信じることの幸せ

コロナウィルスの蔓延が また活発になってきました。第三波の到来とも言われ、先行きが見えない不安に世間のイライラを感じます。コロナ禍が続く中、特に若い女性の自殺者が増えているようです。30代以下の女性の8月の自殺者数は193人と前年8月に比べ74%も増え、10代では去年の3.6倍にも上るようです。

西願寺も住職がご祈祷や護符、姓名判断をかじっていることが口コミで伝わってか、例年にないほど悩み相談で来寺される女性の方が増えました。私も時間が限られてますので十分な事ができませんが、結局、念力や占いというものを超えて 話したいという思いでリピートされる方が多い傾向にあります。人間は深い部分で共感してくれる人を求めてるんだ … と思う今日この頃です。

西願寺には昔話でおなじみの六地蔵が居られます。
6体とも笑顔で、参拝者の心を和ませて下さいます。

悩みの根源に多いのは ” 疑いの心 ” です。コロナ蔓延で国をあげてのリモートワーク(遠隔での仕事)が推奨されてます。SNSの普及で便利になり 世界が広がったように見えますが、結局 人間同士の本質的な付き合いではなく、バーチャルの世界では 人を能力や興味の対象として見てしまい、用が済めば使い捨て状態 … 発信者は その期待に応え続けることに疲れてしまい、最終的に 一番大事な現実の運気を下げてしまってる方が多いように見えます。常に魅力的で いい人を続けなくては認めてもらえないんじゃないか … 時代の流れに乗り遅れるんじゃないか … 勝ち組に入らなくてはならない … という焦りと、他者に対する ” 疑いの心 ” が本当の自分を見失い、不安や孤独を生んでいるのではないかと思います。

DJあおいさんのお言葉です。
疑う人は裏切られますよ
なぜなら裏切られるまで疑うからですよ

悪い予感ほどよく当たるのは
不幸しか信じていないからですよ

例えば恋人のスマホを覗き見たとして
そのスマホの中に不安を裏付けるものがなかったとしたら
『よかった、何もなかったんだ』と安心できるでしょうか?

疑う人はそれで安心することはありません
スマホ以外のところに不安を証明するものを探すだけです

不安を裏付けるものが見つかるまでずっと疑心暗鬼なまま
その人がどんなに潔白を証明しても安心することはないでしょう
なぜなら『幸せ』というものが信じられないからですね

幸せというのは薄氷の上にいるようなもの
不幸というのは揺るがない大地にいるようなもの
幸せはときに裏切るけど、不幸が裏切ることはありません
裏切られることを過剰に恐れている人ほど
幸せを疑い、不幸を信じてしまうということです

そういう意味で言えば地べたまで落ちてしまった方が楽なんですよ
不幸体質な人というのは不幸の方が居心地がいいんですね
だから『幸せ』というものに疑心暗鬼になってしまうわけですね

自分が幸せであることを信じたからといって
そのまま幸せになれるわけではないけども
自分が幸せを信じなきゃ
いつまで経っても幸せにはなれない

おそらく相談者が住職に求めるのは安らぎであり、信じる心なんだと思います。そこには、私に求める能力や刺激的な現象を超えた、本当の自分を見て欲しい気持ちがあるんだと思います。人は何かを信じてしか生きていけません。食事をするのにも 毒が入っていないことを信じてるから食べられます。車の運転するにしても みんながルールを守ってくれるということが前提だから走ることができます。というように、人は信じることができなくなれば、幸せという心安らかな境地には至ることができません。私にできることは大いなるものに手を合わせて 信仰心を養っていただく為のお手伝いです。現象的には微々たる調整ですが、人間にとって最も大切なことです。少しでも皆様が良き方向にいくよう、心よりお祈り申し上げます。合掌

西願寺では水子地蔵尊の信仰も厚く、
水子供養を依頼される方も多いです。
人に言えない悩みは、みんなお持ちです。
このような時期だからこそ、
一つ一つ不安を解消していきましょう。

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新しい生活の ” 意識と様式 ”

コロナウィルスの脅威を感じるようになり半年以上経ちました。10年後にこのブログを読み返した際、どんなことを感じるんでしょうか・・・コロナ禍が過去のものになっていたとしても、その渦中で目一杯考えることは次なる世代への糧になることと存じます。今を生きている者にとって現在は 未知なる体験の連続です。確固たる答えが見えない中、色々な世代の方とお話をして感じたことを綴ってみます。近代日本人の価値観の変化と言うことについです。

