「琵琶説教」は 弁才天のご加護

本年、最後のブログとなります。令和4年は 住職の様々な節目と言うこともあり、私自身のプライベートを沢山載せました。最後はやはり「琵琶説教」について話したいと思います。

昔は 行事でお寺に集まると、お坊さんによる法話(説教)が付きものでした。幼心のイメージは、檀家がその説教を楽しみにされてるように見えました。しかし、僧侶となり冷静に聴衆を見てますと、時代と共に人々が興味を失っていってるように見えました・・・琵琶という芸能も同じです。日本一有名な楽器なのに 聞く機会がなかなかなく、いざ聞いても言葉が難しく、寝られる方が多いのです。(すべて個人の見解ですが)

そこで、日本的精神的支柱である この2つの和文化に興味を持ってもらえないか?と考え、合体させたのが「琵琶説教」です。お説教の題材は、琵琶物語を教訓にし、琵琶演奏はナレーションや台詞を入れて、人間が集中できる15分までに押さえ、残りの時間は時代背景や仏教的な教訓に当てるようにしました。これによって何席でも応対でき、現在は30ほどの題材を作っています。

「琵琶説教」が近江八幡検定の問題にもなりました。
織田信長公、豊臣秀次公、近江八幡の各文化や
歴史と一緒に 問題の中に入るのは恐縮です(^_^;)

「琵琶説教」を発願するに当たって、頼った神が弁才天でした。ご存じ、弁才天は七福神のお一人です。元々はインドの河の神・サラスバティです。河の流れは音を伴います。その音から弁舌、才能(音楽、芸術)の神として輸入され、日本では琵琶を持たれてます。弁舌、才能の神を略して弁才天。まさに「琵琶説教」そのものです。
*弁財天とも書きますが、これは財宝の御利益目当ての方々の後付けです。

「琵琶説教」を始めてから、各所で弁才天像を見つけると
大小問わずご縁を頂戴しました。

「琵琶説教」10年目を記念して、
八臂弁天と妙音弁天(江ノ島神社)を
特注で製作し、祀らせていただきました。
もちろん後方には、厳島神社の御真影、
竹生島神社の御真影も居られ、日本の
三大弁才天が一つになっておられます。

竹生島弁才天真影

厳島弁才天真影(琵琶)

厳島弁才天真影(八臂)

「琵琶説教」15年目には、
檀家さまが描かれた弁才天の絵を
ご寄贈いただきました。素晴らしいです!

今年で「琵琶説教」20年目。
記念に琵琶説教をしている住職の像を
ご寄贈いただきました。
恐縮して、身が引き締まる思いです。

最近は牛頭天王の名を多く語ってますが、元々は何もないところから弁才天に祈りを捧げたことからすべてが始まりました。今も「琵琶説教」がある時は、必ず弁才天に手を合わせてご加護をいただいてます。私は様々な神仏に守られて幸せです。来年も信仰生活の素晴らしさを伝えられたらと存じます。本年もありがとうございました。合掌

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テニス

今年のブログは、自分をさらけ出しています(笑)。前回は 生まれ育った和文化を軸に 新しいものを取り入れると、運気が上昇するという話題でした。着物の話は 私にしっくりし過ぎましたので、今回は別の趣味を公表します。それは、テニスです。(英国文化で申し訳ありませんw)

私は、中学、高校と軟式テニス部に属してキャプテンを務めてました。強豪校ではありませんのでお遊び程度でしたが、私にとって青春でした。人生の中でも最も楽しかった時期かもしれません。

年季の入った賞状です。
軟式テニス(現ソフトテニス)は、ダブルスです。

もっと成績の良い賞状やトロフィー、
高校時代の物があったはずですが・・・(笑)
でも、無くなる前にブログに残せてよかったです^^

高校卒業後は、2年間の修行生活に入り僧侶となりました。その後、現在の奉職寺院に住み込み(随身)をしつつ、佛教大学に入学します。随身の学生生活は、早朝からの門開け、勤行、掃除、朝礼。それから通学し、夕方からは門閉め、夜警、電話番。また 学校が休みの日はお寺のお手伝いをしていましたので、友達を作ったり テニスをする機会がありませんでした。

大学卒業から10年ほど経った頃、少し時間に余裕が出てきた私は テニスを再開しました。硬式テニスは初めてで 初歩クラスから始めました。レッスンは1時間半。75歳の女性と2人でコーチに教えてもらいました。あの時は30歳を過ぎたばかりで 体力には問題ないと思ってましたが、レッスンが始まってから程なくして 座り込んだ記憶があります(汗)。修行生活とスポーツは使う筋肉が違っていたのかもしれません、、、75歳の女性は平然とされてる あの悔しさ、、、今では良い思い出です^^。あれから15年、楽しく体力維持に努めています。

自己啓発書作家の佐藤富雄氏のお言葉を引用します。

唐突だが、ここで自動車を購入した自分の姿を想像していただきたい。
あなたが長年あこがれてきた、ピカピカのヨーロッパ車だ。
おそらく、あなたは週末がやってくるたびに洗車し、ワックスで丹念に磨き、
ほれぼれとしながらその車を眺めるだろう。

それでは、これが長年乗り続けてきた廃車寸前の軽自動車ならどうだろうか。
「どうせ安い中古車なんだから」とろくにメンテナンスもせず、
したとしてもせいぜいガソリンスタンドの自動洗車機にかける程度だろう。

このような話しを持ちだしたのには理由がある。
現在のあなたは、自分を中古の軽自動車のように扱っていないだろうか?
「どうせポンコツだから」
「がんばったところでいまさら遅い」
そうやって、自分を廃車寸前にまで追い込んでいないだろうか?
あなたは決してポンコツの中古車などではない。
もしもポンコツに見えるとすれば、
それは日ごろのメンテナンスを怠っているだけである。

