修正会(令和2年) 子年の心構え

新年、明けましておめでとうございます。令和最初の正月になりました。旧年中は ひとかたならぬご尽力をいただき、心より感謝申し上げます。また、本年も 相変わりませぬようお願い申し上げます。今年も1月1日の10時から修正会を勤め、壇信徒を始め 参拝者と共に一年のご多幸を祈りました。その時の法話を掲載します。

令和2年の元旦となります。皆さん、この元旦元日の違いはご存じですか?「元」は「はじまり」の意味。ですから 元日は1月1日のことですね。一方、元旦の「旦」という字は、絵にするとこうなります。ーは水平線で、日は太陽・・・

一は水平線で、日は太陽=旦

一は水平線で、日は太陽=旦

ですから 初日の出を意味し、大きく見れば1月1日の午前中を元旦といいます。まさに 今の時間帯ですね。昔の教訓に 「一年の計は元旦にあり」とありますが、まさに今、この時間の過ごし方が 一年間のあなた自身の姿なんだよ!って事です。逆に言えば 恐ろしい教訓ですね・・・今、口を開けてカ~って寝てたら、その姿が この一年のあなた自身と言うのです(笑)。

特に今年は十二支でいえば1番目。始めの干支になりますので、大きな節目になります。今年の干支は 子(ね)年です。この字で「ねずみ」・・・「子」は 増えるを意味する「孳(し)」が語源で、植物に例えると 種子の中に 新たなる生命が宿った状態を表します。つまり、大いなる可能性(繁栄)への礎の年と読みます。

たしかに ネズミは「ねずみ算」という言葉があるほど、子供をどんどん産んで 数を増やしていくことから「子孫繁栄」の象徴でもありますし、また、株の世界にも「子年は繁栄」という格言があり、子年は株価が上昇する傾向にあると言われています。今年の東京オリンピック・パラリンピックによる経済効果を考えると、その格言もあながち間違いではないかもしれません?!。

では、今年は どのような心構えで生きればよいのか?・・・十二支の中で最も小さく、弱いネズミが最初に当てられたのは、新しい十二年を始めるにあたり、まずは自らの弱さを知ることが大切であると言われます。何事も謙虚であるからこそ、周りの理解や協力を得られ、着実に歩むことができるのです。自らの弱さを知るからこそ、相手の弱さも理解ができ、お互いに助け合うことができるのです。その精神が ” 繁栄 ” の礎となります。

また ネズミは「ねずみ=寝ず身」という字にも当てられます。ネズミには行動力があり、一つ一つの動きは小さくても 継続していくことで、やがて大きな成果に繋がるといいます。” 繁栄 ” の陰には 横柄なことをせず、自分を知り、謙虚になり、できるだけ功徳を積むことが吉となります。将来の種子を温めるためにも、「ねずみ=寝ず身」(徳積みの継続)を心がけて下さい。

そのためには、徳を積める お寺の存在は益々大事になります。今年は 種子の中に 新たなる生命が宿った状態であり、そう言った意味で吉凶は不安定ですが、丁寧に温めれば、未来への大いなる可能性(繁栄)の礎の年となることと存じます。

「一年の計は元旦にあり」・・・どんな時代になっても 西願寺に縁のある皆様は、1月1日10時の修正会の精神は無くしたらダメだと思います。やはり、仏様やご先祖さまを大事にしている人こそ、 未来への ” 繁栄 ” があるんだろうと確信します。本年も宜しくお願いします。ご清聴、誠にありがとうございました。同唱十念

 

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機嫌の良い距離感

今年もあとわずかになりました。時代は「平成」から「令和」に変わり、「明治」「大正」の時代の方々を知ってる「昭和」生まれの私にとっては、めまぐるしい時代の流れに翻弄されています。

一番変わったと思うのは、日本人の気質です。最近は 毎日のように、人間関係のトラブルや殺人、いじめ、ストーカー被害等が報道されています。昔の方々は 良くも悪くも他人を察する心があったように思います。目を見て挨拶をし、相手の考えを考察し、自己犠牲ができた方が多かったように見受けられます。またその精神が、自らの心をを調えるバロメーターになっていたのかもしれません。そのために華道や茶道、お寺に心の拠り所を求め、人々は 自他協調のバランスを調えていたのでしょう。