日本敗戦後の経済成長の中で 豊かさを謳歌してきた時代の方々(60歳以上)とお話していると、日本の近代の発展は 「重い・長い・厚い・大きい」ということに重点を置かれていたように感じます。しかし、いつの頃からか「軽い・短い・薄い・小さい」へと様相と様式が変化していき、50歳以下の我々の世代は 「軽便さと安価さ」 に当たり前の感覚があります。まだこれが ” 物の価値 ” ならばいいのですが、もっと若い世代になると ” 心の価値 ” までもが 「軽便さと安価さ」 に疑問を持たず、古来の日本人の美徳である「もったいない」とか「苦労の後に楽の喜びがある」とか「生き甲斐」という 長い眼を持った人生訓 が影を潜めたように思われます。

幼い時に祖父母と見ていた、時代劇・水戸黄門の歌詞が懐かしく感じます。おおらかないい時代でした。

ところが今、私たちは、その「軽便さと安価さ」という意識と様相を変更しなければ 不安の増幅が終息しないかもしれない事態に陥っています。それは コロナウィルス感染症対策の「3密(密接・密集・密閉)」の回避です。
密接の回避 = 私と他者との間柄の物理的離れ
密集の回避 = 集まって顔と顔を突き合わすことの遠慮
密閉の回避 = マスクの着用や手指消毒による、心の窓である口鼻の隠蔽やコミュニケーションの否定

恐ろしいことに、現代人の「心の軽便さと安価さ」と「3密の回避」が合わさり、本来の人間らしさの最も大切な事柄が無くなってしまうのではないかという危惧があります。

この事態を迎えて今こそ、私たちは現代科学文明の欲の光に圧倒され、眩しさの中で何も考えずに「軽い・短い・薄い・小さい」の「軽便さと安価さ」の経済的価値の感覚(物質的価値)だけに走って、人間ならではの大切さ(心の価値)まで犯されようとしていることに気付くべきだ思います。時計の振り子が左右するように、考えが偏ってきた現代人に、大いなるものが幸せのヒントを与えてくれてるように思えてなりません。

しかしお盆以降、お寺の墓地や骨仏、ペット碑にお詣りする家族連れや若者が多く目につき始めました。皆様は「何を思い願って」手を合わせて祈っておられるのか・・・住職は参詣者の心の動きを尊く感じ取っています。皆様方と共に、” 私たちを生かし護ってくれる大いなるもの・阿弥陀様・先祖へ手を合わせ願い頼む心 ” が教え導くことを、新しい生活へのテコの力に応用して ” 意識と様式 ” とを少しでも変えれる努力をしたいものです。現代科学文明の光より尊い、仏の光に意識を向け、縁者が少しでも良き方向にいくようお祈り申し上げます。合掌

西願寺は、逆手にとった3密の幸せを大切にできるお寺を目指します。
密接 = 私と仏や先祖との間柄の親しさ
密集 = 寺詣りをして、仏や先祖と顔と顔を合わす安堵感
密閉 = 心の窓である口鼻がもたらす表情(お念仏の声)

~ ” なむあみだぶつ ” の一声一声は、あなたの心を整え・先祖を守り・子々孫々の繁栄を培う、心のギアチェンジです ~

葬儀・納骨等をお考えの方は、住職の思いや顔が見える当山へ 是非お気軽にご縁をお結び下さいませ。新しい生活の ” 意識と様式 ”をお手伝いできればと存じます。

コロナ禍の中で少しづつ、お寺の整備をしています。
本堂内に個別用の納骨壇を設置しました。
一棚にご遺骨、位牌等を複数安置ができます。
宗教宗派問わず・年会費不要
(15棚限定ですので お早めに)

境内に 本格的なペット供養塔が完成しました。
基本は合祀(中央下からの納骨)ですが、
懇ろな供養をご希望の方は個別棚も設けてます。
他に探してもない安置場です。
(現在は11棚限定ですので お早めに)

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本物の自信

最近はコロナウィルス感染予防の為、密を避けるようになりました。皆様も同じかもしれません。” 人は現状維持の気持ちでは衰退する ” と言います。独りで精進し続けることは難しいものがあります。やはり人と触れあい、影響を受けて成長することも必要です。はやくそのような環境に戻れることを祈ります。そんなことを思いながら、コロナ禍前に体験したことを思い出してみました。

今年1月に こうじょう雅之氏のライブアートにお邪魔しました。この方は、自らを武人画師と名のり、各方面でご活躍されています。どんなことが起こるんだろう・・・と期待を膨らませてましたら、こうじょう氏は 「武人とは覚悟を持つ者。真っ白なところから、それぞれの覚悟を持った武人が生まれる瞬間を味わってほしい」と話され、曲に合わせて20分ほどで武人の姿を描いて下さいました。それは 戦場の霧の中から接近してくる武人が、突如 キャンパスに現れるような迫力でした。

