和楽な暮らし

本日、志村ふくみ先生が「第30回京都賞」を受賞されました。つい先日、ふくみ先生と洋子先生に自宅に招かれ、食事をご一緒させていただいたばかりですので、嬉しい気持ちでいっぱいです。

ふくみ先生は染色家の第一人者で、人間国宝であられます。志村家は嵯峨にある奉職寺院のお檀家さまで、また同じ近江八幡が出身というご縁で可愛がって下さってます。昨年の米寿を祝う会でも琵琶説教のご依頼をいただき、お祝いをさせていただきました。今回は完全なプライベートでしたので、私も袈裟衣を脱ぎ、3人でお酒を酌み交わしながら、楽しい時間を過ごさせていただきました。仏教と色の話、これからのお寺のあり方、宗教と芸術の融合、万物の成仏を祈るべし、百聞は一見に如かず、身銭を切る大切さ・・・等々、一冊の本になるようなお言葉を頂戴しました。

最後にお話しいただいたのは、昨年開校された「アルスシムラ」の ” 魂の教育 ” でした。今の日本人は、未来への閉塞感から 本質を見失っている。その方向性の一助となればという思いから学校を開かれたのだそうです。本来 宗教がすべきことを、身を投じてしてくださってるお姿に頭が下がりました。染色に限らず、日本には色々な和の文化があり、それぞれに ” 命の叡智 ” が詰まっている。それに触れた時、驚きと憧れ、喜び湧き上がってくる。これからの日本人は 和の文化 から 物事の本質 を探求することが大切だとお話ししてくださいました。(これ以上のことは入校してからお聞きください!笑)

難しい理屈は抜きにして、やはり母国に親しむことが豊かな暮らしへの出発点だと思います。文化や芸術というと腰が引ける方に、私は ” 和楽な暮らし ” として、身近な和の実践 を推奨していますので、最後にご紹介します。ここからも、物事の本質が見えてくることと存じます。

【和楽な暮らし】

我々は、近代的な生活用品に囲まれた暮らしの中に、日本の伝統的な道具を取り入れ、文明と文化の調和がとれた暮らしの実践をしよう。

現在、日本人は実の多くの便利なものに囲まれて暮らしている。車、地下鉄、新幹線。テレビ、コンビニ、インターネット。ファミコン、パソコン、カーエアコン…このような文明的な暮らしを否定する気は毛頭ない。しかし、戦後、とりわけ高度経済成長以後の日本人の暮らしは、過度に文明至上主義に偏重し、近代化(個人化、効率化、高速化、巨大化)した。その結果、経済を抜きにした精神的連帯や、自然や生命の持つリアリティの喜びを暮らしの中で感じられなくなり、かえって無機質的なものになってしまった。日本人が文明的な生活を目指すばかりに、真に豊かな暮らしを考えることを怠ってきたからだ。

我々は、豊かな暮らしとは便利で合理的な「文明」と、特殊で非合理的な「文化」の調和により生まれると考える。かつて(明治から戦前にかけて)の先人たちには日本の文明化に対し、「和魂洋才」の精神で日本文化との融合をはかろうという気概があった。その先人たちのたゆまない努力に感謝し、またその精神を受け継ぐ覚悟をせねばならない。我々は新しく「七和三洋」というスローガンのもとに、文明と文化の調和のとれた真の豊かな暮らし、「和楽な暮らし」の構築をめざし、和楽の目的を達したい。

では和楽な暮らしとはどういうことか。答えは明快である。伝統的で民族的な生活道具「和の生活道具」を各々の暮らしの中で使うことである。つまり、近代的な生活用品を「和の道具」にすり替え、切り替えることによって、「和楽な暮らし」をつくり上げることができる。和の道具とは、単なる暮らしの構成要素だけではなく、自然の素材の活かし方、用途の転用性といった日本人のシンプルなライフスタイルの思想、知恵を具現化したものでもある。