現代は真逆です。核家族や鍵っ子、ゲームやネット、マニュアルや合理的な思考の影響か・・・他人に無関心で、自らの欲望を満たすことを第一に考え、権利や主張に生きてる人が多くなった感じがします。残念ながら、自らの考えに添わない人は 上下に関係なく排除してしまうような時代です。しかし、どんな時代になっても人との関わりは無くならないものです。相性がありますから、みんな仲良くする必要はありませんが、これからの時代は、人付き合いの ” 機嫌の良い距離感 ” を勉強すべきなのだと思います。理想論者は多いですが、他人の心は変える事なんてできないんですから・・・自ら察して、機嫌の良い距離感を保たなければなりません。

人付き合いで一番難しいものに恋愛があげられますが、その悩みに DJあおいさん が的確(過激!?)に答えて下さってます。

恋愛熱量が高い人って怖いんですよね
こんなにも熱烈に愛してくれているのになぜ恐怖を感じてしまうのか
好きでいてくれるだけなら害はないはずなのに
なんとも形容し難いホラーを感じてしまうのはなぜなのか

それは恋愛熱量が高い人は
怒りや悲しみといったマイナスな感情もコントロールすることができないから
恋愛熱量が高い人ほど病的なヒステリックを起こすことが多いからなんです

恋愛熱量を適正にコントロールできない人は
怒りや悲しみも適正にコントロールできない人であり
だから過剰な恋愛感情を表現する人は『怖い』と感じてしまうわけです

長く付き合ってれば話し合いによって乗り越えるべき山場なんて腐るほどあります
話し合いに必要なのは理性ですから
理性を失うほど恋愛熱量が高い人は話し合うべき場面でも理性を失い
何をしでかすのかわからない狂人になって
ついには好きな人でさえも傷付けてしまうんですよ

理性は感情のラジエーター
適度に愛してくれる人は
怒りや悲しみも適度に抑えて
理性的に話し合える恋愛になります
だから適度に愛してくれる人との付き合いは
安心感のある恋愛になるんです

大事なのは恋愛感情ではなく
恋愛感情の熱量をコントロールする理性にあるということですね

だいたい恋愛熱量が高い人で
楽しそうな人なんて見たことがありません
禁断症状を起こして震えているか
ガンギマリシャブ太郎のようにアヘ顔で恍惚としているかの二択

『楽しい』という領域に止まるためにも理性は必要
何が嬉しいかって
恋人が楽しそうにしているのが何よりも嬉しいものですからね
そして楽しそうにしているのが
最高の愛情表現になりますからね

恋愛だけでなく 一般生活に当てはめても、納得する回答じゃないでしょうか。ここで言う恋愛熱量も理性も、結局は ” 機嫌の良い距離感 ” のバランスなんだと思います。どちらかに傾きすぎても うまくいかないのです。ここが現代人の課題なのだと思います。寺経営でも熱量を増やすと煙たがられ、理性的になると嫌われます(笑)。お互いに察し合って、機嫌の良い距離感で安心を分かち合う・・・これが、これからの幸福の尺度になっていくものだと思います。そのためは、目を見て挨拶をし、相手の考えを考察し、自己犠牲ができような器量を持つ・・・時代遅れと言われそうですが、自他協調の修練が「令和」の時代に最も必要な修行だと思います。

君子の交わりは 淡きこと水の如し(荘子)
[現代語訳]よくできた人物の交際を見ていると、あまり他人の実情に深入りしないことが多いようです。良好な人間関係を長く維持していくためには、お互い察し合うことを前提に、アッサリとしたお付き合いがいいでしょう。

何十年後かに次の時代が始まる頃、誰かがこのブログを読んで 答え合わせをしてくれれば幸甚です。よいお年を。合掌

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根元とつながる原理

紅葉の季節となりました。奉職寺院では多くの人々で賑わっています。観光客とも話す機会も増え、悩み相談を受けることが多い時期でもあります。悩みの大半は ” どう生きるか? ” ということに尽きますが、一昔前とは違って今は、” どう自分を輝かせるか? ” という自己実現の方に向いてるように思われます。それほど日本のしきたりが変わってきた証拠であると同時に、悩みも多岐に渡ってきたと言うことでもあります。私は それぞれの流行や仕組みを知ってる訳ではありませんが、どの時代になっても変わらぬ真理は勉強しています。

