チャンス

先週は琵琶説教で、様々な寺院を回らせていただきました。山口県で3ヶ寺、和歌山県、福井県と 移動続きの5日間で、8席の布教でした。各お寺さまには あたたかいお心遣いを頂いたこと、心より御礼申し上げます。

ただ今回は 1カ所での説教ではありませんので、毎日が初対面の方々となります。その場の雰囲気をつかむのにすごいエネルギーを使い、口の中がカラカラになりました。また 説教の時だけではありません。お給仕の際も、各所で真剣な質問をして下さるのです。一番多かったのは、琵琶を説教に取り入れようとした理由。つまり、” 新しいことを成す秘訣 ” をよく聞かれました。色々な談話をしましたが、最終的に「今、持ってる自分をどう活かすか」が大切だと、互いの結論に至りました。本当に有意義な布教の旅でした。

作家の中谷 彰宏氏は、こう述べてらっしゃいます。「どうしたらチャンスを手に入れることができますか」と質問する人は、いつも「今度チャンスが来たら」と考えています。頭の中は、常に次のチャンスの方を見ているのです。今、目の前や手の中にあるチャンスもあります。「どうしたら次のチャンスを手に入れることができますか」ではなく、大切なのは、今、持っているチャンスをどう活かすかです。「次をどうしたらいいですか」と言う人は、いざという時、目の前に来たチャンスを活かせません。目の前を全然見ないで、次ばかりを見ているからです。今している仕事があるなら、今の仕事でつかむチャンスを考えることです。仕事が変われば別のチャンスがつかめるとは考えないことです。今、関わっていることでチャンスを活かす方法を考えればいいのです。(『 チャンスは目の前にある 』ベストセラーズ)

その通りだと思います。特に僧侶が 一般の方の需要にお答えできるとすれば、” 真心 ” しかないと思うのです。それを勘違いして、新しいものを取り入れることばかりを考えているのは 本末転倒です。私自身、つかみ損なったチャンスは山ほどあります。しかし、今できることを懸命にしているだけで、それ以上でもそれ以下でもないと思っています。巷では自己啓発本が出まわっていますが、魔法のような解決法はありません。最終的には、「今、持ってる自分をどう活かすか」「脚下照顧」に帰結するものと存じます。合掌

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根気と決意

現在、NHK連続ドラマ小説で「マッサン」が、好評 放映中です。毎朝、楽しみにされている方も多いのではないでしょうか。日本でのウイスキー作りに生涯を捧げたマッサンこと亀山政春と 妻 エリーの二人三脚の物語で、ふたりは 行く手にどんな困難が立ちふさがろうとも決して諦めることなく、ひたむきに夢を追い続けます。大正時代には珍しい国際結婚で、価値観が異なる若夫婦が ” 根気と決意 ” で歩んでいく姿に胸を打ちます。

平成の若者とは対照的です。近年は 大学を卒業して 会社に就職した三分の一が、3年以内に会社を辞めているという調査結果があります。やむを得ない事情で辞める人、起業や独立、希望する転職先からの引き抜きなど、理由は様々だと思いますが、三分の一(十数万人)という数の多さは、若者の「打たれ弱さ」や「根気のなさ」を表しているのでは?!という声もあります。

” 青い鳥症候群 ” という言葉はご存じでしょうか。これは「自分が心から満足できる職場が他にあるはず」「自分の能力や才能を最大限に発揮できる仕事が他にあるはず」と、理想の仕事を求めて転職をくり返す人の心理状態を言いいます。メーテルリンクの童話『 青い鳥 』の中に出てくるチルチルとミチルが、自宅で飼っている鳥には目もくれず、幸福の青い鳥を外に探し求め 追い続けたように  ” 青い鳥症候群 ” の人は、まだ出会っていない仕事の中に、見果てぬ理想を追い続けるのだそうです。

