究極の幸せ

今年は彼岸が過ぎても暑い日が続きました。穏やかな気候が少なく、今は秋を通り越して冬が来そうな雰囲気です。

西願寺では20数年飼っている猫がいます。名前は ” びー ”(通称びーたん) 。今年、祖母の23回忌を勤めましたが、その頃から我が家に居ますので、金森家四代に渡り見守り続けているメス猫になります。

二代目びー

元々、西願寺は黒猫を飼っていました。その子はブラックのBを取っての びー だったんですが、晩年に行方不明になり、同時期に迷い込んできたのが今回の びーたん になります。この ” びー ” は美人(美猫?)だったことから、二代目の びー になりました。あれから20年あまり、、、、今では超後期高齢のお婆さんです(笑)

びーたんの見事な寝相

今夏は酷暑でしたが、お寺はクーラーをあまり付けません。びーたんは堂内の隅々の涼しい所を知り尽くしてますので、様々な所で涼んでいましたが、この暑さは老猫には堪えたんでしょう。盆明けくらいからプチ家出をして、ご近所の様々なお宅で可愛がってもらっていたみたいです。(お隣さんから「お寺の猫が遊びに来ています。心配しないで下さいね。エサを与えていいですか?」とお言葉をいただいてました)

おそらく、そのお宅では、お寺では出さないような高級ご飯を出して下さり、クーラーの効いた部屋で優しい声を掛けて下さってるのだと思います。びーたんは、ストレスフリーな生活をして、大好物のミルクが飲みたくなったら帰ってきて、また行きたい所に遊びに行く、、、なんて羨ましいんでしょう。人間でしたら、こんな恩知らずの行為は許されません(笑)。しかし、今回のびーたんの行動に ” 究極の幸せ ” を感じました。

お隣さんの窓に映る びーたん と思われるシルエット
今宵もお泊まりです(泣笑)

朝帰りの びーたん
ミルクを欲しがってます、、、
呑気なものです(汗)

そう考えると、とにかく人間世界は生きづらいものですね。夏目漱石がうまくこの世の中を喩えています。
「智に働けば角(かど)が立つ。
情に棹(さお)させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
兎角(とかく)に人の世は住みにくい」

『草枕』

【世間の人とつきあうときには、
頭のいいところが見えすぎると嫌われる。
あまりにも情が深いとそれに流されてしまう。
また自分の意見を強く押し出すと、
衝突することも多く世間を狭くする。
人づきあいというのは、
智と情と意地のバランスを
上手にとらなければならず、
なかなか困難なことだ】

その点、野生動物の生き方はシンプルです。財産を持たず、最低限の欲望で、世間体も気にせず、本能のままに生きて、愚痴もこぼすことなく命を全うします・・・しかも、周りもこの生き方を受け入れているんですから・・・これぞ究極のあり方です。あと真理を学ぶことができたら悟りの境地です。

お釈迦さまは「人は一人で生まれ、一人で死ぬ」とお説き下さいました。この世に来た時が一人なら、去るのも一人という教えです。他者に依存しない、揺るぎのない自分を持つことが大切だということです。

この境地(空)を体得すれば、毎日が楽しんだろなー♪ と思います。例えるなら観音さまです。美意識が高く、年齢や性別が不詳、めちゃくちゃオシャレで、遊び心を悟りとし、微笑で悠々と教化されるお姿に強い憧れを持っています。

住職は、心身共に観音さまを目指してます!
この水月観音さまが私の究極の姿です^ ^

この夏、びーたん から、とらわれのない ” 究極の幸せ ” を学ばせていただきました。縁のある皆様に感謝です。合掌

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ワクワクするご縁

先日、津島神社の牛頭天王に参拝し、授戒会の成功御礼と 今後の願い事を祈祷してきました。祈祷所では、 ” ワクワクするご縁 ” に恵まれますように!と言った内容を祈りました。それ以来、人の縁はもとより、物の縁、繋がりたいご縁が次々と叶い、ワクワクする毎日を送っています。

