器の大きい人

先日、親族の3回忌法要参列のため、岐阜へ行ってきました。祖母せつ の実家が善教寺という古刹で、祖母の弟、前住職・良戒上人の法事でした。法要後、琵琶説教をさせて頂きましたが、私を幼い頃から知る方々の前での法話は不思議な気分でした。まさに諸行無常です。良戒上人は 僧侶であり、教育者でもありました。今回もお育ていただいてるんだなぁ … と感謝の心でいっぱいです。

善教寺本堂 祖父母は岐阜の出身です。金森宗和や落語の開祖・安樂庵策伝も岐阜出身の金森性。縁を感じます。

善教寺本堂                        祖父母は岐阜の出身。金森宗和や落語の  開祖・安樂庵策伝も岐阜出身の金森性。  縁を感じます。

師は いつもニコニコ、何事にも動じず、穏やかに過ごされた印象があります。目標は、この器が広い良戒師の境地です。現在の私は予定に追われ、心身の余裕がありません。「器が大きい人」って何なのかなぁ … と考えた時、それは 他の物を受け入れる「余白」「余裕」がある人だと思います。器が小さい人というのは、今あるもので精いっぱい、器の中がギッシリ埋まっていて「余白」「余裕」がない状態の人ではないでしょうか。勤めや評判、重責に追われ、地に足が着いていないのかもしれません。 余裕がある時に 人は優しくなれます。それが器なのだと存じます。

ひすいこたろう氏の著書からです。
2匹の狼が闘っている。1匹の狼は恐れ、怒り、嫉妬、哀しみ、後悔、欲、傲慢、自己憐憫(じこれんびん)、罪悪感、恨み、劣等感、そしてエゴの象徴。もう1匹は、喜び、平和、愛、希望、分かち合い、安らかさ、謙虚さ、親切、友情、共感、寛大さ、真理、思いやり、そして信頼の象徴。この2匹が闘っている。ひとりの子どもがおじいさんに尋ねます。「Which wolf will win?」(どっちの狼が勝つの?)おじいさんは答えた。「The one you feed」(君が育てるほうだよ)。『あなたの人生がつまらないと思うんなら、それはあなた自身がつまらなくしているんだぜ。』(ディスカヴァー)

「君が育てるほうが勝つ」・・・結局、人生は自分で選択しているのです。 好きだと思えば好きになるし、嫌いだと思えば嫌いになる。 簡単だと思えば簡単だし、難しいと思えば難しくなる。イライラすることも、落ち着くことも … そのどちらも自分で選択できるのです。つまり 我欲を いったん置き、真理に沿って歩むことができれば、良戒師のように いつもニコニコ、何事にも動じず、穏やかに過ごせるのだと存じます。余分なエゴ(恐れ、怒り、嫉妬、哀しみ、後悔、欲、傲慢、自己憐憫、罪悪感、恨み、劣等感)が「余白」「余裕」をなくし、器を小さくしてるのです。さすれば、常に 信頼(喜び、平和、愛、希望、分かち合い、安らかさ、謙虚さ、親切、友情、共感、寛大さ、真理、思いやり)に心の針を向け、仏や先祖が喜ぶ 器作りに励みたいと思いました。一歩づつ頑張ります。良戒さま、祖父母と一緒に極楽から見守って下さい。合掌

