美しさで判断する感性

本年 最後のブログとなりました。今年は色々な事が起き、人生の分岐点だった気がします。西願寺では 先代が往生し、舵取りが求められる一年でした。私的な問題なら自分で決められますが、公的な立場になれば そうはいきません。様々な人に助言を求めると、十人十色の回答が出てきます。大きな問題になればなるほど、袋小路に迷い込むことが多々ありました。

そんな時、指針にしたのは、 ” 正しさ ” ではなく ” 美しさ ” でした。かっこよくいえば、 ” 美しさで判断する感性 ” を持って進むことにしたのです。別の言葉に直すと ” 粋 ” と言えばいいでしょうか。気まぐれで動かないことを前提に、損得抜きの自己満足に徹しました。なかなか真意をわかってもらえない孤独はありますが、それでいいんです。粋は さっぱりとしたものです♪。この やせ我慢に 妙な快感を覚えました(笑)。神仏は見てござる・・・・粋ですねぇ。

ひすいこたろう氏の体験談です。
以前、熊本の幣立神宮で正式参拝をさせてもらったときに、神主さんがこんな話をしてくれました。「日本人が大事にしてきた叡智である『神道』には、あるものがないんです。他の宗教だったら考えられない、決定的なものがない。なんだと思いますか?」なんだと思いますか?「教えがない」んだそうです。教えがない宗教なんて、他に考えられます?でも、教えがないから相手を裁かないし、ケンカせずに相手に合わすことができるんです。教えがないということは、教えを守らなかったときに落ちる地獄もないということ。地獄がないから、誰かに救ってもらうべく救世主も必要ないのです。日本人は救世主を待たなくてもひとりひとりが内なる叡智とつながっていけると考えていたのです。教えはない。救世主もいない。そんなの宗教じゃない(笑)。そう、宗教じゃないんです。「神道」は宗教ではなく、日本人の「生活」だったんです。「では、教えがないかわりに、何があったと思いますか?」神主さんの話にはまだ続きがありました。「美しいか、美しくないかで判断する感性があったんです」これが答えでした。「その行為は美しいのか?」これが日本人の生活(神道)の本質だったわけです。(『なぜジョブズは、黒いタートルネックしか着なかったのか?』 ひすいこたろう 著 滝本洋平 著 A-Works)

人生は損得の計算をすることが必要で、みな自分が得するように動くものです。しかし、得するための言動、損を回避するための 偏った言動は 美しくありません。 粋とは 損得勘定よりも、自分の言動の美しさを優先する価値体系です。そんな中、今やってることが将来の人々の為になってると思えれば、人生は より楽しいものになるはずです。みんな「自分が正しく、相手は間違っている」と思ってます。正しいか間違っているかで判断しようとするからケンカになるのです。美しいか、美しくないか・・・老若男女を超えて、生き様の美しさを魅せ合うようになれれば素敵だと思います。そんなことを学んだ一年でした。皆様、お世話になりました。よいお年を。合掌

カテゴリー: 未分類 | 美しさで判断する感性 はコメントを受け付けていません

究極のプライベート

先日、ある お宅を訪問しました。この家には 霊験あらたかな弁財天が祀られおり、パワーが欲しい時に 詣らせていただいてます。拝観はされてませんので、普段は 老夫婦しか居られないんですが、読経の途中、背後にただならぬ気配を感じ 振り返ると、若い僧侶が座っていました。その方も プライベートで弁財天を詣りに来られたようで、後で話をすると、比叡山の 光永圓道(みつなが えんどう)大阿闍梨だとわかりました。

光永圓道 大阿闍梨

光永圓道 大阿闍梨

大阿闍梨(だいあじゃり)とは、随一の荒行として知られる千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)を満行された行者のことです。修行内容は、比叡山の峰や谷を7年かけて計1千日巡り、礼拝をし続けます。山川草木などあらゆるものに仏の姿を感じながら歩く距離は 地球1周分(約4万キロ)と言われ、修行を始めてから700日を超えると9日間、食事や水、睡眠を断って 不動真言を10万回唱える「堂入り」の行が課されます。その後は山中だけでなく、京都市内でも礼拝をします。満行すると、行者は大阿闍梨と称され、土足で宮中に参内することが許されます。いったん行に入ったならば、決して途中で止めることができないという掟があり、もし途中で止める場合は 短刀で腹を掻き切るか、紐で首をくくり、命を絶たなければならないと云われます・・・戦後12人目の大阿闍梨が背後に居られるわけですから、ただならぬオーラを感じるわけですね(汗)。

