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恩は返すより、まず知るもの

いよいよお盆です。多くの方が墓参りをされています。参られる理由は様々でしょうが、やはり、ご先祖様の「恩」を噛みしめ、幸せを再認識する為ではないでしょうか。これは 人間の最も尊い行為です。ただ 「恩」は、誰も教えてくれません。気付くしかないのです。「恩を感じろ!!」っていう説教は、野暮ですから…(苦笑)。こういった機微は、ある意味センスなのかもしれません。 今回も彼岸寺さまの説法を引用します。 インドでは恩を「クリタジュナ」と言いました。「なされたことを知る」というのが語源です。自分がご両親からどんなことをしてもらったか。まずは思い出してみましょう。仏教での恩は「返す」より、まずは「知る」ものです。そもそも、人は人に完全な恩返しをすることはできません。これまでかけてもらった愛情も時間もお金も、そのまま返すことはできない。それに、ご両親もそれを望んではいないでしょう。それならば、いまのあなたができる形で、身近な方に振り向けてみてください。パートナーやお子さんなど、身近な方を大事にしましょう。(『小さな心から抜け出すお坊さんの1日1分説法』 永岡書店) このように「恩」は、知ることから始まります。” 心 ” の上に ” 原因 ” と書いて「恩」。恩知らずの特徴は、①柔軟性がなく、自らの正義(こうあるべき!という偏った価値観)に生きる人、②効率重視(自らの進め方)しか認められない潔癖な人、③もっと感謝されるべき!と自らの苦労をアピールする人 が挙げられます。すべて「自分、自分、 自分」・・・自己中心的なトライアングルにはまるのです。このような人は、最初はいい人を演じますが、時とともに自分が偉くなったと勘違いし、人を見下す傾向にあります。そして、常にイライラ … 忘恩のトライアングルの中でしか生きられず、他人を批評し、恩を恨みに変えてしまうのです。どんな恩を受けても満足がいきません。周りのお陰でなく、自分のお陰・・・最終的に、自らの正当性を主張して 責任放棄の繰り返し・・・色々な方の心遣いがあっての自分なのに … 。孤独の ” 原因 ” を 自らの ” 心 ” が作り出しています。つまり「我」を捨てることが、「恩」を知る第一歩なのです。 先日、ある女性芸能人の告白がありましたね。綺麗な方なのに、目や眉がつり上がり、口がへの字になって … ☓(バツ)の顔になっていました … 失礼ですが ” 鬼 ” の状態です。本来 目指すのは、目尻が下がり、口角が上がる人 … … 続きを読む