アメリカのジャック・フォスター氏は、『 アイデアのヒント 』(阪急コミュニケーションズ)に次のように述べられています。「 肝心なのは「 根気 」だ。才能じゃない。才能があって成功しない人はうようよいる。金じゃない。金持ちに生まれて、貧しいなかで死ぬ人はたくさんいる。天才じゃない。天才が報われないのは、ほとんど常識だ。教育じゃない。世の中には学のある落伍者があふれている。運じゃない。運命の気まぐれは何人もの王の命を奪ってきた。根気と決意だけがすべての道を拓く 」

もちろん、才能や財産、教育や運も大切ですが、幸福は外からやってくるものではありません。なぜなら外の世界は、己の内から現れる現象に過ぎないからです。まず、内面から湧き出る ” 根気と決意 ” ・・・ここからすべてが始まるのです。「 幸せの青い鳥 は、心の中に住んでいるんだよ。頑張れ! 」こんなことを思いながら、これからもマッサンとエリーを応援していきたいと思います。合掌

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青年と老人の違い

先日、浄土宗・滋賀教区 青年会会長より、青年僧に向けての講演を頼まれました。会長は修行時代の同期で、共に30代最後の年となります。「お互い そんな立場の年齢になるのか・・・」と昔話に花咲きました。 浄土宗では 宗祖・法然上人が43歳で南無阿弥陀仏をお悟りになったことから、その年までが青年僧と呼ばれます。

考えてみれば、一般社会には 青年と老人の境目が明確ではありません。もちろん 会社の定年や、社会保障のために区切ることはありますが、人間として分けるのは不可能です。還暦の方にお年寄り。75歳の方に後期高齢者とは とても言えません(笑)。ある言葉を見付けました。 「 青年と老人の違いは年齢ではない。見つめる方向(目的)によって青年か老人かが決まる。すなわち、将来に希望を抱く者、前を向いて生きる者が青年であり、過去の栄光を引きずって生きる者、後ろを向いて生きる者を老人という 」

前回のブログと合致します。年齢による 体の老いは 仕方ありませんが、 ” 目的意識 ” を持って 心 は充実したいものです。そのために ” 出会いを大切にせよ ” と申しましたが、最高の縁は ” 仏縁 ” です。仏教との出会いによって ” 人生の目的 ” が教えられるのです。生の目的とは ” 後生の一大事 ” を知ること。つまり、死後の行き先(救われ方)を明確にすることです。これさえ腑に落とせば、自らに降りかかる 様々な苦難災難に翻弄されることはありません。なぜなら この世の地位や名誉、財産に関係なく、最期は必ず救われるからです。その ” 目的 ” を持って生きることが信仰です。

若年でも人生の目的を求めていない者は、もはや ” 老人 ” です。なぜなら、いずれ迎える死を顧みない 後ろ向きの人生 だからです。やはり真理は 若いうちから味わい、ブルー(青年)やシルバー(老人)を超越した、ゴールド(仏)の境地になりたいものです。極楽に生まれた者は、人生で最も輝いていた頃(人生の目的を悟った頃)の姿になるともいいます・・・そう考えると 皆さん、真理獲得は 急いだ方がいいのです。仏教を取りますか? アンチエージングをとりますか? 早くに 人生の目的を悟れば、 ” 永遠の若大将(美女) ” でいられますよ(笑)。合掌

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目的意識

” 暑さ寒さも彼岸まで ” というように、過ごしやすい気候になってきました。これからの行楽シーズンには 様々な行事があり、僧侶は休む間もなく、布教活動に明け暮れます。周りは 過密なスケジュール を心配して下さいますが、私は ” 目的 ” を鮮明にして、前へ進むように心がけています。

こんな話があります。動物園の動物とサーカスの動物を比較すると、サーカスの動物の方が強くて 長生きするそうです。サーカスの動物は、より強いストレスを受けているわけですが、そのストレスはマイナスではなく、プラスに作用しているというのです。つまり、サーカスの動物は ” 目的 ” を与えられています。人間によって与えられた ” 目的 ” であるにせよ、目的を持つことによってストレスに耐えることができ、それが強くて長生きする原因になっているというのです。

たとえば、厳しい寒さの中に滝に打たれたり、水をかぶって行をしたりする修行がありますが、進んで修行する人にとっては、それが心身の鍛練となります。しかし、イヤイヤ 滝に入ったりしたら、とたんに風邪をひいてしまいます。一般社会でも同じです。目的を持っていれば、辛いことも、先輩のお叱りもプラスになります。

