教育勅語

最近、よく尋ねられることがあります。それは「宗教を抜きにして、人として誇れる生き方を教えてほしい」「時代に左右されない真っ当な生き方はないのか」という問いです。私に宗教を抜きにしてというのは失礼な話ですが(笑)、一般の方が 宗教の話をすると 変人扱いをされる・・・悲しいですが よくわかります(汗)。僧侶である私は、「どう生きるのか」ではなく「なぜ生きるのか」を説く立場ですが、現代社会には、それ以前の ”生き方の指針” がないのかもしれません。そう言う時は、やはり この国の原点(基本)に戻るべきではないでしょうか。

日本は 明治維新の後、近代の学校制度が始まりました。しかし、当時の学校では、人として「どう生きるべきか」ということについて学ぶ機会がなかったそうです。そのため、明治20年頃の学校の現場では「人としてどう生きるべきかについては、教師も生徒も向かうべき方向も分からず、あてもなく漂う船のように途方に暮れている」(能勢栄『徳育鎮定論』)状況でした。

そうした状況に、日本人らしい生き方の指針を確立し、実行することが期待される心の教育を、明治天皇から直接、国民に賜ったのが『教育勅語』でした。本文は315字からなり、大正生まれの祖父は暗記し、心の糧 としていたのを記憶しています。いらぬ解説は無用ですので、現代語訳をご紹介し、今回のブログとさせて頂きます。合掌

『教育勅語』(現代語訳)わたくし(明治天皇)は、わたくしたちの遠いご先祖様が、大きな夢や希望に燃え、どこにも負けないすばらしい国をつくろうと、この日本の国をおはじめになったものと考えます。その限りない理想のもとに、何億何兆というこれまでこの国に生きた先人たちは、自分一人のことよりも国の平和にとって大切な考え方を重んじてきました。そしていつの時代も変わらず心を合わせて努力し、今日に至るまで、人として美しい生き方を継承してきたことは、この日本の国のすぐれた国柄と言えます。このように一人ひとりが善く美しく生きることであり、品格のある国柄もまた、一人ひとりの生き方の結集であると言えます。

そこで国を挙げて、皆で次のことを心掛けていきましよう。子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹はたがいに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく、友人はともに信じ合い、自分の言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、仕事に専念し、教養を高め、人格をみがきましょう。さらに進んで、社会公共のために貢献し、また法律や、秩序を守ることは勿論のこと、国が大変な状況のときには、真心をささげて、その平和と安全のために奉仕しなければなりません。それが国民としてのつとめであり、私たち祖先が残された日本人としての生き方を、未来の子孫に伝えていくことにもなります。

このように日本人として歩むべき道は、祖先からのバトンとして、私たちが子孫に受け継いでいけなければなりません。そして、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本だけでなく、外国に行っても、人として決して間違いのない道です。わたくしもまた、国民の皆さんとともに、父祖の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から願うものであります。

 

本日、10月30日(明治23年)は 丁度、『教育勅語』が施行された日であります。皆で「生き方の指針」を今一度 考えみましょう。再拝

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勝林院一千年紀

昨日10月10日。京都大原・勝林院(しょうりんいん)で「開創一千年紀 慶讃法要」に出勤し、琵琶説教を勤めました。この地は、お経を独特な節回しにのせて唱える「声明(しょうみょう)」発祥地として有名です。声明は、琵琶や能、浄瑠璃、そして民俗芸能に大きな影響を与えた ”日本音楽の原点”と言っても過言ではありません。一千年紀は 各宗派の代表が日替わり出演し、声明法要をなされます。10月5日から20日まで勤修されますが、私は「節談説教」と並び、法要ではなく 説教形式の出番でした。琵琶説教を開創して丁度10年。そうそうたる皆様と名を連ねることができ、感無量です。

この勝林院は、法然上人が名だたる高僧と議論を交わした「大原問答(談義)」の舞台でも有名です。時は文治2年(1186)。当時、お念仏の教えを掲げ注目を集めていた法然上人(53才の御時)が勝林院に招かれ、秀才と評される名僧が集まる中、南無阿弥陀仏の論議をされました。そうそうたる顔ぶれは、当時の仏教界のオールスター戦とでも呼ぶべきものだったようです。居並ぶ僧の質問の嵐に、的確な答えを返していく主役の法然上人は…

