流れる水は腐らず

お彼岸に入りました。多くの方が墓詣りをされてます。祖父母が墓参りの際、「受けた恩は石に刻み、与えた恩は水に流せ」と言って、墓掃除をしていた事を思い出します。仏教では、どんな小さなことにも必ず原因があると教えられます。自分が恵まれていることにも原因があり、その「原因を知る心」を「恩」といい、この幸せは ” 何のお陰か ” を知り(知恩)感じ(感恩)報いる(報恩)よう努めることが非常に大事だと説かれています。

植西聰氏のお言葉です。
「流れる水は腐らず」ということわざがあります。「流れる水」とは、「少しずつでも努力し、前進していくこと」を意味しています。とにかく結果が出なくても、思い通りにならなくても、少しずつでもいいから前進していくことが大切です。あせらずに努力を続けていくことです。そうしていれば「気持ちが腐ることはない」のです。気持ちを腐らせることなく、少しずつであっても前へ向かって進んでいけば、どこかで希望が見えてきます。いい結果に辿り着く一歩手前まで来ていることに気づく場合もあります。大切なことは、止まることなく、前へ向かって歩き続ける、ということです。そして、歩き続けていれば、どこかで目的地に到達できます。それを教えてくれるのが、この「水は腐らず」ということわざです。歩みを止めれば、気持ちがどんどん腐っていくばかりです。(『「水」のように生きる』 ダイヤモンド社)

「流れる水」のように、サラサラと執着を流し、受けた恩だけは忘れない人は素敵です。受けた恩は石に刻み、与えた恩は水に流せ・・・恩の教訓は日本だけの真理ではありません。地球の裏側(ブラジル)にも こんな話があります。5年前、漁村に暮らす ある年配の男性が、油まみれになった瀕死の野生ペンギンを見つけ、懸命に介抱しました。その甲斐あって元気になったペンギンは、やがて名残惜しそうに海に帰っていきます。” もう二度と会うことはないだろう ” と誰もが思っていた次の年・・・なんと、そのペンギンが何百キロも泳いで男性に会いに来たというのです。以後も 毎年やってきたペンギンは、男性にだけ懐き、膝に乗って甘えてきます。そんな帰省は、「ペンギンの恩返し」として話題になっています。

これこそが ” 幸せの循環 ” ですね。お彼岸は恩を知り、感じ、報いる週間です。皆様の現状には 必ず原因があります。その ” 原因=恩 ” を知ると様々なことが好転してきます。どんな状況であれ 恩の歩みを止めなければ、必ずご加護があるのです。感謝の心を持って生きる人の方が、幸福感は大きくなります。合掌

ブラジルでは、野生動物をペットとして飼うことは、法律で禁止されています。

ブラジルでは、野生動物をペットとして飼うことは 法律で禁止されていますが、元レンガ職人、71歳のジョアン ・ペレイラ ・デ ・スザさんは、不定期に野生のマゼランペンギンと暮らされてます。

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一座建立

先日、リオ・オリンピックが閉幕しました。メダル獲得数が41個という大健闘の日本選手団でした。日本人は体格では外国に及びませんが、団結力では優秀な民族です。体操、卓球、リレー、シンクロ … 団体戦では無類の強さを発揮し、我々に喜びと感動を与えてくれました。

茶道の世界に「一座建立(いちざこんりゅう)」という言葉があります。これは千利休の教えで、主客に一体感を生ずるほど充実した茶会となることをいいます。個々の輝きも大切ですが、一つの象徴(主客)に向かって調和すれば、とてつもない力や 得も言われぬ悦びが湧き上がるのです。同じ幸福を得るにしても、個人の幸せを優先するか、主客への敬いを先に考えるのか … 日本人は 本来、後者の考えを持つ民族でした。