我々はそのような和の道具を「使う」ことによって、いろいろなことに気づくであろう。そういった「経験・体験」に基づく発見こそが、本当の意味での「知識・知恵」として日本の文化を理解し、受け継ぐことつながる。その実現のために、我々は具体的な三つの方策で望む。

一つ目は感覚、感性の名の下にあいまいにされてきた和の道具を、素材、形態、用途、思想などの観点からドラスティックに探求することである。二つ目は和の道具が伝統的工芸品、古美術となっている現状から解放することである。三つ目は和の道具が暮らしを楽しく、そして豊かにする道具であることを啓蒙していくことである。

環境問題に関心のある者。老人福祉の道を志す者。お金より精神的満足を求める者。そして日本文化に興味のある者。これら「これから日本人」は和の道具を単なる骨董品や古いものとしての対象とする視点を排して、民族的な生活道具として取り戻そう! 暮らしの中にある近代的な工業製品を少しずつ民族的な生活道具に切り替えよう! そして文明と文化の調和のとれた暮らしが一つの形態となるよう、「和楽な暮らし」をともに希求し、想像し、実践しよう! (「和楽宣言」より)

※明日は、京都・東寺(教王護国寺)の「弘法市」です。空海さまのご命日である21日は、毎月 1200ほどの露店が立ち並び、約20万人の参拝があるそうです。こういった縁日に詣るのも、和の文化に触れる絶好の機会だと思います。合掌

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宮城県 石巻への慰問

先日5月31日、6月1日と宮城県は石巻に行ってきました。西願寺で震災被災者の骨仏供養をしているご縁で 慰問のご依頼をいただいたのです。現地では、東日本大震災の大津波で全校児童108人のうち74人の児童が死亡・行方不明となった大川小学校跡で祈りを捧げ、仮設住宅や被災者宅での琵琶説教。夜は現地の皆様との懇談等々、短い時間でしたが、皆様のあたたかいお心遣いで、貴重な体験をさせていただきました。

現地の方々は、当然  様々な感情はおありですが、それを静かに受け入れ、前向きに転ずる心をお持ちでした。いらぬ欲を捨て、今できることを淡々とされてるように見えます。環境を嘆くのでなく、” 自らの心 ” で境涯を作ってらっしゃるのです。語弊を恐れずに言えば、快適さばかりを求めている欲まみれの者より、よっぽど幸せな方々に見えました。皆さん、それほど毅然とした美しいお姿でした。

日本初のヨーガ行者、中村天風氏のお言葉です。

「地獄をつくるのも、天国をつくるのも、人の心である。心は我々に悲劇と喜劇を感じさせる秘密の玉手箱である。忘れてならないのは ” 喜びを感じるから感謝をするのではなく、まず感謝をすると、同時に喜びが生まれてくる ” これが理屈を越えた真理である。これさえ分かれば、たとえ身に病があろうが運命に非なるものがあろうとその心で一切を感謝と歓喜に振りかえ、苦をなお楽しむ境涯に生きることができる。その時、幸福の楽園がおのずから現出してくる」

このお言葉の通りです。どんな現状であれ、ありのままを受け入れること。そのことができれば、あとは感謝しかありません。自らの心で ” 幸福の楽園 ” は作れるのです。NPO法人 りあすの森の皆様、熊谷産業の皆様、仏縁をいただいた現地の皆様に心より感謝申し上げます。今後も ますます交流していければと存じます。合掌

追伸:西願寺で募金いただいた浄財は現地にお渡しさせていただきました。回向の力で有縁の方々が幸福になることをお祈りします。九拝

 

 

 

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回向(ゴールデンルール)

先日、琵琶説教で東京のお寺に伺いました。今年で10回目のご依頼でした。関東の法要は関西とは違い、法要の前に説教があります。当然、参拝者の目的は法要ですので、 説教の時間はガラガラになる可能性があるのですが、十度の仏縁で 150名の席に立ち見がでるようになり うれしい限りでした。