挨拶をされる こうじょう雅之氏

今回は 真田幸村を描いて下さいました

ライブアートの後、各テーブルを巡って下さり、私も色々な話をさせていただきました。彼は 結婚をして30才を過ぎた頃、安定していた運送業をやめ、幼い時から夢だった絵描きになったということでした。「一度きりの人生 楽しまなきゃ!」と豪快に笑うお姿を拝し、同年代の肝の据わり方に感服しました。まさしく武人のごとく「覚悟を持った者」でした。逆に 私は僧侶として、そのお役目を全うする責務があります。夢だからと言って、いきなり長髪金髪のロックンローラーになるわけにはいきません(笑)・・・自由があるというのは ある意味うらやましいですが、積み上げてきた立場を壊して、夢に走るというのは 相当な覚悟が必要です。夢が理想郷とは限らないからです。「自信はあったのか?」と尋ねると、「まったくなかった」とのことでした。

体重100キロを超える、心身ともに大きな方でした。
手には西願寺のパンフレットを持ってらっしゃいます。
当山の毘沙門天像の後絵に こうじよう師の武人画をお迎えできたら…とお話しました。想像するだけでワクワクします。

心屋 仁之助氏のお言葉です。
「自信は足し算じゃ生まれないんです。
むしろ、どんどん引いて、引いて・・・
資格もない、
人に誇れる長所もない、
誰かに自慢できる特技もない。
そんな自分も「認める」ということ。
弱い自分。
ダメな自分。
不器用でおもしろみのない自分。
そんな自分でも「それでいいんだ」と「許す」ということ。
自信は、ありのままの自分を
「それでも、私はすごいんだ」と思うところからしか生まれません。
がんばったから、自信がつくんじゃない。
「自分は、すごい」と思えるから、自信がつく。
どんな自分でも「すごい」と思ってみるんです。
いつまでたっても、
「自信探し」の旅を続ける人になってしまうのでは、楽しくないよね。」

(『がんばっても報われない本当の理由』 PHP研究所)

結局、「自分を認め、許し、すごいと思う境地」は、自らを過信したり、ナルシストになれというのではなく、「自分はこんなに守られているんだ!」という自信から来るんじゃないでしょうか。こうじょう氏も、ご縁に感謝!としきりに仰ってました。つまり、人間はどんな立場になっても、神仏や先祖、様々なご縁に守られてるという感性が大事なのだと思います。そこから踏み出す第一歩(覚悟)が、どの環境に変わっても 一本の筋が通った人生に繋がるのだと存じます。ありがとう、おかげさま、感謝、ご恩・・・こうじょう氏との出会いで、この仏教的な精神が ” 本物の自信 ” を得られる妙法なのだと 改めて学びました。合掌

追伸:現代は ” 変化 ” することが素晴らしいという意見が大多数ですが、逆に ” 守る ” ということも同様以上の大変さがあります。目まぐるしい環境の変化が起こる中、一つのことを続けていくということ・・・とっても地味で、評価どころか批判の対象になる風潮にありますが、これも肝(覚悟)が据わってなくてはできません。私は そういう保守的な方々も応援しています。変化を ” 逃げ ” の口実にならないように、また私欲に走りすぎないように冷静に見ていかなければならないと思います。どんな道でも ” 覚悟 ” と ” 次世代までの責任 ” ・・・この武人の言葉がキーワードです。ふわっとした民意に流されないように、一緒に勉強していきましょう!

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オキシトシン的幸せ

今年のお盆も佳境に入りました。コロナウィルスの影響で、今期の盆参りはどうなるかと思いましたが、西願寺では「むしろお願いします!」と こぞってお参りされる方が多いです。これは一日にしてはならない心境です。歴代住職と各家による 長いながい間の信仰の受け継ぎが成すものです。皆様の熟成されたお心に、こちらがパワーを頂戴しました。

今日は「オキシトシン的幸せ」というお話をします。
脳の仕組みを知ると、幸せになるのは大きく二つの方法があることがわかります。
一つは、目標達成や夢の実現によって得られる幸せで、
これをドーパミン的幸せと呼びます。
もう一つは、オキシトシン的幸せで、親切やふれ合いによって得られる幸せです。

ドーパミン的幸せには、得られたときの喜びや快感が大きいという特性があります。
大好きな野球チームがサヨナラ逆転満塁ホームランで勝ったりしたら、
それこそ大喜びでしょう。
また、一生懸命に勉強してきて、第一志望の大学に合格したときなどの喜びも
これに当たります。しかし、このドーパミン的幸せは長続きしません。
そのうえ要望がエスカレートして、今日も勝ったのだから、明日は連勝だ、
と他者との競争のためにストレスにさらされるなど、マイナス面もあります。