津島神社拝殿でのご祈祷風景

一例を挙げますと、今月の3日、地元の商店街の御依頼で琵琶説教に伺いました。幹事さんの話では、設営費等の捻出のため有料になるということ。また雨予報ということもあり、少人数だと予測してました。毎年されてる行事でもありませんし、地域行事という性質上、私も檀信徒や知り合いには声をかけませんでした。しかし蓋を開ければ 晴天に変わり、100人近くの人々が集まって下さったのです!(驚)。

面識のない方々から「琵琶説教の口コミを聞いて来ました!」、「予想以上に良かったです!」「定期的にやってほしい!」というお声を聞けて本当に嬉しく思いました。

これまでも色々な場所でさせていただいてますが、行事ありきの一コマがほとんどです。しかし今回は、私の琵琶を聴く為だけに、義理や行事の縁でなく、お金を払ってでも足を運んで下さることに感動しました。これこそ ” ワクワクするご縁 ” です。真剣に聴いて下さる皆様の表情に、今までのことが報われた気がしました。

今回は八幡堀の辺り、名刹の
蓮照寺さまをお借りしての説教でした

説教後、有志による食事会に
ご招待していただきました

様々な方と有意義なお話をし、また
魂の込もった料理や食器の数々に
ワクワクする体験を
させていただきました!
皆さま、ありがとうございました^ ^

石と白砂を使った細川流盆石の
伝統芸能を拝見しました

話を戻しますと、津島神社での祈祷中、武将の姿が浮かんできました。それは、津島の牛頭天王を信仰をされていた豊臣秀吉公のようでした。

「ワシは、太閤になろうなどとは思ったことがない。
草履取りのときは草履取りを一心に努めたら、足軽に取り立てられた。
ありがたいことだと一生懸命仕えたら、侍になった。
侍の仕事に夢中になっていると、いつしか侍大将になっていたのだ。
ついに姫路一城を拝領するにいたった。
ワシは、一職をうれば一職、一官を拝すれば一官、
その職官に没頭して今日にいたったのだ。
ほかに出世の秘訣は、なにもない」

豊臣秀吉公が寄贈した
津島神社の楼門(重要文化財)

秀吉公は人生成功の秘訣は、奇手を狙うことではないと申されました。ただひたすら、目の前のことに没頭しただけだと、、、その上で、信長さまだったらどんなことを喜ぶだろう?って考えて行動されていたのではないでしょうか。「困ったな~」「無茶なこと言うな~」ではなく、「よしっ、驚かせてやろう!」という気持ちで、 “ 草履取り ” や “ 一夜城 ” 、 “ 中国大返し ” などをやってのけたのでしょう。逃げても、逃げても、逃げても、逃げても、どの道、困難や障害というものは必ずやって来るものです。

住職も若い頃、法話をするご縁を頂戴し、どうしたら聴衆に喜んでもらうかという一心で琵琶説教を始め、気付けば20年の歳月が経ちました。その思いが原点となり、様々な方とご縁をいただいてます。

結局、人生は嫌なことばかりではありません。困難と成長は、イコールで結ばれてるように感じます。

困難=成長

この成長が ” ワクワクするご縁 ” に繋がるのだと思います。人間世界は修行の場ですので、心地よいことばかりではありません。しかし、一つ一つの困難から逃げると言うことは、同時に成長(ワクワク感)からも逃げるということになります。年を重ねると喜びが少なくなるというのはこの辺にあると思います。

何事にも目をそむけずに「面白いことが起きたぞ!」と言って迎合すれば、人生は充実するのではないでしょうか。そうすれば点が線に繋がり、得も言われぬワクワク感、そしてご縁のありがたさが味わえるものだと存じます。合掌

先日は、琵琶説教の新フクサを
刺繍で作っていただきました。
『平家物語』の熊谷直実と平敦盛の場面です。
琵琶説教ではフクサの刺繍柄を楽しんで
いただく方も多いんじゃないでしょうか。 
これもワクワクするご縁ですね^ ^

製作者の里田昭美さまは、
琵琶説教関係すべての
執持物にご協力いただいてます。
私の活動は色々なご縁で
成り立っています。
感謝!