このお寺の副住職は、私の修行時代の同期で 2年間 同じ釜の飯を食べた仲です。しかも生年月日が同じで、今日までの14358日、同じ時間を過ごしている計算となります。私とは正反対の性格で、貫禄があり、豪快で、人の上に立つタイプです。年に一度しか会えませんが、私が求めいてるほとんどのことを 彼は成就しています。なぜ、そんなことができるのかと聞いてみましたら、こんな言葉が返ってきました。

「それは『回向(えこう)』の力だよ。僕は大の甘党で よくお汁粉を食べる。ある時、あんこの上にクリームをのせたら どんなに美味しいだろうかと思っていたら、先祖回向の申し込みがあったんだ。そして 法要を勤めたら、施主が ” クリームあんパン ” をお供えしてくれたんだよ。これで食べたい物 すべてを手に入れることができた。 めでたし めでたしだ。この回向の力こそが ゴールデンルールなんだよね。わっはっはっは!」・・・禅問答のような話ですが(笑)・・・回向の力を会得すると、自然と思いが叶うということを教えてくれました。

「ゴールデンルール」について、舛田光洋氏が わかりやすく解説されています。ゴールデンルールとは、「自分がしてほしいと思うことを人に与えよ」という法則(ルール)です。人生に幸運と成功を引き寄せるためには、絶対必要な法則なのです。なぜなら、この法則だけが、宇宙に遍満する「繁栄のエネルギー」を流し込むことができるからです。実は、私たちの周りには、目には見えませんが、繁栄のエネルギーが至るところに充満しているのです。この宇宙の繁栄のエネルギーを流しこむことができたなら、どんな望みも手に入り、人生を思うように動かせるのです。そんなとてつもないエネルギーなのです。

また、アメリカの自動車王、ヘンリー・フォードが次のように語っています。「もし、私が今まで築き上げたすべての富を失ったとしても5年もあれば取り返すことができるだろう。なぜなら、私は無限なる宇宙の繁栄のエネルギーとつながる方法を知っているからだ」。世の中の成功者と呼ばれている人の多くは、この「与えれば与えられる」という法則を意識的か、もしくは無意識的に使っているのです。ほとんどの人たちは、間違った法則の中で生きている。与えたら自分のものが減ってしまう。実際に物をあげたら自分の分は減ってしまいます。そして、多くの人は減らないように減らないように自分自身を守って生きています。だから、多くの人は満たされない人生を生きているのです。それは大きな間違いです。物を持つたびに心は貧しくなっていく。与えれば心は豊かになっていく。そして、与えれば与えるほど与えられる。「常に最高の自分を差し出し、多くの人に貢献するぞ」と生き、実践したときにこそ、最高の成功の中に生きることができるのです。(『夢をかなえる「そうじ力」』)

この「与えれば与えられる」という法則こそが「回向」の力です。もちろん見返りを求める行動は愚かですが、最高の自分を他に回し向けるこによって、真なる悦びに生かされるのだと思います。そのためには ” 我 ” を捨て、大いなる力(ゴールデンルール)にすべてを任せる勇気が必要です。これがなかなかできません。実は これが ” 信仰 ” の力でもあります。今年も 腹心の友 から大切なことを学ばせて頂きました。合掌

 

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人は二度死ぬ

先日、信徒さまのお葬式を勤めさせていただきました。引導を渡したのは 享年41歳の男性で、2年間の闘病生活をされた方でした。あまりに若すぎる死です。節目毎にご母堂さまと墓詣りに来られる心優しい人でした。