一方、オキシトシン的幸せの方は、他者とのふれ合いや思いやりから生まれます。
電車でお年寄りに席を譲ると、譲った方にも譲られた方にも
オキシトシンが分泌されます。
親切にされた方ばかりでなく、親切にした側にもオキシトシンが出るのです。
そして、こちらは、ほんのりと長続きする喜びです。
(『笑育のすすめ』 百瀬和夫)

今、世の中に蔓延してるのはドーパミン的な幸せだと存じます。自分の夢や欲望に向かって、やりたいようにできることは世間一般に言う幸せです。しかし、ドーパミン的な幸せを求めるがあまり、不寛容な社会が出来上がったのは事実です。

一方、仏教が求める幸せというのは、オキシトシン的な幸せであり、刺激や物質、合理的なものではありません。コロナウィルスが蔓延している時代、現代のお寺は もっとこのオキシトシン的な幸せのアプローチが必要なんじゃないでしょうか? 盆参りに伺うと、他者とのふれ合いに飢えてらっしゃる方が大勢おられます。人々の生活に直に接すると、人間は理想や自己保身だけでは生きていけないんだということを学びます。

諏訪中央病院名誉院長・鎌田實氏はこう仰います。
「オキシトシンとは、『人を幸せにすることでめぐりめぐって自分を幸せにするホルモン』であり、オキシトシンが増えると、人と人との絆は深まり、生きる力が強まる」

どうか、日本国民がこの不自由な現状から足元を見つめ直し、信仰心のある生活(オキシトシン的な幸せ)を喜べる民族であることを切に祈ります。合掌

篤信な信徒様のお布施から、大威徳明王(だいいとくみょうおう)の仏像をお招きしました。
阿弥陀如来の憤怒のお姿といわれ、疫病退散や勝負運に効力を発揮される仏様です。

ご真言は、オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ
ある霊能者から、西願寺の御本尊の下地(金箔塗りの中)に大威徳明王の姿が見えるとお聴きしたことがあり、
仏縁を感じてます。二尊に祈れば、慈悲と憤怒の二つの側面(進歩と調和)で御守りいただけることでしょう。

御本尊の記事

檀家の三方庵さまにお願いして、コロナウィルス退散のお煎餅を作っていただきました。
大威徳明王の前で祈祷をし、壇信徒の皆様にお配りしました。これこそオキシトシン的な幸せだと存じます。

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おかえり

全国の豪雨における被災者の皆様、心よりお見舞い申し上げます。
近年は「50年に一度」といわれる大雨が毎年のように続き、災害映像を見るに付け 心が痛みます。コロナウィルス感染拡大によって、毎日のマスク・手洗いが習慣づいた頃に、特別警報が出るほどの豪雨が追い打ちをかけました。

なかでも見るに堪えないのが、街全体が災害に遭い、消滅してしまう様子です。先祖から護り続けてきた土地、住み慣れた場所を離れ、親しい人々と別れることは、今までの自分を全否定された気分になるのではないでしょうか。昨日まで「おかえり!」と迎えてくれた所がなくなる・・・これは悲しみの中の悲しみだと存じます。

熊本・球磨川水害

熊本・球磨川水害

僧侶の大來尚順住職のお言葉です。
「おかえり」という言葉とは、まさに「よく無事に帰ってきたね」「あなたを待っていたよ」「あなたには、そのままで帰ってこられるところがあるんだよ」というメッセージでもあるんです。

「帰ってこられるところ」の「ところ」とは、家族の待つ家であったり、地元であったり、「場所」の意味もありますが、私は「私はあなたをあなたのまま、そのまま優しく迎え入れて受け止めてくれる人や空間」を指すと思うのです。

私は、この英語では表すことのできない「おかえり」に含まれている気持ちこそ、日本人の思慮深さを表していると思うのです。では、その表現できない思慮深さとは一体何かというと、それは「すべては当たり前ではない」(縁起)と「何が起きるかわからない」(諸行無常)という真理です。

だからこそ、戻ってきた方を見ると、無意識にも当たり前ではない再会が嬉しくて、また有り難くて「おかえり」という言葉が自然と口から出るのです。
(『訳せない日本語』 アルファポリス文庫)

まさに、この世は「縁」と「諸行無常」で成り立ち、人は無力なんだと思い知らされます。すべては一期一会なんですね。これが真理とわかっていても、帰る所がなくなった方々に、励ましの言葉が見当たりません・・・。