先日、アフリカの青年に日本の暮らしを見せ、体験してもらうというテレビ番組の再放送がありました。草原で暮らしていた彼には、すべてが驚くものばかり・・・水道の蛇口をパーッとひねると水がザーッと出る。これを見た青年は驚いてこう言いました。「水に困ってる家族のために、この蛇口をひとつ分けてほしい … 」また日の暮れにスイッチを入れると、電灯がパッともります。これまた驚いて「この電球を故郷に持って帰りたい … 」家族を喜ばしたい気持ちは痛いほどわかりますが、蛇口や電球を持って帰っても役に立たないことを納得させるのに、ずいぶん時間がかかった様子が放映されてました。

原理がわからない者は、蛇口が水を出しているようであり、電球が光っているように見えます。そうなるのには、発電所から電線を伝って電気が送られています。そこにつなぐので電灯がともります。いくら電球を母国へ持って帰っても、つなぐものがないので役には立ちません。蛇口が水を出してるようですが、それには水源地から送水管で 圧力をもって押しています。その送水管につなぐので水は出ます。

この話は 我が身に照らしてみると 意外と理解できないものです。世の中には立派な人が多いですが、根元原理を知らずに悩んでいる人は、失礼ながら ただの蛇口、ただの電灯の状態です。このままだと 光はともりませんし水も出ません。しかし 信仰心を持っている人は、不思議と原動力が授けられます。そうすると自然と輝くのです。なぜかうまくいってる人になれるのです。幸せになるには この根元原理を知り、コツをつかめばいいだけなのです。それは 送水管に蛇口をつなぐ行為であり、発電所から送られる電気を電灯につなぐような行為です。これが信仰です。私たち僧侶がしている布教活動は、この根元とつながる原理の伝道です。しかし 番組のアフリカ青年のように、なかなか納得してもらえないのが現状です(汗)。信仰心を持たない人は、優れた蛇口や電球を作ることのみに固執して、作り方や見栄えの良さばかり議論するイメージです・・・そうなると理屈っぽい人が増える・・・これではギスギスした世になります。

咲いた花見て喜ぶならば 咲かせた根元の恩を知れ

やはり紅葉も根元からの養分によって護られ、深紅の色をつけます。その葉だけでは如何ともなりません。人は 根元(大いなるもの)とつながる という意識を持つだけでも謙虚で優しくなり、新たな縁を持てるものだと存じます。合掌

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廣峯神社に参拝

先日、兵庫県は姫路にある廣峯神社(ひろみねじんじゃ)に参拝しました。ここには牛頭天王(ごずてんのう)という強力なご利益のある神様がいらっしゃいます。仏教の開祖・お釈迦さまの祇園精舎を守護されたと伝わるのがこの神で、全国にある祇園社の総本宮がこの廣峯になります。その他、京都の八坂神社、今宮神社、愛知の津島神社・・・私は足しげく参拝しています。ただ神様といっても 正確に言うと神様ではなく「閻魔大王みたいに、神様でも仏様でもない存在」(桜井識子さん談)だそうです。ですので 少しくらいダークなお願い事も、牛頭天王が興味を示したお願い事なら 叶えてくれたりすることもあるとかないとか(笑)。力の強い神様ですが 気ままなので、気が向いたら叶えるし 気が向かなかったら無視・・・実に面白い神様です。

廣峯神社

廣峯神社

牛頭天王

牛頭天王

僧侶が神社参拝なんて 違和感があるかもしれません。私が布教する阿弥陀如来は、死後の世界に魂ごとお救い下さる究極の仏様です。この仏にご縁があれば、間違いなく救われるので 日々を安穏に送ることができます。ですので 阿弥陀如来に感謝を捧げること(往生への念仏)はあっても、人間の細々とした祈り事をお願いする存在ではありません。そういう時にお世話になるのが神様なのです。私にとっての信仰の主食が阿弥陀如来で、サプリメントが牛頭天王といえばわかっていただけますでしょうか。様々なご意見はあると思いますが、私は神仏に波長を合わせて 笑顔で楽しく生きていきたいと思っています。