瀬戸内寂聴さんのお言葉です。
人間が生きてゆくには、もちろんお金が必要です。健康が必要です。地位もほしいし、高価なものもほしいでしょう。けれども、そうしたすべてのものを手に入れても、人に愛され、人を愛する心がなければ、人生は殺伐としたものになります。愛する人があって、自分が愛されている自覚が、生きることにはいちばん大切なうれしいことです。この気持ちがないならば、生きていてもほんとうにさびしい人生です。幸福になるためには、人から愛されるのがいちばんの近道です。そのためにはまず、自分が他人を愛さないといけません。よくがんばっているなと、他人をほめる。そして自分が幸せな気分になるのです。自分が他人を愛して幸せになったら、そのあなたを見て、必ず人が近づいてきます。するとその人も幸せになったり、自分ももっと幸せになる。幸せとは循環なのです。

お寺の法事も同じです。法要の「主客」は もちろん亡き人です。故人と参列者が 共々に感謝の心に包まれれば、その場は 幸福に満ちた空間になります。住職は亡き人の変わりとなり、その家がうまく進むための法話をし、お食事をご一緒し、個々の愚痴や苦言をお聞きし(笑)、お家の調和をはかります。日々、色々な不満はあると思いますが、その場は一旦置いて、共に悦ぶ時間を作るが法事です。そして、互いに悦んで頂いた姿をみて、自らもまた悦ぶ、だからまた悦んで頂こうと心を尽くす・・・この循環、連鎖を拡げていけば、必ず幸福へと繋がります。法要は、この ” 幸福の連鎖 ” の確認作業と言えます。

4年後の東京オリンピックの頃は、どんな日本になっているのでしょう。西願寺にご縁のあった方々には、この幸福の循環を味わっていただけるよう精進する所存です。合掌

キャプテンの乾友紀子さんは 近江八幡のご出身です。

シンクロ団体                   エースの乾友紀子さんは 近江八幡のご出身です。

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和魂洋才

お盆も佳境に入りました。今年は咳喘息を患い 体調不良のお盆でしたが、何とか乗り越えらそうです。皆様のお陰です。思えば 一人で盆詣りにデビューしたのが中学校1年生でしたので、あれから約30年が経ちます。

その間、明治、大正、昭和、平成と様々な方と接してきましたが、日本人の考えが変わってきていることを感じます。時代は ” 公 ” から ” 個 ” に急速に移り変わっています。その原因は、おそらく近代の日本人が 精神的な繋がり(自己犠牲による 助け合いの精神)を伝えることを軽視しすぎたことにあるのではないでしょうか。現代の若者は、過去から伝わる ” 公の精神 ” を語るだけで 猛烈なアレルギーを起こします。器を広げる(受け入れる)努力をせず、個人の楽しみに没頭する人が多くなった気がします。

あえて明治時代の方の手記を載せましょう(笑)。安珍清姫で有名な、和歌山県の道成寺管主・宏海老師の説法です。
頼みもしないのに親は勝手に生んだのだから養育の義務があり子にはそれをさせる権利こそあれ、親に対して孝行の義務はないなど口憚らず子供達に教えた教師が敗戦後にあったと確かにきいた・・・昭和20年10月米国の占領軍が民主化大改革を指令して以来、先ず学校では終身と歴史科を停止、続いて教育基本法・学校教育法公布、そして新憲法施行、日教組結成、刑法改定で不敬罪姦通罪を廃止し、民法改定で某国の嫌いな日本民族強固な基盤である家族制度を廃棄、親と子は別戸籍に分離せしめられたりでアレヨアレヨと言う間に敗戦の吾国世相は、革命的変化を来旨し、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ」の教育勅語で教育された明治人間には、愕きであり悲嘆でもあった。暫くして20数年、教育の欠陥は各方面に現れて、恐るべき社会現象を呈して来た。そして憲法改正の議さえ勃興、諸般を省みて今や修正を望む声が澎湃と湧き起こりつつある今こそ、取り戻さねばならぬもの多し。仏教伝持者の義務として特に道徳の復興、その根本は百行の基たる孝行精神の涵養こそ最大の急務であると考える。云々