(『ちょっとした習慣であなたの人生は変わる』 フォレスト出版)

テニスを始めた頃からの人生を回想すると、実に様々な方に支えられたなぁ・・・と思います。そういう方々の為にも 心身は大切にしたいと思う今日この頃です。佐藤氏の仰るように初心の感動や緊張は、どれだけ時が経とうとも忘れてはいけないと思います

メンテナンスは自分自身のケアです。決して 他人によく見られる為にするものではありません。しかし、現代社会は公私の時間が入り乱れて〝 無〝 になることが少なくなりました。学生時代が楽しかったのは、何も考えずに物事を取り組めたからなんだと思います。これが幸せの原点なのかもしれません

充足感のある人生を送るために、大人になっても 夢中になれる時間を持ちたいものですね。合掌

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プチ和装のススメ

日ごとに秋めいて参りました。日本には四季があり、春夏秋冬の楽しみがありますが、その一つに 身だしなみの楽しみがあるのではないでしょうか。人間の基本は衣食住ですが、特にファッションは その人自身を表します。住職の着衣は普段、衣や作務衣が多く、和服に違和感がありません。

昔のブログで「和魂洋才(わこんようさい)」の話をしました。和魂洋才とは、日本古来の精神世界を大切にしつつ西洋の技術を受け入れ、両者を発展させていくという意味です。

まず生まれ育った日本古来の精神世界に敬意を払うのです。それだけで神仏や先祖のご加護があり、運気はドンドン上昇します。「和七洋三」の心構え(割合)で、日本人としての精神的な軸を構築すると、自らに誇りが出ることも記しました。そこで 私が推奨しているのは、プチ和装のススメです。

敗戦国の日本は、残念ながら 過去文化の否定から始まっています。住職は、” 心の伝承 ” を伝える勤めをしていますので、そういう流れに非常に敏感です。これからの日本人は どのように生きていけば自信がつき、魅力が出てくるのでしょうか。

斎藤ひとりさんの「これからの時代に求められるもの」というお話があります。。

スピリチュアルっていうのは「内面のかっこよさ」なんだよね。
芸能界は主に「外面のかっこよさ」を競うけど、これからの時代、
それに負けないくらいスピリチュアルもかっこよくないとダメなの。
なぜかっていうと、かっこいいから人はついてくるんだよ。
言ってることが正しいからじゃないの。
理屈をいくら話したって、理屈じゃ人はついてこない。
「その人に惚れる」っていうことが大切なんです。

影響力を使って人を動かそうとするけど、
その人がかっこよかったら、言うことを聞くんだよね。
それで、人を影響力で動かそうとする人って、人を変えようとするんです。
でも、変えようとすると人は逃げていくんだよ。
いつも説教しようとする人からは離れていきます。
それよりも、相手が惚れちゃうような生き方をすればいいの。
そうすれば、人は自然とついてくるんだよ。

今、みんなスマートフォンとか持ってるよね。
それで、これさえあればなんでも調べられるの。
東大の試験に出るような問題だって知ることができます。
そうなったとき、これからの時代に人が何を求めるかというと、
学歴よりも “ 人格 ” であり、“ 魅力 ” なんです。
もちろん、これからも学歴は必要だけど、
それ以上に人から好かれることが大切だよね。
これからの時代、社長でも先生でも、
人に対して影響力を与えたいなら好かれないとダメなんです。

(『品をあげる人がやっていること』 サンマーク出版)

その通りだと思います。ただ、ひとりさんは人への影響力を申されてますが、承認欲求を求めない住職は、プライベートは他人に認められようと思ってません。あくまで神仏と向き合っています。

神仏は、その人の「言っていること」よりも「やっていること」、つまり ” 生き方 ” を見て下さってるのではないでしょうか。見てないようで見ておられます。応援したくなる人というのは、生き方がかっこいいんです。

そのためには、軽くていいので ” 和の根幹 ” を持つのです。過去から積み上げてこられた先人の思いを感じつつ生きると、自ずと内面が安定し、自信や魅力に繋がっていきます。神仏や先祖の力を借りつつ、各々が思うかっこいい生き方を貫ければいいですね。合掌

追伸
先日、奉職寺院でNHKの撮影があり出演しました。そのゲストが大久保汰佳(おおくぼ たいが)君でした。ご存じでしょうか? 幼少より仏像作りに励み、TV出演も多数ある有望な若者です。

私はこの和文化を大切にされてる彼に魅了され、会いたくて逢いたくて、ずーっと牛頭天王にお願いしてましたら、汰佳君から訪ねてきてくれました。さずが牛頭さまです♡ 彼とは牛頭天王復興の話で盛り上がり、今生の友達になりました。法縁に感謝です。九拝

和文化、和装つながり?です(笑)

汰佳上人から頂戴した手作の地蔵菩薩。
大切にお祀りいたします。

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熱帯魚

こんにちは。いつまでも暑い日が続きます。昨年の今頃はコロナの影響で外に出れなかったので、おうち時間の楽しみとして 熱帯魚を飼いだしました。今月で丸1年になります。その泳ぐ様子を見て涼むという ささやかな楽しみを得ています。

飼育の動機は、先月話したように経験からくる憧れから来ています。昔、友人宅に行って あまりに綺麗な熱帯魚たちを ずっと眺めて、家でも癒されたいと思った記憶があります。