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西願寺夏期清掃

先日、夏期清掃を行いました。西願寺では 檀家と共に聖地を綺麗にするのです。先月は 尼講・詠讃会と共に草引きをしました。明後日には 仏具の磨き物もあります。お盆(ご先祖様のお迎え)に向けて、少しづつ掃除をしていくのが当山の風習です。 都会の方ですと「面倒くさいなぁ~」、「寺の者がすればいいじゃないか?」と思われるんじゃないでしょうか(笑)。しかし、西願寺に軸足を置き始めて「なるほど、先人の智慧は素晴らしいなぁ … 」と感心する毎日です。もちろん住職を始め、寺内の者もコツコツと掃除をしています。潤沢な資金があり、住職が経営者として任されてるのならば、業者にお願いするかもしれません。しかし このような行為が続くと言うことは、歴代の住職と檀家が ” 布施の精神 ” でお寺を護ってきた” 念(おも)い ” が詰まっています。現代のように、何でもお金で解決する考えはスマートですが、長い目で見たらマイナスの面が多いのではないでしょうか。昔に比べたら 飛躍的に生活水準が上がってるに、我々は 不平不満ばかり出てきますよね。いつまでも満足することはありません。だったら功徳を積んだ方が絶対にいい。心と体で奉仕する体験が 充実した毎日を送る礎になるのです。公の精神を磨くことが、私的な幸せに繋がると確信します。 佐藤 芳直氏のお言葉です。 1980年代頃まで、日本の社会は「公が大事」という認識を多くの国民が共有していたように思う。私はちょうどその頃に社会人になったが、例えば道端で弱い者いじめをしている子供がいれば、コラッ!と怒鳴る大人がいたものだ。ダメなことはダメなんだ、ならぬことはならぬ、公に反することをしてはいけないという共通認識があった。人間もちろん自分が大事である。今が大事だし、お金もとても大事だ。しかし、自分よりも他人の方が大事なときもある、今よりも未来の方がもっと大事、お金よりも大切なものがある。それが“人間の尊厳”であると思う。他の誰よりも自分が大事、どんな未来のことよりも今が大事、お金よりも大事なものはない、そのような考え方の中にいては、人間としての尊厳は著しく損なわれていくだろう。今だけ、自分だけ、お金だけという思想が、どれだけ現在のこの地球をダメにしてきたか。なぜ社会が劣化してきたのか?それは“人間の尊厳”を失った日本人が増えてきたからである。(『なぜ世界は日本化するのか』 育鵬社) インディアンは、常に7世代先の子孫のことを考えて自然と共に暮らしていたそうです。アメリカ先住民の古老の言葉に 「自分自身のことでも、自分の世代のことでもなく、来るべき世代の、私たちの孫や、まだ生まれてもいない大地からやってくる新しい生命に思いをはせる」とあります。 今、私達が生きているこの世界は、未来の私達の子孫も生きていくかけがえのない世界です。そうまでして、まだ見ぬ子孫、そして地球、つまり「公」を大切にしていたのです。自分さえ良ければいいという考え方では、だんだん孤独になります。長い目で見ると、公を大切にしている人ほど多くの人に喜ばれ、人もお金も集まっているのではないでしょうか。仏教と同時に、その考え方も 未来につないでいきたいと思っています。合掌

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一元論で和を保つ

最近の世の中は、批判や苦情、揚げ足取りが多いなぁ … と思わないでしょうか?自分のことはさておき、他人のこととなると、皆が裁判官のようになって裁く・・・物事への寛容な心が消え、古きよき日本が溶けていくように思えてなりません。粋な方が少なくなりました。生きにくい世の中です。 仏教界でも 「 除夜の鐘 」 が、苦情によって昼間に行う寺院もあります。「 餅つきも大会 」 もO157の心配があるとの声で 自粛傾向へ。これ以外にも 「 盆踊り 」 の音がうるさいという苦情が出たため、ラジオの電波に音を乗せ、イヤホンで聴きながら踊るという 奇妙な光景があったり、節分の 「 豆まき 」 は危険という理由で中止。鬼が家々を回る 「 なまはげ 」 は、子どもが怖がるという苦情で鬼がとても優しくなったといいます。こういった伝統行事でさえ、一部のクレーマーによってなくなるのは寂しい限りです。 桜沢 如一氏のお言葉です。 「勝ち組、負け組」という言葉を最近よく耳にするが、これはずいぶん西洋的なものの見方だと感じる。もともと、日本人が昔から大切にしてきたのは、善か悪か、薬か毒かとはっきりと分けるやり方ではなく、もっと曖昧で相対的なものであった。たとえば、日本語には『かわいい』という言葉があるが、そこには「かわいらしい」という意味と「かわいそう」という意味がある。日本語には、ひとつの言葉がプラスとマイナス両面の意味をもっていることが多い。そのほか、『男は度胸、女は愛嬌』、『京女に東男』などの言い回しは、それぞれの特徴の良し悪しではなく、互いに補い合う関係性をいっている。昔の日本人は自然にこうした発想法をもち、物事をより大きな視点で捉えて、全体最適を選ぶことで平和を保ってきた。(『魔法のメガネ』陰陽研究会 監修 キラジェンヌ株式会社) 世の中を二元論で見ると、勝ち組と負け組、幼と老、新と旧、上と下、西洋と東洋、天国と地獄、善人と悪人、主役と悪役、敵と味方、優等生と劣等生、一軍と二軍といったように、白黒はっきり分けることができるという思想です。一元論は、男女も同じ一人の人間、世界は一つ、陰と陽は表裏一体、大人も子供も同じ人間、人間もそれ以外の動物植物も同じ地球上の生物、宇宙は一つ、といった思想です。公平を欠いた平等はダメですが、日本的なものの見方は一元論なんだと思います。例えば、陰と陽・・・陽を見れば ” 輝き ” を感じ、陰をみれば ” お陰 ” を知るのです。どちらか一方の偏った見方では 不完全なんですね。様々な個性や補いによって、みんなが幸せになれる発想を持ちたいものです。合掌