日本には ” 和魂洋才(わこんようさい) ” という言葉があります。和魂洋才とは、日本古来の精神を大切にしつつ、西洋からの優れた学問・知識・技術などを摂取・活用し、両者を調和・発展させていくという意味の言葉です。明治時代以降、流入する西欧の文化や文物に対して、日本人がそれを受け入れる姿勢を表現したもので、つまり 知識や技術は受け入ても 日本人の心意気だけは守るという気概があったのです。この我慢が ” 粋 ” に通じます。お寺に集うものは、「七和三洋」というスローガンのもと、せめて我々のルーツである先祖(親孝行)は大切にしたいものです。合掌

親孝行

親孝行

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神仏仲良く

お盆の季節になりました。この一ヶ月は忙しい毎日が続きます。この時期になると、日本は本当に幸せな国だとつくづく感じます。世界はテロ行為に怯えていますが、日本では聞きません。お坊さんが盆詣りでスクーターに乗っていても 他宗教から襲われることはありませんし(笑)、檀家が墓参りをする際、他宗派から攻撃を受けることもありません(笑)。当たり前の話ですが、この何でもない幸せがあるのが日本だと思います。

それは 日本古来からの宗教観にあるのではないでしょうか。例えば 神社との関係。今は仏教と神道は別々に扱われていますが、明治政府が発足する前、日本は神仏習合といって 仏様と神様は同じ空間にありました。西願寺にも神棚は2つあり、薬師堂には役行者まで祀られています。昔は 同じ中にあったとしてもお互いを独立したものとして尊重し、寄り添う存在であったのです。また 御所には神社の他に仏間もあり、お坊さんになる天皇もいらっしゃいました。日本の場合、色々な所に神様が坐すという発想があり、また天皇も種々の宗教も認めておられたので、他国のような紛争はなく、国が統一する時は話し合いで国がまとまったという 世界でも珍しい国なのです。

青龍さんの言葉です。
「千年以上、習合されてきたのに、今では神仏分離になり、近年は必要とされなかったので仕方ないかもしれませんが、神主さんは仏教の事を知らない事が多く、お坊さんが神道の事を理解していない事が多いのが現状だと思います。個人的な願いですが、今後、夫婦がよりを戻すように、明治以前のような神仏習合する機会が増えれば、さらに日本という国は、柔軟性とおおらかさが増し世界から賞賛される平和な国になるのではないかと思います」

このお言葉通り、日本は幸せな国とはいえ、柔軟性やおおらかさ が利かない風潮があるのも事実です。これは日本人が 信仰というものを否定的見ていることも一因があると思います。「人間が一番偉いんだ!」と、宗教を机に向かった学問から入ると、価値観だけが暴走し 頭でっかちになるのです。そのため、意見の食い違いがおこり紛争に発展したりします。安易なことは言えませんが、今のテロ行為は こう言ったことが根源にあるのだと思います。信仰というものを、理論や効率性で片付けようとする社会ほど恐ろしいものはありません。現代こそ 日本文化の根源、仏教と神道を包み込む心・・・ ” 日本の幸福感(おおらかさ) ” が求められてる時代だと存じます。合掌

神道は、日本に古くからある民族宗教です。たくさんの神様がいらっしゃいますが、神道における最高神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)であるとの考えが一般的です。

祖先を敬愛し、自然を大切にし、すべての命に感謝する、それが神道の心と言われます。

インド発祥の仏教は、日本古来の祖先の霊を崇拝する習わしと深い結びつきを持って発展していきました。

インド発祥の仏教は 日本に輸入され、先祖の霊を崇拝する古来からの習わしと 結びつきを持って発展しました。 仏教は ” 感謝の心 ” に合わせて、   ” 教え(幸福への道)” が説かれます。

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ダブル損の幸福

今月26日で鴨長明(かものちょうめい)没 800年になります。彼が綴った「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず 」から始まる『方丈記』は、河の流れと 仏教の ” 諸行無常 ” を重ね合わせた随筆で、清少納言の『枕草子』、吉田兼好『徒然草』と並び、日本三大随筆にあげられます。『方丈記』では 戦乱が続き、天災や火災、人災も多かった当時の出来事が ありのままに描かれています。軽妙洒脱な長明に憧れる私は、東日本大震災を機に 平成の世で起きたことを仏教的に記せればと思い、このブログ(『平成方丈記』)を立ち上げました。

