根なき花

今月はお盆の月で、多くのお宅にお参りさせていただきました。私の心構えは、自分自身が先祖になったつもりで伺うようにしています。お家の雰囲気は様々です。ほとんどのお宅は居心地よくして下さいますが、正直「ここには帰りたくないなぁ・・・」と思う家があるのも事実です。お迎えをするお経を唱える身でも、ご先祖さまの心を察してしまいます(汗)。

ある英霊を祀ったお宅にお参りした時のこと。玄関先で ご主人が車を洗っておられてました。しかし、私に目もくれず洗車を続けられるのです。結局、たった5分のお参りにも手を合わすことなく、数台の高級車に向き合っておられました。おそらく裕福なお宅でしょうが、あまりの心の貧しさに哀れになってきました。この家を守るため 戦場に出られたご先祖様はどんな思いで、この子孫を見ておられるのでしょうか。

法然上人の師匠である善導大師は、人生について こうお説き下さいます。               「人は生きている時に 精進しなければ、たとえてみるならば、植木に根がないようなものだ。花をとって日中に置いても、根がなくて養分を吸うことができなければ、どれだけの間、あざやかに咲いていることがでいるだろうか。人の命ももそのようなものだ。無常の、ほんのつかの間だ。もろもろの仏教徒に勧める。精進して、どうか速やかに真実に至りたまえ。そして真実の仏法に根を張って、本当に美しく咲き続ける命を生きなさい」(「日中無常偈」)

先祖を思うことができない人は、” 根なき花 ” と同じです。いくら 有意義な人生(花)を咲かせてるように見えても、その  命の根源 (根) に感謝できないのならば、真実の幸福は望めません。見せかけの繁栄は すぐに枯れ果てることでしょう。仏法に根を張ることができた私は、本当に幸せ者だと この時期 しみじみ感じます。合掌

 

咲いた花見て 喜ぶならば 咲かせた根元の 恩を知れ

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人間の五衰

前回のブログで「木の五衰」から因果応報の過程を記しました。今回は「人間の五衰」について、安岡正篤 氏の言葉から学びたいと思います。

「 人間もそうだ。いろいろの欲ばかり出して、すなわち貪欲・多欲になって修養しない。  つまり ” 省 ” しない。そうすると風通しが悪くなる。

つまり心理や教えが耳に入らなくなる。                                                                                            善語・善言を聞くということをしなくなる(「懐(ふところ)の蒸れ」)。
そうすると「裾(すそ)上がり」といって(理性や謙虚さを失い)、
人間がオッチョコチョイになってくる(「末(うら)枯れ」)。
そうするともう進歩は止まってしまう(「末(うら)止まり」)。
すると悪いことばかりに親しむようになる、虫が食うのだ(「虫食い」)。       つまらないやつにとりつかれ、そして没落する。これは「人間の五衰」だ。      だから植物の栽培もこの ” 省 ” という一字に帰する。

「省みる」ということは、別にいえば「省く」ということだ。それによって、人間本来の進歩・向上力が生まれる。すなわち克己(こっき)だ」               (『知命と立命』:「Ⅲ達人の人生哲学」より)

先日、震災被災地に慰問して学んだのが、” 省 く” 大切さ でした。無駄な欲望を省くことによって、人間は 真に豊かな生活ができるのだということを 目の当たりにしました。とりわけ戦後の日本人は、過度な文明至上主義となり、近代化(個人化、効率化、高速化、巨大化)し過ぎたのかもしれません。その結果、経済を抜きにした精神的連帯や、自然や生命の持つリアリティの喜びを暮らしの中で感じられなくなり、かえって無機質的なものになってしまったのではないでしょうか。

豊かな暮らしとは、便利で合理的な「文明」と、特殊で非合理的な「文化」の調和により生まれます。お寺参りは、先人が築きあげた 崇高な「文化」です。ちょうど今月は、ご先祖を迎えるお盆の時期です。これから自分は何を省き、何を得るか。それを考える良い時期です。「人間の五衰」に照らし合わせ、文明と文化の調和のとれた真に豊かな暮らしを 共々に目指していければと存じます。合掌

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確かな猶予(因果応報)