「私は皆さまの教えを妨げるつもりはありません。ただ、この乱れた世の中では、この修行を全うすることは難しいのです。誰でもできるお念仏こそが、愚かな私をはじめ、この乱れた世に生きる庶民にとって、最も適したものだと思うのです」

この問答は、なんと一昼夜ものあいだ続けられました。法然上人の教えに感服した僧は、一般の聴衆も交えて念仏を唱え、その声は三日三晩途切れることなく、大原の山々に響き渡ったと伝わります。(『法然上人行状絵図』第14巻) つまり、勝林院は浄土の教えを各宗に宣言した、いわば南無阿弥陀仏のターニングポイントといえる地となります。

今回は、その問答に唯一お供をしたといわれる「熊谷直実」の話を語らせて頂きました。単独で問答に臨まれた法然上人の心意気に、私もあえて檀信徒を募りませんでしたが、堂内に入りきれない程の人で溢れました。終了後、108枚用意した「散華(さんか)」を、ひとりづつ手渡しさせて頂きました。この蓮華の形をした「散華」が、極楽浄土への救いの切符となるよう 心込めて作らせて頂きました。

千年もの間、人々を導いて来られたご本尊さまから見れば、この時間は 一瞬の出来事だと思いますが、我が宗祖・法然上人と同じ場所で説教し、また時空を越えて 聴聞の方とお念仏を共有できたことは 生涯の思い出です。長い間、法灯を守り続けて下さった諸大徳さま、すべての有縁の方々に 心より感謝申し上げます。まさに「千載一遇」のご縁でした。合掌

 

追伸:西願寺の本尊・阿弥陀如来像は 大原問答と同時期の制作です。制作年[文治4年(1188)]や、胎内に千体仏(梵字)が記されてることが、一千年紀 出演依頼の直後に発見されたことは、大きな因縁を感じます。南無阿弥陀仏

参詣者にお配りした結縁散華(けちえんさんか)

 

一千年紀ポスター

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現代の五重塔

お彼岸にあたり、ご先祖さまを「塔婆回向」で偲ばれいるご寺院も多いと存じます。お寺に縁のある方は、「塔婆(とうば)」という言葉になじみがあると思いますが、いわれまでは 知らない方が多いのではないでしょうか。

塔婆の語源は、お釈迦さまのお墓を意味する「ストゥーパ」が語源となります。そのストゥーパを、仏教が中国に伝わったとき支那人は「卒塔婆(そとうば)」と書き表し、それが省略されて「塔婆(とうば)」になり、さらに省略されて「塔(とう)」になりました。つまり 塔婆 というのは 塔 を意味します。塔で有名なのは「五重の塔」。五重塔の天辺にある金属製の飾り や 塔婆の上部の刻み は、ストゥーパの形が名残りとして表されてます。当初 ストゥーパは、お釈迦さまを初めとする高僧方のお墓に用いられました。そこで我々も、塔の建立までは叶いませんが、ストゥーパの形をした板(塔婆)を供え、ご先祖さまの追善供養にしようというのが、塔婆回向のはじまりです。

あまり知られていませんが、高さ634メートルの「東京スカイツリー」は、五重塔の構造が取り入れられています。「心柱(しんばしら)」という 塔の中心を貫く柱が、振り子の役割をし 免震するのです。世界最古の木造建築である法隆寺五重塔は、1300年もの間、この「心柱」の構造建築により、一度も倒壊することなく現在に至っています。世界に誇る スカイツリーが、遠い昔からの日本人の智恵や思いをを受け継ぎながら、日本の ものづくりの最高の技術を結集していることは、感慨深いものがあります。

また、スカイツリーが建つ 東京の下町界隈は、幕末の安政大地震、大正の関東大震災、昭和の東京大空襲などで、多くの尊い命が犠牲になった所です。そして、まさに建設中に起こったのが、平成の東日本大震災です。そう言った意味で、あの大地震を乗り越え 無事に建立されたのは、大きな見えない力による導きだと思わざるを得ません。スカイツリーをを監修された 澄川喜一氏は「この塔は、鎮魂と日本の未来への祈りだ」と仰ってます。

スカイツリーは  ”現代の五重塔” 。その姿を重ね合わせ、今まで この国を支えて下さった方々への報恩感謝、また日本の更なる発展安穏を願われる方が ひとりでも増えればと思います。これもある意味、宗教を越えた「塔婆回向」になるのではないでしょうか。合掌