僧侶は葬儀を司りますが、いつまでも慣れることがありません。 亡き人の生涯、ご遺族の思いがそれぞれ 異なるからです。しかし どのような状況であっても、私が導師を勤める葬式は、参列者すべてに南無阿弥陀仏を唱えていただくようお願いします。色々な考えはおありでしょうが、できるだけ法話に時間をとり、念仏を唱えるよう説法するのです。僧侶は冷静になって ” 真なる救い ” を示さねばなりません。一緒になって嘆き悲しむことや、良い声でお経を唱える事が ” 救い ” だとお釈迦様がお説きならそうしますが、本当に故人やご遺族が救われる道が 念仏なのだと伝えるのが私の役割です。今回も通夜、葬儀と参列者の念仏の声がだんだん大きくなり、大きな慈悲に包まれながら、故人をお送りすることができました。ご遺族や葬儀社の方も、一体感のある葬式だったと申して下さいました。

霊柩車出発の時、中学時代からの親友だとおっしゃってた男性が、最前列で 呆然と立ってらっしゃってたのが印象的でした。昔、引っ越しのため、仲の良かった友達を見送った 辛く悲しい体験を思い出しました。あの瞬間はやるせないものがあります。二度と会えないと思うと、胸が張り裂けそうな気持ちになります。そう考えると、やはり阿弥陀如来の存在は必要です。来世に必ず再会させる!と約束された阿弥陀さまは居ていただかないといけません。念仏信者にとって ” 死 ” は、 しばしの別れなのです。

「人は二度死ぬ」といいます。一度目は ” 肉体の死 ” 。 二 度目は ” 人々の心の中から忘れ去られる事の死 ” 。遺された者の心の内に生き続け、誰からも忘れ去られないように勤めるのがお寺の役割だと思います。そのために南無阿弥陀仏を唱えるのです。念仏を唱え続けるかぎり繋がっているのです。またその縁で、亡き人が 我々の死に際し、仏と共に迎えに来てくれることでしょう。念仏とは ” 大きな慈悲の中で生かさせて下さること ” だと教えてくれます。毎週伺いする中陰参りは、故人の救いと、ご遺族の心のケアに勤めたいと存じます。

亡き人の ために手向けし念仏は 生きるわが身の 教えなりけり  合掌

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利他の心

毎年、恒例となっている新社会人へ向けた伊集院 静氏のメッセージがあります。サントリーの新聞広告ですが、先日4月1日掲載されたのは以下のような内容でした。

先駆者になれ。

新社会人おめでとう。
今日、君はどんな職場で目の前を見ているだろうか。
どんな仕事であれ、そこが君のスタートラインだ。
新しい道が君の前にある。
しかしその道はまだ見えない。
新しい道とは何だろうか。
それはまだ誰も分け入ってない場所に
君の足で踏み込んで
初めてできるものだ。
そこはまだ闇のような
世界かもしれない。
光も音も感じないかもしれない。
しかし勇気と信念があれば、
必ず光はさしはじめる。
明るい音も聞こえてくる。
新しい道を踏み出せ。先駆者になれ。
そうして誰もまだ見たことのない、まぶしい世界を見せてやろう。
そのためには力が、汗が必要だ。
やわらかな発想と強靭な精神を持って、ともに汗を流そう。
新しい道をつくろう。後から続いて来る人たちの歌声を聞く日まで
私たちは、一人一人が先駆者になろう。
仕事は辛いぞ。苦しいぞ。でも自分だけのために
生きていることではないことがわかれば、必ず道はひらく。
少し疲れたら夕日を仰ぎ美味しい一杯をやろう。
新しい道を踏み出す君に乾杯。

伊集院 静

 

「自分だけのために生きていることではないことがわかれば、必ず道はひらく」。この言葉に感銘を受けました。働くことは「ハタの人を楽(ラク)にさせること」が原点です。この精神を仏教では「利他(りた)」といい、天台宗開祖・最澄(さいちょう)さまの「好事は他に与え、悪事は己に迎え、己を忘れ 他を利するは 慈悲の極みなり」という教えが由来となります。平たく言えば 自分のことは置いておいて、とにかく人のためになるようなことをしましょう!っていう意味になります。