善教寺庭園。眺めていると、心に余裕、余白が出来てきます。

善教寺庭園                眺めていると心に余白、余裕ができそうです。

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徳本行者200回忌

先日、和歌山県は有田の西法寺さまにご縁をいただきました。このお寺の近く徳本上人が修行された場所があり、檀家の皆様で200回忌をお勤めになりました。

200回忌法要

200回忌法要

徳本さま名号

徳本さま名号

徳本行者はご存知でしょうか。上人は厳しい修行を行いながら南無阿弥陀仏を唱えて日本全国を行脚をし、庶民の苦難を救った江戸時代の念仏行者です。食事は豆の粉一日一合。朝は2~3時に起きて礼拝し、日中は山を歩きながら、夜は堂内で念仏を唱え、生涯を通して粗食だったと言われています。ちなみに睡眠時間は、16歳の頃からずっと2~3時間しかとらず、亡くなるまで横になって寝ることは無かったと言います。「五体投地の苦行」では、2月の寒さの中、真夜中に谷に入って水浴びをし、全身アカギレで血が吹き出し、「松の木の様だった」と伝えられています。信者は近畿、東海、北陸、信州、関東地方にも及び現在でも「徳本講」は引き継がれ、清貧の生き方は今なお人々に影響を与えています。いつも思いますが、どういった心境で修行されていたんでしょうか。

修行をされた岩室

修行をされた岩室

佐藤 富雄氏のお言葉です。
「ほめ言葉の御利益」というものがあります。きれいだとほめられた人ではなく、ほめた人のほうが美しくきれいになるという摩訶不思議な現象です。自律神経系は、人称の区別がつきません。主語を解さず、すべて言葉を発した当事者のこととして読み取ります。ですから、まわりにいる人をほめまくっていると、ほめ言葉の影響により、自分自身がどんどん美人になっていけるのです。(『自分を変える魔法の「口ぐせ」』 かんき出版)

修行の怖いところは、人称(主語)の区別がつかないので、恨みや自己顕示欲等にかられると、そのまま自分に返ってくるのです。その志いかんで、身を滅ぼすか、多くの人を救えるか・・・同じ修行をするにも結果が大きく変わってきます。その点、徳本行者は各地に徳本講ができ、200年後にも讃えられるということは、よほどの志の持ち主だったと存じます。前回のブログではありませんが「利己心」が身を滅ぼす・・・これは謙虚に受け止めねばと学びました。恩や感謝、お陰さま、ありがとう、こういった感情が自他共に救うのです。合掌

今年は記念講演が行われます。写真中央は西法寺の徳本像。

今年は記念講演が行われます。 写真中央は西法寺の徳本像。

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介護施設へ慰問

先日、ある介護施設へ慰問に行きました。大事な檀家さまがお勤めの場所なので、喜んで参りました。利用者さんは地元の方々が多く、私の祖父母や父母のことをよく知る方々が多かったです。様々な ” 縁 ” によって、この場所に来たんだなぁ…と実感しました。

正直言いますと、京都での勤めと同時に 住職の役目を全面的に担うようになり、私のプライベートの時間は皆無です。ですから琵琶のお稽古は ほとんどできてません。現在は綱渡りの布教活動ですが、その分 私の人柄が音色や説教に出て良い と仰って下さる方も多くなりました。自己を高めることに懸命になっていた私にとって、不思議なほめ言葉です。それはその時期なんだなぁ … と 今を楽しんでします。

西郷隆盛師のお言葉です。
「人は克己心によって成功し、利己心によってしくじる。八分方(はちぶがた)うまくやってきたのに、後の二分でしくじる人が多いのはなぜか。うまくいくと利己心が大きくなる。そうなると用心を怠り、楽をしたがり、結果的にしくじるのだ」

人生は、人と人の繋がりによって成り立ちます。環境によって色々回り道はするでしょうが、克己心(自分の欲望をおさえる心・自制心)は忘れてはいけないと思います。人間は縁によって生かされているのですから … 。逆に 利己心(自分の利害だけをはかって、他人のことを考えない心)のみに生きる人は、一見、得しているように思えても、最後の肝心なところで 大きくつまづきます。大きな目標を持ちつつ、克己心を忘れないことが成功の秘訣です [これは ある檀家さまから学びました]。恩やお陰を忘れ、利己心だけの 餓鬼にならぬよう、バランス良く人生を送りたいものです。人生の晩年に、利用者さんのような笑顔がでれば最高です。そんなことを感じさせられた慰問でした。合掌

利用者さんたちと「次の世代に伝えられることは何か?」を話し合いました。

利用者さんたちと「次の世代に伝えられることは何か?」を話し合いました。

皆様の幸せをお祈りして終了しました。

皆様の幸せをお祈りして終了しました。

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地蔵盆

先月24日に地蔵盆を勤めました。毎年 船木町3ヶ寺が当番となって子供たちを迎えます。今年は西願寺が担当寺院でした。最近、子供の集まりが悪いので、寺内で色々作戦を立てて挑みました(笑)。その戦略が見事的中して、多くの子たちが参詣してくれました!