月に2回、綴って4年半・・・800年前も現代も ” 諸行無常 ” という観点からすれば、人間の悩みは 根本的に変わらないことがわかりました。人間世界は「娑婆(しゃば)」と言って「耐え忍ぶ = シャバ」世界です。そんな中、お釈迦さまは「いつでも、どんなことがあっても、心が穏やかでいられる境地を目指したい人、集まれ~!」と仏教をお開きになりました。娑婆は極楽と違い、諸行無常という中で生きねばならないハンデを背負っています。つまり 人間界は1つ損をしている世界ですが、そんな中で幸福を得るために説かれている修行が、” 陰徳 ” (ひそかに行う善行・良い意味での自己満足)です。

渡辺 和子さんの言葉を お借りしましょう。
「貰えるはずのものが貰えなかっただけでも「損した」と思うのに、こちらが与えるなんて、これでは、『ダブルの損』だと、私は思ったのである。ところが、やがて気づかされたのは、ダブルに損をすると、『得になる』ということだった。シングルの損だけにしておくと残るのは、腹立たしさや口惜しさだけであり、折りあらば仕返しをと考える自分だけである。ところが思い切ってダブルに損をすると、そこには、ほめてやりたい自分が残り「よかった」という満足感が残るから不思議だ」(『目に見えないけれど大切なもの』 PHP研究所)

つまり 鴨長明のように 、諸行無常の真理と照らし合わせ、” 自己満足の範囲で、自分が誇りに思えることを行えば幸福になれる ” のではないでしょうか。見返りを求めることを捨て、思い切って ダブル損をする所から始めてみましょう!それが陰徳の修行であり、満足度のある生き方に繋がります。合掌

鴨長明は出家をし、琵琶の名手でもありました。

鴨長明は晩年 出家をし、琵琶の          名手でもありました。

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信頼

平成28年も折り返しとなりました。上半期を振り返ると、私は ” 諸行無常 ” という言葉が思い浮かびます。人で言えば イメージの無常があります。例えば 清原選手、ベッキーさん、乙武さん、ファンモンの加藤さん、桝添都知事・・・あれほど好感度があり 輝いていた方が、一瞬にして色あせてしまう・・・この移り変わりは マスコミが作った幻想に過ぎませんが、諸行無常といえば諸行無常です(笑)。また熊本地震での 熊本城の 悲惨な姿、イギリスのEU離脱問題での世界の動揺などを目の当たりにしますと、 何が起きてもおかしくない世界だと見せつけられた上半期でした。

” 諸行無常 ” は、移り変わりを静かに受け入れ、それを前向きに転ずる術を身につける思想です。しかし最近は、無常を ” 刺激 ” として捉える世論があるのが心配です。大きな変化で幸せになれるのでは … 他人が不幸になれば幸せになれるのでは … 自らを省みることなしに、偏った原因(あら)捜しや 個人批判が横行してる状況を見ていると 気分が悪くなります。皆が未熟な人間社会で、反省する者を受け入れ、互いが信頼し合い 生長していくことが 本当の修行であり、幸福への道だと存じます。

岩井 俊憲氏のお言葉を引用します。
信頼の反対の不信はどんなところからうまれるのでしょうか。多くの場合は、相手の実力に対し、高すぎるハードルを設定し、高い立場からのギャップ、未達成の部分を見る姿勢から始まります。親や教師や上司は、子供、生徒、部下に比べて知識や経験が豊富です。すると、その立場からものを見るわけですから、どうしても相手を低くしか見えません。不信感を持つ場合のメッセージにはある種の特徴があります。「タラ」「レバ」を使うことです。「あの子がもう少し素直だっタラいいのに」「整理整頓をしっかりやレバいいのに」「タラ」「レバ」を卒業しない限り、信頼は不可能ですし、そのようにみている自分の精神的な安定もありません。信頼することは、相手ばかりだけでなく、自分自身のためにも必要なのです。(『勇気づけの心理学』金子書房)