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宣伝

近江八幡の町おこしに協力させていただきます。
興味がある方はどうぞ!

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苦労→努力→満足

お盆の真っ只中です。一霊一霊 心込めて勤めています。その真心は わかる人にはわかり、功徳がドンドン巡っておられるように感じます。心の向け方によって、人は幸にも不幸になると思う今日この頃です。

お盆詣りでは 年に一度お会いする方もあり、近況を楽しくお話させていただいています。ここ最近で感じたことは、日本人の価値観が二分されていることです。一つは「苦労は買ってでもしろ」という考え。もう一つは「今を楽しまなきゃ損」という考えです。言うまでも無く、若い世代になればなるほど後者の考えが大多数です。

では、仏教はどちらの考えでしょうか? もちろん両方とも尊い考えですし、宗派によって捉える角度が異なりますが、住職の立場から言えば、仏教は前者の考えだとお答えします。それは、” 人間世界には修行に来ている ” と考えるからです。輪廻転生という生まれ変わりの中、今、魂に足りない修行をし、それに気付かせていただき、器を広げると考えるからです。だから「苦労は有難い」と捉えるのです。

一方、「一度きりの人生、楽しまなきゃ損!」という考えは、どちらかと言えば寿命が尽きれば 何もかも消滅という考えが強いように思えます。また、その考えは 他者の利益が後回しになりますので、よっぽど自分を律していないと我利我利亡者になりがちです。

繰り返しますが、人間界は器を広げて、どれだけ高い見地、広い視野で世の中を見ることができるかで ブレない幸せが訪れるのだと思います。苦労(努力)と楽しみ(満足)を分断せずに、苦労を楽しめたら最高です。

「苦労」という種を蒔き
「努力」という肥料を施し
「満足」という花を咲かせる

住職はこの過程を根本に置くべきだと思っています。先に「満足」を得ようとすると、結局、「苦労」「努力」というものが欲望の中で擦り減らされてしまい、一過性の喜びはあっても、満足を得られないのだと思います。後々に、苦労を良き思い出として振り返れるような、ジワ~っとした幸福感を味わいたいものです。お盆でお話をしていて、そういう人は素敵だなぁ・・・私もそのように年を取りたいと強く思いました。合掌

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念誉昭憲代の授戒会 〜僧侶方〜

今回の授戒会に当たり、住職には強いこだわりがありました。それは ご随喜(お手伝い)いただく僧侶方のことです。

近江八幡市内周辺の浄土宗寺院は約44ケ寺あります。その地域を蒲生(がもう)第三組といいます。その中でも一部から四部まであり、西願寺は蒲生第三組第一部に属しています。一部は12ケ寺あり、兼務を含めると住職方は10名いらっしゃいます。常に大法要はこのメンバーで勤めます

私の強いこだわりとは、この10人の僧侶方を中心に配役をすべて回したかったのです。授戒会は、寺院によって必ず行わなくてはならないという強制はありません。ですので、巡りによって なかなか経験することが出来ない若い僧侶もいます。ですから なかなか難しい要望でしたが、皆様が理解し、頑張って下さいました。

伝戒師・・・戒を伝授する僧侶(私)
説戒師・・・受者に戒を教える僧侶
回向師・・・先祖回向やお経を先導する僧侶
総監・・・全体を把握し、指導する長老僧
教授師・・・受者に指導する僧侶
伝巻師・・・巻物や塔婆等を書く書簡の僧
受者係・・・常に受者の側について助ける僧侶
殿司・・・儀式全般を裏回しする僧侶
説戒師係、導師係・・・着付けや引率等の世話係