もう一つは、琵琶説教で山陰の方に参ることがあるのですが、そこで見かける「牛頭(ゴズ)」という魚を飼いたかったんです。もちろん牛頭天王にかけてるんですが(笑)、あの愛嬌のある顔に惹かれたんです。釣り人からいただくわけにいかず、食用以外売ってないので諦めましたが、、、ゴズの云われについては面白いブログがありましたので、以下に掲載させていただきます。

牛頭(ゴズ)
愛嬌のある顔だと思いませんか?(笑)

出雲地方や中海沿岸では沙魚(ハゼ)のことを「牛頭(ゴズ)」と呼びます。
ちなみに「牛頭(ゴズ)」とは、頭は牛、身体は人の形をした地獄の鬼のこと…。
何故そう呼ぶのか?…その由来は定かではありませんが、物心ついた時から「ハゼ」ではなく「ゴズ」と呼んでいましたね。

ただ、オロチ退治で知られる出雲の神、「スサノオノミコト(素戔嗚尊)」が「牛頭(ゴズ)天王」とも呼ばれており、その「スサノオノミコト」が開いたと言われる出雲の国で「ハゼ」を「牛頭(ゴズ)」と呼んでいるという事実…。
まさか「スサノオノミコト(=牛頭天王)」が退治した八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が、斐伊川から宍道湖に流れて「ハゼ」になり、それで「ゴズ」と呼ばれるようになったとか … 色々な想像を掻き立てられますね。

まぁ、ただ単にその姿が牛の頭に似ているからその名が付いたのかもしれませんが…。
(ブログ「キス好きの投げキッス」)

この方の文章を拝見して、ひとつの興味を深めると 様々な知識に派生するのだと感じました。何でも勇気を持って一歩踏み出すことから 様々な出会いが始まるんだと思います。

今までの住職は、「忙しさ」というレールに何の疑問も持たず、ただひたすら走ってました。眼前の楽しいことに目もくれず、責務のみを考えていた感じです。しかしコロナ禍になり、一旦立ち止まると見えてくるものがありました。

・ただ無難に、非難されないように生きているのでは?
・〝 本当の私〝 ってなんだろう?
・どうしたら 人生の楽しみを享受できるだろうか?

このような悩みの方は意外に多いんじゃないでしょうか。その一因に、昨今は〝 土の時代〝 から〝 風の時代〝 へ移り変わり、選択肢が増え、価値観が大きく変化しているからだと推察します。(詳しくは令和4年1月のブログを参照下さい)

ただ、どのような時代であっても 人間の根幹は変わりません。人間が生まれる目的は「たくさんの感動をして、魂を震わせる」ためと桜井識子さんが仰ってますが、激しく同感します。

自分自身が感動をしたり、いい話・心あたたまる話を聞いて感涙したりすると、魂がその感動で震えます。魂が震える感覚は、心が洗われる感じ、浄化されるような感じです。スッキリ爽やかで、晴れやかな心になります。

嬉しいことがあって喜ぶ、感謝せずにはいられないことがあってそっと合掌する、人のあたたかみにふれて涙する、など、心がいい方へ動くことは、すべて感動です。この地上でしか体験出来ないこと、それを、心や肌で感じる…。

たくさんの感動を経験して、あちらの世界に持って逝く。そして、その感動の数々を応援して下さったご先祖さまに報告できたら、最高の喜び(極楽)になるのだと思います。これが〝 生まれてくる目的〝 と捉えれば、他人の目を気にしてウジウジすることなく、人生がさらに豊かになるのではないでしょうか。

熱帯魚の優雅で自由に泳ぐ姿を見て、残りの人生、感動に向けて目一杯 時間を使おうと思いました。そんなことを学んだコロナ禍の期間でした。合掌

熱帯魚の飼育は楽しいです^^
古代風に造形してみました。

隠れ穴には仙人が座っています。
魚たちへのドッキリですw
流木右下のスケルトンフィッシュは見えますか?

水草にも挑戦してみました。

ゴズが飼えなかったため、
風貌が似ているコリドラス
コケ掃除が得意なオトシンクルス
仕草が可愛いミナミヌマエビ
キラキラ光るネオンテトラ
が仲間になりました。

追伸 住職の感性は10年早いと言って下さる方がありますが・・・熱帯魚を飼って思ったこと。それは寺院消滅が叫ばれるこの時代。それを避ける起死回生の策として、本堂の壁一面を熱帯魚の水槽で囲むと、その寺はどんな田舎でも繁盛して生き残ると思いました^ ^

感動することを真剣に熱中すれば、人々を動かす力になると思います。

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真心の贈り物

残暑お見舞い申し上げます。

世間で言うお盆は終わりましたが、田舎のお盆はまだまだ続いています。今は施餓鬼(せがき)法要の手伝いに各寺院をまわり、24日の地蔵盆まで続きます。

前のブログでは、バイクの話をして余裕を見せましたが(笑)、実は過密スケジュールで 体調不良すら許されない状態なんです(^_^;

そんな中、全国の信者様から「お盆を乗り切って下さい!」と多くの励ましやお供えをいただき、毎年、なんとかやっています。縁ある方々に心より感謝申し上げます。

全員のお心添えはお伝えできませんが、今朝、広島の青木様ご夫婦からブルーベリーと手作りジャム等を送っていただきました。

青木家は病気平癒を願われてますので、
まず薬師如来と日光菩薩、月光菩薩に
お供えさせていただきました。

薬師如来の眷属、十二神将にも護ってもらいます。
ミカンも青木さまからのお供えです。

新鮮なブルーベリーと手作りのジャム
自然の恵みに感謝です^^
私が祈祷してるように見えて、
住職に必要なお心遣いが集まることが不思議です。
すべては神仏の計らいごとです。
すべてに感謝申し上げます。