現代は「 ストレス = 悪 」 という言葉が蔓延していますが、それが逃げ控除になっていては、すべてがマイナスに働いてしまいます。何事も ” させていただく ” という意識が、ストレスをプラスに転ずるのです。まず 与えられた出会いに感謝しましょう。それが立派な ” 目的意識 ” となるのです。引きこもるのではなく、一歩 踏み出す勇気あれば 意外となんとかなるものです。昔、アグレッシブな先輩が「 病気は仕事をしながら治す !」 と仰ってましたが、目的意識 があれば これぐらいの大胆さがあっていいのかもしれません(笑)合掌

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憧れの師

今月4日、琵琶をご指導いただいてた先生が往生されました。所属の師匠ではなく、個人的にお願いしていたお方です。10年程前、琵琶の方向性に悩んでいた私は、先生の『耳なし芳一』のテープに感銘を受け、居ても立ってもおられず稽古場に押しかけたのが出逢いでした。所属の関係で 稽古は断り続けられましたが、連絡を取り合ううちに 心やすくなり、昨年8月から丸一年、ご指導いただけるようになったのです。先生は86才の女性でしたので、10年越しの恋愛成就といったところでしょうか(笑)。

一年前にお電話で、「 残された時間、私に教えられるものは教えておきたいんや」と、先生の方からご連絡をいただいたのです。まさかのお誘いに、職場から高速道路を使って2時間の長距離を喜んで向ったことを 昨日のように覚えています。一年間続けられたのは、芸もさることながら、聡明な、気品のある人間像に惹かれた部分も大きかったと思います。最後に伺ったのは7月31日。いつもと変わらない熱心な稽古でした。「 来月はお盆の行事があり、後半に伺えれば・・・ 」と日にちを決めず失礼しましたが、疲れもあり8月は休んでしまいました。そして、8月31日晩に 次回の稽古の約束をしたのが最期の会話で、翌日9月1日晩にお倒れになり 往生されたのです。今思えば、8月の稽古を休んだのが とても悔やまれます。

書家の 相田みつを氏が、次のような お言葉を述べてらっしゃいす。                                     「そのうち お金がたまったら そのうち 家でも建てたら そのうち 子供が手を放れたら                         そのうち 仕事が落ちついたら そのうち 時間のゆとりができたら そのうち・・・そのうち・・・そのうち・・・と できない理由を くりかしているうちに 結局は何もやらなかった 空しい人生の幕がおりて 頭の上に 淋しい墓標が立つ そのうちそのうち 日が暮れる いまきたこの道かえれない」

このお言葉が身に染みます。人は、そのうち・・・そのうち・・・そのうち・・・と「 できない理由 」をさがして怠惰の方向へ行きがちですが、まず「 できる可能性 」をさがすことが大切ではないでしょうか。今回のご縁は「 できる可能性 」を必死にさがした結果が、この一年に繋がったんだと確信します。急なお隠れで、今も心にポッカリ穴があいてますが、幸い 次の稽古を約束してのお別れでした。これには きっと意味があるはずです。次に逢うまでの課題を与えられたのだと思います。私の人生もいつまで続くかわかりませんが、もう「 できない理由 」を雄弁に語っている暇はありません。もっともっともっと研鑽を積んで、来世の極楽では「よう、稽古しゃはったな」と微笑んでいただけるよう精進します。先生は 私の ” 憧れの師 ” でした。ご指導いただいたことを噛みしめ、先生に少しでも近づけるように頑張ります。南無阿弥陀仏

 

本日、先生の中陰棚に お詣りすることができました。胸のつかえが取れた気持ちです。極楽浄土での再会をお約束しました。また会える・・・やはり、お念仏の教えはありがたいものです。

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人を引き寄せる力

先日、西願寺で地蔵盆を勤めました。今年は おつとめ・法話の後に、大道芸をされる方をお招きして披露いただきました。若い方でしたが、汗をかきながら懸命にされるお姿に、子供たちは目を輝かせていました。やはり、生の緊張感や息づかい、そして迫力。これが人を惹きつける醍醐味ではないでしょうか。