ざっとあげても、これだけの役職があります。剃度式や正授戒の儀式になると、さらに複雑な配役になります。すべて重要な役職ばかりですが、特に説戒師と回向師は専門的ですので、客僧として外部からお招きするのが通例ですが、私は これらまでも部内の僧侶方でやろうと願ったのです。

この心は 現在の部内住職方の充実から来ています。幸いにも第一部は 皆様が研鑽されてる地域で、今なら経験豊富な先輩方からは色々教ていただくことができ、中堅、若手は育ち合いながら、次なる発展を望む意味合いがありました。あと授戒発足の決断が数年前後しても、このメンバーでの成立は難しく、絶妙なタイミングだったと存じます

令和5年授戒会
ご随喜の和尚さま方と役員の会長、副会長

私の祖父(師匠)は 僧侶であり教育者でもありました。生前、常々、この言葉を好んで説いてました。

一年先を思う人は花を育てなさい。
十年先を思う人は木を育てなさい。
百年先を思う人は人を育てなさい。

今月の7月21日で、大正12年生まれの先々代・定雄老和尚は生誕100年になります。孫の私がさらなる100年先の仏教会を思い、師匠の意思を引き継いだ形となりました。西願寺授戒会から、各ご寺院の益々のご繁栄、さらには蒲生第三組第一部・檀信徒各家の念仏興隆をお祈り申し上げます。

昭和29年授戒会

昭和61年授戒会(男性)

昭和61年授戒会(女性)

部内や随喜の僧侶方、立派な授戒会をありがとうございました。西願寺の受者に成り変わり厚く御礼申し上げます。合掌

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念誉昭憲代の授戒会 〜2000日の決意〜

今回の授戒会は、本来 令和3年に開く予定でした。しかし、未曾有のコロナウィルス感染拡大により約1年6ヶ月あまりの延期を余儀なくされました。

令和3年当時の授戒会ポスター

令和5年5月5日に正授戒という予定は、まだコロナウィルスの感染がどうなるかわからない状態で、雲を掴むような気持ちで設定した日にちでした。

思えば、この授戒会を開こうとした遠縁は 時期的な間隔がピッタリだったこと。近縁は 平成29年秋に授戒会を勤められた市内のお寺さまから法灯を受け継ごうと決意したとことから始まりました。

今でも覚えています、、、平成29年11月12日(日) に総代経験者の長老方にお集まりいただき、授戒会の決意を述べ、翌年に準備委員会を発足しました。

授戒会準備委員会の発足!

住職自身は 授戒会の成功を祈り、願掛けとして五穀断ち(禁酒も含む)を令和2年8月8日から始めました。 願掛けですので、理由は他人には言えず、ゲッソリ細った私を心配する方もいて下さいました(^_^;)

五穀断ち

しかし 願掛けから1年後、残念ながら 開催直前にコロナウィルス感染拡大のため延期を決断、、、これ以上、五穀断ちを続けると心身の危険があるため、禁酒のみの願掛けを継続しました。

これは授戒会開催中に知ったのですが、
令和5年5月5日の正授戒の満行から見て、
①授戒会の開催を宣言した日から丁度2000日目。
②願掛けを始めて 丁度1000日目だったのです

鳥肌が立ちました、、、決して狙った日にちではありませんでしたが、成るべくして成った授戒会だったんだと感じました。足かけ5年に渡り、住職の念いを完遂したことは感慨深いものがあります。神仏のご加護を感じた正授戒でした。

全世界を襲ったコロナウィルスを乗り越えて授戒会を勤められたことは、後世の西願寺の子孫に大きな勇気を与えることと確信します。合掌
〜つづく〜

ここからは余談ですが、願掛け明けにいただく酒の銘柄は決めてました。その名は「権座(ごんざ)」。これは骨仏に納骨されてる故・齊藤和夫氏のお気に入りの酒で、地元 近江八幡の米を使ってると聞いた時から決めてました。