お加持を受ける信者  阿闍梨は「生き身の不動明王」と称されます

お加持を受ける信者             阿闍梨は「生き身の不動明王」と称されます

光永阿闍梨は、私と同じ年です。出していただいた珈琲を味わいながら 一時間ほど対話しました。印象は、頭の回転が速い方だと感じました。何事にも前向き(強気)で、懐まで相手の言葉を受けず、自らの30センチ手前で説法されるイメージです。とにかく相づちが速いんです(笑)。私とは真逆・・・私は相手の言葉を受け入れ、その方の口から真理を引き出すイメージで法を説いてます。修行を専門にされてる僧侶と、一般の方々と暮らしている僧侶の違いかも知れません。縁が広がり、魔に憑かれることなく生きていくためには、それくらいの距離感でなければ、心身が保てないんだと思います。大変勉強になりました。

それにしても プライベートで 同じ場所を同時刻に参るというのは、すごい確率です。袖振り合うも多生の縁・・・弁財天様が引き合わせて下さったと感謝しています。前回も申しましたが、偶然とは「然るべくして人と禺う」です。仏道は ” 仏と仏のみが知る世界 ” に生きることです。立場は違えど 切磋琢磨しながら教化できればと思いました。合掌

カテゴリー: 未分類 | 究極のプライベート はコメントを受け付けていません

秀次談義

11月15日、琵琶説教の復帰として、地元 近江八幡で 豊臣秀次公の物語を語らせていただきました。本来 11月1日に開く予定でしたが、手術のため、泣く泣く延期の運びとなったのです。担当役員の皆様、そして、楽しみにして下さった方々には 多大なご迷惑をお掛けしましたが、無事に勤められ安堵しています。

講演会場の旧西川家住宅

講演会場の旧西川家住宅

旧西川家住宅 入口

旧西川家住宅 入口

旧西川家住宅 内観

旧西川家住宅 内観

今回の延期公演は、奉職寺院での休み(火曜日)に合わせて 15日になった訳ですが、丁度、秀次公の月命日に当たりました【 文禄4年7月15日寂 】。また(講演中に思い出したのですが)披露した『秀次物語』は、平成19年11月15日に完成し、秀次公の墓(京都・木屋町三条の瑞泉寺)に楽譜を奉納をさせていただいてたのです。あれから 丁度9年。” たまたま ” といえば それまでですが、偶然とは「然(しか)るべくして、人と禺(あ)う」と書きます。急性垂炎も意味があったんだなぁ・・・と良い方向に考えたいと思います。(今回 参れなかった御寺院さまには、次回があれば 懸命に勤めさせていただきますm(._.)m)

多くの方にお集まり下さいました

多くの方にお集まり下さいました

講演内容は、前に用意した原稿を すべて作り替えました。今回 ” 切腹(手術)” した体験から(笑)、” 人の死 ” ということに焦点を置き、辞世の句【人生の最期に残した おもい】の比較から、秀次公の偉大さをお伝えしました。

石田三成公の辞世の句(「真田丸」では 山本耕史さんが演じた武将)
「筑摩江(つくまえ)や  芦間(あしま)に灯(と)す かがり火と  ともに消えゆく 我が身なりけり」
筑摩江(現在の米原)の辺りで、三成公が処刑される前に、「ああ、あの芦(あし)の間に燃えているかがり火が やがて消えていくように、自分の命も もうすぐ潰えてしまうのだな」と、死に際に半分のあきらめと 半分の覚悟のこもった詩だと云われます。

天下人、太閤・豊臣秀吉公の辞世の句
「露(つゆ)とおち 露と消えにし わが身かな 難波(なにわ)のことも 夢のまた夢」
天下を統一した、関白になった、大坂城を造り、聚楽第を築いた、金と女にたわむれて遊びまくった … 今から思えば、「朝露(あさつゆ)」が消えるような、アッという間の一生だったなぁ。わしが作った「難波(なにわ)の帝国」も夢の中で夢を見ているような、儚いものであったことよ … と、死の前に泣いておられます。
 