政治がよかっタラ … あのことがなけレバ … 一見、真っ当なことを言ってるようですが、他人への不信感が、かえって自分自身(信頼)を傷付けている・・・まさしく仏教の因果応報の教えです。日本人は仏教思想と共に生きてきた民族で、それが 諸行無常の自然災害がおきても、混乱や略奪を避け、忍耐強く、他人を思いやる日本人の気質にあらわれていると存じます。世界でも有数の優れた民族で、まだまだ捨てたものではありません。仏法真理にのっとって、相手を受けいれ 信頼し、コツコツと精進していける社会になるよう 布教活動をしていきます。宜しくお願いします。合掌

『結晶物語』(サンマーク文庫)では、水の結晶を様々な実験により写真で紹介されています。この水はおぞましい姿で、結晶は見られません。

『結晶物語』(サンマーク文庫)では、水の結晶写真を 様々な実験をして紹介されています。これは ある湖水の拡大画像。おぞましい姿で結晶は見られません。

その水を祈祷すると結晶ができ、大日如来の姿があられました。人が寄せる思いの大切さを学ばされます。

同じ水を祈祷すると結晶ができ、仏の姿があられました。人が寄せる信頼、思いの大切さを学ばされます。月参りをされているお家の雰囲気が良いのが うなずけます。悪い気も諸行無常 … 良き方向に変わるのです。

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ケタ違いの努力

先日、京都近代美術館へ「ポール・スミス展」に行ってきました。ポールスミスは、イギリス出身のファッションデザイナーで、また彼の持つファッションブランドです。“ ひねりのあるクラシック ” をスローガンとする このブランドは、伝統的な技術、仕立てと遊び心が共存していて人々を魅了します。

ひねりをきかせたクラッシック・・・この発想が大好きです。

ひねりのあるクラッシック・・この発想が大好きです。

ポール・スミスは、少年時代に自転車競技のレーサーを目指していましたが、不慮の事故により挫折します。失意の中、彼はパブによく通うようになりました。パブにはその頃、アートスクールの生徒たちがたくさん通っており、その影響を受け、アートの世界に興味を持ち始めます。新しい進路を見出した彼は、あらゆる依頼に懸命に応え、努力をし、今の立場に成ったと紹介されていました。

生活経済評論家の川北義則氏のお言葉です。
2倍、3倍の努力では結果は知れている。だが、ケタの違う努力をすれば、才能のあるなしなんかに関係なく、何かが確実に得られるというのだ。私たちは何かを始めようとしても、すぐに「もう遅い」とか「才能がない」といった言い方をする。実際、やってみてもなかなか進歩しない。それであきらめてしまうことが多いわけだが、ここに1つ、「ケタ違いの努力」という妙法があったのだ。この方法のポイントは「何も考えない」ことにある。「できるか?」といった疑問を一切さしはさまない。ひたすら最低、人の10倍の努力をするのだ。なまじ先の見通しを持つと、疑念や雑念、無力感、怠け心が、生まれてきて、やる気がうせる。この落とし穴に落ちていることが多いのではないか。何かでプロの域に達した人間は、人の10倍くらいの努力は朝飯前にしているものなのだ。あなたは「これだけは人の10倍は間違いなくやった」といえるものがどれだけあるだろうか。そういえるものは、きっと「モノになっている」はずである。(『人生、だから面白い』PHP研究所)

人は 大きな挫折の末、自分の可能性を見定め、適職を見つけていくのかもしれません。さらにケタ違いの努力をした人が、世に名を残すのだと思います。先の見通しは誰もわかりません。挫折を経験した事がある人は、” 一寸先は闇 ” 、” 諸行無常の理 ” を腑に落としておられるので怖いものはありません。そう考えると、人生、時には常識にとらわれず、がむしゃらな時期が必要なのかもしれません。私も琵琶説教師になったのは、大病をして生死の狭間を越えたところからでした。努力と聞くと 辛いイメージがありますが、人の10倍やる時というのは、ケタ違いの結果がでるはずです。そう考えると、ワクワク楽しんで 物事を取り組めるものと存じます。合掌

ポール・スミスの代名詞、なが~いストライプのデザイン・・今回も福をいただきました!