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風立ちぬ

先日、宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』を見て来ました。とても良い映画に縁がありました。”古き良き日本人” がよく表された作品です。私は僧侶ですので、一般の方と見方が異なるかもしれませんが、この映画は やはりタイトルの ”風” にポイントがあると思います。物語は、主人公に 様々な苦難困難が襲います。関東大震災、仕事の挫折や方向性の違い、愛する人の病いや別れ・・・このような出来事を冷静に受け止め、プラスに転じる主人公や登場人物の ”柔軟性” に感銘を受けました。これは、日本人に染み入る 遺伝子だと思います。

先の東日本大震災後の日本人の姿勢に感動した フランス『ル・モンド』紙は、優れた国民性の理由を「日本人ならば ”諸行無常” の考えは子供の頃から知っている。この仏教の教えは、日本人の心情にしみ込んでおり、それが故に、不可避(ふかひ)の出来事を冷静に受け止めることができるのではないだろうか。」と、仏教の「諸行無常」の教えに注目しています。「諸行」とは ”すべてのもの”。「無常」とは ”常 (変わらぬもの)は無い”。つまり「諸行無常」で、”この世のものは一瞬一瞬 止まることなく移り変わる” の意味となります。

たしかに日本は、四季の変化に富み、古来より 地震や津波、台風などの自然災害に苦しんできた国です。ここに住む私達の精神の根底に、そう言った無常観(諸行無常の精神)があることは、我々自身がよく納得できます。我々日本人は、諸行無常の現実に直面した時、悲しみの感情は当然ありますが、それを静かに受け入れ、前向きに転ずる術を、いつしか身につけてきたのかもしれません。つまり、日本人の強さは「無常」に対する免疫力だと思います。

こういった点から、”古きよき日本人”を題材にした この映画に流れるメッセージは、”無常”  にあると感じました。つまり「風立ちぬ」の風とは ”無常の風” だと思えてならないのです。人間、いつまでも体力や時間があるわけではありません。逆に「諸行無常」を腑に落とす事で、今という時間を大切に過ごせるのだと思います。現代は 平均寿命をものさしに、極端な医療依存や危険回避で長寿をめざす世の中です。長寿自体はめでたいことですが、その行き先(幸福観)が大事ではないでしょうか。安穏を勝ち取るため、共存共栄の精神を忘れ、自らの利益のみを貫く生き方だけはしたくありません。「諸行無常」は ”受け入れる” という教えです。限られた時間にこそ、生きる本当の意味(輝き)が見えてくるのだとお釈迦さまはお説きです。この映画から、無常の人生、”今に生きる喜び” が大切だということを学ばせて頂きました。

また 映画に出てくる「世に出た後、才能は10年でピークを過ぎる」という紳士の言葉や、タバコを飲むシーンがやたら多いのは、無常の真理 や 人の弱さ を あえて世に問うているようにも思えました。「風立ちぬ」の風は ”無常の風” である ・・・琵琶説教師の見解でした (笑)。合掌

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交ぜ書き語

先日「地蔵盆」を勤め、ようやく盆行事が落ち着きました。地蔵盆は関西の風習で、子供のお祭りです。普段 お寺に縁のない子達も、健気に手を合わせてくれました。どれだけ時代が変わっても、このような機会は必要だと思います。子供達の幸せを 心よりお祈りしました。

さて、子供の地蔵盆にちなみ、最近 気になっていることを述べます。それは「子供」という字。昨今、テレビや新聞など各メディアの報道で、「子ども」という“交ぜ書き語” がよく見られます。その理由は 、「子ども」の方が優しい印象を与えるといった理由や、「供」は「大人のお供(とも)」「子どもを供える」を連想させて人権侵害にあたるという言い分だと聞きました。私は「『供』は『人と共にあり』」と教わった世代なので、正直 混乱しています。また 知人は「試験で子供と書いて減点になった」というから驚きです。 “交ぜ書き語” の是非はわかりませんが、言葉は国の根幹です。しっかりとした議論もなく、 ふぁっとした民意 で 日本の基礎が変わるのは 危ないことです。私は 政治家や学者でもありませんので 中道の立場ですが、まず「基本に忠実」ということを忘れては、世の中がバラバラになると思いました。

琵琶説教の際、たまに依頼者から「宗教の話だけはやめてくれ」と釘を刺されることがあります。宗教家に宗教の話はNG・・・笑うに笑えません。これも ふぁっとした民意 で、「宗教=悪しき洗脳」と思ってらっしゃっるのだと存じます。そう考えると、子供が感謝を捧げる地蔵盆は 悪しき洗脳になるのでしょうか。「偏った教育」と「悪しき洗脳」は紙一重です。戦後、人々が何の問題意識もなく行動してきたところに、今日の教育が歪みが出てきたのは間違いありません。「世の中が何となくそうだから・・・」という判断で皆が動くと、この国の基軸がなくなってしまいます。