予想を超える多くの参拝。しっかり靴を並べて 上がってくれます。

予想を超える多くの参拝              しっかり靴を並べて 上がってくれます。これも教育。

地蔵盆とは、地蔵菩薩の縁日(24日)に勤める行事で、お盆に近い8月か 旧暦の7月に勤めます。経典によれば、地蔵菩薩が 親より先に亡くなった子供が ” 賽(さい)の河原 ” で苦しんでいるのを救うという功徳があることから、お盆の時期に 子供の守り本尊として加護を祈る習わしがあるのです。

賽の河原(三途の川) 親よりも先に死んだものがここで石積の刑を科せられるといわれ、あと少しで積み上がるというところで鬼が来て、それを崩してしまう。最終的にお地蔵様が救って下さいます。

賽の河原(三途の川)                   親よりも先に死んだものがここで石積の刑を科せられるといわれ、あと少しで積み上がるというところで鬼が来て、それを崩してしまいますが、最終的にお地蔵様が救って下さいます。

船木の地蔵盆では、この一年間に亡くなられた町内の物故者の方々の供養から始まります。その後、住職の法話、自治会長の挨拶、法楽(出し物)、お菓子を配り子供は解散。その後 座敷に移動し、遺族との親睦会があって全体の解散となります。つまり イベントを楽しむ行事ではなく、世代を超えて地蔵菩薩の加護や町内物故者の遺徳を偲び、時間と空間を共有する場所になっています。年代を超えて、一つのものに思いを馳せることが、今の日本にあるでしょうか?!。とても素晴らしい行事だと再認識しました。

物故者に手を合わす子供たち

物故者に手を合わす子供たち

船木にまつわるお地蔵様の伝説をお話ししました。西願寺七不思議を参照下さい。

船木にまつわるお地蔵様の伝説をお話ししました。   西願寺七不思議⑤を参照下さい。

法楽は 寺井純子さんによるオカリナ演奏。琴線に触れる音色に、参詣者はもちろん、物故者も悦んでおられるように感じました

法楽は 寺井純子さんによるオカリナ演奏       琴線に触れる音色に、参詣者はもちろん、      物故者も悦んでおられるように感じました。

刹那的な喜びを求める現代人に、しみじみと湧き上がる悦びを教えてくてた ひとときでした。夏の思い出として、子供たちの心に深く刻まれたことと存じます。ご協力いただいた皆々様に、心より感謝申し上げます。合掌

今回の作戦とは、カブトムシとクワガタのプレゼントでした! 女の子は怖がるかと思ってましたが、逆に喜んでました(笑)。これも時代です。夜な夜な採取してくださったS山様、心より感謝申し上げます。

集客の作戦とは、カブトムシとクワガタのプレゼント! 女の子は怖がるかと思ってましたが、逆に喜んでました。これも時代です(笑)。夜な夜な採取してくださったS山様、心より感謝申し上げます。

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明るく、正しく、仲よく

盆参りも佳境になりました。もうひと頑張りです。心身の体調を調え、乗り切る所存です。仏の加護を祈ります。さて前回は、理想を求め過ぎ、人の気持ちが分からなくなった鬼を ” 天邪鬼(あまのじゃく)” と呼ぶという話をしました。初めは健気に頑張るので 好感をもたれるのですが、自分のために動くので、徐々に人の願いと反対の行動をとってしまうのです。そして、これが進んだ末期の鬼を ” 餓鬼(がき)” と言い、こうなると存在自体が嫌われ、孤独になり、飢えと渇きに苦しむという話をしました。