ポール・スミスの代名詞、なが~いストライプの    デザイン・・・今回も厄除福をいただきました!

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なが~い歯のゲタ

一本歯下駄はご存じでしょうか。ここ数年、この高下駄を愛用しています。平安時代より、修験者が山中を行くときに履いていたといわれ、通称・天狗下駄ともいいます。

愛用の一本歯下駄

愛用の一本歯下駄

現代は健康志向で 様々なトレーニング機器がありますが、文化的なもので 体感やボディバランスが鍛えられるものを探した末、この下駄にたどり着きました。お陰で 徒競走が苦手な息子達も、一本歯で寺の境内を走り回り、運動会で1位がとれました。またリハビリ機器の側面もあり、腰痛や膝痛にも効果があるようです。一本歯は 常に重心が不安定で、体重の負荷が一カ所に集中できにくくなります。つまり負荷は他の部位に分散しますので、腰や膝への負荷は軽くなるのです。さらに体重が減り、足のO脚も改善され、何より姿勢が良くなります。和文化は凄いですね。楽しみながら鍛えられるのは嬉しいです。

普通の下駄と比べ、歯の長さが倍ほどあります。

普通の下駄と比べ、歯の長さが倍ほどあります。

教育者・上原春男氏のお言葉です。
車のハンドルには「あそび」が不可欠です。あそびがないと「余裕」がありません。余裕がないと「危険」です。このように「安全なもの」「丈夫なもの」には、かならずあそびというすき間が用意されているものです。すき間やあそびが、力を吸収したり、逃すクッションの役目を果たしてくれるわけです。つまり「力を抜く」仕組みがないものはもろいです。本当に強いものは柔軟である。真に頑丈なものは柔らかい部分をもっているといえましょう。このことは人間にも当てはまることです。 (『「抜く」技術』 サンマーク出版)

一本歯下駄は楽しいですが、慣れるまで努力がいります。そんなものを履く意味がわからない…と笑われます。しかし、この遊び心が必要だと思うのです。何でも合理性や理由が求められる今、無駄に見える物が一転、とても価値があることに気付く瞬間があります。あそび、余裕、余白、柔軟性・・・大切です。力を抜いて生きていくことが、真なる力強さにつながるのではないでしょうか。合掌

重心線をキープしながら、バランスを取って体のバランストレーニングに最適です。

重心線をキープしながら、バランスを取って     体のバランストレーニングに最適です。

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なが~いお付き合い

今年も東京の寺院で琵琶説教を勤めてきました。この時期、何度も登場する生年月日が同じ副住職のお寺です。毎年、一年の報告をしつつ 食事をするのが楽しみです。彼は この4月で 全国浄土宗青年会の理事長に就任しました。43才までの浄土宗侶の先頭に立つ役目です。これはなりたくてもなれるものではありません。人望、根回し、タイミング … 様々な仏縁で拝命されたことは 凄いことです。貫禄が出てきて、存在感があり、環境を調えてくれる檀家の団結がある・・・私には そんな人徳はありません(苦笑)。羨ましさというより、ただただ 同じ年月を生きてきた彼の活躍が 眩しく思えました。

会食は奥様も同席してくれました。本音をズバッという気持ちいい女性です。そんな彼女が、私達の会話を一通り聞いて 一言・・・「主人の立場は金森さんには似合わない。あなたは 寺世界での出世より、一般人を導く存在だと思うわ。これまで通り、坊さんらしさを貫いてネ!」・・・なるほど、色々な目標があっても分相応。シンプルに似合う似合わないで判断する ・・・そうすれば煩悩も整理できそうな気がします。内助の功ですねぇ。ここは羨ましく思います(笑)。