先日、後輩僧侶が うずくまっていました。何事かと尋ねたら、机の角で足の小指をぶつけたとのこと。彼は、あの 誰もが体験したことのある ” 激痛 ” を味わっていたのです。数瞬後、予測を下回ることのない あの痛み ! 。その激痛を待つ覚悟の時間を 格闘漫画 『バギ』 の作者・板垣恵介氏は、うまく譬えておられます。

ー  神が与え給うた 確かな猶予(ゆうよ)ー

言い得て妙です(笑)。これは老若男女国籍時代を問わず、” 因果応報 ” の最少単位ではないでしょうか。仏教でも、我々が作る行動(原因)は  猶予が終えた時、 約束どおり結果が訪れる と説きます。人生は この ” 猶予の繰り返し ” なのかもしれません。この当たり前の現実を なかなか理解できないのが人間ですが、角に小指をぶつけた時、みぞおちの強打、金的等の ” 数瞬後にくる激痛 ” で譬えると よくわかります。

暦は もうすぐ「 大暑 」となり、今が一年で最も暑い頃とされます。この時期、巷では必ずと言っていいほど後悔の言葉を耳にします。日頃の不摂生からくる夏バテ。また弛んだ体で水着をつける勇気がない等々、これは中期的な ” 因果応報 ” です。後悔先に立たず。すべての結果は、過去からの原因で繋がっているのです。

では、 猶予の幅 をさらに広げてみましょう。文豪・幸田露伴 氏は、因果応報の過程を「木の五衰」として伝えておられます。

「第一は、木が生長して繁茂してくると「懐の蒸れ(ふところのむれ)」というものが始まる。枝葉が茂ったおかげで風通しが悪くなり、蒸れはじめる。そうすると、酸素の代謝が悪くなるとか、害虫が付きやすくなるなどの問題が出始めるのだ。

「懐の蒸れ」の結果、第二には木が伸びなくなる。これを「末止まり(うらどまり)」という。つまり、ここで成長が止まるのである。

そうすると、第三には「裾上がり(すそあがり)」が始まる。本来の成長過程にある木ならば、根は深く広く広がらなければならない。だが、裾上がりとは、根が地表に出てしまい、早くから傷ついたり腐ったりする。

裾上がりした木は、やがて根っこからではなく木の上部から枯れ始める。これを第四の「末枯れ(すえがれ)」という。

最後の第五は、「虫食い」だ。末枯れまでいった木は害虫によって完全に枯れていく。最初から害虫にやられたように思われがちだが、その前に 第一、第二、第三、第四の段階があるのです」 (『洗心廣録』)

人生は、急に不幸な結果や 大きな問題が起こるのではなく、それまでに過程が存在しているのです。しかし どのような結果であれ、その 結果 が また 原因 として 縁 は繋がっていきます。我々にできることは、まず起きた現象を まず素直に受け入れること。そして、それをどう捉えるかで未来が変わってきます。これは時間の流れを 永続的に考えていく修行です。” 人の五衰 ” を防ぐのは、” 反省→感謝→報恩 ” の猶予の過ごし方が必要になります。

しかし、角にぶつけた小指の激痛だけは、いま想像するだけでも脂汗がでます・・・哀れな後輩には、とても ” 因果応報 ” とは言えませんでした(笑)。ただただ見舞いを申すばかりです。合掌

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選択の積み重ね

現在、FIFAワールドカップ・ブラジル大会が盛り上がっています。この間、Jリーグは中断されていますが、先日、大宮アルディージャ主将の菊地光将選手が、ご家族と西願寺へ遊びに来てくれました。ご身内の法事を勤められ、翌日、改めてお寺まで来てくれたのです。彼は物静かな好青年で、惚れ惚れするほど均整のとれた体でした。倍返り毘沙門天に祈る姿に、霊像と呼応される精神性の高さを感じました。日頃 どんなストイックな生活をされてるのでしょうか。今後の活躍に期待します。