西願寺のヨシ拭き屋根も、重要文化的景観第一号です。
因縁を感じます。

開催中の晴天は 氏神さまのお陰もあり、地元の酒で祝うのは妙案でしたが、入手困難な逸品でした。どうしたものかと模索してましたら、ちょうど授戒会終了後が齊藤さまの一周忌当日に当たり、ご遺族が骨仏前に「権座」をお供え下さったんです。私が願掛けをしていたことを知らずに、亡きご尊父に対し 「住職と酒を酌み交わして下さい!」というニュアンスのお手紙が添えてました(泣)

当家の許可を得て掲載させていただきました。
個人情報はボカシを入れて消してます。

生前、齊藤さまと果たせなかった呑み会をここで果たせます。骨仏から授戒を受けられた齊藤さまも満行おめでとうございました。九拝

新聞記者の齊藤和夫氏の記事

開眼供養とは別に特集も書いていただきました。

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念誉昭憲代の授戒会

5月3日、4日、5日にかけてる授戒会(じゅかいえ)を勤修しました。当初は雨の予報でしたが、牛頭天王への成功祈願、氏神の青根天満宮、御澤神社(聖水)への晴天祈祷、さらには 役員や受者85名の熱意によって、3日間とも見事、晴れ渡りました! 本当に神仏のご加護を感じた儀式でした。

3日とも穏やかな晴天でした。
龍雲が祝ってくれてます^ ^

今さらですが、授戒会とは 戒(仏教的習慣)を守ろうとする生き方を通じて 人生の巡りを良くすることを念じる儀式です。鑑真和上の時代から伝わる 宗派を問わず行われる叡智です。

オリエンテーション(足揃え)の様子

僧侶が心得を説明します。

初日は主に「剃度式(ていどしき)」を行い、頭に剃刀(かみそり)を当て 出家の儀式をし、仏教徒の証である袈裟(けさ)を授けました。これで授戒を受ける資格が得られます。

まず聖水で頭を清めます。

次に剃刀を当て得度していただきます。

次に西願寺代々伝わる
袈裟(伝統の重み)を感じていただきます。

最後に仏教徒の証の袈裟を授与して、
授戒会に入る資格を得ます。

2日目は 説教や先祖回向を通じて、仏教の生き方を学びます。「戒=シーラ(仏教的な習慣)」を学び、真なる幸福について聴聞しました。戒を守れる守れないは別にして、仏教では知らない方が罪となります。まず戒を知ってもらう「知戒」が目的です。

戒を6時間かけてお説き下さった
願故寺のご住職、北元明教上人

私のたっての希望でした。

回向師の岸川知徳上人
哀調を帯びた声と共に
先祖さまの回向をして、
感謝の心と一体になります。

最終日は「正授戒(しょうじゅかい)」によって、諸々の仏や菩薩をお招きし、戒を知って行動することによって 頭上から不思議な力が降りるように祈願しました。

まず、脇導師に心得を伝授していただきます。

羯磨(かつま)の段
「如来の働き」等を12項に分けて
授けていきます。

謙虚な気持ちで、力をいただく準備をします。

最後に説戒師の太鼓の音と共に、
不思議な力を下ろしました。

その後「懺悔式(さんげしき)」で、書いてきてもらった人生の反省文を仏の前で燃やしていただき、「戒名」(仏教名)を授けます。本来、戒名は生前に授かるもので、その名前を使うことによって 仏や先祖に護られた生活を送ることができます。特に住職は85名分、画数までこだわりましたので効果は抜群です。

ある受者の巻物
巻中には伝来等が記しています。
度牒(どちょう)は、
剃度で仏教徒になった証で授ける名前
戒牒(かいちょう)は、
授戒を受けた証で授ける名前
浄土宗では、修行の積み重ねで
戒名が長くなり、
家の誉れとして祀られます。

本尊前で反省文を燃やして、
住職から戒名(仏教名)を授与

仏の子として新生していただきます!

