交ぜ書き語

先日「地蔵盆」を勤め、ようやく盆行事が落ち着きました。地蔵盆は関西の風習で、子供のお祭りです。普段 お寺に縁のない子達も、健気に手を合わせてくれました。どれだけ時代が変わっても、このような機会は必要だと思います。子供達の幸せを 心よりお祈りしました。

さて、子供の地蔵盆にちなみ、最近 気になっていることを述べます。それは「子供」という字。昨今、テレビや新聞など各メディアの報道で、「子ども」という“交ぜ書き語” がよく見られます。その理由は 、「子ども」の方が優しい印象を与えるといった理由や、「供」は「大人のお供(とも)」「子どもを供える」を連想させて人権侵害にあたるという言い分だと聞きました。私は「『供』は『人と共にあり』」と教わった世代なので、正直 混乱しています。また 知人は「試験で子供と書いて減点になった」というから驚きです。 “交ぜ書き語” の是非はわかりませんが、言葉は国の根幹です。しっかりとした議論もなく、 ふぁっとした民意 で 日本の基礎が変わるのは 危ないことです。私は 政治家や学者でもありませんので 中道の立場ですが、まず「基本に忠実」ということを忘れては、世の中がバラバラになると思いました。

琵琶説教の際、たまに依頼者から「宗教の話だけはやめてくれ」と釘を刺されることがあります。宗教家に宗教の話はNG・・・笑うに笑えません。これも ふぁっとした民意 で、「宗教=悪しき洗脳」と思ってらっしゃっるのだと存じます。そう考えると、子供が感謝を捧げる地蔵盆は 悪しき洗脳になるのでしょうか。「偏った教育」と「悪しき洗脳」は紙一重です。戦後、人々が何の問題意識もなく行動してきたところに、今日の教育が歪みが出てきたのは間違いありません。「世の中が何となくそうだから・・・」という判断で皆が動くと、この国の基軸がなくなってしまいます。

昨今は、国際化が叫ばれて久しいですが、まず「基本に忠実」こそ 国際社会に対応する第一歩ではないでしょうか。まず この国を知ることです。幼少期からの英語教育も結構ですが、それ以上に母国語は大切です。”交ぜ書き語” は、無頓着な方から信条をお持ちの方まで様々だと思いますが、これこそが 現代の縮図だと思いました。合掌

このほど、下村博文 文部科学大臣が、文部科学省で公用文を作成する場合には「子供」と表記するように省内で指示を出されたようです。

 

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パレートの法則

昨日で西願寺の盆行事が終了しました。もちろん、他寺院への盆手伝いは まだまだ続きますが、今年も主催行事を無事に勤められたことに安堵しています。盆行事は 分刻みのスケジュールで、その間に 通常の仕事も同時進行です。限られた期間で、何百軒というお詣りです。どんな状況でも、人々に「手を合わす心」を持ってもらうようにするのが僧侶の真骨頂ですが、人間の「時間」や「体力(精神力)」には限りがあります。奉職寺院の若い僧侶は、お盆での檀家さまとのやりとりに苦しみ、そのコツを聞いてきました。

「パレートの法則」(80:20の法則)というものがあります。これは「世の中の出来事のうち、80%のことは20%の要素が握っている」という法則です。

・事故の80%は、20%の部品が原因で起こる。
・税金の80%は、20%の上位所得者が払っている。
・営業利益の80%は、上位20%の営業マンが稼いでいる。
・売上げの80%は、20%の優良顧客の買い物が占めている。

このように、物事にはツボとなる部分(20%)が必ずあります。つまり、重要な20%を押さえれば、80%の成果を得ることができ、その分、時間や体力を多方面に使うことが出来るという法則です。お盆の時期は、一極集中で 1軒に100%の力を使い果たすことはできません。読経など基本的なことはもちろんですが、究極的には 表情や振る舞い、また 一言が大事になってきます。各家の救いや安心(2割の核心)を探し、8割方お答える努力をするのです。これは決して手を抜くということではありません。80点を目標に置くようになれば、80点以上の結果を求めることがいかに大変なものかが分かってきます。そうすると、80点で割り切るということができるようになってくるのです。