豊臣秀次公の辞世の句(諸説あり)
「月花(つきばな)を 心のままに見つくしぬ なにか浮き世に 思い残さむ」
天に浮かぶ月も、地に咲く花も、心のまま、隅々にまで見尽くした。もうこれで、この世に思い残すことは何もない。

このお三方を比べても、秀次公の精神性の高さがうかがえます。皆、無念の思いがあるのは確かですが、石田三成公は、心の半分はこの世に執着を残され、秀吉公に至っては、死にたくないモードが全開です。秀次公は、無念は変わりませんが、素晴らしい死生観がうかがえます。仏教では、この世とあの世を貫いてまでが ” 人生 ” であり、生前の地位や名誉、財産、権力だけでは評価しません。

元気なうちは、” 死生観(死と向き合う生き方)” は持ちにくく、ダラダラと過ごしがちです。現代人は 限りある命にも関わらず、「何かを残す!」という意気込みではなく、平均寿命まで「生きるために生きる」という感覚ではないでしょうか。だから不安しかないんです。この世は 諸行無常・・・何事も ” たまたま ” ということはなく、「然るべくして、人と禺う」であり、すべては意味があるもの(日々の積み重ねの結果)だと思います。然るべくして偶う・・・後悔しないためには、日々を無駄にしない ” おもい ” が大切です。単純ですが これが真理であり、秀次公からのメッセージだと存じます。合掌

特別展 豊臣秀次公                                                          18才の わずか5年の在城で、現在の近江八幡の礎を築かれた                                                                             秀次公の<strong>” 込めたおもい ”</strong> を感じていただければと存じます。                                                               平成29年1月20日まで催されます

特別展 豊臣秀次公                                                          18才の わずか5年の在城で、現在の近江八幡の礎を築かれた秀次公の ” おもい ” を感じてください。                                                               平成29年1月20日まで催されます

カテゴリー: 未分類 | 秀次談義 はコメントを受け付けていません

手術

前回のブログから2週間が経ちました。今、私は療養しながら ブログを記しています。実は、先月27日に急性垂炎の手術をしました。当日夜間、腹痛が治まらず病院に行ったところ、盲腸が数倍腫れあがっており、石のようなものが いくつも発見され、その日のうちに手術を施していただきました。これもご縁です。素晴らしい医師が担当して下さったため、術後も順調に回復し、感謝 感謝です^^。

こういうことがあると、日頃の自分が見直せます。私は現在、西願寺の住職、奉職寺院の主任、琵琶説教と様々な立場で動き回っています。大半は京都の奉職寺院で勤めていますが … 思えば 前回のブログからでも、檀家の葬儀、400人規模の琵琶説教が2ケ所、近江八幡市内 寺院の晋山式と落慶式、隣寺の12年に一度の法要の出勤等々、有休を取りつつの 分刻みスケジュールでした(汗)。また 手術をするにあたり、半月分の琵琶説教のお断りが7ケ所、さらに 法事や来客等への延期やお詫びの電話をしていると 手術間際になり、激痛さえ忘れてしまう程でした(笑)。そして 手術も成功し、やっとゆっくりできると思っていたのも束の間、翌々日に総代様のご尊父の往生で、京都から早期退院をし、お葬式の導師を勤めさせて頂きました。

文字にすると生々しいですが、忙しさというのは、誰でも こんなものじゃないでしょうか。しかし、自らの力で どうしようもできなくなった時、周りの手助けの有り難さを知ります。一人で生きているんじゃないんだと・・・。この手術で 様々な方にご迷惑をかけしましたが、その分、弟子や部下も育ち、また私自身も 己を見つめる時間をいただきました。

日本列島は急に冷え込んできました。木枯らしが吹いています。こんな日は、子供の頃にやった凧揚げを思い出します。タコは 逆風(向かい風)が吹いている時、グンと高く飛ばすことができます。逆に 追い風の時は 高く飛ぶどころか、飛ぶことさえも難しいのです。逆風(向かい風)を うまくとらえることが、凧揚げのポイントだったことを思い出します。人生を見ても、逆風の時、自分に対して負荷がかかっている時ほど、大きく成長していく時期だと思います。この縁を大切に、” 反省・感謝・報恩の精神 ” で器を広げていく所存です。合掌