戒名を授からずに亡くなった方の為に、
遺族が代わりに受ける風習もあります。
これを「贈り授戒」と言います。

贈り授戒の受者
背中に塔婆を背負い、亡き人と
共に行を受けていただきます。


おそらく、受者は何が起きているかわからないと思います。しかし、その時から「戒体(かいたい)」が発動して 人生の巡りが良くなるのです。

ざっと、このようなプログラムが西願寺の授戒会となります。いわゆる仏教を通じて運気をあげる儀式をした訳です。これが約40年に一回。私(念誉昭憲)の代で最初で最後の授戒でした。

授戒会は ” 洗脳 ” ではなく、” 洗心 ” です。人生の巡りが良くなるかどうかは、今後の受者の心掛け次第です。その種まきは させていただきました。合掌

〜つづく〜

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地元の神々からの加護

いよいよ授戒会が近付いて参りました。今の心境を申しますと、一言・・・孤独だなぁ・・・というのが率直な感想です。これは責任者の宿命だと存じます。

西願寺の檀信徒は 協力的な方々ばかりで、寄り合いを申し出ても 嫌な顔一つせずに集まって下さいます。本当に恵まれています。役員方のお陰で 大きな準備は整いつつあります。あとは本当の意味で 授戒会を成功させるため、唯一儀式を知っている住職が独り、細かな仕上げをしていかねばなりません。これは役員と相談ができません。コロナ禍で一つずつ見直しが迫られる状況と、時代的な人々の価値観、また 受者85人に法灯を繋ぐ重圧に、常に孤独が付きまとっていました。

そんな中、地元の和尚さまと法談をする機会があり、心情を吐露しましたら、住職の儀式計画を 丁寧に一つ一つ見直して下さり、孤独の不安から ひとすじの光明が差し込んだ気がしました。「なんかあったら言ってや~」という人は多いですが、面倒臭いことに向き合って 一つずつ応対して下さる方は中々いません。その和尚さまから、住職の人生の課題と目標、そして今までの反省を明確にして下さった気がします。

その和尚より、もう一つ感銘を受けた話がありました。それは仏教であっても、地元の神様や大いなるものを敬うと、儀式の際、自然と人知を越えたお力を戴けると言うことです。教えの通り、東近江市にある御澤(おざわ)神社に参り、名水を戴いて参りました。儀式のすべてに関わる水に使わせていただいき、授戒会の成功を祈ります。これで開催期間の天気が必ず良くなるとご教授いただきました。

今回の法談で『平家物語』の「扇の的」という段を思い出しました。いわゆる 有名な那須与一が弓矢を放つ場面ですが、与一は成就を祈り、何を祈ったかというと・・・それは ” 地元の神々からの加護 ” でした。

・・・与一目をふさいで「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の温泉大明神、願くは あの扇の真ん中 射させ給へ」・・・

現代人のように、自分を信じろ!、ポジティブシンキング!、楽しくやろう♪ という その場しのぎの祈りではなく、二十歳の若者・那須与一は 地元の神々に自分の心身を委ねたのでした。すると北風が弱まり、見事、扇に矢を当てるのです。この史話には、もの凄い重圧やストレス、孤独を超える術を教えてくれてるように思います。つまり、日頃いかに心を鎮めて 感謝の生活しているかが問われてるのだと思います

現代人は家系を敬う、家を守るという意識が無くなってきました。税金にしても ふるさと納税等で損得に走る方が多くなりました。我々は育てていただいた恩を忘れてはなりません。地元の神々や親先祖に感謝する意識は 日頃の丁寧な積み重ねであって、その〝 恩の根元の温もり〝 を感じると 孤独を超越できるんだと学びました。

そこで授戒会では、今一度 原点に立ち返り、受者の皆様と先祖回向をし、お釈迦さまの教えを学び、共々に真なる幸福を学びたく思っています。合掌

地元の氏神、青根天満宮
拝殿横の大杉は住職が小さい頃から見守ってくれてます。

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「目的」と「目標」の違い

突然ですが、「目的」「目標」の違いをご存じですか?