それは 大勢の子供たちが遊んでいる風景を観察していれば わかります。その中に、人を引き寄せる子が 必ず現れるのです。それはどんな子かというと・・・ ” 楽しそうに遊んでいる子 ”、” 夢中になって遊んでいる子 ”、” 思いっきり本気で遊んでいる子 ”です。本気で楽しんでる人の周りには、楽しくさせてくれそうな気配があります。その空気を、子供たちは敏感に感じとっているのだと思います。

最近は、どの地域も 地蔵盆に子供が集まらないと聞きます。その要因の一つに、地蔵盆 本来の精神をなくしていることがあげられると思います。見守り下さるお地蔵さまに感謝を捧げるのがこの行事で、それを ただのお楽しみ会 にしてしまうから、大人も子供も戸惑うのではないでしょうか。要は 本質をどれだけ 本気で楽しめるかです。「子供には難しいことはわからない。面白いことをすれば喜ぶだろう」という安易な発想では、心は通いません。現代の人間観は、人の幸不幸は ” 体の外 ” から来るものと信じられますが、仏教では ” 心の中 ” にあると断言します。” 人を引き寄せる力 ” で申すならば、本気で楽しむ心 が 大事になってくるのです。

現代は、世代を超えて 集まる環境が少なくなりました。このような時代だからこそ、地蔵盆という行事が  ” 心の教え ” を真剣に語れる場になることを願います。インターネットや本等の 好きなものを選んで得る知識 では、成長や感動の幅が少ないのではないでしょうか。やはり、人と腹を割って話すことが大切です。お寺には利害関係がありません。参拝の老若男女が、夢中に、本気で、楽しく真理を話せる空気が、西願寺に醸し出せるようになるのが住職の夢です。合掌

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根なき花

今月はお盆の月で、多くのお宅にお参りさせていただきました。私の心構えは、自分自身が先祖になったつもりで伺うようにしています。お家の雰囲気は様々です。ほとんどのお宅は居心地よくして下さいますが、正直「ここには帰りたくないなぁ・・・」と思う家があるのも事実です。お迎えをするお経を唱える身でも、ご先祖さまの心を察してしまいます(汗)。

ある英霊を祀ったお宅にお参りした時のこと。玄関先で ご主人が車を洗っておられてました。しかし、私に目もくれず洗車を続けられるのです。結局、たった5分のお参りにも手を合わすことなく、数台の高級車に向き合っておられました。おそらく裕福なお宅でしょうが、あまりの心の貧しさに哀れになってきました。この家を守るため 戦場に出られたご先祖様はどんな思いで、この子孫を見ておられるのでしょうか。

法然上人の師匠である善導大師は、人生について こうお説き下さいます。               「人は生きている時に 精進しなければ、たとえてみるならば、植木に根がないようなものだ。花をとって日中に置いても、根がなくて養分を吸うことができなければ、どれだけの間、あざやかに咲いていることがでいるだろうか。人の命ももそのようなものだ。無常の、ほんのつかの間だ。もろもろの仏教徒に勧める。精進して、どうか速やかに真実に至りたまえ。そして真実の仏法に根を張って、本当に美しく咲き続ける命を生きなさい」(「日中無常偈」)

先祖を思うことができない人は、” 根なき花 ” と同じです。いくら 有意義な人生(花)を咲かせてるように見えても、その  命の根源 (根) に感謝できないのならば、真実の幸福は望めません。見せかけの繁栄は すぐに枯れ果てることでしょう。仏法に根を張ることができた私は、本当に幸せ者だと この時期 しみじみ感じます。合掌

 