あらためて・・・ ♪あわてない あわてない ひとやすみ ひとやすみ

あらためて・・・(笑)          ♪ あわてない あわてない        ひとやすみ ひとやすみ

カテゴリー: 未分類 | 手術 はコメントを受け付けていません

得度式

先日、10月8日に愚息2人の得度式を勤めました。得度とは僧侶になるための出家の儀式です。今年は先代が往生し、寂しい話題が多い西願寺でしたが、このような儀式を勤めることができ、本当によかったと思います。

仏教者の心得を説く住職

仏教徒の心得を説く住職              参詣人と共に仏教とは何か?と           いうことを改めて復習しました

仏教者になるための言葉を授けます

仏教徒になるための言葉を授けます         その後、剃刀の作法、袈裟授与と進みます

多くの参詣人が証人になっていただきました 

多くの参詣人が証人になっていただきました     儀式の最後に「慶祝和讃」を全員で唱えました

得度を受けさせるには 本人達の決意が必要です。そのきっかけが 長男の小学校卒業時の作文でした。” 将来の夢 ”を題材とした文章が採用され、生徒代表として 多くの人の前で 否応なしにお釈迦様の弟子になる宣言したのです(笑)。

自分の言葉で記してことに意義があります

自分の言葉で記したことに意義があります

ブログに家族の記事を載せるのは気が引けますが、将来、息子たちが 人生の分岐点に読み返してくれたらと思い 記しました。二人は僧侶になるかわかりません。西願寺を継ぐか どうかもわかりません。しかし、多くの方に祝福され 得度をしたことは忘れてはなりません。初心を忘れず、仏の子として生きていってほしいと思います。

最後に二人が、檀家の前で申した御礼の言葉を記して ダメ押しをします(笑)。
「本日は、僕たち兄弟のために時間を作っていただきありがとうございました。これからも努力して頑張っていきたいと思います。優しく見守ってもらえたら嬉しいです。どうぞよろしくお願いします」金森隆将

「今日はありがとうございます。今、おじいちゃんがいてくれたら喜んでくれたかなぁと思ったら少し悲しいです。極楽から見守っていて下さい。僕も頑張ります。よろしくお願いします」金森隆文

得度式の記念品

得度式の記念品

二人が心を込めて選びました

二人が心を込めて選びました     (西願寺の名が入ったハンカチ)

カテゴリー: 未分類 | 得度式 はコメントを受け付けていません

守破離

10月です。新年度から丸半年が過ぎました。皆さん、新しい環境になじんできて、別の悩みが出てきた頃じゃないでしょうか(笑)。今年 奉職寺院に入山した修行僧は、うまくモチベーションを保ちつつ 精進しています。

ただ 近年の修行僧は、時間に耐えれず 1、2年で退こうとする傾向にあります。3年程して やっと奥深さが見えてくるんですが …。現代教育の影響なんでしょうか。皆さんの環境でも 新参者がズケズケとマニュアルを作り、合理化を図ろうとしませんか?。あろうことか 修行僧でも入山していきなり、住職の立場で寺院を動かそうとする者がいます。伝統を無視して いきなり自分のやり方に変えようとする・・・新人の押し付けなんて 誰も聞かない・・・周りが付いてこず イライラする・・・退山をカードに 和を乱す・・・三毒煩悩(貪り→怒り→愚痴)のスパイラルに見事はまってしまうのです。こうなったら誰の助言も耳に入りません。修行のやり直しです。真理は 心の三薬(反省→感謝→報恩)だと 口を酸っぱく指導するんですが … 残念なことです。

日本には 昔から ” 守・破・離(しゅはり)” という言葉があります。意味を調べると、「まずは師匠に言われたこと、型を「守る」ところから修行が始まる。その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる」とあります。