『広辞苑』の定義です。
目的・・・目で見える的。「最終的に目指す到達点」、すなわち「終点」
目標・・・目で見える標。的に近づくための標。「目的を達成するために設けた手段」

つまり「目標」は、「目的」を実現させるためにどのようにしていくか、その過程を具体的に設定していくことになります。

今までの住職は、「目的」に向かって直行するタイプでした。もちろん目的達成のためには、小まめな「目標」を立てますが、どちらかといえば「目的」のための「目標」であって、目的が第一だった人生だったように思います。かっこよく言えば、人に喜んでもらう為に精一杯 生きてました。その反面、その道中(目標)や縁を味わう余裕がなかったかのように思います(^_^;。

旅行でも、目的地直行派?、道中を楽しむ派?と聞かれれば、断然、目的地直行派でした。琵琶説教で遠方に伺っても 迷惑をかけないことが第一で、寄り道は一切しませんでした。しかし 最近は、一気に目的達成できる事案が少なくなり、だんだん目的までの道中を噛み締めるよう変わってきた気がします。

常に親切で、最高のパフォーマンスが出せるよう節制をし続けても、身近な檀信徒や仲間が求める僧侶像でないことに気付いたんです。つまり 人々に綺麗なゴールを魅せるより、グチャグチャになりながらも その道中を共有することが思い出となり、こういった絆を求めてらっしゃるんだと思います

ということから最近は、魅せることより 自分の楽しみを優先していいんだ・・・と〝 進歩〝 より〝 調和〝 寄りの考えになりました。お釈迦さまの「明らめる」(明らかに見て我を捨てる、アキラメル)。親鸞聖人の「まは、さてあらん」(ま、所詮、人間なんてそんな偉いもんやない。しゃーないわ。阿弥陀さんに任せよ~)って感じです(笑)。

ひすいこたろう氏のお言葉です。
「淡々と過ぎていく普通の毎日が幸せの本質です」
by 小林正観

成功しても、幸せを感じられない人がいる原因は、ここにあります。幸せの青い鳥は、「未来」にではなく、「我が家(現在地)」にいたわけですから。「成功しないと幸せになれない」という不幸な幻想から覚めてください。「成功しないと幸せになれない」と思っていると、成功しても幸せになれませんからね。

幸せになるのに条件はいらなかった。もうあったんです。これが幸せです!忘れないでください。幸せ(幸福)はゴールではなく、スタートにあるのです!そして、「幸せ」から人生を始めたら、どこに行っても、何をしていても幸せだってことです。だって、「あなた」=「幸せ」だから。あなたは幸せから逃れられない。どこに行っても、もれなく幸せ(あなた)はついてきます。幸せから人生を始めよう。
(『見る見る幸せが見えてくる授業』 サンマーク出版)

幸せをゴールに置くと、幸せの期間は瞬間で、山登りでいったら「山頂」だけ、旅でいったら「目的地」だけが幸せということになります。しかし、その過程も含めて幸せと思えたなら、もちろん山頂もしあわせですが、そこに辿り着くまでの道中で咲いている花や、空気の味や、急な坂道で転んだことや、星降る夜の空や、荷物の重さや、疲れたときのチョコレートや、急な土砂降りの雨まで、「幸せ」を感じることができます。つまりは、今現在への感謝が 幸せの本質なんだと思います。

感謝から人生を始めると、
いつも楽しくて、いつも幸せです^ ^

最近は 少し時間ができると、以前紹介したレブルで 目的もなく走るのが楽しみです。だんだん暖かくなってきましたので、とても心地よいです^^。風を受け、季節を感じ、景色を見て、五感のストレスを洗い流している感覚です。

コロナが明ける気配で世の中が動き出しました。西願寺の法務、奉職寺院での責務、琵琶説教のご依頼がドンドン押し寄せてくる感覚です。仕事の質と量は増す一方ですが、その道中(目標)を楽しむことを決意すると幸せしかありません!! 私ほどスリリングな生き方をしてる人は そうありませんからね ♪(笑)合掌