玉井史隆氏(「備忘録」)の例えを拝借すると、家族や友人との関係の中で、自分の要求を通したい時とあります。そんな時、揉めてしまったり、ケンカになってしまったりすることがあります。でも注意深く観察してみると、要求に対して何もかも反対というケースは少なく、大抵は一部の争点で揉めてしまっていることに気が付きます。その争点を譲らないから、お互いにケンカになるのです。80点の割り切りができている人は、100点を手に入れることがいかに時間と体力のいることかが分かっていますから、その争点を除いて80点くらいになるのであれば、それ以上争うことはしません。これは、人間関係に使う労力を減らすうえで 大変役に立ちます。無用な争いを避けることができ、大事な資源である時間と体力を無駄に使うこともありません。

結論を述べますと、人間は 80点をどの辺りに置いてるのかということです。いわゆる「80点の質とセンス」、それと「何としても80点を取るという情熱」。これがその人の魅力だと思います。「パレートの法則」を意識すると、結果的に20%の「時間」と「体力(精神力)」で多くの方を救えるのです。お盆に辺り、悩める後輩に こんな話をしました。合掌

 

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人生は「宝探し」

最近、よく言われる言葉があります。「和尚はええなぁ・・・定年がないから」。本音だと思います(笑)。長年勤めた会社を定年し、第二の人生に向け、試行錯誤をされてる団塊の世代の方々が多いようです。

「定年後の自由な時間」について、ある人がこう述べてました。”現役時代、週休2日で40年勤めた人の過ごした休日は4400日。60歳で退職し、80歳までの20年間は7300日。定年後の方が圧倒的に時間が多いのです。この時間を上手に活用し、充実した第二の人生を過ごせるかどうか、それが大問題です” 引退と共に自由な時間を手にしたと言っても、少々の無茶もできた若い頃と違い、経済や健康などあらゆる面で、不測の事態に備えねばならなくなります。人生は有限であり、終末を意識すれば、残された時間はそう多くない。その中で、悔いなき選択をどうすればよいのでしょうか。

私は、人生は「宝探し」だと思っています。人類最高の悟りを開かれたお釈迦さまは「南無阿弥陀仏」の宝を見つけられ、生涯をかけお説き下さいました。考えて見ますと、定年後の時間は7000日余りですが、死後の時間は無限です。その死後の世界を絶対の幸福にして下さるのですから・・・お念仏の教えは、大宇宙最高の宝であります。金や財、名誉や地位などは、苦労して手に入れても、思わぬ天災人災で一瞬にして消え失せます。どんな豪邸のマイホームも、マッチ1本で灰になる。形あるものは、盗まれ、流され、焼かれ、やがて消えてしまします。死ぬ時には、1円も持ってはいけません。これらの宝では、私達の本当の安心や満足を得ることが出来ないのです。

しかし、生前から「南無阿弥陀仏」と一体になれば、焼けもせず、流されもせず、盗まれもしない、いつも満ちている無上の幸せに生かされます。お念仏は、学べば学ぶほど深いものであり、社会の知識とは全く異なる智慧を味わえます。時代は良くも悪くも変わってしまいます。当時の常識(宝)を印籠のようにかざしても、今の若者には、”猫に小判”、”豚に真珠”・・・摩擦に苦しみ、自分の存在価値を見失いがちになります。やはり、この世とあの世を貫いた宝こそが本物です。それこそが不変の宝です。最期に笑うのは、”大宇宙最高の宝(南無阿弥陀仏)”と一体になった心の長者に他なりません。

定年後の生き甲斐が「お念仏」という方が、少しでも増えるように精進します。合掌

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天才とは「100%今に集中する力」である

昨日、祖父母の13回忌法要を親族で勤めました。先日は母方の祖母の満中陰でしたが、今回は父方で、祖父は私の師僧になります。この法事に辺り遺品を整理をしてると、一枚の写真が出てきました。それは 私が赤ちゃんの頃の写真で、ハイハイをしてる私を微笑ましく見ている祖父母の光景でした。物心がつく前から可愛がられていたんだと、改めて感謝の心が湧き上がってきたと同時に、ふと こんなことを思いました。それは、この頃に 現在の自分が想像できただろうかということです。