こういった状況下、江戸時代の禅僧・良寛師は、災難にあった方の見舞いの手紙に、
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候

と述べられました。

やはり、この世は「縁」と「諸行無常」。現実をありのままに受け入れるしかないのだと思います。これがこの世の悟りです。あとは時間をかけて人々に寄り添い、真理を説くことが僧侶の勤めだと心得ます。そして、来世に「おかえり!」と言って下さる、永遠の幸福しかない世界の行き方をお伝えする・・・自分は一人じゃないんだ。神仏や先祖に護られてる存在なんだと・・・不安定で何が起こるかわからない昨今に、一人でもそんな方を増やせればと存じます。次々と押し寄せてくる災害に、これが宗教の役割だと再認識しました。南無阿弥陀仏

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比叡山に参拝

先日、比叡山にある無動寺に参拝して来ました。このお寺は 千日回峰行の阿闍梨さまが拠点とされてる所で、根本中堂より歩いて約30分の谷にあります。大雨の中でしたが、どうしても詣りたい衝動に駆られて行ってきました。到着は14時30分頃。通常、こんな時間に阿闍梨さまはいらっしゃいませんが、たまたまお勤めをなされてました。(約束をしてませんが、必ず会えると確信して参ったのが不思議です)

ノウマク サンマンダー バーザラダン センダン マーカロシャナ ソワターヤ ウンタラター カンマン・・・

霊験あらたかな不動明王の前で、しばらく阿闍梨さまと一緒に真言を唱えてましたら、「情けは人の為ならず・・・」と聞こえたように感じました。「情けは人の為だけではなく、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ」という意味です。よく「情けをかけることは、結局その人の為にならない(ので、すべきではない)」と解釈する人もありますが(笑)、親切にすることの大切さと説く諺です。

この言葉は私の心に響きました・・・コロナ禍の現在、 ” 寄り添っての親切 ” ができにくくなり、僧侶としての存在意義を自問自答していました。こんな時期なのに 何もできないジレンマがあります。私だけではなく、今、皆さんが 漠然と心にモヤモヤを持たれてるとしたら、根底はこの部分があるのかもしれません。経済的な苦しみはもちろんありますが、人間としてのふれあい(仕事、趣味、娯楽)が強制的にできなくなったり、また 人が喜んでくれることが できにくくなってる現状にストレスを感じ、苦しんでらっしゃる方が多いのかもしれません。今は 皆が指針を失っている状態です。

大阪大学の教授が検証し、アメリカの科学誌に発表された実験があります。
保育園で5歳~6歳の子供を対象に行われたのですが、「同じ歳の子供が、親切な行為をしているのを見た時、その親切を行った子供に対して優しく接する」というもので、親切な行為をした子供と、そうじゃない子供を比べると・・・

なんと、約12倍!
親切をした子供の方が、その後、親切にされる回数が高かったそうです。

この実験結果から想像できると思いますが、人に感謝されることをして、感謝をされて、今度は自分が有り難いことをしてもらった時にも きちんと感謝を伝えて、また喜んでもらえることをして・・・この流れを自然にできるようになると、人は見返りなんかどうでもよくなくなり、自然に幸せを感じているというのです。

今はコロナの影響で、そような自然な流れが立ち消えてしまいました。人間はいったん先を見失うと、動きたくなくなるものです。しかし、人に親切を施すことは 道徳や倫理ではなく、幸福になる方法論です。まして12倍の幸福が得られると思えば、その努力は楽しいものになるのではないでしょうか? 

一隅を照らす、これすなわち国宝なり(比叡山・最澄)

国民ひとり一人が 今 置かれている場所で、自分ができる親切をする気概を持てば、世の中が寛容な社会になっていきます。なんでも批判的、合理化されつつある現代に、いま一度 足元を見つめよ! 原点に返れ!と、不動明王から 今を生きる指針を教えていただきました。合掌

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啐啄同時(そつたくどうじ)

先日、野生動物捕獲のために設置していた檻に、キツネが掛かりました。西願寺では数年前より文化財被害があり、市から捕獲の檻をお借りしていたのです。私がお参りに出ていた時に母が気付き、慌てて総代さまに連絡をいれた時の会話です。

母:「総代さん、とうとう かかったわ!」
総代:「あー、とうとうかかってしもたか・・・心配してたんや・・・」
母:「どうしましょう? 連休中で 保健所に連絡取れないし・・・」
総代:「とりえず、急いで住職を連れて行くしかないやろ!」
母:「えっ、住職は今、お参りに出てます」
総代:「そんな状態で 外に出させたらアカンやろ!」
母:「なんで?」
総代:「???・・・かかったって・・・住職がコロナにかかったんやろ?・・・」