ブログを見た方から 多くの共感の声があり、皆さんの周りにも餓鬼はいるんだと実感しました。また 餓鬼にならない方法を具体的に教えてほしいと問い合わせもありました。その方法は理論的には簡単です。仏教思想の根幹の「明るく、正しく、仲よく」生きることです。単純ですが、これが難しい・・・これらの中でも「明るく、仲よく」は感覚的にわかると思います。ポイントは、” 我 ” を入れないこと。” 私が ” 、明るく、仲よくしてあげてる!という感覚で生きてる人は、結果優先の尺度で生きるので 、人付き合いが長続きしません。(一つの環境に1、2年が限界 → 思い通りににならず、恨みを持って退散 … その繰り返しでドンドン居場所がなくなる) 本来は一歩下がり、周りを あたたかく照らし続けるイメージが大切です。努力は他人の為になして、はじめて功徳になるのです。

まさに、「おれが おれがの 我を捨てて おかげ おかげの 下で暮らせ」の境地です。

” 我 ” を捨てるためには、「正しさ」を見つめねばなりません。この正しさが さらに難しいのです。これもポイントを言いますと、正は「一たん止まる」で正しさ・・・先ほどから申している ” 我 ” が入っていないかを確認するためには、一たん止まらねばならないのです。止まって何を確認するのかといえば、恩、感謝、お陰さま、ありがとう・・・まさに人知を超えた恵みなのです。

忘恩のトライアングルを思い出してください。①柔軟性がなく、自らの正義(こうあるべき!という偏った価値観)に生きる人、②効率重視(自らの進め方)しか認められない潔癖な人、③もっと感謝されるべき!と自らの苦労をアピールする人 ・・・すべて「自分、自分、 自分」・・・人知を超えた恵みとは正反対の、自己中心的なトライアングルにはまるのです。これが本当に危ないのです。顔が×の状態で 余裕がなく、近くにいるだけで、ジト~っと 嫌な気分になるのです。まさしく餓鬼です。そういう人に限って、自分の成長をアピールして 人を見下すので要注意です。何が正しい成長かがわからないので、恩や感謝、お陰さま、ありがとうと言ってる人を嘲笑います。また餓鬼は、劣等感が強いため 人に甘えられず、腹いせに 自分がされた嫌なことを仕返しする性質もあるので注意しましょう。自分の行動を一たん止まって見つめられないのです。このように、” 我 ” が入ると、すべての善い行いが、逆効果になります。皆様は 我の鬼(ガキ)にならぬよう、覚えておいてくださいね。恩知らずは絶対幸せになれません。合掌

仁王像や四天王の下に踏まれて、反省しているのが天邪鬼。反省、感謝、報恩のうち、反省はできるようです。

仁王像や四天王の下に踏まれて、反省するのが天邪鬼。反省、感謝、報恩のうち、反省はできるようです。

餓鬼は 我欲を貫いた結果ですので、勉強熱心で知的な者が多いようです。ただ功徳が積まれてないので 報われず、なぜ自分が悪いのと苦しみます。アイツより努力してるのに…っと、恨み 怨みの連続で、反省、感謝、報恩はできません

餓鬼は 我欲を貫いた結果ですので、勉強熱心で知的な者が多いようです。ただ功徳が積まれてないので報われず、なぜ自分が悪いのかと苦しみます。アイツより努力してるのに…と、恨み 怨みの連続で、反省、感謝、報恩はできません。

修行が完成し、穏やかな境地に至ったのが菩薩。×の顔ではなく、〇の顔のイメージが伝わるでしょうか。

反省、感謝、報恩の修行が完成し、心穏やかな境地に至ったのが菩薩。×の顔ではない、〇の顔のイメージが伝わるでしょうか。はじめは みんなこの境地を目指すのですが・・・。

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恩は返すより、まず知るもの

いよいよお盆です。多くの方が墓参りをされています。参られる理由は様々でしょうが、やはり、ご先祖様の「恩」を噛みしめ、幸せを再認識する為ではないでしょうか。これは 人間の最も尊い行為です。ただ 「恩」は、誰も教えてくれません。気付くしかないのです。「恩を感じろ!!」っていう説教は、野暮ですから…(苦笑)。こういった機微は、ある意味センスなのかもしれません。