ひすいこたろう氏の小話にこんなものがあります。もし、赤ちゃんが話すことができたら・・・「いつか君はね、立ち上がれるようになって歩けるようになるよ」と声をかけたら、赤ちゃんはこう言うのではないでしょうか。「バカいっちゃいけない。ムリムリムリ。ハイハイだけでも精一杯なのに、立ち上がるなんて、絶対ムリ。まして歩くなんてムリムリムリ(笑)」ハイハイしかできない赤ちゃんからしたら、立ち上がって歩くって、まるでサーカスでも見ているようなものでしょう。

でも、現在の私は 歩いてます。赤ちゃんの頃に思えば 奇跡に思えるようなことが、当たり前の現実となっています。それは よけいなことを考えず、ただひたすら今できることをやってきた結果、いつの間にか立ち上がり、いつの間にか歩き出し、今では車の運転もし、また僧侶にもなっています。思えば子供の頃は、一見 ムダに思えるような行動に没頭してました。それは 余計なことは考えず、目の前の一歩を楽しんでいたのです。しかし 大人になれば、失敗や周りの目、後悔等が先に浮かび、行動範囲がどんどん狭くなってきます。もし、今も100あるエネルギーを目の前のことに 純粋に注ぐことができれば、人は知らず知らずのうちに夢が叶っているのだと思います。こたろう氏いわく、今、目の前のことに100の力を注げる人を「天才」というのだそうです。

天才とは「100%今に集中する力」である・・・これは皆が生まれもった力ですが、経験と共に忘れていくのは寂しいものです。しかし、南無阿弥陀仏は教えてくれます。よく見ると「お念仏」の「念」「今+心」という字で出来ています。あるを目一杯、様に伝え、救いを求めるのが念仏なのです。言い換えれば、100あるエネルギーを目の前のことに純粋に注ぐことができる修行が、南無阿弥陀仏なのです。無我夢中で念仏を唱えることにより「絶対の幸福」へのレールが引かれているのです! 私が現在、お念仏を唱えられるようになれたのは、多忙だった両親にかわり、手を合わせる環境で育ててくれた祖父母のお陰です。赤ちゃんの頃の自分に「お前は幸せなんだぞー!」と伝えてやりたいです(笑)。悩みは尽きませんが、今に集中して念仏を唱えている時は、阿弥陀様や先祖と繋がっている瞬間です。このような尊い教えに出会い、本当に幸せだと この度の法事で再認識しました。合掌

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万人に愛される90点の精神

昨日、寺庭婦人会 近畿地区研修会において琵琶説教をさせて頂きました。今年は滋賀県が当番ということで、近畿の浄土宗寺院の奥様方が約550人 琵琶湖ホテルに集まられ、法然上人のご遺徳を偲びました。私の出番は 「今年の漢字」で有名な 清水寺貫主・森清範師による ご講演の後で、皆様の念仏に迎えられ ステージに立ちました。滋賀教区の講師として 若輩者が 大役を頂いたこと、まさに感無量でした。

説教前、貫主さまから「あなたのモチベーションは?」と尋ねられ、「ワクワク感です!」とお答えしました。僧侶ですので、法を説くことが前提の生活ですが、どうしたら 楽しく布教ができるかを いつも考えてきました。琵琶説教の制作は大変ですが、苦と思ったことはありません。それは「(法話や芸を)極める」のではなく「(楽しく)伝える」ことを旨としてきたからだと思います。未熟な点が多いことは重々承知してますが、やはり、ワクワク感が伝染する気持ち での布教活動が、私のモチベーションでした。