青木さまは このブログを通じ、ご家族の病気平癒の祈祷のご依頼があり、見事、神仏のご加護がありました。それがご縁で願い寺に琵琶説教にも参らせていただいたりし、もう5年のお付き合いになります。

農家をされているご夫婦で、節目節目に農作物を送って下さいます。住職、今年のお盆は暑さのせいか、目がかすんでしまう症状にありましたが、このブルーベリーにあたたかさとパワーを感じ、盆行事を乗り切れる確信がしました。

信仰の力は凄いと感じる朝でした。凄いタイミングで、嬉しくてブログを追伸しました。

皆様方のお供えも 各家にあった神仏に供養し、ご祈祷してますので、どうぞ功徳の回向をお感じいただければと存じます。住職も皆様に守られてます。九拝

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牛頭天王のご加護 ~レブル250~

お盆も佳境に入りました。住職もなんとか頑張ってます。色々なお宅に伺い、若い方と話していて気付いたけとがあります。それは ” 願い ”” 夢 ” をガツガツと持つ人が少なくってきた気がするのです。

これは時代背景が大きく影響しているのだと思います。その土壌は良くも悪くも ” 体験 ” からきてると存じます。「小さい時に欲しかった物を大人になって手に入れる!」「憧れだった大人の真似がしたい!」とか幼少期の体験が願いや夢に繋がるのだと思います。しかし現代は、手元に現金が無くても色々手に入り、マスコミが大人を叩き、グレーゾーンを許さない成熟?した社会になり過ぎたことが一因にあるのかもしれません。

住職は昭和50年の生まれですので、明治、大正、昭和(戦前〜戦後〜バブル期)、平成、令和の人々の変遷を目の当たりににしている世代です。特に幼少期は明治・大正の方々から憧れを抱いた世代です。

前回のブログを読んで下さった読者から「牛頭天王により何の願いがかなったんですかー?」という問いを多くいただきました。色々ありすぎて … また 個人的なことですので言う事は憚れるんですが、一つ告白すると250CC のバイクにご縁がありました、、、この時点で、ありとあらゆる方面から、カッコつけ!、生臭坊主!、布施を返せ!、ここには納骨せん!等々、色々聞こえてきそうですが(汗)、、、安心して下さい。西願寺での収入は 未来の納骨の方々を末永く守るため、ほぼ返還しています。他の収入で購入しますからm(_ _)m

この夢のバイクが手に入れたのは、やはり幼少期の体験です。昔、西願寺の隣に豆腐屋さんがありました。そこに亀治郎さんという大正時代生まれのお爺さんがいっらっしゃいました。お孫さんが私と同世代で、毎日のように遊びに行かせていただいてた記憶があります。たまに亀治郎さんも出てきて遊んで下さるんですが、いつも倉庫に連れて行ってもらい 愛車のバイクの音を聞かせて下さったんです。そして「いいだろ~、いいだろ~。大人になったらこんな遊びもできるんだぜ!」と低いしわがれた声で仰ってたのを覚えています。それからバイクが憧れになりました。

そうして 大人になった私は僧侶となり、勤めのために原付バイクに乗る機会ができました。50CC では30キロ以上で速度違反になるので、早々と中型免許を取り125CC の原付に乗り お詣りに走る日々ですが、去年、とっても格好いいバイクを街中で見つけたんです。それがHONDAレブル250でした。


女性が乗っていた このアメリカン
バイクに一目惚れしました!

幼少期の体験もあり、一目惚れしたバイクを見つけ、何店舗も店を巡りましたが、世界情勢の影響で部品がなく 売ってる店がありません。予約しても納期未定。予約すらできないというバイクだとわかりました。そこで、牛頭天王像に祈祷をして「何とかご縁をいただけないですか? アメリカンバイクに乗るワイルドな坊主は面白いでしょ?」とお願いしたら、翌日に契約が成立したんです(笑)。

私が欲しいと思っていた時点で
超品薄でした。
中古車の方が高いという異常事態
だったそうです。

次の日、牛頭天王のご加護があればと 近江八幡のHONDA店に「いつまでかかってもいいので!」という強い思いで予約に行きました。そしたら、あいにくその日は定休日(泣)。仕方なく、Uターンするために近くの店の駐車場を拝借しようと思ったら、その店がレッドバロンでした。バイクに無頓着な私は知らなかったんですが、全国にある中古のバイク店でした。

せっかく来たので・・・と店に入ると、たまたま店長さんがいらっしゃいました。事の経緯を話しますと・・・1分ほど沈黙の後、「本当に買われる意思がありますか?」と。「あります!」(即購入というのは 迷ったんですがw)と答えると、「一見さんには絶対お伝えしないんですが、当社で一台だけ確保できる権利を持ってるんです・・・よければ・・・」。嘘のような本当の話で、もう…「牛頭さま~♡」状態でした。

引き寄せられるように入ったレッドバロン

ということで、現在はバイクの趣味を楽しんでいます^^。中型免許を取得してミッションは25年ぶりでしたので、最初はエンストしまくりでしたが(汗)・・・将来は亀治郎さんのように自由な楽しみをもって老後を楽しみたいと思います。これが 承認欲求を持たない ” 自由な住職像 ” のうちの一つです。もちろん法務は誠心誠意いたします。

あと12年後、数え年で還暦になる私は、若い人から「あぁ、ハーレーダビッドソンに乗ってる あの琵琶法師、いつも楽しそうやな~」と笑顔で言われることを夢とします。合掌