よく ”人生は3万日”と言いますが、プロと呼ばれる方は、限られた時間に しっかりとした積み重ね、いわゆる ” 物事の選択 ” をされておられるだと思います。本を読むか、読まないか。学ぶか、学ばないか。続けるか、やめるか。挑戦するか、あきらめるか。自分の責任にするか、誰かのせいにするか。人を愛するか、憎むか。笑うか、怒るか。楽しむか、つまらなくするか。今やるか、今度やるか。すべて自分の態度一つで決まるのです。人は自ら選択を行い、その選択が結果をもたらします。物事を極められた方は、どんな小さな選択も おろそかにされてないはずです。

私は僧侶という役柄、いろいろな著名人とお出会いする機会がありますが、やはり本物と呼ばれる方になればなるほど、表舞台とは裏腹に 物静かな印象があります。それほど高みを帯びる為には、日々の地味で単調な 鍛錬の繰り返しが大切で、その忍耐強いお人柄が にじみ出るだと拝察します。

イエローハットの創業者、鍵山秀三郎氏はこう述べておられます。

「 皆さん方がこれから人生を送っていくについて、自分の人生は人並み以下でいいと思っている人は一人もいないと思います。人並みか、できれば人並み以上になっていきたいという希望を持っているのではないかと思います。けれども、何か特別なことをしないと人並みになれないのではないかと思って特別のことを探しているうちに人生の半分ぐらいきて、特別なことがないと気がついたときにはもう遅いということがあります。特別なことを探すよりも、当たり前のだれでも知ってはいるけれどもやっていないことはいっぱいあります。そういう小さなことに目を向けてそれを徹底していただくことをまずお勧めしたいと思います 」(『凡事徹底』 到知出版社)

人は有名になりたい、刺激的な人生を送りたい、影響力を与える人になりたい等の夢を求めますが、それは、日々の ” 選択の積み重ね ” の結果です。つまり、人は能力で決まるのではなく、 ” どんな選択をするか ” で将来が決まるのです。決して年齢や環境、他人のせいではないことを肝に銘じねばなりません。あわてず、あきらめず、自分は人に何ができるのかを考え続ける・・・そうして、” 最高の自己を差し出せる存在 ” となれた時、本当の輝く人生となるのではないでしょうか。合掌

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和楽な暮らし

本日、志村ふくみ先生が「第30回京都賞」を受賞されました。つい先日、ふくみ先生と洋子先生に自宅に招かれ、食事をご一緒させていただいたばかりですので、嬉しい気持ちでいっぱいです。

ふくみ先生は染色家の第一人者で、人間国宝であられます。志村家は嵯峨にある奉職寺院のお檀家さまで、また同じ近江八幡が出身というご縁で可愛がって下さってます。昨年の米寿を祝う会でも琵琶説教のご依頼をいただき、お祝いをさせていただきました。今回は完全なプライベートでしたので、私も袈裟衣を脱ぎ、3人でお酒を酌み交わしながら、楽しい時間を過ごさせていただきました。仏教と色の話、これからのお寺のあり方、宗教と芸術の融合、万物の成仏を祈るべし、百聞は一見に如かず、身銭を切る大切さ・・・等々、一冊の本になるようなお言葉を頂戴しました。

最後にお話しいただいたのは、昨年開校された「アルスシムラ」の ” 魂の教育 ” でした。今の日本人は、未来への閉塞感から 本質を見失っている。その方向性の一助となればという思いから学校を開かれたのだそうです。本来 宗教がすべきことを、身を投じてしてくださってるお姿に頭が下がりました。染色に限らず、日本には色々な和の文化があり、それぞれに ” 命の叡智 ” が詰まっている。それに触れた時、驚きと憧れ、喜び湧き上がってくる。これからの日本人は 和の文化 から 物事の本質 を探求することが大切だとお話ししてくださいました。(これ以上のことは入校してからお聞きください!笑)

難しい理屈は抜きにして、やはり母国に親しむことが豊かな暮らしへの出発点だと思います。文化や芸術というと腰が引ける方に、私は ” 和楽な暮らし ” として、身近な和の実践 を推奨していますので、最後にご紹介します。ここからも、物事の本質が見えてくることと存じます。