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今を生きる

最近、妙に「私は不幸だ! 環境を変えたい!!」と相談を受けます。以前 お話した「六月病」の時期なのかもしれません(笑)。もう一度、この症状をおさらいしましょう。 「五月病」と同じように「六月病」は医学用語ではありません。医学的には「適応障害」に分類されます。この症状は、急激な環境の変化についていけず、心や体が悲鳴をあげている状態です。入社時に限らず、配置転換や転職、退職、結婚、引越しなど、自分のみならず、周りの環境が大きく変化する時期に起こりがちです。ただ 六月病に関して言うならば、「自分はもっと幸せになれるのでは?!」という幻想(比較)からくるものだと言われます。どうも 自分中心の理想が、” 今の幸せ ” を邪魔してるように思えます。人間、独りで生きているのではなく、様々な恩恵によって生かされているのですが・・・。 彼岸寺さまの説法を引用します。 最近、今を幸せに思えないという悩みをよく耳にします。これから先どうなるか心配されていたり、嫌な思い出がどうしても忘れられないという方もいらっしゃるかと思います。仏教では、過去や未来ではなく、今ここでの出来事に集中することが大切だと考えます。たとえば、お釈迦さまはこんなことをおっしゃっています。「もう終わったことをいつまでも考えたり、まだ起きていないことに悩んだりしないように。過去はもう終わったことで、未来はまだ来ていないこと。だから、今すべきことをよく見つめて、それに集中しなさい。今日しなくてはいけないことを一生懸命やるのです。明日死んでしまうとしても、そのことは誰にもわからないのです」私たちはなぜ、未来や過去のことを考えるのでしょうか。その理由はいろいろ考えられますが、究極的には「幸せになりたい」と願っているからではないでしょうか。幸せになるためには、過去や未来の問題を解決しなくてはならない。でも、過去や未来のことは考えても考えても解決できない。だからそのことが頭から離れないのです。不安を解決して幸せになりたいと願うなら、過去や未来を変えようとするのではなく、そのことをどうしても考えてしまう今の気持ちに向き合いましょう。現実は変えられませんが、そのことで悩んでいるあなたの気持ちは変えることができます。(『小さな心から抜け出すお坊さんの1日1分説法』永岡書店) 幸せに生きる秘訣は「今を生きる」ことです。今が幸せに思えないのは、本来やらねばならないことに向き合わず、全力を投じてないからです。過去や未来に思考が働いている時、目の前のことに集中できないものです。それはちょうど、バックミラーを見ながら運転する車のように、後ろが気になってバックミラーを見過ぎて危ない状態です。未来ばかり見る人は、ナビの目的地周辺の地図ばかり見ているようなもので、それも危ないです。大切なのは、己の現状を直視すること・・・つまり、日々の「反省→感謝→報恩」が「今を生きる」ことにつながります。これを忘れると、大事故につながりますよ。取り返しがつきません。人間は、謙虚に謙虚に前を見て生きていく・・・必ず佛は護って下さいますから。それが信仰の原点です。合掌