遠方に行く技術や体力、時間はまだありません(笑)
西願寺の近くに 国民休暇村があり、
その手前にレッドバロンの保養所や
シャーレー水ヶ浜という景色が最高な喫茶店があり、
お茶をするのがささやかな楽しみです。
バイク好きにはたまらない地に
住んでることを再認識しました。

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牛頭殿へ安置

安倍晋三元総理大臣が奈良市で演説中に銃で撃たれご逝去されました。色々なご意見があると思いますが、日本国のために生涯を捧げられた生き様に敬意を表します。

過去に安倍家の菩提寺に琵琶説教で伺ったことがあります。山口県のお寺さまですが、いつか墓参りに行ければと思っています。心よりご冥福をお祈り申し上げます。犯人は犯行動機を宗教関係云々と言ってるみたいですが、本当の宗教に出会えなった可哀想な方です。唯物論者が求める幸せの限界を感じました。

安倍氏は
「法然上人のみ教えを基に共生社会や
世界平和の実現を推進する浄光会」
の世話人もお勤め下さいました。

紫雲院殿政誉清浄晋寿大居士
南無阿弥陀仏

ということで、今回は長文で バリバリの宗教の話をします。本日、7月15日は牛頭天王の縁日です。去年は総本宮の廣峯神社に参拝し、琵琶の奉納演奏をさせていただきました。

昨年、廣峯神社の奥の院に念持仏を
置かせてもらいパワーをいただきました。
天から地にエネルギーが降り注がれています。

昨年のブログに「住職が発願した牛頭天王像の拝殿を造りたい!」と書いたことを記憶しています。あれから一年・・・御堂までは建てられませんでしたが、西願寺の瑠璃殿(るりでん)【薬師堂】の裏を整備し、正式に安置することができたのです。牛頭天王は薬師如来の権化ですので、非常に相性のよい場所に遷座することができました。ある霊能者が、西願寺の牛頭天王像の拝殿は「小さいものから始まる!」と預言された通りになりました。

お像の背後には、三国伝来で誉れ高い
清凉寺の釈迦如来のポスターを貼ってます。
牛頭天王は、祇園精舎(お釈迦さまのお寺)の守護神です。

拝殿の隣には、牛頭天王の祈祷札を安置しました。
廣峯、八坂、今宮、津島、羽田の御札です。
掛軸は、廣峯神社に伝わる牛頭天王の真影を
信者さんに刺繍してもらい、軸にしました。
中段には八坂の牛頭荒魂、今宮の摂社末社もいらっしゃいます。

今宮の宝印も存在感があり、見守りいただいています。
牛頭殿には、希少な牛頭天王の縁起物が集まってきます。

牛頭天王を祀って感じたことは、人生が激変し、着いていくのが大変という感覚です。他にも、ちょっとした私欲なら ほぼほぼ願いが叶っているのが凄いです。起きた現象を包み隠さず言えば、おそらく驚嘆されると思います。それほどご加護と試練をいただきました。

ただ教訓として「願いが叶ったかといって幸福か?」と言えば、また違うのです。物(環境)と心は別物だと学びました。まさに好転反応ってやつです。

繰り返しますが、結果や将来を思うと、絶対に良い方向へ向かっています。でも「これがあれば幸せ。あれが無くなればいいのに!」という二極に分かれた願望が叶った結果は、バランスを取ることが難しく、よほど図太い精神にならないと、 ” 安穏な心境 ” になれないんだ痛感しました。本当に人間は勝手な生き物です・・・。

神仏研究家の桜井識子さんによる牛頭天王の性格を表した文章があります。彼女が今宮神社に参拝された時のエピソードです。

この神社は蚊が多く、私は10ヶ所以上、刺されまくりました。あちこち赤く腫れ上がって痒いのなんのって、もう・・・という状態でした。しかし、牛頭天王に参拝拒否をされているわけでも、嫌われているわけでもありません。
牛頭天王の考えが「蚊が刺すのは当たり前じゃないか」みたいな感じなのです。ですから、豊臣秀吉さんみたいに、刺されないように蚊を抑えてあげよう、守ってあげよう、なんて考えが ” まったく ” ありません。
秀吉さんは昔人間でしたから、蚊に刺されるのが嫌だという気持ちを知っていて、豊国廟に行くと蚊を抑えてくれます。しかし、牛頭天王はそこのところ無頓着と言いますか、全然気にしてないのです。ですので、この神社で蚊に刺されるのは、呼吸をするくらい自然なこと、というわけです。
夏場の蚊の数、本当に半端ないです。しかも牛頭天王は抑えてくれませんから、夏は虫除けスプレーは必携です。一番重要なアドバイスはここかもしれません。

(『神様と仏様から聞いた 人生が楽になるコツ』 宝島社)

この真意はとてもよくわかります。貴重なアドバイスです(虫除けスプレーじゃなく 笑)。牛頭天王は結果がすべてで、それまでの過程に配慮がないということです

それは 津島の牛頭天王を信仰した織田信長公の ” 秩序を排除した神がかりな出世 ” を見ても よくわかります。(最期は牛頭天王の加護を下げ、自らが神になろうとした瞬間から転落が始まった言う人もあります) 信長亡き後、廣峯の牛頭天王を信仰した軍師・黒田官兵衛が当時無名の秀吉と共に乱世をくぐり抜け、最後は 津島の牛頭天王に本殿を奉納した豊臣秀吉公は見事、天下人になったと伝わっています。これは牛頭天王信仰が全盛期の話です。

今宮神社の桂昌院(けいしょういん)碑は
” 玉の輿(たまのこし) ” の教訓です。
八百屋の娘・お玉が今宮の牛頭天王に
出世を祈り、5代徳川綱吉公の母に
なったという逸話です。
町娘のお玉が御輿に担がれる立場と
なったので ” 玉の輿 ” です(笑)。
この方も、聞こえはいいですが、
物(環境)と心は別で、大変苦労された
人生だったと推測します。
それにしても牛頭天王の願力は、
日本の歴史を変えるほど最強なのです!