” 利他 ”の譬えとして、祖父からこんな話を聞いたことがあります。「実は地獄と極楽は、見た目だけからしたらそれほど違いはない。どちらにも大きな釜に美味しそうな「うどん」が煮えている。そして、みんなが1メートルもある長い箸を持っている。地獄の住人は、われ先にと箸を突っ込んで食べようとするが、箸が長すぎて自分の口にうまく運べず、そのうちに、他人の箸の先のうどんの奪い合いを始めてしまう。結局、ちゃんと食べられなくて、うどんを目の前にしながら、誰もが飢えて痩せ衰えている。ところが極楽では、誰もが箸で掴んだうどんを、向かい側の人に先に食べさせてあげている。だから全員がうどんを食べられて、満ち足りているのだ」と。

同じ環境で仕事をする人でも、差が出てくるのはここからだと思います。皆さんの身近にもいらっしゃいませんか? 自分を守るためだけに生きている人・・・(笑)。本人は 世界で一番仕事をしてる感覚ですが、こういう方は、残念ながら ” 利他の心 ” ではありません。利他の反対は ” 我利我利(ガリガリ)” と言って、心が貧しい人を指します。

伊集院 静氏の「自分だけのために生きていることではないことがわかれば、必ず道はひらく」。この言葉は深いなぁ・・・と思い 拝見させていただきました。新社会人への最高のメッセージだと思います。合掌

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素直な心

4月になりました。新年正月は 自らの内面を切り替える時期ですが、新年度は 環境自体が変わる月となります。奉職寺院にも ある企業が新入社員研修の一環で 参拝に来られました。立場上、助言を求められることがありますが、私は 「素直な心」が大切だとお答えしています。

その実践は「挨拶(あいさつ)」から始まります。この言葉はもともと仏教の言葉だということはご存じでしょうか。禅寺で行われていた問答が由来で、「挨」は押す「拶」は迫るという意味です。自らの心を押し開き、相手に迫る(コミュニケーションを交わす)のが挨拶です。” 心のドアノブは内側にしかついていない ”という言葉がありますが、まず自ら心を開くことが全ての基本だと存じます。

松下幸之助氏は「素直な心というものは、すべてに対して学ぶ心で接し、そこから何らかの教えを得ようとする謙虚さをもった心である」「素直な心というものは、広い視野から物事を見、その道理を知ることのできる心である。素直な心がない場合には、とかく物事にとらわれがちとなり、ついつい無理をしてしまうことになりやすくなる。素直な心になれば、すべてに対して順応していくことができるから、何でも自分の思い通りにすることができるようになる」とお説き下さってます。

物事には道理(物事のそうあるべきみちすじ)があります。道理に従えば順調に進む。道理に逆らうと無理が生じ、思うようにはいきません。たとえば、人に不満があるからと言って相手を変えようとしても無理な場合がほとんどです。人にイライラしてしまうのは(無意識に)相手が変わることを期待しているからです。「相手がそのままでいい」と思えるのなら、そんなにイライラしないはずです。人にイライラしたくないのなら相手が変わることを期待するよりも自分(の考え方)を変えるほうが道理ではないでしょうか。

私は新年度になると、いつもこの言葉を反芻します。4月は心のドアを開いて世の中に順応する時期だと存じます。皆様、御自愛の上、精進なさって下さいませ。合掌

オアシスあいさつ運動  オ「おはようございます」 「ありがとうございます」 「失礼します(失礼しました)」 「すみません(すみませんでした)」

 

 

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一つの言動が未来を変える

今月9日、京都・太秦映画村東側の住宅で殺人事件が起きました。まだ記憶に新しいと思いますが、クリーニング店の店主が隣家の男性に包丁で刺され亡くなった事件です。私は5年程前まで6年間、 この町内に住んでいました。殺された店主は私の二軒隣の方で、大変お世話になった方でした。報道の通り、よく声をかけてくださり ” 地元の顔役的な存在 ” でした。そして犯人は・・・実は、私の隣に住んでいた方だったんです。ですからこの事件はとてもショックでした。