咲いた花見て 喜ぶならば 咲かせた根元の 恩を知れ

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人間の五衰

前回のブログで「木の五衰」から因果応報の過程を記しました。今回は「人間の五衰」について、安岡正篤 氏の言葉から学びたいと思います。

「 人間もそうだ。いろいろの欲ばかり出して、すなわち貪欲・多欲になって修養しない。  つまり ” 省 ” しない。そうすると風通しが悪くなる。

つまり心理や教えが耳に入らなくなる。                                                                                            善語・善言を聞くということをしなくなる(「懐(ふところ)の蒸れ」)。
そうすると「裾(すそ)上がり」といって(理性や謙虚さを失い)、
人間がオッチョコチョイになってくる(「末(うら)枯れ」)。
そうするともう進歩は止まってしまう(「末(うら)止まり」)。
すると悪いことばかりに親しむようになる、虫が食うのだ(「虫食い」)。       つまらないやつにとりつかれ、そして没落する。これは「人間の五衰」だ。      だから植物の栽培もこの ” 省 ” という一字に帰する。

「省みる」ということは、別にいえば「省く」ということだ。それによって、人間本来の進歩・向上力が生まれる。すなわち克己(こっき)だ」               (『知命と立命』:「Ⅲ達人の人生哲学」より)

先日、震災被災地に慰問して学んだのが、” 省 く” 大切さ でした。無駄な欲望を省くことによって、人間は 真に豊かな生活ができるのだということを 目の当たりにしました。とりわけ戦後の日本人は、過度な文明至上主義となり、近代化(個人化、効率化、高速化、巨大化)し過ぎたのかもしれません。その結果、経済を抜きにした精神的連帯や、自然や生命の持つリアリティの喜びを暮らしの中で感じられなくなり、かえって無機質的なものになってしまったのではないでしょうか。

豊かな暮らしとは、便利で合理的な「文明」と、特殊で非合理的な「文化」の調和により生まれます。お寺参りは、先人が築きあげた 崇高な「文化」です。ちょうど今月は、ご先祖を迎えるお盆の時期です。これから自分は何を省き、何を得るか。それを考える良い時期です。「人間の五衰」に照らし合わせ、文明と文化の調和のとれた真に豊かな暮らしを 共々に目指していければと存じます。合掌

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確かな猶予(因果応報)

先日、後輩僧侶が うずくまっていました。何事かと尋ねたら、机の角で足の小指をぶつけたとのこと。彼は、あの 誰もが体験したことのある ” 激痛 ” を味わっていたのです。数瞬後、予測を下回ることのない あの痛み ! 。その激痛を待つ覚悟の時間を 格闘漫画 『バギ』 の作者・板垣恵介氏は、うまく譬えておられます。

ー  神が与え給うた 確かな猶予(ゆうよ)ー

言い得て妙です(笑)。これは老若男女国籍時代を問わず、” 因果応報 ” の最少単位ではないでしょうか。仏教でも、我々が作る行動(原因)は  猶予が終えた時、 約束どおり結果が訪れる と説きます。人生は この ” 猶予の繰り返し ” なのかもしれません。この当たり前の現実を なかなか理解できないのが人間ですが、角に小指をぶつけた時、みぞおちの強打、金的等の ” 数瞬後にくる激痛 ” で譬えると よくわかります。

暦は もうすぐ「 大暑 」となり、今が一年で最も暑い頃とされます。この時期、巷では必ずと言っていいほど後悔の言葉を耳にします。日頃の不摂生からくる夏バテ。また弛んだ体で水着をつける勇気がない等々、これは中期的な ” 因果応報 ” です。後悔先に立たず。すべての結果は、過去からの原因で繋がっているのです。

では、 猶予の幅 をさらに広げてみましょう。文豪・幸田露伴 氏は、因果応報の過程を「木の五衰」として伝えておられます。

「第一は、木が生長して繁茂してくると「懐の蒸れ(ふところのむれ)」というものが始まる。枝葉が茂ったおかげで風通しが悪くなり、蒸れはじめる。そうすると、酸素の代謝が悪くなるとか、害虫が付きやすくなるなどの問題が出始めるのだ。

「懐の蒸れ」の結果、第二には木が伸びなくなる。これを「末止まり(うらどまり)」という。つまり、ここで成長が止まるのである。

そうすると、第三には「裾上がり(すそあがり)」が始まる。本来の成長過程にある木ならば、根は深く広く広がらなければならない。だが、裾上がりとは、根が地表に出てしまい、早くから傷ついたり腐ったりする。