今回も彼岸寺さまの説法を引用します。
インドでは恩を「クリタジュナ」と言いました。「なされたことを知る」というのが語源です。自分がご両親からどんなことをしてもらったか。まずは思い出してみましょう。仏教での恩は「返す」より、まずは「知る」ものです。そもそも、人は人に完全な恩返しをすることはできません。これまでかけてもらった愛情も時間もお金も、そのまま返すことはできない。それに、ご両親もそれを望んではいないでしょう。それならば、いまのあなたができる形で、身近な方に振り向けてみてください。パートナーやお子さんなど、身近な方を大事にしましょう。(『小さな心から抜け出すお坊さんの1日1分説法』 永岡書店)

このように「恩」は、知ることから始まります。” 心 ” の上に ” 原因 ” と書いて「恩」。恩知らずの特徴は、①柔軟性がなく、自らの正義(こうあるべき!という偏った価値観)に生きる人、②効率重視(自らの進め方)しか認められない潔癖な人、③もっと感謝されるべき!と自らの苦労をアピールする人 が挙げられます。すべて「自分、自分、 自分」・・・自己中心的なトライアングルにはまるのです。このような人は、最初はいい人を演じますが、時とともに自分が偉くなったと勘違いし、人を見下す傾向にあります。そして、常にイライラ … 忘恩のトライアングルの中でしか生きられず、他人を批評し、恩を恨みに変えてしまうのです。どんな恩を受けても満足がいきません。周りのお陰でなく、自分のお陰・・・最終的に、自らの正当性を主張して 責任放棄の繰り返し・・・色々な方の心遣いがあっての自分なのに … 。孤独の ” 原因 ” を 自らの ” 心 ” が作り出しています。つまり「我」を捨てることが、「恩」を知る第一歩なのです。

先日、ある女性芸能人の告白がありましたね。綺麗な方なのに、目や眉がつり上がり、口がへの字になって … ☓(バツ)の顔になっていました … 失礼ですが ” 鬼 ” の状態です。本来 目指すのは、目尻が下がり、口角が上がる人 … つまり、〇(マル)の顔の人です。これを ” 菩薩 ” の状態といいます。恩知らずは、周りとの波長が合わなくなり、「自分には もっと素晴らしい世界があるんじゃないか?」と気になり始め、今を恨み、自分の正しさ・憐れさを主張して、次の環境へ進みます ・・・恩を感じることなく、環境をコロコロ変える鬼を ” 天の邪鬼(あまのじゃく) ” といいます。こういう人の行動は、次の環境で活躍できても ” 恩返し ” とはいいません。功徳が全く積まれていないので、幸せにはなれないのです。環境に慣れれば、また恨みとイライラの渇きの生涯を送ることでしょう。ただ、天の邪鬼は まだ可愛い鬼ですが、恐ろしいのは 最終的に ” 餓鬼(がき) ” の状態になることです。 気を付けましょうね。「恩」は ” 我 ” を捨てなきゃ、気付くことはできませんよ~。合掌

餓鬼になると取り返しがつきません。

餓鬼になると取り返しがつきません。忘恩の   トライアングルで、何も見えていないのです。

※今年も住職が 個別の特別施餓鬼(せがき)を勤めます。宗派問わず。布施の額は自由。参拝不要。後の勧誘は致しません。お願い事や戒名等を書いてお送り下さい。(14日まで)。お盆で功徳を積めてない方は是非どうぞ。

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西願寺夏期清掃

先日、夏期清掃を行いました。西願寺では 檀家と共に聖地を綺麗にするのです。先月は 尼講・詠讃会と共に草引きをしました。明後日には 仏具の磨き物もあります。お盆(ご先祖様のお迎え)に向けて、少しづつ掃除をしていくのが当山の風習です。