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「当たり前」からの脱却でうまくいく

こんにちは。今年のウサギ年はピョンピョン飛び跳ね、ポジティブに動くのが吉と申しましたが、物価や公共料金がジワジワ値上がりし、若者のモラル問題、コロナや戦争の世界情勢も重なり・・・未来への閉塞感が拭いきれない世の中になっています。

賢く生きるための情報を集めれば集めるほど 損得勘定の心(煩悩)が出てきて、仏教的人生観とは真逆の生き方になりそうです。知識ではなく ” 智慧 ” を学ばなければ幸せになれないと感じる今日この頃です。

住職は日頃のお詣りで、多くの人の話を聞き 世相を感じています。先日も和菓子店の社長宅に参り、経済のことをご教授いただきました。最も印象に残っているのは「過剰なサービスが経済を悪くしている」というお言葉です。

一見、サービス(おもてなし)は美徳に思えますが、それが当たり前になると、もっともっとの連続で際限が無くなり、結局は自分の首を絞めていると仰るのです。

つまり、サービスに満足できなくなった顧客を満足させるためには、安さを売りにするしかなく、価格競争がはじまり、サービスと低価格の時代になります。利益が取れず、人件費もかかりますが、それでも企業は「選ばれる」事に必死になるしかありません。過剰なサービスをしても顧客は感謝するどころかクレームを言うようになる・・・それが今の日本の現状であり、完全に負のスパイラルに陥ってると教えていただきました。

たしかに 日本は食堂に行けば、当たり前のように水が出されます。しかし、ハワイではその水を出してもらうのに サービス料として18パーセントが取られています。日本のように愛想良くでなく、無愛想にドン!と水を出してのサービス料が消費税の倍ほど(笑)。日本の有り難さがよくわかります。

他にも「不在にしていても、何度でも無料で宅配便を届けてくれる」「ガソリンスタンドに入ると窓ガラスを拭いてくれる」「必要なものを買い忘れても、いつでもお店は開いている」・・・今では当たり前になっているサービスですが、日本人を ” 客だったら何でもありの 欲望モンスター ” に育成しているように思えてなりません。だからこそ、 ” 感謝 ” を説く仏教の存在が必要なんだと考えます。

お寺のお布施はなぜ高いのか・・・住職自身もよく考える問いですが、それは年中無休、24時間体制でプライベートを削り、できる限りの応対をしているからだと思います。日常は他所でのアルバイトで生計を立てつつ、檀信徒の依頼に備えます。その間、寺管理や接待は無償サービスで行い、お寺からいただく収入は 法事での布施となります。固定給はないので、体調不良になれば無収入の月もあります。補償は一切ありません。とても多い誤解ですが、もちろん所得税は支払ってます。個人資産は無税優遇されるわけありません。

急なことかあれば、仕事はもちろん 旅行やコンサート、スポーツ観戦の途中でも帰ります。すべてのスケジュールを檀信徒に捧げて当たり前の立場になっています。年に数回のやっと取れた休みでも、法事や相談を申し込まれば空けます。今月はいっぱい働いたから、お葬式や法事はパス!とは言えないんですw。やはり、お布施には ” 住職の人生をかけたサービス料 ” が入っているんでしょうね(笑)。もちろん、皆様の協力があってこそ成り立つ運営です。

海外では「水とサービスと安全はお金で買う」と言いますが、それが本来なのかもしれません。日本の手厚いサービスは、互いの信用の積み重ねから成り立つものだと思います。みんなが権利の主張をしていては 世の中がギスギスします。そう考えると、京都の「一見さんお断り」は 上手い知恵なのかもしれません。

色々申しましたが、我々はまず「当たり前」から脱却することです。そして、いつも申している「ありがとう、おかげさま、感謝、ご恩、死後の幸福」を見つめるクセを付けることが、その身そのままで幸せに生きられる秘訣なんだと思います。みんなが感謝し合える世の中になれば、日本の経済はもちろん、個々の幸福度合いが増していくのだと確信します。合掌

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