滋賀県を代表するラーメン店の一つに「來來亭(らいらいてい)」があります。豆田敏典社長のお言葉を紹介します。

「少数に支持される100点の味より、万人に愛される最高の90点を目指す」

これは、人気取りのポピュリズム精神ではありません。満点を追求するあまり、自己満足になってはいけないという意味だと存じます。たとえ一部のマニアに認められなくても、多くの方に愛されることの重要性を説かれているのです。これは お念仏の教えにも通じます。南無阿弥陀仏のみを唱える修行は、あらゆる仏道に精通した人にとっては 頼りなく思えるかもしれません。しかし この世で悟れなくても、来世、極楽浄土で悟ることが出来れば、結果は同じです。同じどころか、救済力でいえば「万人が救われる念仏」の方が優れているといわざるをえません。

私の布教方法は、法話や琵琶を専門にされてる人々からは支持されにくいと思います。たまたま僧侶と琵琶をしていたラッキーボーイ的な存在でしょう。しかし その強みは、琵琶ファンや浄土宗の方のみならず、他宗教、一般の方々にも伝道しやすい環境にあることです。私は、常々 布教や琵琶を極めた方との架け橋となり、多くの方に仏縁を結んでいきたいと考えています。未熟な者だから出来ることがあると思うのです。行動を起こさず、評論ばかりする若者が多いですが、まず自分は世の中に何が出来るのか?ワクワク感をもって一歩踏み出しては如何でしょうか。合掌

 

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正しい信心

昨日、4月25日に往生した 祖母の四十九日(満中陰)法要を勤めていただきました。通常は 私自身が導師となり、遺族に法を説く機会が多いのですが、今回は参列の立場となりました。母方の祖母は真宗寺院の坊守でしたので、浄土真宗(同じ南無阿弥陀仏)の御法話を 新鮮な気持ちで拝聴しました。有り難かったです。

我々僧侶の法話は、すべて「信心」の話で帰結しますが、遺族からは必ずと言っていいほど「いやー、私は無信心なもので」という言葉が返って来ます。私は この言葉を聞くにつれ、おかしくてなりません。というのも、私達は何かを信じなければ、一日たりとも生きていけない存在だからです。例えば、我々は健康であれば 明日も生きておれると 命を信じて生きています。そうでなければ 一時間後の約束すらできないはずです。また、夫は妻を 妻は夫を信じ、子供は親を 親は子を信じて はじめて家族が成り立ちます。あるいは、お金の信心もあれば、地位や名誉の信心もあります。宗教を否定する共産主義者は、共産主義を信じている人達です。ですから、神や仏を信ずるのみが信心ではありません。何かを信じていれば、それはその人の信心です。無信心などあり得ません(笑)。つまり「生きる」とは、まさしく「信じる」ことなのです。

おそらく 無信心だという遺族は、神仏など信じないという意味で言っておられるのでしょうが、どうせ「信心」を持つならば、やがては裏切られるものを信じて生きるのは愚かなことです。では、この世で 信じても後悔のない、絶対に裏切ることのない信心はあるのでしょうか。結論を急ぎますと、それは「死」というものを超越したものでないといけません。なぜなら 上に紹介した信心は、死ぬ時に 何のあて力にもならないからです。人間の苦悩は、信じていたものに捨てられたことから生じます。しかし、この今 死ぬという時でも 絶対に崩れぬ信心、それが「南無阿弥陀仏の信心」であります。今日は詳細を説きませんが、祖母の満中陰法要にて、改めて 今の世界はもちろん、死後の世界も救われる「正しい信心」を教わりました。

正しい信心。「正」という字は、「一に止まる」を書きます。つまり、正しいものは「1つしかない」ということです。2つも3つもあるものではありません。人間、何を信じても自由ですが、「死を超越した信心」だけは離してはなりません。坊守であった祖母は、いつもお念仏を唱えていました。この「正しい信心」を、生涯をかけて教えてくれたような気がします。尊い財産をありがとうございました。また、極楽浄土で再会する日を楽しみにしています。合掌

 

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物語から学ぶもの

先日、山口県の大島に「琵琶説教」へ行って来ました。大島は 瀬戸内海に浮かぶ大きな島で、独自の文化が発達した 信仰熱心な地域です。お寺に5日間泊まり込んで、昼晩…8席を各1時間の説教でした。もちろん檀家さんが対象ですので、違う内容を8席です。今回は「法然上人御一代記」を8つに構成し、法然さまのご苦悩や悟りを琵琶で表現し、当時の日本へタイムスリップしていただきました。