「この願いは面白い!」と一度聞き入れたら、人間の都合や配慮を抜きに 結果に向けて全力で応援して下さる神なのです。決してあやふやなことはされません。ここを気をつけなければならないと思います。

藤子不二雄Ⓐによる『笑ゥせぇるすまん』というアニメがはご存じでしょうか?まさに あのイメージです。子供心に怖かったイメージがあります。
謎のセールスマン喪黒 福造(もぐろ ふくぞう)は 悩める現代人のちょっとした願望を叶えますが、約束を破ったり忠告を聞き入れなかった場合に 因果応報でその人が破滅に向かうというストーリーです。この作品では、社会生活で人間が包み隠している、いい加減さ、愚かさ、醜さ、弱さなどの負の部分を暴き出し、人の醜さを教えてくれます。

中途半端な人間の我欲は、叶ったからと言って安穏になれるとは限らないんだと思います。いつも申している、おかげさま、ありがとう、感謝、ご恩、死後の幸福を失った我欲が いかに愚かか・・・同じことが言えます。そう考えると、安倍氏を撃った犯人は、彼がいなくなり 現在、獄中で幸福の極みでしょうか・・・。

僧侶の立場からすれば、魂レベルで 智慧と慈悲で救い、お育て下さるのが ” 仏 ” という存在で、 ” 神 ” は現世利益で 今をお救いいただく存在だと認識しています。神と仏は全く別の存在だと覚えておいて下さい。神仏両方のご加護が必要です。

私にとっての魂の救済は阿弥陀仏で、日常生活の守り神は牛頭天王です。最強の神仏とご縁があり、これ以上ないベストな信仰生活を歩んでいると自負しています。どちらにせよ、この世とあの世を貫き、目一杯楽しめる切符(信仰)を手に入れたと感謝する一年でした。合掌

先月 ブログに書いた金戒光明寺には、
牛頭天王を日本(廣峯)に招来した
吉備真備(きび の まきび)公
お像や念持仏の観音像が祀られてます。
思えば コロナ退散を願い、廣峯神社に
寄付を申し出た日(ちょうど一年後の
5月30日)に、大本山・金戒光明寺
の藤本淨彦台下からお電話がありました
・・・牛頭天王の因縁を感じます。

*牛頭殿は、一般には拝観をしてません。
ただ、牛頭天王に 縁ある方の幸せを祈祷してますので、住職と波長を合わせ 西願寺で供養していただくと三苦(貧、病、争)回避の運気はかなり上昇するはずです。
法事の際には、牛頭天王のご真言と共に 大般若経の転読にてご遺族のケア(ご多幸)も祈らせていただいてます。一つずつの依頼ですと布施も重なりますが、先月も述べたように、短時間、総合的、合理的に供養できるのが当山の強みです。お互い 時間もお金も有限ですから。

今年も一般の盆供養を受け付けます。

オン ハラレイキャ ゴズデイバ セイガンズイキ エンメイ ソワカ 

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台下からの励まし ~次なる12年にむけて~

5月30日、晩8時過ぎに西願寺に電話がありました。夜、お寺に電話があると(お葬式の可能性が高く)ドキッとするんですが(汗)、予想外のお方でした。それは浄土宗の大本山・黒谷金戒光明寺(くろだに こんかいこうみょうじ)の藤本淨彦(ふじもと じょうげん)台下、ご本人でした。読者の方にどうお伝えしたらよいかわかりませんが、天皇陛下や総理大臣から直接連絡がある感覚で、背筋が伸びる思いでした(笑)

藤本淨彦台下

内容はこうでした。令和6年(2024)は、法然上人による浄土宗が開かれて850年の節目【開宗850年】となります。それに併せて、各本山では大きな催し事をされるのですが、黒谷金戒光明寺では金森の琵琶説教で盛り上げてほしいとのことでした。また850年目に向けて、各本山のトップの僧侶【台下(だいか)】が、各地の布教活動にお出ましになることを巡錫(じゅんしゃく)と言いますが、藤本台下の説法には金森が付いて法然上人の琵琶語りをしてほしいと直々にお言葉を頂戴しました。

私の性格は天邪鬼(あまのじゃく)で、本当にやりたいことをして人生を楽しんでいるので、組織が絡むことはだいたいお断りしています。しかし、今回ばかりは僧侶として一番尊敬する 台下直々のご依頼でしたので 快くお受けしました。できることは限られてますが、浄土宗のため全力を尽くす所存です。

大本山・黒谷金戒光明寺

電話を切る前の台下のお言葉が本当に心に染みました。
「各本山では手っ取り早く有名人を呼んで催し事をする傾向にあるけど、本来は浄土宗の坊さん自体が頑張らなくてはならない。そんな中、金森君を長年見ているけれど、君のたたずまい、しぐさ、話し方は本当に僧侶を志している者の風格になってきた。今までやってきたことに自信をもって前に進みなさい。私と一緒に各地を巡って布教をしよう!」

台下は本当に厳しいお方です。いつも怒られている感覚でしたが、「あぁ、見てて下さってるんだ・・・」と涙の出る思いでした。今年で僧侶を志し30年、琵琶説教を始めて20年、住職となり干支が一回り(12年)、骨仏を建立して10年と節目の年になります。最近、琵琶を習い始める僧侶や、西願寺式骨仏を建立するお寺が増えました。それはそれで、パイオニアになることができ喜んでいます。しかし 関係者からは ノウハウばかり聞かれたり、便利屋的な存在になり 寂しい思いをしてましたが、台下のお言葉で溜飲が下がり、本当に僧侶をやっててよかったと思いました。