都会の方ですと「面倒くさいなぁ~」、「寺の者がすればいいじゃないか?」と思われるんじゃないでしょうか(笑)。しかし、西願寺に軸足を置き始めて「なるほど、先人の智慧は素晴らしいなぁ … 」と感心する毎日です。もちろん住職を始め、寺内の者もコツコツと掃除をしています。潤沢な資金があり、住職が経営者として任されてるのならば、業者にお願いするかもしれません。しかし このような行為が続くと言うことは、歴代の住職と檀家が ” 布施の精神 ” でお寺を護ってきた” 念(おも)い ” が詰まっています。現代のように、何でもお金で解決する考えはスマートですが、長い目で見たらマイナスの面が多いのではないでしょうか。昔に比べたら 飛躍的に生活水準が上がってるに、我々は 不平不満ばかり出てきますよね。いつまでも満足することはありません。だったら功徳を積んだ方が絶対にいい。心と体で奉仕する体験が 充実した毎日を送る礎になるのです。公の精神を磨くことが、私的な幸せに繋がると確信します。

佐藤 芳直氏のお言葉です。
1980年代頃まで、日本の社会は「公が大事」という認識を多くの国民が共有していたように思う。私はちょうどその頃に社会人になったが、例えば道端で弱い者いじめをしている子供がいれば、コラッ!と怒鳴る大人がいたものだ。ダメなことはダメなんだ、ならぬことはならぬ、公に反することをしてはいけないという共通認識があった。人間もちろん自分が大事である。今が大事だし、お金もとても大事だ。しかし、自分よりも他人の方が大事なときもある、今よりも未来の方がもっと大事、お金よりも大切なものがある。それが“人間の尊厳”であると思う。他の誰よりも自分が大事、どんな未来のことよりも今が大事、お金よりも大事なものはない、そのような考え方の中にいては、人間としての尊厳は著しく損なわれていくだろう。今だけ、自分だけ、お金だけという思想が、どれだけ現在のこの地球をダメにしてきたか。なぜ社会が劣化してきたのか?それは“人間の尊厳”を失った日本人が増えてきたからである。(『なぜ世界は日本化するのか』 育鵬社)

インディアンは、常に7世代先の子孫のことを考えて自然と共に暮らしていたそうです。アメリカ先住民の古老の言葉に 「自分自身のことでも、自分の世代のことでもなく、来るべき世代の、私たちの孫や、まだ生まれてもいない大地からやってくる新しい生命に思いをはせる」とあります。 今、私達が生きているこの世界は、未来の私達の子孫も生きていくかけがえのない世界です。そうまでして、まだ見ぬ子孫、そして地球、つまり「公」を大切にしていたのです。自分さえ良ければいいという考え方では、だんだん孤独になります。長い目で見ると、公を大切にしている人ほど多くの人に喜ばれ、人もお金も集まっているのではないでしょうか。仏教と同時に、その考え方も 未来につないでいきたいと思っています。合掌

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一元論で和を保つ

最近の世の中は、批判や苦情、揚げ足取りが多いなぁ … と思わないでしょうか?自分のことはさておき、他人のこととなると、皆が裁判官のようになって裁く・・・物事への寛容な心が消え、古きよき日本が溶けていくように思えてなりません。粋な方が少なくなりました。生きにくい世の中です。

仏教界でも 「 除夜の鐘 」 が、苦情によって昼間に行う寺院もあります。「 餅つきも大会 」 もO157の心配があるとの声で 自粛傾向へ。これ以外にも 「 盆踊り 」 の音がうるさいという苦情が出たため、ラジオの電波に音を乗せ、イヤホンで聴きながら踊るという 奇妙な光景があったり、節分の 「 豆まき 」 は危険という理由で中止。鬼が家々を回る 「 なまはげ 」 は、子どもが怖がるという苦情で鬼がとても優しくなったといいます。こういった伝統行事でさえ、一部のクレーマーによってなくなるのは寂しい限りです。

