になることです。 気を付けましょうね。「恩」は ” 我 ” を捨てなきゃ、気付くことはできませんよ~。合掌

餓鬼になると取り返しがつきません。

餓鬼になると取り返しがつきません。忘恩の   トライアングルで、何も見えていないのです。

※今年も住職が 個別の特別施餓鬼(せがき)を勤めます。宗派問わず。布施の額は自由。参拝不要。後の勧誘は致しません。お願い事や戒名等を書いてお送り下さい。(14日まで)。お盆で功徳を積めてない方は是非どうぞ。

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