嘘のような本当の話でした(笑)。結局、総代さまが軽トラで山奥に逃がして下さり、殺生しなくて済みました。それにしても「かかる」という言葉が、すぐにコロナウイルスを連想させるとは、、、えらい世の中になりました(汗)。

実は 翌日に親キツネも捕獲され、
総代さまが同じ場所に逃がして下さいました。

実は 翌日に親キツネも捕獲され、
総代さまが同じ場所に逃がして下さいました。
親子で仲睦まじく暮らしてくれてたら嬉しいです。

昨日、39県を対象に 緊急事態宣言を解除される方針の報道があり、世の中が少しづつ動いていきそうです。これからが大変ですが、ボチボチとやっていきましょう^^。自粛期間中は、私も環境が大きく変わりました。3月から多くのご依頼をいただいていた琵琶説教は全て中止。京都で勤めているお寺も拝観停止。各法要、イベント等も自粛の連続・・・収入も激減し(笑)、気持ちが落ち込むと思いきや・・・逆に 今までやりたかったことに挑戦でき、充実した日々を送っています。密教、太鼓、声明、四弦琵琶、姓名判断、護符等々・・・隠居をしてからやりたかったことが 今、実現しているので、毎日が楽しくてなりません。逆に言えば、忙しさにかまけて 自らを失っていた生活って何だったんだろう、、、とも感じる今日この頃です。ちょうど ” 忙しさ ” が惰性となり、挑戦する意欲に欠けていた頃ですので、私の人生にとって この時間(タイミング)は、仏の慈悲だと思っています。

曹洞宗僧侶・枡野俊明上人のお言葉です。
ひなが卵から孵る(かえる)時、外の出る準備が整うと、
ひなは内側から殻をつつきます。
そのかすかな音を捉えて親鳥は外側から殻をつつき割ってあげます。
ひなが内側から殻をつつく音が「啐(そつ)」
親鳥がつつく音が「啄(たく)」
「啐啄同時(そつたくどうじ)」。
両者のタイミングがピタリとあった時に、
物事は変化し、新しいものが生まれるのです。

(『怒らない禅の作法』 河出書房新社) 

テレビ報道は過熱さを帯び、ギスギスしてます。政治家や人の悪口ばかりで、見ているとウンザリします。我々は恵まれているはずなのに、、、批判批判の洗脳は怖いです。日本国民の人格が変わってしまうのでないかと危惧します。昔の日本人は、自然を畏れ、敬い、感謝をし、我が身を正したと聞きます。こういう時期だからこそ、いつも申している「ありがとう、おかげさま、感謝、ご恩」・・・こういった仏教精神による情報にまみえ、心豊かに生きていきたいものです。幸福とは、洗脳ではなく洗心です。文句もいいですが、” 今のおもい ” が未来を産みます。そういった意味で、今、私が勉強していることが、新たな時代の布教活動の幅になれればと思っています。

皆様も「啐啄同時(そつたくどうじ)」の時期ですよ。信仰を持っていれば、” おもい ” は必ず引き寄せることができます。新しく変わらざるを得ない時代に向けて、今、できることをお探しいただければ、仏が道を示し、殻を破って下さることと存じます。この時期は、仏からの教導の時期とお捉え下さいませ。合掌

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楽観主義と無謀の違い

今、世界は新型コロナウイルスの感染拡大で異常事態が発生しています。1ヶ月で収束に向かうのか、それとも1ヶ月後にもっと未知なる領域に入るのか・・・不安な毎日です。マスコミの情報も大切ですが、あまりに一つのことに先鋭化しすぎると 情報汚染してしまいます。

仏教では幸福を妨げる5つの障害を説きます。五蓋(ごがい)と言って 考えや情報が偏りすぎると出る症状です。①欲望・②怒り・③心の落ち込みと眠気・④混乱と後悔・⑤疑い・・・皆さん、こんな状態になってませんか? 不平を言う前に まず心身健全を考え、今だからできることを考えましょう。

深沢孝之氏が監修の『アドラー心理学で人生が劇的に変わる! 「ブレない自分」のつくり方』(PHP研究所)に、今の世相に必要な言葉がありました。

未来を不安がってばかりいても何もできません。
だから、今この瞬間のことだけを考え、
そこでできることに一生懸命になればいいのです。
そうすれば、自然と状況は改善していくはずです。

ただ、ひとつ注意しておかないといけないことがあります。
それは、楽観的と無謀は違うということです。 
「なんとかなるだろう」と、
考えなしに突き進むのはただの無謀です。