昨今は、国際化が叫ばれて久しいですが、まず「基本に忠実」こそ 国際社会に対応する第一歩ではないでしょうか。まず この国を知ることです。幼少期からの英語教育も結構ですが、それ以上に母国語は大切です。”交ぜ書き語” は、無頓着な方から信条をお持ちの方まで様々だと思いますが、これこそが 現代の縮図だと思いました。合掌

このほど、下村博文 文部科学大臣が、文部科学省で公用文を作成する場合には「子供」と表記するように省内で指示を出されたようです。

 

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パレートの法則

昨日で西願寺の盆行事が終了しました。もちろん、他寺院への盆手伝いは まだまだ続きますが、今年も主催行事を無事に勤められたことに安堵しています。盆行事は 分刻みのスケジュールで、その間に 通常の仕事も同時進行です。限られた期間で、何百軒というお詣りです。どんな状況でも、人々に「手を合わす心」を持ってもらうようにするのが僧侶の真骨頂ですが、人間の「時間」や「体力(精神力)」には限りがあります。奉職寺院の若い僧侶は、お盆での檀家さまとのやりとりに苦しみ、そのコツを聞いてきました。

「パレートの法則」(80:20の法則)というものがあります。これは「世の中の出来事のうち、80%のことは20%の要素が握っている」という法則です。

・事故の80%は、20%の部品が原因で起こる。
・税金の80%は、20%の上位所得者が払っている。
・営業利益の80%は、上位20%の営業マンが稼いでいる。
・売上げの80%は、20%の優良顧客の買い物が占めている。

このように、物事にはツボとなる部分(20%)が必ずあります。つまり、重要な20%を押さえれば、80%の成果を得ることができ、その分、時間や体力を多方面に使うことが出来るという法則です。お盆の時期は、一極集中で 1軒に100%の力を使い果たすことはできません。読経など基本的なことはもちろんですが、究極的には 表情や振る舞い、また 一言が大事になってきます。各家の救いや安心(2割の核心)を探し、8割方お答える努力をするのです。これは決して手を抜くということではありません。80点を目標に置くようになれば、80点以上の結果を求めることがいかに大変なものかが分かってきます。そうすると、80点で割り切るということができるようになってくるのです。

玉井史隆氏(「備忘録」)の例えを拝借すると、家族や友人との関係の中で、自分の要求を通したい時とあります。そんな時、揉めてしまったり、ケンカになってしまったりすることがあります。でも注意深く観察してみると、要求に対して何もかも反対というケースは少なく、大抵は一部の争点で揉めてしまっていることに気が付きます。その争点を譲らないから、お互いにケンカになるのです。80点の割り切りができている人は、100点を手に入れることがいかに時間と体力のいることかが分かっていますから、その争点を除いて80点くらいになるのであれば、それ以上争うことはしません。これは、人間関係に使う労力を減らすうえで 大変役に立ちます。無用な争いを避けることができ、大事な資源である時間と体力を無駄に使うこともありません。

結論を述べますと、人間は 80点をどの辺りに置いてるのかということです。いわゆる「80点の質とセンス」、それと「何としても80点を取るという情熱」。これがその人の魅力だと思います。「パレートの法則」を意識すると、結果的に20%の「時間」と「体力(精神力)」で多くの方を救えるのです。お盆に辺り、悩める後輩に こんな話をしました。合掌

 

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人生は「宝探し」

最近、よく言われる言葉があります。「和尚はええなぁ・・・定年がないから」。本音だと思います(笑)。長年勤めた会社を定年し、第二の人生に向け、試行錯誤をされてる団塊の世代の方々が多いようです。

「定年後の自由な時間」について、ある人がこう述べてました。”現役時代、週休2日で40年勤めた人の過ごした休日は4400日。60歳で退職し、80歳までの20年間は7300日。定年後の方が圧倒的に時間が多いのです。この時間を上手に活用し、充実した第二の人生を過ごせるかどうか、それが大問題です” 引退と共に自由な時間を手にしたと言っても、少々の無茶もできた若い頃と違い、経済や健康などあらゆる面で、不測の事態に備えねばならなくなります。人生は有限であり、終末を意識すれば、残された時間はそう多くない。その中で、悔いなき選択をどうすればよいのでしょうか。