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それぞれの理想

先月より 奉職寺院中心の生活から、西願寺に軸足を置いた生活に移行しました。皆様のお力を借りつつの毎日でしたが、先代の往生から一年が過ぎ、両立が難しくなってきたのが理由の一つです。 身の置き方について、多方面から 様々なご意見を頂戴しました。その経験から ” 理想 ” は人それぞれ違うことを学びました。決断に慎重になると、優柔不断と叱責されますが、結局 なにが正しいのかわかりませんし、誰も責任を持ってくれません。経済的な問題、人間関係、それぞれの生き甲斐や考え方、心身の状態 … 色々な縁によって成り立つものですから、一つのバランスが崩れれば、立て直しは困難です。縁はヤジロべーのようなものです。絶妙な支点を探せるのは ” 自分自身 ” です。一つ一つ丁寧に、出来ることからやっていこうと思っています。 精神科医、最上 悠 氏のお言葉です。 仕事にかぎらず、目標や理想を高いところにおくのは悪いことではないでしょう。ところが、その目標や理想にこだわりすぎて、何が何でも100%の完成度でなければならないと思い込むようになると、考え方に悪いクセがつきつつある証拠です。とくに、気持ちが滅入ってくると、知らず知らずのうちに根拠のない理想に縛られて、自分を追い込んでしまうことがあります。もうひとつ、仕事の速さに理想を求めすぎている、ということもあります。たとえば、本来は10日間かけてやるべき仕事なのに、「これくらいの仕事は、5日でやれないとダメだ」と思うと、焦ってイライラしたり、辛くなったりします。すると、問題はオーバーペースであることなのに、「自分はこの仕事に向かない」と、方向性まで間違っていたかのように誤解してしまう。つまり、理想というのは、あくまで長期的目標であって、それを短期的目標といっしょにしてしまうと、自分を追い込んでしまうことになるのです。(『ココロの筋トレ』 インフォバーン ) 正直、お寺の生活は難しいです。効率で語れないことが多々あります。商売なら 互いにご破算できますが、お寺はそうはいきません。住職は それぞれの ” 理想 ” を受け入れつつ、笑顔で ゆっくりゆっくり … 。心配しなくても、一つの言葉、思い、行動が 別の縁となって現れてきます。良縁の流れに乗るのが 仏教の考えです。理想に縛られ ギスギスすれば、それこそ歪みが生ずるものと心得ます。駅伝走者のつもりで、慌てず、楽しく、心穏やかに 次世代へタスキを渡せればと存じます。 ” 本当の理想郷 ” は、この世を去った後にあるのですから。南無阿弥陀仏だけは見失わぬよう進むのみです。念仏ファーストです!(笑)どうぞ皆様、助けて下さい。宜しくお願いしま~す!(^o^)!。合掌