話を戻しますと、ど~しても叶えてほしい願いがあったので、朝にご祈祷を予約して行きました。到着をして受付にご挨拶すると「今日は一番偉い宮司様にしていただけるで!あんたラッキーやなぁ ♪」と言われました。牛頭天王が興味を示してくださった瞬間でした。拝殿内に上がらせていただくと、風がピュウーピュー吹き出し 頬を伝います。これは眷属が私の周りを囲んでくださる奇瑞です。牛頭天王との心の会話は伏せますが、確かに色々なお言葉を頂戴しました。案の定、その晩から常識がグネーっと曲がり、心願成就して今に至ります。本当に素晴らしい悦びを頂いてます。

♪ 祇園精舎の鐘の声~ と、いつも語っているので相性がいいのでしょうか(笑)

♪ 祇園精舎の鐘の声~
と、いつも語っているので相性がいいのでしょうか(笑)

このブログでお伝えしたいことは、信仰生活の素晴らしさです。浄土宗の宗祖・法然上人のご功績は、それまでの 知恵や学問の仏教を捨て、救済自体を目的とした仏教を示されたことでした。それから様々な僧侶が触発され、多くの宗派が生まれ、信仰の波が民衆に広がったのですが、あれから800年 … 残念ながら お寺のあり方は形骸化しつつあります。教えは正しいのです。きっかけさえあれば 本当に幸せになれます。しかし、肝心な悦びや悩みを解決してくださる方と なかなか出会えないのが現状じゃないでしょうか。人間ですからダークな悩みもあるはずです。ならば直接、好きな神仏と 正直な心の対話をして、御力をいただきましょうよ!と思うのです。

私の場合は 信仰の中心である阿弥陀如来のお慈悲と、人間生活に悦びを与えて下さる牛頭天王の神力、その他 諸仏諸菩薩諸天の見守りで とても幸せに生きています。まだまだ オススメの神仏がいらっしゃっいますので、その都度ご紹介しますね。皆様の手を合わせる時間が 少しでも増えることをお祈りします。きっかけ作りが私の使命です。ではまた来月です^^。合掌

祈祷前の拝殿内 受付の方より撮影を強く勧められ、一枚撮らせていただきました。合掌

祈祷前の拝殿内
受付の方より撮影を強く勧められ、
一枚撮らせていただきました。合掌

拝殿の隣で、黒田官兵衛を祀る「官兵衛神社」の建設がなされてました。11月に完成予定で、それまでの間、ご神木が祀られてます。 この ご神木写真も世の人々に勧めてくれ!とのことで・・恐れ多くも・・幸福波動をお裾分けします。 皆様も 寺社参拝の時、こういう特別な瞬間に立ち会うことができれば、そこの神仏が歓迎されてると解釈してもよいかと存じます。

拝殿の隣で、黒田官兵衛を祀る「官兵衛神社」の建設がなされてました。今月末に完成予定で、それまでの間、廣峯拝殿内で 官兵衛神社のご神木が祀られてます。
それ以降は、永劫に拝見できないそうですよ!
ご神木の写真も世の人々に勧めてくれ!とのことでしたので・・・恐れ多くも・・・すごく迷いましたが・・・幸福波動をお裾分けします。合掌
皆様も 寺社参拝の時、特別な瞬間に立ち会うことができれば、そこの神仏が歓迎されてると解釈してもよいかと存じます。ご縁を尊ぶのが信仰生活の醍醐味です。

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” しゃかりき ” に頑張れ!