今回の話は自慢たらしい話で 汗顔の思いですが、日記感覚で付けていいるブログですのでお許し下さい。今後、もちろん琵琶も楽しんでいきますが、最近は 自分の理想の僧侶像をセッセと造っています。それは承認欲求を持たない ” 自由な住職像 ” をもう一本柱に持ちたいんです。私は楽しいことをすれば寺院の魅力(布教)に繋がると思っています。その考えは昔から全く変わりません。

・ただの説法より、” 琵琶 ” を使ったお説教の方がワクワクしませんか? 琵琶物語から歴史や仏教を学ぶのです。今までそういう方がいらっしゃいませんでした。

・お墓を建立し、寺の付き合いや掃除、子孫への負担や無縁仏になる心配をするより、姓が変わっても親や友人と一緒に納骨され、しかも 本堂内で毎日住職のお経が聞こえる場所にある ” 骨仏 ” って素敵だと思いませんか?

この仏像の胎内に遺骨を納め、
仏の姿で次世代を見守ります。
これが住職の提唱する
” 300年安心プラン ” です。
※元々は東日本大震災支援のために
建立しましたので、
もちろん その思いも忘れていません。

安価な公共納骨所より 絶対によい環境です。住職がいますので供養の仕方も相談でき、参拝に来られる小さいお子さん(次世代)にはお菓子も差し上げ、供養の楽しさを味わってもらってます。そうして骨仏を紹介してくだされば下さるほど檀家の負担も減り、寺の消滅が多い中、長い目で見れば西願寺は繁栄するはずです。
また 合祀が抵抗ある方には個別納骨壇も設置しましたし、境内にペット墓、水子地蔵さまも設けましたので、すべて一元管理ができるのです。年会費も頂戴してません。

境内にはペット墓も設置しました

すべては、この登録文化財(重要文化的景観
第一号)や檀信徒のご先祖さまを永劫に
残すためにやっています

いかがでしょうか?・・・正しいかどうかは別として、住職12年で「あればいいな!」と思うものを形にしてきました。いくら説明しても私利私欲だと捉えられがちですが、今は ” 風の時代 ” です。もう ” ねばならないの時代 ” は終わりました。今後も仏教の基本(有難う、おかげさま、ご恩、感謝、死後の幸福)は押さえつつも 遠慮を取っ払って、未来を見据えて好きなことを加速してやっていきたいと思います。そのために私のプライベート(自由な住職像)は大事なのです。

あっ…しかし、今、私が目指している ” 自由な住職像 ” は 台下に叱られるものかもしれません・・・せっかくお褒めいただいたのに・・・やっぱり私は天邪鬼ですねー(笑)合掌

台下からご連絡があってスイッチが入り、
法然上人と黒谷金戒光明寺にまつわる
琵琶物語を約一時間で仕上げました。
まだまだ試作段階ですが、
好きなことは集中力がでるものですね^^
黒谷金戒光明寺の執事長・清水秀浩上人からも
フォローのお電話をいただきました。
懸命に頑張ります。よろしくお願いします。

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時間軸と空間軸

4月に入り、新入生の入学式の時節となりました。春ですね。「春」といえば、みなさんは、何を連想されますか?あるランキング調査では「春といえば、桜」と答える人が、約8割だったそうです。

しかし、古典で「春」といえば・・・やはり「春はあけぼの」です。この時代も桜は綺麗であったと思いますが、清少納言は花ではなく「時間軸(時の移ろい)」であらわしているのが印象的です。

一方、現代人の考えは「空間軸(今の状態)」です。現実に美しくなっている ” 今 ” の桜のみ見ている気がします。桜が好き!と言っても、開花宣言や花見に一喜一憂し、インスタ映え等の「空間」による心地良さを好み、そのプロセスは見向きもしません。平均寿命が延びた日本人ですが、現代人の方が刹那的だと感じます。

エッセイスト、木村耕一さんの対談を引用します。
──木村さん、春ですね。春といえば?

はい、「春は曙(あけぼの)。ようよう白くなり行(ゆく)、やまぎわすこしあかりて・・・」を思い出します。『枕草子』の、有名な書き出しですね。

──春といえば、「桜」を思い浮かべる人がほとんどのようですが・・・。なぜ、「あけぼの(夜明け前)」なのでしょうか?

そうですよね。春といえば、「桜」を連想する人が多いと思います。それなのに清少納言は、花ではなく、時間帯できたか!と驚きますよね。この意外性が、夜明け前の静けさを、映画のワンシーンのように脳裏に浮かばせ、強烈な印象を与えているのです。

──確かに「春はあけぼの」って、言葉の響きもよく、映像が浮かんでくるようですね。どんなメッセージが込められているのでしょうか?