私は、人生は「宝探し」だと思っています。人類最高の悟りを開かれたお釈迦さまは「南無阿弥陀仏」の宝を見つけられ、生涯をかけお説き下さいました。考えて見ますと、定年後の時間は7000日余りですが、死後の時間は無限です。その死後の世界を絶対の幸福にして下さるのですから・・・お念仏の教えは、大宇宙最高の宝であります。金や財、名誉や地位などは、苦労して手に入れても、思わぬ天災人災で一瞬にして消え失せます。どんな豪邸のマイホームも、マッチ1本で灰になる。形あるものは、盗まれ、流され、焼かれ、やがて消えてしまします。死ぬ時には、1円も持ってはいけません。これらの宝では、私達の本当の安心や満足を得ることが出来ないのです。

しかし、生前から「南無阿弥陀仏」と一体になれば、焼けもせず、流されもせず、盗まれもしない、いつも満ちている無上の幸せに生かされます。お念仏は、学べば学ぶほど深いものであり、社会の知識とは全く異なる智慧を味わえます。時代は良くも悪くも変わってしまいます。当時の常識(宝)を印籠のようにかざしても、今の若者には、”猫に小判”、”豚に真珠”・・・摩擦に苦しみ、自分の存在価値を見失いがちになります。やはり、この世とあの世を貫いた宝こそが本物です。それこそが不変の宝です。最期に笑うのは、”大宇宙最高の宝(南無阿弥陀仏)”と一体になった心の長者に他なりません。

定年後の生き甲斐が「お念仏」という方が、少しでも増えるように精進します。合掌

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天才とは「100%今に集中する力」である

昨日、祖父母の13回忌法要を親族で勤めました。先日は母方の祖母の満中陰でしたが、今回は父方で、祖父は私の師僧になります。この法事に辺り遺品を整理をしてると、一枚の写真が出てきました。それは 私が赤ちゃんの頃の写真で、ハイハイをしてる私を微笑ましく見ている祖父母の光景でした。物心がつく前から可愛がられていたんだと、改めて感謝の心が湧き上がってきたと同時に、ふと こんなことを思いました。それは、この頃に 現在の自分が想像できただろうかということです。

ひすいこたろう氏の小話にこんなものがあります。もし、赤ちゃんが話すことができたら・・・「いつか君はね、立ち上がれるようになって歩けるようになるよ」と声をかけたら、赤ちゃんはこう言うのではないでしょうか。「バカいっちゃいけない。ムリムリムリ。ハイハイだけでも精一杯なのに、立ち上がるなんて、絶対ムリ。まして歩くなんてムリムリムリ(笑)」ハイハイしかできない赤ちゃんからしたら、立ち上がって歩くって、まるでサーカスでも見ているようなものでしょう。

でも、現在の私は 歩いてます。赤ちゃんの頃に思えば 奇跡に思えるようなことが、当たり前の現実となっています。それは よけいなことを考えず、ただひたすら今できることをやってきた結果、いつの間にか立ち上がり、いつの間にか歩き出し、今では車の運転もし、また僧侶にもなっています。思えば子供の頃は、一見 ムダに思えるような行動に没頭してました。それは 余計なことは考えず、目の前の一歩を楽しんでいたのです。しかし 大人になれば、失敗や周りの目、後悔等が先に浮かび、行動範囲がどんどん狭くなってきます。もし、今も100あるエネルギーを目の前のことに 純粋に注ぐことができれば、人は知らず知らずのうちに夢が叶っているのだと思います。こたろう氏いわく、今、目の前のことに100の力を注げる人を「天才」というのだそうです。

天才とは「100%今に集中する力」である・・・これは皆が生まれもった力ですが、経験と共に忘れていくのは寂しいものです。しかし、南無阿弥陀仏は教えてくれます。よく見ると「お念仏」の「念」「今+心」という字で出来ています。あるを目一杯、様に伝え、救いを求めるのが念仏なのです。言い換えれば、100あるエネルギーを目の前のことに純粋に注ぐことができる修行が、南無阿弥陀仏なのです。無我夢中で念仏を唱えることにより「絶対の幸福」へのレールが引かれているのです! 私が現在、お念仏を唱えられるようになれたのは、多忙だった両親にかわり、手を合わせる環境で育ててくれた祖父母のお陰です。赤ちゃんの頃の自分に「お前は幸せなんだぞー!」と伝えてやりたいです(笑)。悩みは尽きませんが、今に集中して念仏を唱えている時は、阿弥陀様や先祖と繋がっている瞬間です。このような尊い教えに出会い、本当に幸せだと この度の法事で再認識しました。合掌