【和楽な暮らし】

我々は、近代的な生活用品に囲まれた暮らしの中に、日本の伝統的な道具を取り入れ、文明と文化の調和がとれた暮らしの実践をしよう。

現在、日本人は実の多くの便利なものに囲まれて暮らしている。車、地下鉄、新幹線。テレビ、コンビニ、インターネット。ファミコン、パソコン、カーエアコン…このような文明的な暮らしを否定する気は毛頭ない。しかし、戦後、とりわけ高度経済成長以後の日本人の暮らしは、過度に文明至上主義に偏重し、近代化(個人化、効率化、高速化、巨大化)した。その結果、経済を抜きにした精神的連帯や、自然や生命の持つリアリティの喜びを暮らしの中で感じられなくなり、かえって無機質的なものになってしまった。日本人が文明的な生活を目指すばかりに、真に豊かな暮らしを考えることを怠ってきたからだ。

我々は、豊かな暮らしとは便利で合理的な「文明」と、特殊で非合理的な「文化」の調和により生まれると考える。かつて(明治から戦前にかけて)の先人たちには日本の文明化に対し、「和魂洋才」の精神で日本文化との融合をはかろうという気概があった。その先人たちのたゆまない努力に感謝し、またその精神を受け継ぐ覚悟をせねばならない。我々は新しく「七和三洋」というスローガンのもとに、文明と文化の調和のとれた真の豊かな暮らし、「和楽な暮らし」の構築をめざし、和楽の目的を達したい。

では和楽な暮らしとはどういうことか。答えは明快である。伝統的で民族的な生活道具「和の生活道具」を各々の暮らしの中で使うことである。つまり、近代的な生活用品を「和の道具」にすり替え、切り替えることによって、「和楽な暮らし」をつくり上げることができる。和の道具とは、単なる暮らしの構成要素だけではなく、自然の素材の活かし方、用途の転用性といった日本人のシンプルなライフスタイルの思想、知恵を具現化したものでもある。

我々はそのような和の道具を「使う」ことによって、いろいろなことに気づくであろう。そういった「経験・体験」に基づく発見こそが、本当の意味での「知識・知恵」として日本の文化を理解し、受け継ぐことつながる。その実現のために、我々は具体的な三つの方策で望む。

一つ目は感覚、感性の名の下にあいまいにされてきた和の道具を、素材、形態、用途、思想などの観点からドラスティックに探求することである。二つ目は和の道具が伝統的工芸品、古美術となっている現状から解放することである。三つ目は和の道具が暮らしを楽しく、そして豊かにする道具であることを啓蒙していくことである。

環境問題に関心のある者。老人福祉の道を志す者。お金より精神的満足を求める者。そして日本文化に興味のある者。これら「これから日本人」は和の道具を単なる骨董品や古いものとしての対象とする視点を排して、民族的な生活道具として取り戻そう! 暮らしの中にある近代的な工業製品を少しずつ民族的な生活道具に切り替えよう! そして文明と文化の調和のとれた暮らしが一つの形態となるよう、「和楽な暮らし」をともに希求し、想像し、実践しよう! (「和楽宣言」より)

※明日は、京都・東寺(教王護国寺)の「弘法市」です。空海さまのご命日である21日は、毎月 1200ほどの露店が立ち並び、約20万人の参拝があるそうです。こういった縁日に詣るのも、和の文化に触れる絶好の機会だと思います。合掌

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宮城県 石巻への慰問

先日5月31日、6月1日と宮城県は石巻に行ってきました。西願寺で震災被災者の骨仏供養をしているご縁で 慰問のご依頼をいただいたのです。現地では、東日本大震災の大津波で全校児童108人のうち74人の児童が死亡・行方不明となった大川小学校跡で祈りを捧げ、仮設住宅や被災者宅での琵琶説教。夜は現地の皆様との懇談等々、短い時間でしたが、皆様のあたたかいお心遣いで、貴重な体験をさせていただきました。

現地の方々は、当然  様々な感情はおありですが、それを静かに受け入れ、前向きに転ずる心をお持ちでした。いらぬ欲を捨て、今できることを淡々とされてるように見えます。環境を嘆くのでなく、” 自らの心 ” で境涯を作ってらっしゃるのです。語弊を恐れずに言えば、快適さばかりを求めている欲まみれの者より、よっぽど幸せな方々に見えました。皆さん、それほど毅然とした美しいお姿でした。