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東京での琵琶説教

毎年5月10日は、東京のご寺院で琵琶説教をさせていただいてます。今年もお伺いしました。平日の雨にもかかわらず、100名以上の聴衆がお集まり下さり、説教冥利に尽きるひとときでした。もう15回目になりますが、貴寺では 説教師と聴衆が良い緊張感で成立している印象です。これも 寺内の方々の 教化の賜 と存じます。 最近、「まだ 飽きずに 琵琶やってるの?」とか「まだ 奉職寺院で 下積み してるの?」と よく聞かれれます(笑)。悪気がある発言でないことは重々承知ですが、苦笑いするしかありません。他者は その人の内面(成長)より、役職や肩書きで評価することが多いものです。グローバル化の影響で、” 目に見える変革 ” が当然とされる昨今ですが、” 変わらぬもの ” の中にも 大切なものがあると思います。もちろん需要があれればこそですが・・・。 曹洞宗の僧侶・枡野 俊明師のお言葉です。 「今度、京都に行くんですが、どこかおすすめのところはありますか?」仕事で京都に行く機会が多いからでしょう。私はよくそんなことを尋ねられます。ただ、おすすめしても「あそこは何年か前に行きました」なんて言葉が返ってくることが多いのです。そういうとき、私はこういいます。「いや、そのとき見て感じたことと、今度行って感じることは違いますよ。そうでなければ、あなたは成長していない、ということです」たいていは「えっ!」と驚かれますが、リーダーはこういった視点を常に持っていなければなりません。同じことをやっていても、昨日と今日では感じることが違うはず。そこに気づくことが成長なのです。私たち禅僧の修行は、毎日同じことの繰り返しです。そのなかで昨日できなかったことが今日できるようになったり、昨日気づかなかったことに今日気づいたりします。この気づかいが大きい。いろいろなことが学べます。それを数か月、数年、数十年と積み重ねていくことで、人間としての円熟味がましていくのです。それが「昨日今日不同」という禅語の意味するところです。(『リーダーの禅語』 三笠書房) 以前にも申しましたが、私は ” リピートに耐える ”・・・これが一番の 成長の糧 だと思ってます。毎回 同じことの繰り返しでも、自他共に ” 気付き ” があれば最高です。考えて見れば、お寺でも、時代劇でも、遊園地でも、なじみの店にしても 変わらぬものに安心を得ることが多いのではないでしょうか。しかし 変わらぬことにも努力が必要です。その需要と供給の理解(切磋琢磨)が日本文化の根源であり、そういったことを学ぶ場がお寺という存在です。どのような生き方であっても、生涯 感謝の心で、昨日より今日、今日より明日と「昨日今日不同」の心で成長していきたいものです。そのような環境を与え続けて下さる東京のご寺院、檀信徒様に心より御礼申し上げます。合掌

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九州での琵琶説教

先日、福岡へ琵琶説教に参りました。九州でのお説教は初めてで、気質がわからず緊張しましたが、修行時代の同期の寺院でしたので、安心して溶け込むことができました。    当日、佐賀からも同期が駆けつけてくれました。やはり 同じ釜の飯を食べた仲間は良いものです。20年以上ご縁がありませんでしたが、すぐに当時の3人に戻りました。皆、体型は一回り、いや、2回り大きくなりましたが(笑)、本質の部分は変わりません。40代になると 叱られることが少なくなりますが、昔の仲間は本音を語ってくれ、ハッと気付かされることが 多々ありました。 グーグル、モルガン・スタンレーで人材開発を務めてきたピョートル氏のお話です。 英語の「ナイス(nice)」と「カインド(kind)」は、どちらも「優しさ」を表しますが、意味するところは違います。いつもニコニコ笑って人当たりがいいのは、「ナイス」な人です。しかし、ニコニコ笑っているだけで、もしかしたら僕が目の前でコーヒーを何十杯飲んでいても、何も言わないかもしれません。「ナイス」な人は「いい人」かもしれませんが、「当たり障りのない人」「どうでもいい人」でもあります。一方、「カインド」な人は、僕がコーヒーを飲みすぎていたら、「ピョートルさん、コーヒー飲みすぎじゃない?」と言ってくれます。見て見ぬフリをするのではなく、相手のことをよく見て、相手のためになることをアドバイスする。「カインド」な人は相手のためを思って行動する「親切な人」です。リーダーシップの「優しさ」は、「ナイス」ではなく、「カインド」の「優しさ」です。親は子供に優しく接する。店員さんはお客さんに優しく接する。恋人同士、友達同士でも優しく接する。「優しさ」は相手との信頼関係を築く最初のステップです。 (『0秒リーダーシップ』 すばる舎) 私は ” 優しい坊さん ” と評されることが多いです。それは どちらかと言えば、人の良い面を見て、優しい言葉をかける「 ナイスな存在 」 だったのかも知れません。しかし、僧侶生活も20年が過ぎ、これから求められるのは、本質を突く優しさ(カインドな存在)なのかも知れません。この旅で、今後の人生にとって 大切なことを再認識させていただきました。ご接待くださった有縁の皆様、誠に有り難うございました。アンコールをいただいたので、また参らせていただきます!感謝