野坂礼子さんの言葉です。
自分を変えるということは、今の自分をゴミ箱に捨て、新しい自分をゲットすることではありません。スミレはスミレだからこそ、可憐ですてきなのです。タンポポは黄色の花で綿毛のような種が見事です。タンポポが「雑草は嫌、花屋で高く売れるバラがいい」といって、真っ赤なお化粧を始めたら、美しいでしょうか。スミレが、高い値段のランの花を真似して突っ張って生きたらどうでしょうか。花たちは比べないし、うらやまない、淡々とユリはユリ、サクラはサクラのまま生きています。天命を生きているからです。今のままの自分です。根っこ、つまり生き方を変えるということです。すると見事なバラやスミレ、サクラが咲き、種が実るのです。そのことが、あなたがあなたらしく幸せになる道です。どんな花もすてきです。あなたは、スミレ、ナズナ、カサブランカですか?その自分の個性を「ありがとう」で生かし天命を生きましょう。(『世界一簡単に幸せになれる「ありがとう」の魔法』マキノ出版)

” 自分らしく ” というのは、聞こえはいいですが大変です。責任を伴うからです。しかし 与えられた環境、白鳥の水かきのように 水面下では必死にもがきつつ、顔は平然と進んでいくしかありません。それが粋なんだと思います。表面にあらわれる現象しか見れず、嫉妬や悪口、無責任発言やトンチンカンな批判をする輩が蠢く中、水面下(自分らしさ)を共有できるのは至福の時でした。これも仏教を礎にして、長い付き合いの中でなされた信頼関係だと思います。合掌

副住職はいつも良いホテルを布施してくれます。高層から見ると景色が綺麗です。地上におりるとゴミゴミしたところが目に付きます。悟りとはこのような高い静かな境地なんだろうなぁ・・・と瞑想にふけました。

副住職はいつも良いホテルを布施してくれます。   高層から見ると景色が綺麗です。地上におりるとゴミゴミしたところが目に付きます。悟りとはこのような高く静かな境地なんだろうなぁ・・・と瞑想にふけました。

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なが~い歴史のある法要

先月後半の1週間は、山口県へ琵琶説教に行ってきました。合計10回の長席。ご住職や法類さま、若い僧侶、裏方の皆様がお世話をして下さり、無事に勤めることができました。控えの間では 私の一挙手一投足に気遣いを頂戴し、こんな王様気分は 後にも先にもないかもしれません(笑)。おかげで体調も万全。最終席は、聴衆の皆様に大きな拍手で見送られ、次回へのアンコールまで頂きました。法要は 心で味わうものですので、説教での拍手は本来ありません。しかし、みんなの力で成し遂げた法要です。おもいを形で表して下さるのも良いものでした。

今回は2ヶ寺での説教でしたが、後の5日間お世話になった御寺院は 210年の歴史のある法要でした。画像を見れますでしょうか。本堂の前には大きな角塔婆が建立されています。

本堂の屋根にも届きそうな角塔婆。子供たちと比べると、その大きさがよくわかります。

本堂の屋根にも届きそうな角塔婆。子供たちと    比べると、その大きさがよくわかります。

法要中の塔婆回向の様子。僧侶や役員が総出で 塔婆をまわしておられます。

塔婆の大きさに、檀信徒さまの先祖をおもう気持ちが込められています。

塔婆の大きさに、檀信徒の先祖を          おもう気持ちが込められています。

その他にも お稚児さん、二十五菩薩お練り、露店等で賑わい、盛大な法要でした。

斎藤 茂太氏のお言葉です。
人もお酒もゆっくり熟成する、「一夜漬け」はそれだけのもの。「早く、早く」と急いでばかりいては、ゆったりとした豊かな人間は育たない。人は菜っぱや豆とはちがって、なかなか促成栽培というわけにはいかない。最初はたっぷりと時間を与えよう。効率や早い結果を望む気持ちは誰しもあり、それがわからないわけではないが、本当によい結果を生むのは、あまり焦らぬこと、急がぬことだと思う。(『「ゆっくり力」ですべてがうまくいく』新講社)

この法要も一日にして成らずです。210年の歴史で 様々な変遷を経て、今の形に成ったと思うと感慨深いものがあります。世知辛い現代社会ですが、将来を考えるならば、効率を求めるより効果(信頼や満足)を1つづつ作っていくことが大切だと学びました。長い歴史ある法要、長い塔婆の回向、長席の説教・・・またまた長いものつながりで、福をいただいた気がします(笑)。皆々様、本当にお世話になりました。合掌

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