先日9月9日。大切な信者さまが往生されました。ここで言う信者とは 檀家と違い、願い寺がありつつも ある特定の仏や僧侶に帰依し、仏道修行に邁進される方を言います。

ちょうど9月1日、2日と信者会の旅行がありました。一泊二日で姫路方面(書写山・圓教寺や赤穂)を巡りました。その信者さまも同行して下さり「金森さんが行ってくださると聞いて参加した!」「忠臣蔵の琵琶を楽しみにしてる!」等々、目を輝かして言って下さって参加されたのが 亡くなる一週間前だったのです。神戸の中華街・南京町では、手をつないで歩きました。美味しい焼き豚の店を教えてもらい、肉まんを頬張り、喫茶店でお茶をして「このデートは私の冥土の土産や。いつ死んでも後悔ないわ ♪」と言って下さいました。その時は、お元気な様子で 冗談だと皆が思ってましたが、虫の知らせだったのでしょうか・・・バスでお別れするとき「金森お上人さん、あなたが大変なことはよくわかってる。でも ” しゃかりき ” に頑張るんやで!」というのが最後のお言葉でした。訃報を聞いて、彼女への夜念仏をしているとき、ふと ” しゃかりき ” という言葉を思い出して、改めてこの言葉をかみしめました。

ラストサムライのロケ地で有名な書写山・圓教寺

ラストサムライのロケ地で有名な書写山・圓教寺

赤穂浪士の像を祭った赤穂・大石神社

赤穂浪士の像を祭った赤穂・大石神社

神戸の中華街・南京町

神戸の中華街・南京町

教林坊・廣部光信上人のご解説です。
私たちは普段何気なく「しゃかりきに~する」と言いますよね。平仮名で書くよりもカタカナで書いたほうがしっくりしそうな言葉ですが「釈迦力」と漢字で書けば「へぇ~」とうなずかれるのではないでしょうか。
お釈迦さまは今から約2500年前インドでお生まれになり、苦しむ人々を救おうと仏教を開かれ、すべての人が平安に暮らせるように、一生懸命に教えを説かれました。ここから転じて脇目もふらず物事に望むさまを「しゃかりき」というようになりました。
「お釈迦さまの力」と思えばどんな困難でも最後までやり通せる気がしますね。
(『人に教えてあげたい仏教語Ⅰ』)

「釈迦力」かぁ・・・あらためて信者さまの言葉の重みを感じました。仏縁のある方より、色々なことを教わります。

ただ、信者さまは 最期の別れが悲しいものがあります。檀家は ” 家 ” との付き合いで、法事を通じて世代を超えた仲間になりますが、信者はあくまで個人の付き合いですので、どれだけ心が通じていても お葬式での引導は渡せませんし、最近では 家族葬が主流となり 参列すら叶いません・・・出会わなくなったらそれっきり・・・まさしく 信者さまとは ” 一期一会 ” のお付き合いなのです。その時が最期の別れになると感じつつ、皆様と大事に時を過ごそうと思います。あわよくば、願い寺を大事にされることは前提ですが、西願寺の骨仏へ たとえ骨一片でもお納め下されば、生涯大切に祀らせていただく所存です。拝む対象があることで、私の心も救われます・・・そういった檀家・信者を超えた 心のつながりを大事にしたお寺を目指すのが私の指針です。宗教離れに 少しでも歯止めを掛けるよう「釈迦力」に頑張ります!合掌

西願寺のお骨仏    お骨を 仏の体内に納め、永代まつります。

西願寺のお骨仏         お骨を 仏の体内に納め、永代まつりますので 参拝者が絶えない生きた永代供養になります。

※本日は丁度、その信者さまの初七日になります。骨仏前にて 謹んでお勤めさせていただきました。南無阿弥陀仏

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損得感情をストップ

令和最初のお盆参りも 中盤に差し掛かりました。世の中の 文化や風習に対する考え方が急激に変わってきた昨今ですが、西願寺では 変わらずお盆を迎えることができました。これは 先人からの信仰の力だと 心より感謝しています。

今年の夏は 特に暑いです(汗)。天気予報を見てますと 「夏日」「真夏日」「猛暑日」などと言いますが、それぞれ 25度、30度、35度以上を指すようです。毎日が猛暑日と熱帯夜(25度以上)で、バテている方も多いんじゃないでしょうか。また、温度と怒りは比例するという説もあって、イライラされてる方も増えています。たしかに寛容力がなくなり、何かとクレームをつけるのもこの時期です。夏のニュースとして、吉本興業の内紛、韓国の過剰反応、京都アニメーション放火の惨劇等々・・・相手を罵り、自らの損得を ぶつけ合う事件が多いのが気になります。また当事者でもないのに、傍聴者が 善悪や損得を主張し合い、感情の収集がつかなくなっているのも現代の特色です。