まず若者は ” 郷に入れば郷に従え ” です。型を作ることで 同時に器が広がっていくのだと思います。型にはまると「個性が死ぬ」という屁理屈は、忍耐力のない者の言い訳です。ものごとには段階があります。 ” 教えを守る段階(守) ” → ” 自主性と調和する段階(破) ” → ” 個性を発揮する段階(離) ”。何事にも言えることですが、まずは型を守ることが大切です(それで己を知ります)。優れている人から徹底的に学び、真似ることです。個性はその後、力を発揮します。順番を間違えないようにしないといけません。

今回は 修行僧 育成目線のブログでしたm(._.)m。私も自戒をしながら精進していきまーす\(^O^)/。合掌

♪ あわてない あわてない、ひとやすみ ひとやすみ 

♪ あわてない あわてない、ひとやすみ ひとやすみ 

カテゴリー: 未分類 | 守破離 はコメントを受け付けていません

流れる水は腐らず

お彼岸に入りました。多くの方が墓詣りをされてます。祖父母が墓参りの際、「受けた恩は石に刻み、与えた恩は水に流せ」と言って、墓掃除をしていた事を思い出します。仏教では、どんな小さなことにも必ず原因があると教えられます。自分が恵まれていることにも原因があり、その「原因を知る心」を「恩」といい、この幸せは ” 何のお陰か ” を知り(知恩)感じ(感恩)報いる(報恩)よう努めることが非常に大事だと説かれています。

植西聰氏のお言葉です。
「流れる水は腐らず」ということわざがあります。「流れる水」とは、「少しずつでも努力し、前進していくこと」を意味しています。とにかく結果が出なくても、思い通りにならなくても、少しずつでもいいから前進していくことが大切です。あせらずに努力を続けていくことです。そうしていれば「気持ちが腐ることはない」のです。気持ちを腐らせることなく、少しずつであっても前へ向かって進んでいけば、どこかで希望が見えてきます。いい結果に辿り着く一歩手前まで来ていることに気づく場合もあります。大切なことは、止まることなく、前へ向かって歩き続ける、ということです。そして、歩き続けていれば、どこかで目的地に到達できます。それを教えてくれるのが、この「水は腐らず」ということわざです。歩みを止めれば、気持ちがどんどん腐っていくばかりです。(『「水」のように生きる』 ダイヤモンド社)

「流れる水」のように、サラサラと執着を流し、受けた恩だけは忘れない人は素敵です。受けた恩は石に刻み、与えた恩は水に流せ・・・恩の教訓は日本だけの真理ではありません。地球の裏側(ブラジル)にも こんな話があります。5年前、漁村に暮らす ある年配の男性が、油まみれになった瀕死の野生ペンギンを見つけ、懸命に介抱しました。その甲斐あって元気になったペンギンは、やがて名残惜しそうに海に帰っていきます。” もう二度と会うことはないだろう ” と誰もが思っていた次の年・・・なんと、そのペンギンが何百キロも泳いで男性に会いに来たというのです。以後も 毎年やってきたペンギンは、男性にだけ懐き、膝に乗って甘えてきます。そんな帰省は、「ペンギンの恩返し」として話題になっています。

これこそが ” 幸せの循環 ” ですね。お彼岸は恩を知り、感じ、報いる週間です。皆様の現状には 必ず原因があります。その ” 原因=恩 ” を知ると様々なことが好転してきます。どんな状況であれ 恩の歩みを止めなければ、必ずご加護があるのです。感謝の心を持って生きる人の方が、幸福感は大きくなります。合掌

ブラジルでは、野生動物をペットとして飼うことは、法律で禁止されています。

ブラジルでは、野生動物をペットとして飼うことは 法律で禁止されていますが、元レンガ職人、71歳のジョアン ・ペレイラ ・デ ・スザさんは、不定期に野生のマゼランペンギンと暮らされてます。

カテゴリー: 未分類 | 流れる水は腐らず はコメントを受け付けていません

一座建立

先日、リオ・オリンピックが閉幕しました。メダル獲得数が41個という大健闘の日本選手団でした。日本人は体格では外国に及びませんが、団結力では優秀な民族です。体操、卓球、リレー、シンクロ … 団体戦では無類の強さを発揮し、我々に喜びと感動を与えてくれました。