桜沢 如一氏のお言葉です。
「勝ち組、負け組」という言葉を最近よく耳にするが、これはずいぶん西洋的なものの見方だと感じる。もともと、日本人が昔から大切にしてきたのは、善か悪か、薬か毒かとはっきりと分けるやり方ではなく、もっと曖昧で相対的なものであった。たとえば、日本語には『かわいい』という言葉があるが、そこには「かわいらしい」という意味と「かわいそう」という意味がある。日本語には、ひとつの言葉がプラスとマイナス両面の意味をもっていることが多い。そのほか、『男は度胸、女は愛嬌』、『京女に東男』などの言い回しは、それぞれの特徴の良し悪しではなく、互いに補い合う関係性をいっている。昔の日本人は自然にこうした発想法をもち、物事をより大きな視点で捉えて、全体最適を選ぶことで平和を保ってきた。(『魔法のメガネ』陰陽研究会 監修 キラジェンヌ株式会社)

世の中を二元論で見ると、勝ち組と負け組、幼と老、新と旧、上と下、西洋と東洋、天国と地獄、善人と悪人、主役と悪役、敵と味方、優等生と劣等生、一軍と二軍といったように、白黒はっきり分けることができるという思想です。一元論は、男女も同じ一人の人間、世界は一つ、陰と陽は表裏一体、大人も子供も同じ人間、人間もそれ以外の動物植物も同じ地球上の生物、宇宙は一つ、といった思想です。公平を欠いた平等はダメですが、日本的なものの見方は一元論なんだと思います。例えば、陰と陽・・・陽を見れば ” 輝き ” を感じ、陰をみれば ” お陰 ” を知るのです。どちらか一方の偏った見方では 不完全なんですね。様々な個性や補いによって、みんなが幸せになれる発想を持ちたいものです。合掌

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今を生きる

最近、妙に「私は不幸だ! 環境を変えたい!!」と相談を受けます。以前 お話した「六月病」の時期なのかもしれません(笑)。もう一度、この症状をおさらいしましょう。

「五月病」と同じように「六月病」は医学用語ではありません。医学的には「適応障害」に分類されます。この症状は、急激な環境の変化についていけず、心や体が悲鳴をあげている状態です。入社時に限らず、配置転換や転職、退職、結婚、引越しなど、自分のみならず、周りの環境が大きく変化する時期に起こりがちです。ただ 六月病に関して言うならば、「自分はもっと幸せになれるのでは?!」という幻想(比較)からくるものだと言われます。どうも 自分中心の理想が、” 今の幸せ ” を邪魔してるように思えます。人間、独りで生きているのではなく、様々な恩恵によって生かされているのですが・・・。

彼岸寺さまの説法を引用します。
最近、今を幸せに思えないという悩みをよく耳にします。これから先どうなるか心配されていたり、嫌な思い出がどうしても忘れられないという方もいらっしゃるかと思います。仏教では、過去や未来ではなく、今ここでの出来事に集中することが大切だと考えます。たとえば、お釈迦さまはこんなことをおっしゃっています。「もう終わったことをいつまでも考えたり、まだ起きていないことに悩んだりしないように。過去はもう終わったことで、未来はまだ来ていないこと。だから、今すべきことをよく見つめて、それに集中しなさい。今日しなくてはいけないことを一生懸命やるのです。明日死んでしまうとしても、そのことは誰にもわからないのです」私たちはなぜ、未来や過去のことを考えるのでしょうか。その理由はいろいろ考えられますが、究極的には「幸せになりたい」と願っているからではないでしょうか。幸せになるためには、過去や未来の問題を解決しなくてはならない。でも、過去や未来のことは考えても考えても解決できない。だからそのことが頭から離れないのです。不安を解決して幸せになりたいと願うなら、過去や未来を変えようとするのではなく、そのことをどうしても考えてしまう今の気持ちに向き合いましょう。現実は変えられませんが、そのことで悩んでいるあなたの気持ちは変えることができます。(『小さな心から抜け出すお坊さんの1日1分説法』永岡書店)