楽観主義というのは、きちんと準備し、
努力を重ねていけば、その結果
「きっとうまくいくはずだ」と信じるということです。
「どうせダメだろう」と思いながら努力するより、
「きっとうまくいく」と信じてする努力のほうが、
自分の身になることは言うまでもないでしょう。

アドラー氏は、「ここいちばんのピンチのときこそ楽観主義であれ」と説いています。しっかりと準備をして努力を重ね、終息後のことを考えてみましょう。今だからできることが必ずあります。世界の皆さんが平等にピンチだからこそ、努力をすれば 公平にチャンスがおとずれるのです。そういった意味で、今は前代未聞の好機です!・・・楽観主義で 常識の視点を変えましょう^^。 合掌

現状維持は衰退の始まり!
ピンチはチャンスなり!!

追伸:コロナウイルスについて 色々な情報がありますが、過敏にならず 無理なくできる習慣を身につけたいものです。以下は、日赤医療センタ-・ドクターからの情報提供とお聞きしています。

新型コロナウィルスは、感染されても何日も症状が出ない場合があります。では、自身が感染されたかどうか、どう分かるのでしょう。咳と熱の症状が出て、病院に行った時は大体50%は肺が繊維化されていると考えられます。即ち、症状が出て受診すると遅れるケースが多いのです。

台湾の専門家は、毎朝、自身でチェックできる簡単な診療を提示してます。

深く息を吸って、10秒我慢する。咳が出たり、息切れる等、すごく不便なことがなければ、肺が繊維症状になってない、即ち、感染されてないということです。(注:新型コロナで悪化すると、肺胞の組織が繊維化して硬くなっていくようです)

現在、既に大変な事態になってるので、毎朝、良い空気を吸いながら、自己診断をしてみてください。
また、日本のお医者さんは、とても有効なアドバイスをしてくれています。皆んな、常に、口と喉を濡らして、絶対に乾燥した状態におかないこと。15分毎に水を一口飲むのが良いそうです。ウィルスが口に入ったとしても、水とか他の飲み物によって、食道から胃に入ってしまえば、胃酸によりウィルスは死んでしまう。水分をよく取らない場合、ウィルスが気管支から肺に侵入してしまうので、とても危ないのです。

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令和2年(2020)2月22日 今宮神社に参拝

今、世界では新型コロナウイルスが蔓延しており、目に見えないものの恐怖に 人々は右往左往しています。色々な情報が錯綜してますが、まず国民ができることをし、一致団結して乗り切ることが大切です。グローバル化の一途たどる時代に、もう一度 日本の足元を見つめ直す、よい機会ではないかと個人的に考えています。

先日、2月22日は ” 2 ” が続く特別な日でした。令和2年2月22日。2020年2月22日。2は仏教で言う ” ご縁 ” の日と言われます。その日は、様々な神仏とご縁をいただいた日でもありました。午後からは 芸術家・橋本関雪さまの命日法要で、導師と琵琶説教の勤めがありましたが、午前中の予定がポコッと空いたので、今宮神社に参拝し、ご祈祷を受けてきました。ここの疫神が 私が大好きな牛頭天王ですので、コロナウイルス疫病退散のお参りをしてきました。廣峯神社(姫路)、八坂神社(京都)、今宮神社(京都)は それぞれの牛頭天王がいらっしゃいますが、今宮神社は一番優しい性質のお方と云われます。

今宮神社

今宮神社

神仏研究家・桜井識子さんが今宮神社でのお告げを記してらっしゃるので紹介します。
牛頭天王が「書いておけ」と言ったことがありますので、ちょっと説明しようと思います。牛頭天王の神域で急に雨に降られる、ということについてです。これは、厚いご加護をいただいたことになるそうです。(中略)見えない世界で雨粒を「槍(やり)」に変換するらしいです。天の高いところから神気を帯びて落下してくる槍となりますから、「魔」に対する殺傷能力はとてつも高いと言います。しかも「魔」は、雨としか思っていないので防御をしませんから、バッサリ退治できるらしいです。ですから、もし境内で急に雨が降ってきた、という場合は、とてもありがたいことになります。(『神様と仏様から聞いた 人生が楽になるコツ』宝島社)

不思議なことに、当日はまさしくその状況でした。バケツをひっくり返したような雨が降る中、宮司さまに祝詞をあげてもらい、魔をさっぱりと払っていただきました! よっぽどストレスがかかっていたのでしょう(汗)。この牛頭天王という神様は、お願いしているその本人自身が、また願掛けそのものが「面白い」と思えば、少々の困難でも叶えてくれます。ですから、ありえない願掛けだとお願いしてみるといいです。「面白いやつだ」と思ってもらえたら叶います。皆様もどうぞお参り下さいませ。僧侶が神社の紹介するのですから、信憑性がありますよ(笑)!?