私の筑前琵琶は”物語を語る楽器”です。古来より、心の重要な問題を人に伝える時には、物語が使われてきました。お釈迦さまのお経はもちろん、聖書の中のイエス・キリストの言葉も小さな物語の集まりで、それによって真理をお説き下さいます。なぜなら、心の問題は 数字化すると、独断や誤解、矛盾が生じるからです。デジタル化した現代では、頼りなく思えるかもしれませんが、心の問題は 数字では現せません。

例えば心拍数。心臓の動悸が激しい方も 理由は様々です。そのドキドキは 恋愛による嬉しさによるものなのか。あるいは 嫌な仕事の緊張からきているのか。まったく対極にある2つの状態でも、データにすれば同じ心拍数です。どれだけ精密な機械で測定しても、数値だけでは 心を外から判断することはできないのです。

その点、 琵琶は物語を語り 真理を伝えます。アナログな楽器ですが、演奏者による語りと、琵琶の音色による情景描写が一体となることで、一瞬にしてその場の空気が変わり、感情移入させられるのです。見えざる世界を、まるでその現場を見ておられるかのように涙を流されます。私自身、まだまだ精進が必要ですが、「法然上人御一代記」を制作し、日本有数の信仰ある寺院で長席の説教ができたこと、これは大きな自信に繋がりました。今後、数値では表しにくい真理を、もっと表現していけるようになれればと思います。すべてが経験です。大島の皆さん、大変お世話になりました。今回もお育ていただきました。合掌

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端午の節句(こどもの日)

「端午の節句(たんごのせっく)」です。「端」は「はじめ」という意味で、月の初めの「午(うま)の日」「端午」といいます。古代中国では、5月は物忌みの月で、「午」は「五」に通じることから、「重日思想(じゅうじつしそう)=数字が重なると不吉なことがおこる」という影響もあり、5月5日が「端午の日」とされ、邪気を払う行事が行われるようになりました。

邪気払いの方法は色々ありますが、古来より 強い香気が厄を払うとして、菖蒲湯(しょうぶゆ)に入ることで 無病息災を願う風習が残ります。鎌倉時代になると、葉が刀のような形をした「菖蒲」を「尚武=武を尚ぶ」とかけて、武具を飾って祝うようになったのが、現在の「兜(かぶと)」を飾る由来と云われます。また、江戸時代には勝負(しょうぶ)に勝つようにと、男の子の誕生を祝うようになったのが、現在の「こどもの日」に通じると云います。こう考えると 先人の様々な思いが、現代に影響してるんだと つくづく感じます。

このゴールデンウィークで 海外に出られた方も多いと聞きますが、逆に日本の素晴らしさを知るよい機会になったのではないでしょうか。最近は 他国との国防・領土問題、自主憲法の制定、主権の回復 等のニュースが盛んに報道されますが、その根幹は 日本の歴史と文化へ誇りを持たなければ解決できないことばかりです。我々は歴史の中に生きています。時間は現行進行形であり、その節目節目に、歴史を振り返り、教訓を学び、未来に活かさなければならないと思います。

本日は「こどもの日」でもあります。私が子供の頃、あるCMで「わんぱくでもいい。たくましく育って欲しい」というフレーズが流行りました(笑)。まさしく「鯉のぼり」はたくましさを表します。鯉が「登竜」というという激流を登り、竜になったという故事から、立身と健やかな成長を願うシンボルとなった云われます。将来の国を担うのは子供たちです。日本国の良さを共々に学び、社会全体で期待を託したいものです。合掌

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伝統の精神

新年度となり、新たな環境で精進されてる方も多いことと存じます。奉職寺院にも新僧侶が2人 修行に来ました。なかなか優秀な人材ですが、この緊張感が永く続くことを願います。この時期にいつも思うのは、指導の難しさです。最近、体罰問題が大きく取り上げられていますが、かといって「どんな問題を起こしても排除されることはない」という安心感は、甘えを生じさせます。安住してあぐらをかけば、人間 そこでおしまいです。上に立つ者も、信念がなければ 指導が難しいのではないでしょうか。