幸せに生きる秘訣は「今を生きる」ことです。今が幸せに思えないのは、本来やらねばならないことに向き合わず、全力を投じてないからです。過去や未来に思考が働いている時、目の前のことに集中できないものです。それはちょうど、バックミラーを見ながら運転する車のように、後ろが気になってバックミラーを見過ぎて危ない状態です。未来ばかり見る人は、ナビの目的地周辺の地図ばかり見ているようなもので、それも危ないです。大切なのは、己の現状を直視すること・・・つまり、日々の「反省→感謝→報恩」が「今を生きる」ことにつながります。これを忘れると、大事故につながりますよ。取り返しがつきません。人間は、謙虚に謙虚に前を見て生きていく・・・必ず佛は護って下さいますから。それが信仰の原点です。合掌

昨日お亡くなりになった小林麻央さんは、最後まで ” 今を生きる ” 方でした。ご冥福をお祈りいたします。

22日に亡くなった小林麻央さんは、最後まで ” 今を生きる ” 方でした。ご冥福をお祈りいたします。

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それぞれの理想

先月より 奉職寺院中心の生活から、西願寺に軸足を置いた生活に移行しました。皆様のお力を借りつつの毎日でしたが、先代の往生から一年が過ぎ、両立が難しくなってきたのが理由の一つです。

身の置き方について、多方面から 様々なご意見を頂戴しました。その経験から ” 理想 ” は人それぞれ違うことを学びました。決断に慎重になると、優柔不断と叱責されますが、結局 なにが正しいのかわかりませんし、誰も責任を持ってくれません。経済的な問題、人間関係、それぞれの生き甲斐や考え方、心身の状態 … 色々な縁によって成り立つものですから、一つのバランスが崩れれば、立て直しは困難です。縁はヤジロべーのようなものです。絶妙な支点を探せるのは ” 自分自身 ” です。一つ一つ丁寧に、出来ることからやっていこうと思っています。

精神科医、最上 悠 氏のお言葉です。
仕事にかぎらず、目標や理想を高いところにおくのは悪いことではないでしょう。ところが、その目標や理想にこだわりすぎて、何が何でも100%の完成度でなければならないと思い込むようになると、考え方に悪いクセがつきつつある証拠です。とくに、気持ちが滅入ってくると、知らず知らずのうちに根拠のない理想に縛られて、自分を追い込んでしまうことがあります。もうひとつ、仕事の速さに理想を求めすぎている、ということもあります。たとえば、本来は10日間かけてやるべき仕事なのに、「これくらいの仕事は、5日でやれないとダメだ」と思うと、焦ってイライラしたり、辛くなったりします。すると、問題はオーバーペースであることなのに、「自分はこの仕事に向かない」と、方向性まで間違っていたかのように誤解してしまう。つまり、理想というのは、あくまで長期的目標であって、それを短期的目標といっしょにしてしまうと、自分を追い込んでしまうことになるのです。(『ココロの筋トレ』 インフォバーン )

正直、お寺の生活は難しいです。効率で語れないことが多々あります。商売なら 互いにご破算できますが、お寺はそうはいきません。住職は それぞれの ” 理想 ” を受け入れつつ、笑顔で ゆっくりゆっくり … 。心配しなくても、一つの言葉、思い、行動が 別の縁となって現れてきます。良縁の流れに乗るのが 仏教の考えです。理想に縛られ ギスギスすれば、それこそ歪みが生ずるものと心得ます。駅伝走者のつもりで、慌てず、楽しく、心穏やかに 次世代へタスキを渡せればと存じます。 ” 本当の理想郷 ” は、この世を去った後にあるのですから。南無阿弥陀仏だけは見失わぬよう進むのみです。念仏ファーストです!(笑)どうぞ皆様、助けて下さい。宜しくお願いしま~す!(^o^)!。合掌

「仏僧(ぶっそう)な夜会」と名付け、檀家の有志らと未来の西願寺について語りました。楽しかったです♪これが自坊の醍醐味ですね^^。

「仏僧(ぶっそう)な夜会」と名付け、檀家の有志らと未来の西願寺について語りました。楽しかったです♪ これが自坊の醍醐味ですね^^

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