店主との思い出は尽きませんが、ある時 こんな会話がありました。私がその地域に住んで1年程した時、隣家の方が引越しをされました。その時、この店主が 私の将来を考え「その家を買ってみては?」と強く勧めて下さることがあったんです。色々悩みましたが 断念後、その容疑者が入られました・・・今から思うと、もしあの時、家を購入していれば未来は変わったんだなぁ としみじみ思います。

選挙の時、” あなたの一票が未来を変える ”というキャッチフレーズをよく耳にします。その時は「まさか!?」とは思いますが、今回の体験により、一見 意味のないと思える行動でも、着実に未来は変わっていくのだと確信をしました。また、僧侶をしてますと「あなたの一言に救われました!」とわざわざ御礼を言いに来て下さることがあります。忘れていることも多く 気恥ずかしく思っていましたが、今回の事件で 日々の言動は大事にせねばならないと肝に銘じました。

以前のブログでも述べましたが、ひとりの人間は、家族や友人、知り合いなど、およそ300人と深いつながりをもって生活しているといいます。つまり ひとつの言動で、300人に直接影響を与えることができるのです。さらに、その一人ひとりがまた別の300人とつながりをもって生きているわけですから、300人×300人で、ひとつの言動が9万人に伝染する計算となります。

覚えておかなくてはなりません。私たちは9万人以上の人とつながっているのです。

人間は完全な言動ばかりできませんが、各人の言動によって補い合い、世の中が少しでも明るくなるよう祈るばかりです。今回、被害に遭われた店主のご冥福を心よりお祈り申し上げます。南無阿弥陀仏

 

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3度目の追悼法要

本日、西願寺で東日本大震災追悼法要を勤めました。あれから3年の月日が経ちました。この ” 3年目 ” というのが、物事を継続するのに大事な時期となります。例えば法事。丸2年の3回忌までは 熱心に勤められますが、3年目からは 手を合わされる機会が減ってくるのが現状です。また この時期から震災の意識や報道も惰性的になりつつあります。

諺にも「石の上にも3年」、「3つ子の魂百まで」とあります。また 例えは悪いですが「3年目の浮気」という歌もあるほどです(笑)。つまり 物事を継続するのに3年目に入れば、もう一時の気まぐれではなく 継続することに意味が出てきて、それが大事な習慣になってくる。これが3年目の意義です。そんな中、今回の法要は 広報や組織の力を一切借りず 口コミでだけで、41人の方々にご参集くださいました。震災物故者の霊も さぞかしお喜びのことと存じます。ご参列の皆様には、心より感謝申し上げます。

実はこの法要は、寺内の者だけでも勤めようと思っていました。もし参詣の方があれば、琵琶説教を法楽にしようと思っていましたが、当日、飛び入りで 岡田さま、浅尾さまにハーモニカの奉納演奏をしていただきました。哀調のある音色で、場内があたたかな雰囲気になりました。また 昨年に引き続き、京都の里田さま御一行からボタモチの供養がありました。有志の方々と早朝から作って振る舞って下さり 大好評でした。

私が目指しているお寺は、みんなで作り上げていくものだと常々思っていましたが、本日  その形が見えてきたような気がします。これは震災被害者と、本日参詣の皆様との「出会い」によって できたものです。現代人が忘れかけてるもの、大切なものを思い出させてくれてくれた気がします。また来年も勤めます。また皆様の力で法要を作りあげたいと思っています。3度目の法要で多くのことを学ばせていただきました。合掌

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日本から学ばない日本人

連日、ソチオリンピックが放映されています。眠い目をこすりながら応援されている方も多いのではないでしょうか。今まで練習してきたことを存分に発揮できた選手、惜しくも実力を出しきれなかった選手は色々ですが、国の代表として 懸命に競っておられる選手のおもいを察しますと 頭が下がります。近年はオリンピック以外にも、スポーツ選手のグローバル化が進み、海外に進出する日本人が増えました。流暢な言葉が話せるか否かはともかく、自分を持ってる(母国の精神や文化を発信できる)選手は 魅力があります。