日本初のヨーガ行者、中村天風氏のお言葉です。

「地獄をつくるのも、天国をつくるのも、人の心である。心は我々に悲劇と喜劇を感じさせる秘密の玉手箱である。忘れてならないのは ” 喜びを感じるから感謝をするのではなく、まず感謝をすると、同時に喜びが生まれてくる ” これが理屈を越えた真理である。これさえ分かれば、たとえ身に病があろうが運命に非なるものがあろうとその心で一切を感謝と歓喜に振りかえ、苦をなお楽しむ境涯に生きることができる。その時、幸福の楽園がおのずから現出してくる」

このお言葉の通りです。どんな現状であれ、ありのままを受け入れること。そのことができれば、あとは感謝しかありません。自らの心で ” 幸福の楽園 ” は作れるのです。NPO法人 りあすの森の皆様、熊谷産業の皆様、仏縁をいただいた現地の皆様に心より感謝申し上げます。今後も ますます交流していければと存じます。合掌

追伸:西願寺で募金いただいた浄財は現地にお渡しさせていただきました。回向の力で有縁の方々が幸福になることをお祈りします。九拝

 

 

 

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回向(ゴールデンルール)

先日、琵琶説教で東京のお寺に伺いました。今年で10回目のご依頼でした。関東の法要は関西とは違い、法要の前に説教があります。当然、参拝者の目的は法要ですので、 説教の時間はガラガラになる可能性があるのですが、十度の仏縁で 150名の席に立ち見がでるようになり うれしい限りでした。

このお寺の副住職は、私の修行時代の同期で 2年間 同じ釜の飯を食べた仲です。しかも生年月日が同じで、今日までの14358日、同じ時間を過ごしている計算となります。私とは正反対の性格で、貫禄があり、豪快で、人の上に立つタイプです。年に一度しか会えませんが、私が求めいてるほとんどのことを 彼は成就しています。なぜ、そんなことができるのかと聞いてみましたら、こんな言葉が返ってきました。

「それは『回向(えこう)』の力だよ。僕は大の甘党で よくお汁粉を食べる。ある時、あんこの上にクリームをのせたら どんなに美味しいだろうかと思っていたら、先祖回向の申し込みがあったんだ。そして 法要を勤めたら、施主が ” クリームあんパン ” をお供えしてくれたんだよ。これで食べたい物 すべてを手に入れることができた。 めでたし めでたしだ。この回向の力こそが ゴールデンルールなんだよね。わっはっはっは!」・・・禅問答のような話ですが(笑)・・・回向の力を会得すると、自然と思いが叶うということを教えてくれました。

「ゴールデンルール」について、舛田光洋氏が わかりやすく解説されています。ゴールデンルールとは、「自分がしてほしいと思うことを人に与えよ」という法則(ルール)です。人生に幸運と成功を引き寄せるためには、絶対必要な法則なのです。なぜなら、この法則だけが、宇宙に遍満する「繁栄のエネルギー」を流し込むことができるからです。実は、私たちの周りには、目には見えませんが、繁栄のエネルギーが至るところに充満しているのです。この宇宙の繁栄のエネルギーを流しこむことができたなら、どんな望みも手に入り、人生を思うように動かせるのです。そんなとてつもないエネルギーなのです。

また、アメリカの自動車王、ヘンリー・フォードが次のように語っています。「もし、私が今まで築き上げたすべての富を失ったとしても5年もあれば取り返すことができるだろう。なぜなら、私は無限なる宇宙の繁栄のエネルギーとつながる方法を知っているからだ」。世の中の成功者と呼ばれている人の多くは、この「与えれば与えられる」という法則を意識的か、もしくは無意識的に使っているのです。ほとんどの人たちは、間違った法則の中で生きている。与えたら自分のものが減ってしまう。実際に物をあげたら自分の分は減ってしまいます。そして、多くの人は減らないように減らないように自分自身を守って生きています。だから、多くの人は満たされない人生を生きているのです。それは大きな間違いです。物を持つたびに心は貧しくなっていく。与えれば心は豊かになっていく。そして、与えれば与えるほど与えられる。「常に最高の自分を差し出し、多くの人に貢献するぞ」と生き、実践したときにこそ、最高の成功の中に生きることができるのです。(『夢をかなえる「そうじ力」』)