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人形供養

先日、公益会館さま主催の「人形供養」にお招きを受け、おもい入れのある人形の供養をさせていただきました。供養の日は3月26日。ちょうど「ひな祭り」の月でした。今でこそ 女の子の成長を祝う ひな祭りですが、かつては男女関係なかったと云います。本来は、すべての子供の成長を祈り、絢爛豪華な人形を祀るのが ひな祭りなのです。 人形の供養は 「流しびな」が発祥だと云われます。人形(ひとがた)を紙で作り、自分の持つ ” おもい ” を書き込んで海や川に流し、厄落としをするという民俗信仰ですが、ひな祭りの風習と合わさり「人形を飾ると、幼い子供の身代わりとなって厄災から守ってくれる。そのお役目を果たした人形を丁重に供養しよう」という習慣が生まれたと思われます。今は 一口に人形と言っても 様々な形・用途がありますが、その根底には、その物への ” おもい ” が込められていました。 実は、この「おもい」というものには3種類あることはご存知でしょうか? ” 思う→想う→念う ”・・・右に行くほど「おもい」が強くなりますが、よく見ると すべて「心」という文字が付いています。人間は、やはり「心」で「おもう」のです。そして「おもい」の違いは、上に付く文字で見分けます。             ・思う … 田に心と書きますが、田は頭を意味します。頭と心ですので、いわゆる頭で物事を考え思うこと。つまりは、頭による 浮かんだ思いのこと。 ・想う … 相の心、相手への心遣いです。ある対象を思い描くこと。つまりは、想像の想ですから、「思い」よりも、ある程度継続した 想いのこと。 ・念う … 今の心。いわゆる、込めたおもい。音読みでネン。念力という言葉があるように、辞書には「心中深くかみしめる。いつまでも心中に含んで考える」とあります。 しかし 現代は、あまり一つのことに「おもい」を寄せることが少なくなってきました。便利な世の中になりましたが、物は使い捨て … ご飯を食べるときも携帯を見ながら … 「おもい」の低下で、感謝の気持ちをなくしているのが現代人だと思います。そんな中、しっかりと「人形供養」を勤められる方々は、本当に尊いものだと感じました。 「おもい」の積み重ねが幸福を招くと信じるのが仏教です。人形への おもいが機縁になって、益々のご多幸を得られるようお祈りさせていただきました。関係者の皆様、参拝の皆様、誠にありがとうございました。合掌    