その点、お寺の良さは「伝統」があるところです。「住職」というように、寺院に住んで 精神を守り続けてくださる存在は尊いものです。学校では、校長が同一校に5年以上勤務することはまずないようです。このことから、公立学校では着任した校長が長期展望に立って戦略を描くことが出来にくいと聞きます。生前、校長をしていた祖父は、問題さえ起こさなければ「論功行賞」として本人が望む学校に移動できる・・・これでは管理職の「事なかれ主義」や「隠蔽体質」が助長され、学校経営が守りの姿勢になり、積極的な「校風の継承」が出来なくなると嘆いていたことを思い出します。

こんな言葉があります。「一年先を思いては花を育て、十年先を思いては木を育て、百年先を思いては人を育てよ」

私達は、日々の安寧を当たり前のように考えますが、それらは歴史の積み重ねの恩恵であり、先人、先祖への感謝を忘れるべきではありません。自分だけが良ければ他がどうなろうと構わないという考え方では、安定し、秩序が保たれた豊かな社会を築くことはできません。それぞれが自己の責任を果たし、国や社会、他の人々のために自己犠牲を厭わない人材が多ければ多いほど、社会は豊かになります。

新年度に入り 新僧侶が入ってきましたが、「伝統の精神」を伝えられればと思っています。こちらも勉強です。合掌

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清明

「清明(せいめい)」です。全てが柔らかな「光」に照らされる頃をいい、様々な花が咲き乱れ、絶好のお花見シーズンです。京都 嵯峨野にある 奉職寺院の桜も満開で、多くの観光客で賑わっています。

ところで、光を観ると書いて「観光」ですが、この語源はご存じでしょうか。この「観光」という言葉は、中国の『易経(えききょう)』という古い書物にでてきます。元々は「君主の威る」。つまり、観光とは 本来、人の魅力を見に行くという意味だったのです。先日の西願寺チャリティーコンサートでも、琵琶を聴かれた参列者が「観光地に来たみたいや」と喜んで下さいましたが、本来の観光とは そのような感覚ではないでしょうか。遠くの名所に行かなくても 人の魅力に出逢えれば、それが観光となるのです。

確かに「光」という文字は、「人」の頭の上から5方向へ光線(オーラ)を発する様子を表した象形文字です。また、仏像の後ろの光を「五光(ごこう)」といいます。[後光、護光、御光とも] つまり、自らが光れば、その光は 関わった人すべてに共鳴するものであって、人間はその「光」を出す努力を 惜しんではいけないと思います。実際、オーラが出ている人の元には、光見たさに 沢山の人が集まります。

陶芸家の河井寬次郎先生は「一人光る。みな光る。なにも彼も光る。」という言葉を遺してらっしゃいます。職場の中でも、みんなでやろうと言わなくても、私一人、まずコツコツとやる。そのひたむきな姿に共感者が現れてきて、いつの間にかみな光る。そして、さらにそれを徹底して継続をしていると、何もかも光るようになる。この順番です。人間は 義務や役目でやらなくてもいいことがどれだけやれるか ということが人格(オーラ)に比例しているのだと思います。

お念仏も同じです。僧侶は南無阿弥陀仏を多く唱えて 偉くなったように錯覚しますが、そうではありません。法事等でのお役目の念仏は 多いかもしれませんが、自らの念仏をどれだけ唱えているかと言えば 汗顔の思いです。そう考えるならば、我々も一般の方と同じ条件です。もっと謙虚にならねばなりません。自らが光るように、また 阿弥陀様の慈悲に照らされて輝けるように精進したいものです。「清明」 の「光」が目映い時季に、改めて自戒しました。合掌

 

 

このブログで、一年間の二十四節季を紹介させていただきました。今後は、年中行事を中心に綴っていきたいと思います。よろしくお願いします。再拝

 

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