精神科医・斎藤 茂太氏のお言葉です。
多くの人はそれほど「頑張った」わけではないのに、
自分だけが損をしていると思い込みがちなのです。
それは、自分以外の人や組織が「得をしている」ように見えるからですが、
実はそんなに差がなかったりします。
よくいう「隣の芝は青く見える」という現象で、
実態を見れば自分が置かれている状況、
受けている待遇と変わらないことが多いのです。
かえって「得をしている」ように見える人が、
実は損をしていることさえあります。
社会的に受けるべき保障を受けていないなど、
その人が、本当に損をしている場合をのぞいて、
「損をしている」と考えるのはストップしたほうがいいでしょう。
「損をしている」と考えることをストップすると、
驚くべきことが起こります。
その瞬間に「得」をしはじめるのです。

(『なぜかやる気が出ない人へ』 成美文庫)

私(住職)への会話の大半は悩みです。対人関係や老い、病気、死・・・それぞれの言い分があり、涙なしでは聞いてられない話も多数です。しかし、善悪や損得、感情のくくりに悩まれている方は、そこに浸ってしまう傾向があります。自らが被害者なので、攻撃をしたり引きこもったりして 相手や環境が変わるのを待たれるのです。もちろんその通りで 同情しますが、残念ながら 他人が変わることは まずありません。一時期は内向きに心を見つめるのも良いですが、いつかは 損得感情をいったんストップして、前向きに捉える準備をせねばなりません。流れない水が次第に腐ってくるように、いつまでも悲劇の○○ではいけないのです。

「損をしている」と考えることをストップする・・・この癖を付けましょう。

それを小まめに出来る人が 幸福を呼び寄せるのです。俗に言う、なぜか上手くいってる人です。昔の方は この方向転換を 仏教の教え(ご縁、ご恩、ありがとう、おかげさま、因果応報、功徳)に上手く習慣化されたのだと思います。決して 損得や善悪を、幸不幸の基準にしてはなりません。清濁併せのむ精神が大切です。意外と人生(修行期間)は短いですよ。合掌

追伸:本日、夏の永代供養と お申し込み分の特別施餓鬼を勤めました。
あらゆる負の感情をストップされたい方は、お願い事を書いて8月31日までにお送り下さい。今月中なら、個別の特別施餓鬼を こちらでさせて頂きます。まずは第一歩です。お手伝いさせて下さい。(布施は自由、秘密は厳守)

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豊川稲荷に参拝

最近、寺社仏閣巡りがマイブームです。昔は文化に触れるのための巡礼をしてましたが、今は御利益を求めています。” 御利益を求める ” と言うと聞こえが悪いですが、本質は大いなる力との交流のためです。神仏にはそれぞれ得意分野があるんですが、多くの方は 違いがわかってらっしゃいません。(ご利益については桜井識子さんがわかりやすく解説して下さってます)

ご利益の違いがわからない方は、どこに詣っても 同じような祈りしかされてません。もったいないなぁ~って、いつも思います(汗)。厳しい言い方をすれば、神仏との対話を楽しまれる方が少ないんです。その対話の結果が ” 御利益 ” に繋がるのに・・・神仏の御力を頂かない手はありません。

先日、愛知県の豊川稲荷に参拝しました。お稲荷さんの正体は、ダキ二天と言って 狐に乗っておられる神様です。諸説ありますが、右手に稲穂を荷(に)なってらっしゃるので、イナリと呼ばれるようになりました。狐は眷属です。いなり寿司の神ではありません(笑)。ダキ二天の御利益は金運で、気に入った人には 頭に稲穂をかざして下さいます。ですので、家内安全や病気平癒、極楽往生や良縁の願いはナンセンスです。その時の体験が面白かったので、ご紹介します。

豊川荼枳尼眞天 御影

豊川稲荷 大本殿

豊川稲荷は曹洞宗のご寺院ですが、まず大本殿で手を合わそうとした時でした。いきなり携帯のナビが「右方向です!」と案内するのです。携帯ナビで豊川稲荷に行ったので、ナビの設定はしていたんですが、到着後だったので作動するはずはありません。私は瞬時にダキ二天のお告げだと悟り、そのまま右方向に進みました。「進行方向です・・・ななめ右方向です・・・」案内通りに50メートルほど歩くと「運転おつかれさまでした」と携帯は言いました。そこは丁度、各お堂が並ぶ分岐点・・・どうしようかと思ってましたら、黒ネコが現れ、私を見て鳴くのです。10メートルほど付いていくと、そこは元・奥の院という場所でした。すごいエネルギーを感じた瞬間、15秒ほど大雨が降りました。禊ぎを払って頂いたんだと思います。