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「もらう」ことの尊さ

新年度になりました。読者も様々な環境になっておられることと存じます。ご自愛下さいませ。年度末、アルス・シムラの生徒さんから袈裟(けさ)の布施がありました。ご存じ、アルス・シムラは人間国宝・志村ふくみ師と志村洋子先生が開講する染織の芸術学院です。ちょうど奉職寺院が志村家の菩提寺となりますので、新年度の研修で 全生徒が参拝されるのです。その際、ふくみ先生と同郷(近江八幡)ということで、いつも私が案内させてもらいます。昨年の案内時、北陸出身の生徒さんから 私の着けていた ” 袈裟 ” について質問がありました。次のように答えた記憶があります。 「昔、インドでお釈迦さまが説法を行っておられた頃のこと。お坊さまたちは、仏教を人々に説いて廻っていました。当時、自分で生産活動を行ってはいないお坊さまは、衣食を人々の施しによってまかなっていました。ある日、いつものように説法をして各家々を廻っていたときのこと。ある貧しい家で、「たいへんよいお話を聞き、生きる希望が湧いてきました。しかし ご覧の通り、私の家は貧乏で、お坊さまにあげる物は何一つありません。差し上げられる物といえば、赤ん坊のおしめに使っているこの布ぐらいです。このような物でもよければ・・・」お坊さまは ありがたく、汚れて黄色くなっている布をもらいました。そして その布を寄せ集め、つぎはぎして衣を作って着たのです。これが「袈裟」の起源と云われます。それを証拠に、袈裟の基本色は黄土色で、小さな布をつぎはぎした模様でできているのです。また袈裟の名称は「カーシャ(汚れた布)」からきています。最後に・・・お坊様に施しをすることを布施(ふせ)と言いますよね。漢字にすると「布を施す」と書きます・・・わかりますか? そう、この逸話が「布施」の起源なんです・・・誠心誠意、おしめ(布)を差し出した … ここから、心を込めてお坊さまに施しをすることを ” 布施 ” と云うのです」 この話を聞いた生徒さんが、「卒業時に袈裟を布施させて下さい!」とおっしゃいました。それが卒業前日に実現したのです。奉職寺院にはお釈迦さまが祀られいます。その前を2年間、手を合わせてから 近くの工房へ通い詰められた生徒さん達が、袈裟を奉納されたのです。これこそが ” 真の布施 ” だと思いました。 最後に田中信生氏の言葉をご紹介して、今回のブログを閉じます。 実は、与えるために「もらう」という気持ちが必要です。どんなにたくさん持っていても、与えつづければいつかはなくなります。親切にして「あげる」というのでは、いつかエネルギーがなくなってしまいます。親切をさせて「もらう」、掃除をさせて「もらう」と どんどんエネルギーが増えていき、疲れることがありません。(『そのままのあなたが素晴らしい』 ダイヤモンド社) 「~してあげる」ではなく、物事に「もらう」という気持ちを付けると 喜びが無限に膨らむのではないでしょうか。「何事も、させて” もらう ” 」。この気持ちが ” 布施 ” につながります。平成28年度ご卒業の7名の皆様、ありがとうございました。大切に功徳を積ましてもらいます。新年度からの 益々のご活躍を祈念いたします。合掌

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東日本大震災追悼法要(平成29年)

3月11日、東日本大震災追悼法要を勤めました。震災から丸6年。仏教でいうところの七回忌に当たります。国民の関心が薄れつつある中、協力や援助が形骸化してきた今日この頃です。被災地では 震災での傷も癒えぬまま、具体的な方向性を決めねばならない時期にさしかかっています。宮城県石巻市・大川小学校の保存議論は その一例ではないでしょうか。たしかに命を落とされた場所が観光地になれば、被災者や遺族はたまりません。そのような繊細な部分(ジレンマ)に、宗教がお役に立てればと思っています。 住職になると 様々な光景を目にします。最愛の親兄弟、子供を亡くされた方、自殺や不慮の事故での急な別れ … 皆さんの悲しみに寄り添うのが僧侶の役割です。そして その苦しみを転じ、悦びに向けていくため、粘り強く法を説き続け 時間を待ちます。幸福になりたいという念いは同じでも、これがなかなか難しいのです。相手の人生哲学を受け入れつつ、自然に、自然に・・・ ” リピートに耐える ” ・・・これは 今 流行の派遣坊主ではわかりません。生意気なことをいえば、住職でなければわからない心境です。 ダニエル・T・ドルービン氏のお言葉です。 人にはそれぞれ歴史がある。現在に至るまでの人生を、そして今の自分という存在を作ってきた物語だ。さまざまな偶然と出来事を経験した末に、あなたは今この状態にいる。今の状況にあなたを運んできた過去の出来事を変えることはできない。だが、未来は変えることができる。これまでの人生は面白く、エキサイティングで、やりがいあるものだったろうか。それとも重苦しいだけの人生だったろうか。どちらにしても、未来の物語はこれから書かれる。あなたの未来は、今この瞬間からはじまる。大事なのはここから何をするかだ。ここをスタート地点として、よりよい人生が始まる、限りないチャンスとすばらしい経験にあふれる人生が始まると思えばいい。(『腐ったバナナを捨てる法』 サンマーク出版) どんな状況でも ここがスタート地点です。しかし、積み重ねの心がないとブレていきます。この法要は イベントや自己実現のためにしているのではありません。・・・念いが形骸化せぬよう、初心を忘れない ・・・この感覚が、被災者への何よりの供養だと思います。今年もありがとうございました。合掌

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