境内にある桂昌院碑
桂昌院さまは、地元の八百屋の娘でしたが、今宮の牛頭天王に願掛けして将軍の母になられたと伝わります。

境内にある桂昌院碑
桂昌院さまは、地元の八百屋の娘でしたが、今宮の牛頭天王に願掛けして将軍の母になられたと伝わります。

あぶり餅屋 一和

あぶり餅屋 
今回は向かって右側の一和さんに寄りました。

気さくな店員様が、写真を撮って下さいました(照)

気さくな店員様が、写真を撮って下さいました(照)

あぶり餅

あぶり餅

その後、六角堂(頂法寺)にも立ち寄り 聖徳太子にも縁を結びました。2月22日は太子の命日とも云われ(諸説あり)、ゆかりの寺院はお勤めされる日でもあります。日本の礎を築かれた方にもお力をいただきました。

六角堂

六角堂

神仏と共に歩む生活は楽しいですよ^^。今、目に見えないものにおびえる現代人ですが、そういう時こそ、見えないお力にすがるべきだと思います。合掌

橋本関雪さまの法要が行われた白沙村荘・存古楼

橋本関雪さまの法要が行われた白沙村荘・存古楼

関雪忌法要

関雪忌法要

琵琶説教では『平家物語』の「熊谷発心」から
縁の縁の教訓を学びました。

琵琶説教では『平家物語』の「熊谷発心」から
縁の教訓を学びました。

カテゴリー: 未分類 | 令和2年(2020)2月22日 今宮神社に参拝 はコメントを受け付けていません

誕生は 母苦難の日

立春が過ぎ、本格的な一年が始まりました。本日、2月15日はお釈迦さまの涅槃(ねはん)の日です。読者のご多幸を心よりお祈り申し上げます。

西願寺の涅槃図
※現在公開中です

私は1月28日で 45才になりました。有難いことに「年齢よりも若く見える ♪」と よくお世辞を言って下さいますが(笑)、裏を返せば ” 若い ” といわれる歳になってしまったんだなぁ(汗)・・・とつくづく感じます。(もちろん若く見えるというのはスキンヘッド効果ですw)40代というのは 20代のような体力はなく、70代のような貫禄や経験もない年代です。しかし、上下世代の役割(精神的、体力的なこと)を同じ立場で勤めないと サボってると思われる年代でもあり、また両世代の言い分(伝統と革新)もわかるので、心身ともに重圧がかっかて体調を壊してしまう・・・だから 厄年(役年)と言うそうです。世代の波に翻弄されそうですが、仏の加護を信じ、やれることを一歩づつ勤めたいと思います。

お役と言えば、先月、地元仏教会の会長を仰せつかりました。宗派を超えた26のお寺の方々と、地元興隆のために勤める所存です。まず初めの行事は「花まつり」。花まつりとは、4月8日のお釈迦さまの誕生をお祝いする行事です。地元の子供達を集め、誕生仏に甘茶を注ぎ、健やかに日々を送ることを願うのです。そんな準備をしつつ、自身の誕生日を迎えることとなり、ふと思いました・・・若い時は 誕生日と言えば、自分を祝ってもらうものばかりと思っていたが、同時に 自分を産んで下れた両親にも感謝する日でもあると・・・・。

こんな歌があります。
諸人(もろびと)よ  思いしれかし 己(おの)が身の  誕生の日は 母苦難の日

私で言えば、今から45年前のその日に、母は青竹を裂くような辛い思いをして産み、育ててくれました。そのお陰で今日の私があるのです。だから、むしろ自分の誕生日は親に感謝をし、お礼を申し上げる日でなくてはならないと思うのです。もっと言うならば、今まで育てて下さったご家族、地域、社会、先祖にまで感謝を広げることも大切です。花まつりでは、このような精神も伝えられる行事にしたいと思いました。

お釈迦さまをお産み下さったマーヤさまにも感謝を捧げます。

親子を一本の木に例えれば、ご先祖さまは根で 親(自分)は幹です。根幹がしっかりしていると、枝先(子孫)は栄えます。様々なご縁やみ恵みに感謝し、親は親であることを自覚して子を育て、子は親を大切にする・・・今、寺離れが増え、このような当たり前で一番大切なことがなおざりになってるのではないかと思います。これは、時代や世代、年代を超えた共通の真理だと存じます。こんな事を思う誕生日でした。合掌

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