茶道の世界に「一座建立(いちざこんりゅう)」という言葉があります。これは千利休の教えで、主客に一体感を生ずるほど充実した茶会となることをいいます。個々の輝きも大切ですが、一つの象徴(主客)に向かって調和すれば、とてつもない力や 得も言われぬ悦びが湧き上がるのです。同じ幸福を得るにしても、個人の幸せを優先するか、主客への敬いを先に考えるのか … 日本人は 本来、後者の考えを持つ民族でした。

瀬戸内寂聴さんのお言葉です。
人間が生きてゆくには、もちろんお金が必要です。健康が必要です。地位もほしいし、高価なものもほしいでしょう。けれども、そうしたすべてのものを手に入れても、人に愛され、人を愛する心がなければ、人生は殺伐としたものになります。愛する人があって、自分が愛されている自覚が、生きることにはいちばん大切なうれしいことです。この気持ちがないならば、生きていてもほんとうにさびしい人生です。幸福になるためには、人から愛されるのがいちばんの近道です。そのためにはまず、自分が他人を愛さないといけません。よくがんばっているなと、他人をほめる。そして自分が幸せな気分になるのです。自分が他人を愛して幸せになったら、そのあなたを見て、必ず人が近づいてきます。するとその人も幸せになったり、自分ももっと幸せになる。幸せとは循環なのです。

お寺の法事も同じです。法要の「主客」は もちろん亡き人です。故人と参列者が 共々に感謝の心に包まれれば、その場は 幸福に満ちた空間になります。住職は亡き人の変わりとなり、その家がうまく進むための法話をし、お食事をご一緒し、個々の愚痴や苦言をお聞きし(笑)、お家の調和をはかります。日々、色々な不満はあると思いますが、その場は一旦置いて、共に悦ぶ時間を作るが法事です。そして、互いに悦んで頂いた姿をみて、自らもまた悦ぶ、だからまた悦んで頂こうと心を尽くす・・・この循環、連鎖を拡げていけば、必ず幸福へと繋がります。法要は、この ” 幸福の連鎖 ” の確認作業と言えます。

4年後の東京オリンピックの頃は、どんな日本になっているのでしょう。西願寺にご縁のあった方々には、この幸福の循環を味わっていただけるよう精進する所存です。合掌

キャプテンの乾友紀子さんは 近江八幡のご出身です。

シンクロ団体                   エースの乾友紀子さんは 近江八幡のご出身です。

カテゴリー: 未分類 | 一座建立 はコメントを受け付けていません

和魂洋才

お盆も佳境に入りました。今年は咳喘息を患い 体調不良のお盆でしたが、何とか乗り越えらそうです。皆様のお陰です。思えば 一人で盆詣りにデビューしたのが中学校1年生でしたので、あれから約30年が経ちます。

その間、明治、大正、昭和、平成と様々な方と接してきましたが、日本人の考えが変わってきていることを感じます。時代は ” 公 ” から ” 個 ” に急速に移り変わっています。その原因は、おそらく近代の日本人が 精神的な繋がり(自己犠牲による 助け合いの精神)を伝えることを軽視しすぎたことにあるのではないでしょうか。現代の若者は、過去から伝わる ” 公の精神 ” を語るだけで 猛烈なアレルギーを起こします。器を広げる(受け入れる)努力をせず、個人の楽しみに没頭する人が多くなった気がします。

あえて明治時代の方の手記を載せましょう(笑)。安珍清姫で有名な、和歌山県の道成寺管主・宏海老師の説法です。
頼みもしないのに親は勝手に生んだのだから養育の義務があり子にはそれをさせる権利こそあれ、親に対して孝行の義務はないなど口憚らず子供達に教えた教師が敗戦後にあったと確かにきいた・・・昭和20年10月米国の占領軍が民主化大改革を指令して以来、先ず学校では終身と歴史科を停止、続いて教育基本法・学校教育法公布、そして新憲法施行、日教組結成、刑法改定で不敬罪姦通罪を廃止し、民法改定で某国の嫌いな日本民族強固な基盤である家族制度を廃棄、親と子は別戸籍に分離せしめられたりでアレヨアレヨと言う間に敗戦の吾国世相は、革命的変化を来旨し、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ」の教育勅語で教育された明治人間には、愕きであり悲嘆でもあった。暫くして20数年、教育の欠陥は各方面に現れて、恐るべき社会現象を呈して来た。そして憲法改正の議さえ勃興、諸般を省みて今や修正を望む声が澎湃と湧き起こりつつある今こそ、取り戻さねばならぬもの多し。仏教伝持者の義務として特に道徳の復興、その根本は百行の基たる孝行精神の涵養こそ最大の急務であると考える。云々