この「与えれば与えられる」という法則こそが「回向」の力です。もちろん見返りを求める行動は愚かですが、最高の自分を他に回し向けるこによって、真なる悦びに生かされるのだと思います。そのためには ” 我 ” を捨て、大いなる力(ゴールデンルール)にすべてを任せる勇気が必要です。これがなかなかできません。実は これが ” 信仰 ” の力でもあります。今年も 腹心の友 から大切なことを学ばせて頂きました。合掌

 

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人は二度死ぬ

先日、信徒さまのお葬式を勤めさせていただきました。引導を渡したのは 享年41歳の男性で、2年間の闘病生活をされた方でした。あまりに若すぎる死です。節目毎にご母堂さまと墓詣りに来られる心優しい人でした。

僧侶は葬儀を司りますが、いつまでも慣れることがありません。 亡き人の生涯、ご遺族の思いがそれぞれ 異なるからです。しかし どのような状況であっても、私が導師を勤める葬式は、参列者すべてに南無阿弥陀仏を唱えていただくようお願いします。色々な考えはおありでしょうが、できるだけ法話に時間をとり、念仏を唱えるよう説法するのです。僧侶は冷静になって ” 真なる救い ” を示さねばなりません。一緒になって嘆き悲しむことや、良い声でお経を唱える事が ” 救い ” だとお釈迦様がお説きならそうしますが、本当に故人やご遺族が救われる道が 念仏なのだと伝えるのが私の役割です。今回も通夜、葬儀と参列者の念仏の声がだんだん大きくなり、大きな慈悲に包まれながら、故人をお送りすることができました。ご遺族や葬儀社の方も、一体感のある葬式だったと申して下さいました。

霊柩車出発の時、中学時代からの親友だとおっしゃってた男性が、最前列で 呆然と立ってらっしゃってたのが印象的でした。昔、引っ越しのため、仲の良かった友達を見送った 辛く悲しい体験を思い出しました。あの瞬間はやるせないものがあります。二度と会えないと思うと、胸が張り裂けそうな気持ちになります。そう考えると、やはり阿弥陀如来の存在は必要です。来世に必ず再会させる!と約束された阿弥陀さまは居ていただかないといけません。念仏信者にとって ” 死 ” は、 しばしの別れなのです。

「人は二度死ぬ」といいます。一度目は ” 肉体の死 ” 。 二 度目は ” 人々の心の中から忘れ去られる事の死 ” 。遺された者の心の内に生き続け、誰からも忘れ去られないように勤めるのがお寺の役割だと思います。そのために南無阿弥陀仏を唱えるのです。念仏を唱え続けるかぎり繋がっているのです。またその縁で、亡き人が 我々の死に際し、仏と共に迎えに来てくれることでしょう。念仏とは ” 大きな慈悲の中で生かさせて下さること ” だと教えてくれます。毎週伺いする中陰参りは、故人の救いと、ご遺族の心のケアに勤めたいと存じます。

亡き人の ために手向けし念仏は 生きるわが身の 教えなりけり  合掌

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利他の心

毎年、恒例となっている新社会人へ向けた伊集院 静氏のメッセージがあります。サントリーの新聞広告ですが、先日4月1日掲載されたのは以下のような内容でした。

先駆者になれ。

新社会人おめでとう。
今日、君はどんな職場で目の前を見ているだろうか。
どんな仕事であれ、そこが君のスタートラインだ。
新しい道が君の前にある。
しかしその道はまだ見えない。
新しい道とは何だろうか。
それはまだ誰も分け入ってない場所に
君の足で踏み込んで
初めてできるものだ。
そこはまだ闇のような
世界かもしれない。
光も音も感じないかもしれない。
しかし勇気と信念があれば、
必ず光はさしはじめる。
明るい音も聞こえてくる。
新しい道を踏み出せ。先駆者になれ。
そうして誰もまだ見たことのない、まぶしい世界を見せてやろう。
そのためには力が、汗が必要だ。
やわらかな発想と強靭な精神を持って、ともに汗を流そう。
新しい道をつくろう。後から続いて来る人たちの歌声を聞く日まで
私たちは、一人一人が先駆者になろう。
仕事は辛いぞ。苦しいぞ。でも自分だけのために
生きていることではないことがわかれば、必ず道はひらく。
少し疲れたら夕日を仰ぎ美味しい一杯をやろう。
新しい道を踏み出す君に乾杯。