少し前になりますが、「日本人は なぜ日本から学ばないだろう ー 日本文化の根底を知ることがグローバリズムの出発点 ー」と、外国人教授が語っている大学案内を見かけました。実に簡潔ながら意味深い言葉だと思います。なるほど 小学校の教科書では、マザーテレサやキュリー夫人の外国人が多く副読本に取り上げられ、また 中学校家庭科の教科書には、バレンタインデー、ハロウィーン、クリスマス・イブは載っていても、日本古来の伝統行事である”花まつり”や”重陽の節句”については触れられていません。

古文の授業でも同じです。たとえば、このブログのタイトルに選んだ『方丈記』は、平安時代末期の都を襲った五大厄災(火災、地震、竜巻、飢饉、遷都)を、ルポライターのように鴨長明(かもの ちょうめい)が記したものです。彼が「諸行無常」と向き合いながら、人はいかに生きるべきかを『方丈記』に込めたことに感銘を受け、ブログのタイトルにしました。しかし現代人は、暗記が主流で、編著者と書名は線で結べても、その真意である震災に対する心構えや対応までは学ぼうとはしません。これは、日本の古典は古臭いものという風潮で、先達の体験や知恵を無視し、否定してきた結果ではないでしょうか。

西願寺では微力ですが、このたび3年目となる東日本大震災の追悼法要を勤め、その時代に生きた者として 何か教訓を残せればと思っています。「琵琶説教」は、琵琶で物語を語り、長きにわたり 様々な時代の苦難や困難を超え、必死に生き抜いてきた日本人のおもいを紹介します。今回は『隅田川』です。お時間のある方は、ぜひ ”日本” を体験しに来て下さいませ。合掌

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ヘッドピンの法則

前回、ぎっくり腰の話をしましたら、多くの方から励ましや お見舞いの言葉をいただきました。おかげさまですっかりよくなりましたが、油断せずに精進して参ります。

腰痛時にお世話になった整体の先生は、私と同年代の方でした。お互い あと数年で厄年ということもあり、無理は禁物!という話になりました。「40歳前後になると、若い頃のように無理がきかなくなる。しかし 社会的には まだまだ若者で、ストレスのかかる仕事がどんどん舞い込んでくる。弱音は怠惰に思われ、また自らも体力低下を認めたくない。そして無理に無理を重ねることによって心身に支障をきたす。これが ”厄の正体” ではないか?今回のぎっくり腰はその警告である」というのが二人の結論でした。結局、災いの正体は 様々な ” ズレ ” によって起こるということです。厄年でしたら体力と精神(年齢と経験)のズレ。また、ぎっくり腰も腹筋と背筋(筋肉と骨)のズレというように、人生は 物事の ” ズレ ” というものを最小限に抑えることが大切なんだと思います。そのためには、年相応の ” 力み加減 ” を極めなくてはなりません。

前回のブログで学んだ「運(ツキ)」。ツキの大切さを啓蒙されてる斎藤一人さんの教えに「ヘッドピンの法則」というものがあります。ヘッドピンとはボーリングの1番ピンのことで、先頭の一番手前にあるピンのことです。そのヘッドピンをうまく倒すと、後ろのピンが全部倒れる。そこを狙えという法則です。しかし経験の浅い者は、力任せに端っこから一本づつ倒そうとする。それでは効率が悪い。本当に成功しようと思うならば、10回投げるのでなく、” 渾身の一投 ” で 感動の連鎖 を起こしなさいというのです。

年を重ねるというのは、どの年代でも 様々なジレンマが起きることだと存じます。しかし真理のヘッドピンを狙い続けることによって、「見抜く力」と「倒す力(感動の連鎖)」が磨かれていくんだと思います。それが ” 智慧 ” というものではないでしょうか。心身に余分な力を入れず、はつらつと生きていく…これが物事のズレを最小限に抑える妙法だと学びました。合掌

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