日本には ” 和魂洋才(わこんようさい) ” という言葉があります。和魂洋才とは、日本古来の精神を大切にしつつ、西洋からの優れた学問・知識・技術などを摂取・活用し、両者を調和・発展させていくという意味の言葉です。明治時代以降、流入する西欧の文化や文物に対して、日本人がそれを受け入れる姿勢を表現したもので、つまり 知識や技術は受け入ても 日本人の心意気だけは守るという気概があったのです。この我慢が ” 粋 ” に通じます。お寺に集うものは、「七和三洋」というスローガンのもと、せめて我々のルーツである先祖(親孝行)は大切にしたいものです。合掌

親孝行

親孝行

カテゴリー: 未分類 | 和魂洋才 はコメントを受け付けていません

神仏仲良く

お盆の季節になりました。この一ヶ月は忙しい毎日が続きます。この時期になると、日本は本当に幸せな国だとつくづく感じます。世界はテロ行為に怯えていますが、日本では聞きません。お坊さんが盆詣りでスクーターに乗っていても 他宗教から襲われることはありませんし(笑)、檀家が墓参りをする際、他宗派から攻撃を受けることもありません(笑)。当たり前の話ですが、この何でもない幸せがあるのが日本だと思います。

それは 日本古来からの宗教観にあるのではないでしょうか。例えば 神社との関係。今は仏教と神道は別々に扱われていますが、明治政府が発足する前、日本は神仏習合といって 仏様と神様は同じ空間にありました。西願寺にも神棚は2つあり、薬師堂には役行者まで祀られています。昔は 同じ中にあったとしてもお互いを独立したものとして尊重し、寄り添う存在であったのです。また 御所には神社の他に仏間もあり、お坊さんになる天皇もいらっしゃいました。日本の場合、色々な所に神様が坐すという発想があり、また天皇も種々の宗教も認めておられたので、他国のような紛争はなく、国が統一する時は話し合いで国がまとまったという 世界でも珍しい国なのです。

青龍さんの言葉です。
「千年以上、習合されてきたのに、今では神仏分離になり、近年は必要とされなかったので仕方ないかもしれませんが、神主さんは仏教の事を知らない事が多く、お坊さんが神道の事を理解していない事が多いのが現状だと思います。個人的な願いですが、今後、夫婦がよりを戻すように、明治以前のような神仏習合する機会が増えれば、さらに日本という国は、柔軟性とおおらかさが増し世界から賞賛される平和な国になるのではないかと思います」

このお言葉通り、日本は幸せな国とはいえ、柔軟性やおおらかさ が利かない風潮があるのも事実です。これは日本人が 信仰というものを否定的見ていることも一因があると思います。「人間が一番偉いんだ!」と、宗教を机に向かった学問から入ると、価値観だけが暴走し 頭でっかちになるのです。そのため、意見の食い違いがおこり紛争に発展したりします。安易なことは言えませんが、今のテロ行為は こう言ったことが根源にあるのだと思います。信仰というものを、理論や効率性で片付けようとする社会ほど恐ろしいものはありません。現代こそ 日本文化の根源、仏教と神道を包み込む心・・・ ” 日本の幸福感(おおらかさ) ” が求められてる時代だと存じます。合掌

神道は、日本に古くからある民族宗教です。たくさんの神様がいらっしゃいますが、神道における最高神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)であるとの考えが一般的です。

祖先を敬愛し、自然を大切にし、すべての命に感謝する、それが神道の心と言われます。

インド発祥の仏教は、日本古来の祖先の霊を崇拝する習わしと深い結びつきを持って発展していきました。

インド発祥の仏教は 日本に輸入され、先祖の霊を崇拝する古来からの習わしと 結びつきを持って発展しました。 仏教は ” 感謝の心 ” に合わせて、   ” 教え(幸福への道)” が説かれます。

カテゴリー: 未分類 | 神仏仲良く はコメントを受け付けていません