伊集院 静

 

「自分だけのために生きていることではないことがわかれば、必ず道はひらく」。この言葉に感銘を受けました。働くことは「ハタの人を楽(ラク)にさせること」が原点です。この精神を仏教では「利他(りた)」といい、天台宗開祖・最澄(さいちょう)さまの「好事は他に与え、悪事は己に迎え、己を忘れ 他を利するは 慈悲の極みなり」という教えが由来となります。平たく言えば 自分のことは置いておいて、とにかく人のためになるようなことをしましょう!っていう意味になります。

” 利他 ”の譬えとして、祖父からこんな話を聞いたことがあります。「実は地獄と極楽は、見た目だけからしたらそれほど違いはない。どちらにも大きな釜に美味しそうな「うどん」が煮えている。そして、みんなが1メートルもある長い箸を持っている。地獄の住人は、われ先にと箸を突っ込んで食べようとするが、箸が長すぎて自分の口にうまく運べず、そのうちに、他人の箸の先のうどんの奪い合いを始めてしまう。結局、ちゃんと食べられなくて、うどんを目の前にしながら、誰もが飢えて痩せ衰えている。ところが極楽では、誰もが箸で掴んだうどんを、向かい側の人に先に食べさせてあげている。だから全員がうどんを食べられて、満ち足りているのだ」と。

同じ環境で仕事をする人でも、差が出てくるのはここからだと思います。皆さんの身近にもいらっしゃいませんか? 自分を守るためだけに生きている人・・・(笑)。本人は 世界で一番仕事をしてる感覚ですが、こういう方は、残念ながら ” 利他の心 ” ではありません。利他の反対は ” 我利我利(ガリガリ)” と言って、心が貧しい人を指します。

伊集院 静氏の「自分だけのために生きていることではないことがわかれば、必ず道はひらく」。この言葉は深いなぁ・・・と思い 拝見させていただきました。新社会人への最高のメッセージだと思います。合掌

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素直な心

4月になりました。新年正月は 自らの内面を切り替える時期ですが、新年度は 環境自体が変わる月となります。奉職寺院にも ある企業が新入社員研修の一環で 参拝に来られました。立場上、助言を求められることがありますが、私は 「素直な心」が大切だとお答えしています。

その実践は「挨拶(あいさつ)」から始まります。この言葉はもともと仏教の言葉だということはご存じでしょうか。禅寺で行われていた問答が由来で、「挨」は押す「拶」は迫るという意味です。自らの心を押し開き、相手に迫る(コミュニケーションを交わす)のが挨拶です。” 心のドアノブは内側にしかついていない ”という言葉がありますが、まず自ら心を開くことが全ての基本だと存じます。

松下幸之助氏は「素直な心というものは、すべてに対して学ぶ心で接し、そこから何らかの教えを得ようとする謙虚さをもった心である」「素直な心というものは、広い視野から物事を見、その道理を知ることのできる心である。素直な心がない場合には、とかく物事にとらわれがちとなり、ついつい無理をしてしまうことになりやすくなる。素直な心になれば、すべてに対して順応していくことができるから、何でも自分の思い通りにすることができるようになる」とお説き下さってます。

物事には道理(物事のそうあるべきみちすじ)があります。道理に従えば順調に進む。道理に逆らうと無理が生じ、思うようにはいきません。たとえば、人に不満があるからと言って相手を変えようとしても無理な場合がほとんどです。人にイライラしてしまうのは(無意識に)相手が変わることを期待しているからです。「相手がそのままでいい」と思えるのなら、そんなにイライラしないはずです。人にイライラしたくないのなら相手が変わることを期待するよりも自分(の考え方)を変えるほうが道理ではないでしょうか。

私は新年度になると、いつもこの言葉を反芻します。4月は心のドアを開いて世の中に順応する時期だと存じます。皆様、御自愛の上、精進なさって下さいませ。合掌

オアシスあいさつ運動  オ「おはようございます」 「ありがとうございます」 「失礼します(失礼しました)」 「すみません(すみませんでした)」

 

 

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