その後、道なりに歩いて行くと、現在の奥の院に到着しました。そこで手を合わせてると 職員の男性と目が合い、切り火をして頂くとこに。ロウソクに願い事を書き、堂内で一緒に真言(おん しらばった りに うん そわか)を唱え、願掛けをしたのち、財布を開けて そこに火花を散らしていただきました。ガラス越しに白い光が見えたので、ダキ二眞天との交流はできたと思います。願掛けですので、願の内容は伏せますが・・・ただ、あれから一週間・・・財布のお金は たしかに増えています!(笑)。しかし、私の願いは私的財産を増やすことではありませんので(お小遣いはありがたく頂戴するとして・・・笑)、あとは大願が叶うことを待つのみです。楽しみです^^。叶ったらご報告しますね。

現在の奥の院
大勢の参拝者でしたが、私がお参りする時には、人が途切れてゆっくりお参りできました。

中に上がらせてもらい、火切りの儀式をいていただきました。

ドン・エシッグのお言葉です。
「やる人はやる」
これはある友人の口ぐせだ。
口ばかり達者な人はいくらでもいるが、
彼らはいざ実行となると、さっさと姿を消してしまう。
成功者とは、成功するために必要なことを実行してきた人のことだ。
あなたはどれだけ実行してきただろうか。
あなたいちばん最近、実行したことは何だろうか。
自分が言うだけではなく
実行してきたことについて考えてみよう。

(『1分でやる気が出る146のヒント』 ディスカヴァー・トゥエンティワン)

逆に ” やらない人はやらない ”
時間がないとか、後でやるとか、お金ができたらとか、
言い訳をしてやらないのです。
結果を出す人は、 ” やる ” と決めてやってきた人達だと存じます。
豊川ダキ二眞天さまとの会話は、こんな内容が含まれてました。合掌

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骨佛法要(令和元年)

本年も骨佛法要を勤めさせていただきました。今年は52名の方々と共に、東日本大震災の物故者を始め、各々の縁深き方々に 誠心を捧げました。例年の如く、お喜楽さまによるハーモニカ演奏、里田さま御一行による牡丹餅の振る舞い、また 巽聖花さまが初任給で煎餅の供養をして下さったり・・・西願寺らしい 真心の込った法要になりました。

今年の回向師は、宝積寺の岸川知徳上人
2年後の授戒会で回向をお願いしてます。知恩院にお勤めだけあり、素晴らしいお声でした^^

ハーモニカ演奏は5曲。皆さん大合唱でした!

今年の琵琶説教は「戦艦大和」
令和に入り、昭和の教訓を語らせていただきました。

私は 今年で住職10年の節目になります。といっても 行事に合わせて交代でしたので、実質 名前だけの住職でした。西願寺は 先代(父親)に任せっきりで、外で勉強してました。私の人生設計では、このような形が 最低10年は続く予定でしたが、3年前に先代が69才で往生し、自身の研鑽を含め、外での自己実現が難しくなってしまいました。そんな中、私が伺わなくても 皆さんが参ってくれるお寺になり、本当に嬉しく思います。

この10年間、色々ありましたが、ロビン シャーマの言葉に励まされました。
最期の日、わたしたちが持っていけるのは、
人生に意味をもたらしてくれた
すべてのすばらしい人生経験の思い出だけです。
そう考えると、ものを収集するより、
しあわせな思い出が残ることをして日々をすごしたいと思います。 
ささやかなことを楽しむ知恵をもってください。
そういったものがもたらす最高の思い出は、
多大なエネルギーをついやして追いかけている
どんな物質的なおもちゃより、
あなたの人生に価値を与えるでしょう。

(『3週間続ければ一生が変わる』 海竜社)