裾上がりした木は、やがて根っこからではなく木の上部から枯れ始める。これを第四の「末枯れ(すえがれ)」という。

最後の第五は、「虫食い」だ。末枯れまでいった木は害虫によって完全に枯れていく。最初から害虫にやられたように思われがちだが、その前に 第一、第二、第三、第四の段階があるのです」 (『洗心廣録』)

人生は、急に不幸な結果や 大きな問題が起こるのではなく、それまでに過程が存在しているのです。しかし どのような結果であれ、その 結果 が また 原因 として 縁 は繋がっていきます。我々にできることは、まず起きた現象を まず素直に受け入れること。そして、それをどう捉えるかで未来が変わってきます。これは時間の流れを 永続的に考えていく修行です。” 人の五衰 ” を防ぐのは、” 反省→感謝→報恩 ” の猶予の過ごし方が必要になります。

しかし、角にぶつけた小指の激痛だけは、いま想像するだけでも脂汗がでます・・・哀れな後輩には、とても ” 因果応報 ” とは言えませんでした(笑)。ただただ見舞いを申すばかりです。合掌

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選択の積み重ね

現在、FIFAワールドカップ・ブラジル大会が盛り上がっています。この間、Jリーグは中断されていますが、先日、大宮アルディージャ主将の菊地光将選手が、ご家族と西願寺へ遊びに来てくれました。ご身内の法事を勤められ、翌日、改めてお寺まで来てくれたのです。彼は物静かな好青年で、惚れ惚れするほど均整のとれた体でした。倍返り毘沙門天に祈る姿に、霊像と呼応される精神性の高さを感じました。日頃 どんなストイックな生活をされてるのでしょうか。今後の活躍に期待します。

よく ”人生は3万日”と言いますが、プロと呼ばれる方は、限られた時間に しっかりとした積み重ね、いわゆる ” 物事の選択 ” をされておられるだと思います。本を読むか、読まないか。学ぶか、学ばないか。続けるか、やめるか。挑戦するか、あきらめるか。自分の責任にするか、誰かのせいにするか。人を愛するか、憎むか。笑うか、怒るか。楽しむか、つまらなくするか。今やるか、今度やるか。すべて自分の態度一つで決まるのです。人は自ら選択を行い、その選択が結果をもたらします。物事を極められた方は、どんな小さな選択も おろそかにされてないはずです。

私は僧侶という役柄、いろいろな著名人とお出会いする機会がありますが、やはり本物と呼ばれる方になればなるほど、表舞台とは裏腹に 物静かな印象があります。それほど高みを帯びる為には、日々の地味で単調な 鍛錬の繰り返しが大切で、その忍耐強いお人柄が にじみ出るだと拝察します。

イエローハットの創業者、鍵山秀三郎氏はこう述べておられます。

「 皆さん方がこれから人生を送っていくについて、自分の人生は人並み以下でいいと思っている人は一人もいないと思います。人並みか、できれば人並み以上になっていきたいという希望を持っているのではないかと思います。けれども、何か特別なことをしないと人並みになれないのではないかと思って特別のことを探しているうちに人生の半分ぐらいきて、特別なことがないと気がついたときにはもう遅いということがあります。特別なことを探すよりも、当たり前のだれでも知ってはいるけれどもやっていないことはいっぱいあります。そういう小さなことに目を向けてそれを徹底していただくことをまずお勧めしたいと思います 」(『凡事徹底』 到知出版社)

人は有名になりたい、刺激的な人生を送りたい、影響力を与える人になりたい等の夢を求めますが、それは、日々の ” 選択の積み重ね ” の結果です。つまり、人は能力で決まるのではなく、 ” どんな選択をするか ” で将来が決まるのです。決して年齢や環境、他人のせいではないことを肝に銘じねばなりません。あわてず、あきらめず、自分は人に何ができるのかを考え続ける・・・そうして、” 最高の自己を差し出せる存在 ” となれた時、本当の輝く人生となるのではないでしょうか。合掌

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