はい。清少納言は、私たちに、「ほら、つらい冬が終わって、温かい太陽が昇ってきたよ。真っ暗な闇が去って、薄紫色に輝いてきたよ。だから、春は、あけぼのが好き」と語りかけているように思います。
彼女自身が、生きることのつらさ、苦しさを、強く感じていたからこそ、
「春の来ない冬はない」
「朝の来ない夜はない」
「だから、あきらめずに、前向きに生きよう」
というメッセージを、『枕草子』の冒頭に込めたのではないでしょうか。

──あれ? 『枕草子』は、千年前の、平安貴族の日常を、エッセー風に書いたものではないでしょうか。王朝生活は、そんなに暗いはずないですよね。

はい、実は私も、『枕草子』を読むまでは、「平安貴族は、気楽でいいなあ。いつもきれいな服を着て、すぐ恋をして和歌を詠み、四季の変化を眺めて『風流だな』と言っていれば評価されるんだから・・・。何の苦しみもない人たちだろうな」と思っていました。ところが、清少納言が、当時の天皇と后の周りで起きたことを書き残してくれたおかげで、平安貴族といっても、王朝生活といっても、人間関係の苦しみは、現代の私たちと、少しも変わらないことが分かります。

──え? どんなことがあったのでしょうか。

根も葉もないウワサ話に悩まされたり、濡れ衣を着せられたり、権力争いに巻き込まれたり・・・。でも、どんな理不尽な扱いを受けても、清少納言は、相手を非難したり、攻撃したり、報復したりしていません。知恵と洒落、ユーモアのセンスを生かして、乗り越えていきます。

──すごいですね。理不尽な出来事には、腹を立てたり、恨んだりして当然だと思っていましたが・・・。

怒りには怒りをぶつけ、恨みには恨みで報復していては、いつまでも、ドロドロとした戦いが続き、お互いに、得るものはありません。

──確かに、そのとおりです。

「正しいことは、時間の流れが証明してくれる。私は、私の誠意を尽くすだけ・・・」清少納言の、こういう心の持ち方が、千年たっても、多くの読者に支持されている理由ではないでしょうか。

──ありがとうございました。「『枕草子』は、キラキラしている」「悲しみ、苦しみを乗り越える力を与えてくれる」という読後感を持つ人が多いのもうなずけますね。
(「意訳で楽しむ古典シリーズ」)

現代人は、物事をもう少し「時間軸」を意識すると様々なものが見えてくるはずです。それを仏教が教えてるのではないでしょうか。こんな言葉があります。

あ 当たり前やと喜ばず
い いつもの事やと感謝せず
う 受けしお陰に気も付かず
え 縁を大事と喜ばず
お 恩も忘れて我が事ばかり

まさしく「時間軸」「空間軸」が交わった時にしっくりくる言葉です。仏教を通じて何事もバランスのよい見方を大切にしたいと思う今日この頃です。合掌

最近の関心事、コロナ問題やウクライナ問題にしても、感情論や各国の思惑による情報戦(空間軸)のみに傾くのではなく、過去の教訓や歴史的な背景、大いなるものからの警告(時間軸)として冷静に見る方が、真実が見えてくるのかもしれません。

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生活者と人生者

段々と暖かな春の日差しになってきました。奉職寺院の梅や河津桜も見頃になっています。これから一年かけて、様々な花が私たちを楽しませてくれます。日本人は花が大好きです。そのような花たちの終わりを日本語は粋に表現してますので、一部お伝えします。

【桜】⇒「散る」
【梅】【萩】⇒「こぼれる」
【椿】⇒「落ちる」
【朝顔】⇒「しぼむ」
【牡丹】⇒「崩れる」
【菊】⇒「舞う」
【薔薇】⇒「枯れる」
【紫陽花】⇒「しおれる」

では、私たち人間の終わりは何と言うでしょう?

【人間】⇒「往(い)く」

仏教では、仏に救われての亡くなり方を「往生」と言います。往き生まれる・・・人間は死んだら終わりでなく、魂は永遠に生き続けると説きます。ですから、人間のご遺体のことを「亡骸(なきがら)」といいます。” 魂の抜け殻 ” という意味ですね。みんなこの世を去るんです。そう考えると、花にしても人間にしても、今を精一杯生きることが尊くて 成功も失敗もないんだなぁ、と思います。入り組んだ現代社会では、色々考えれば考えるほどうまくいかないもので・・・そんな中、僧侶は「余分なことは考えなくていいんですよ。ただ、魂の次の往き先だけは意識しておいて、この世をハツラツと生きましょう!」と魂中心の生き方を伝える職業です。

宗教評論家のひろさちや氏のお言葉です。
ここで人間というものを二つに定義してみましょう。
毎日の暮らしにあくせくし、そこにとらわれて、何か問題が起きたら、なんとか解決したい、どうしたらもっとよくなるのか、と考える。これが「生活者」です。
一方、ここに人間が生きている、生きている俺は好きなように生きる、どんな生き方をしたってかまわんだろう、と開き直ることができる。こちらは「人生者」です。

人生者と生活者が決定的に違うのは、そのトラブルにどう向き合うかなんです。生活者はトラブルをなんとしてでも解決しようとする。悩みや苦しみもなくしたい、と考えます。人生者はそんなつまらないことはしません。トラブルも、苦労も、悩みも、放っておくんです。

放っておくとはどういうことか?トラブルにみまわれてる自分、悩みに落ち込んでいる自分、苦労のさなかにいる自分を、そのままに生きる、ということですね。
トラブルや悩みも同じです。それをどうにかしようなんてことは考えずに、あるがままにいきたらいい。それが人生者としての生き方です。

(『「ずぼら」人生論』 三笠書房)

最近は、コロナ感染、悲惨な戦争、物価上昇等々、辟易(へきえき)とする話題ばかりです。人の考えも様々になり、正しさの価値観が消えている状態です。これは 一僧侶の努力ではどうすることもできません。放っておくといえば語弊がありますが、ありのままに生きる「人生者」として、もっと自分の心を大切にしたいと思うようになってきました。何の駆け引きもなく、精一杯生きている花を見ると勇気が湧いてきます。人生は、おごらず、比べず、面白がって、平気に生きればいいんです。合掌

今、奉職寺院の河津桜が見頃です
桜は「散る」ですね
「散る桜 残る桜も散る桜」良寛禅師

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