「諸行無常」と「苦しみ」が付きまとうのが、私たちの住む人間世界です。祈りを捧げる私たちも、いつか必ず最期の日はきます。どうせなら、たくさんの人に感謝して、たくさんの人に喜びを与えて、人との思い出を残していきたいと思います。合掌

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息(いき)な生き方

令和になりました。新しい節目にご縁があり 嬉しい限りです。元号が変わる瞬間は息を呑む瞬間でした。日本国が ますます興隆することを祈念します。

思えば 平成の節目は、私は中学生でした。あの頃と今を比べてみると「息苦しい世の中になったなぁ~」という感じがします。キチッとした分、人間のあたたかさや ゆとりが無くなった気がします。もちろん現代を批判するつもりはありません。むしろ進化しているのだと思いますが、人間同士の ” 阿吽の呼吸 ”” 息を合わせる ” ということが無くなってきた気がします。

昇 幹夫のお言葉です。
哺乳動物は5億回呼吸して息を引き取ります。
ですからゆっくりと長い呼吸をすることが大切で、長い息は長生きなのです。
でもその寿命は毎日変動しています。
感動したり、大笑いしたり、
感謝の気持ちを持つことで寿命は延び、
怒ったり落ち込んだり、
悪口を言ったりすることで寿命は縮まります。
「一笑一若、一怒一老」
と言うとおりです。

(『笑顔がクスリ』 保健同人社 より)

仏教では この世は修行の場だと考えています。たった5億回で息絶えるならば、その中で 笑って生きるも人生、ワクワク楽しんで生きるのも人生、しかめっ面で生きるも人生、愚痴、不平、不満で生きるのも人生です。どうせなら息が通ういきいきとした人生を歩みたいものです。また、このような時代だからこそ お寺くらいは、息抜きできる空間でありたいものです。

本日は、息を題材に考えてみました。仏教の言葉に「息災延命(そくさいえんめい)」【感謝の心で災難を防ぎ、健康で長生きすること】とありますが、これが令和の時代に求められる ” 息な生き方 ” だと存じます。合掌

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独りの時間

こんにちは。「平成」最後のブログとなりそうです。私が愛読する鴨長明の『方丈記』にちなみ、『平成方丈記』と名付け、月2回、日記感覚で続けてきました。何十年後かに読み返し、「そんなことがあったんだ~」と振り返りたいと思い 記しています。

「平成」最終の月は、多忙を極めています。西願寺での善導忌、奉職寺院での花まつりやお身拭い式、地元仏教会の副会長に当たり 行事の指揮、地方での泊まりがけの琵琶説教(10日間で15席)・・・その他、通常の法務を変えることなくやってます。日替わりのスケジュールで 頭の切り替えが大変ですが、30代にやってきた経験が今に生きているような気がします。思えば30代の私は、自分というものを見付けることに 切磋琢磨した時期でした。

孔子がこんな言葉を残しています。
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」
これは、優れた人物は協調はするが主体性を失わず、つまらない人物は同調はするけど 心から親しくなることはないという意味です。つまり優れた人はどんな集団の中にいても自分を失わないということ。他人と違うことを恐れず、また自分と異なる人を疎外することなく、違う者同士が違いを尊重し合い、各々が各々の責任を持って協調していくということです。

また 鴨長明は『方丈記』で、「人との関わりは大事なことだが、人と関わる自分を失ってしまっては本末転倒だ」と述べられています。自分を失わないために必要なものは「独りの時間」だと。人との関わりが大事なように、独りの時間も同じように大事なものです。なんとなく、独りでボーッとしている時間でも、その時間で人は自分自身と数多の言葉を交わし、自分という存在を確認しているのです。人と関わるために独りの時間は死守しなければいけないものであり、それは食事の時間や睡眠時間と等しくなければないものだと思います。

ただ、独りの時間でも ネットやゲーム、明かりや音楽等で満たされる現代社会は、本当の意味で ” 自分 ” を見つめていないのかも知れません。これが「令和」の時代以降の日本の課題だと存じます。自分を持たなければ、満たされることは決してありません。宗教でもセミナーでも構いません。自らを見つめる時間を取りましょう。どんどん日本というものが溶けてなくなっていく時代に、僧侶として いかにお役に立てるかを考える今日この頃です。合掌

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