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万人に愛される90点の精神

昨日、寺庭婦人会 近畿地区研修会において琵琶説教をさせて頂きました。今年は滋賀県が当番ということで、近畿の浄土宗寺院の奥様方が約550人 琵琶湖ホテルに集まられ、法然上人のご遺徳を偲びました。私の出番は 「今年の漢字」で有名な 清水寺貫主・森清範師による ご講演の後で、皆様の念仏に迎えられ ステージに立ちました。滋賀教区の講師として 若輩者が 大役を頂いたこと、まさに感無量でした。

説教前、貫主さまから「あなたのモチベーションは?」と尋ねられ、「ワクワク感です!」とお答えしました。僧侶ですので、法を説くことが前提の生活ですが、どうしたら 楽しく布教ができるかを いつも考えてきました。琵琶説教の制作は大変ですが、苦と思ったことはありません。それは「(法話や芸を)極める」のではなく「(楽しく)伝える」ことを旨としてきたからだと思います。未熟な点が多いことは重々承知してますが、やはり、ワクワク感が伝染する気持ち での布教活動が、私のモチベーションでした。

滋賀県を代表するラーメン店の一つに「來來亭(らいらいてい)」があります。豆田敏典社長のお言葉を紹介します。

「少数に支持される100点の味より、万人に愛される最高の90点を目指す」

これは、人気取りのポピュリズム精神ではありません。満点を追求するあまり、自己満足になってはいけないという意味だと存じます。たとえ一部のマニアに認められなくても、多くの方に愛されることの重要性を説かれているのです。これは お念仏の教えにも通じます。南無阿弥陀仏のみを唱える修行は、あらゆる仏道に精通した人にとっては 頼りなく思えるかもしれません。しかし この世で悟れなくても、来世、極楽浄土で悟ることが出来れば、結果は同じです。同じどころか、救済力でいえば「万人が救われる念仏」の方が優れているといわざるをえません。

私の布教方法は、法話や琵琶を専門にされてる人々からは支持されにくいと思います。たまたま僧侶と琵琶をしていたラッキーボーイ的な存在でしょう。しかし その強みは、琵琶ファンや浄土宗の方のみならず、他宗教、一般の方々にも伝道しやすい環境にあることです。私は、常々 布教や琵琶を極めた方との架け橋となり、多くの方に仏縁を結んでいきたいと考えています。未熟な者だから出来ることがあると思うのです。行動を起こさず、評論ばかりする若者が多いですが、まず自分は世の中に何が出来るのか?ワクワク感をもって一歩踏み出しては如何でしょうか。合掌

 

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正しい信心

昨日、4月25日に往生した 祖母の四十九日(満中陰)法要を勤めていただきました。通常は 私自身が導師となり、遺族に法を説く機会が多いのですが、今回は参列の立場となりました。母方の祖母は真宗寺院の坊守でしたので、浄土真宗(同じ南無阿弥陀仏)の御法話を 新鮮な気持ちで拝聴しました。有り難かったです。

我々僧侶の法話は、すべて「信心」の話で帰結しますが、遺族からは必ずと言っていいほど「いやー、私は無信心なもので」という言葉が返って来ます。私は この言葉を聞くにつれ、おかしくてなりません。というのも、私達は何かを信じなければ、一日たりとも生きていけない存在だからです。例えば、我々は健康であれば 明日も生きておれると 命を信じて生きています。そうでなければ 一時間後の約束すらできないはずです。また、夫は妻を 妻は夫を信じ、子供は親を 親は子を信じて はじめて家族が成り立ちます。あるいは、お金の信心もあれば、地位や名誉の信心もあります。宗教を否定する共産主義者は、共産主義を信じている人達です。ですから、神や仏を信ずるのみが信心ではありません。何かを信じていれば、それはその人の信心です。無信心などあり得ません(笑)。つまり「生きる」とは、まさしく「信じる」ことなのです。

おそらく 無信心だという遺族は、神仏など信じないという意味で言っておられるのでしょうが、どうせ「信心」を持つならば、やがては裏切られるものを信じて生きるのは愚かなことです。では、この世で 信じても後悔のない、絶対に裏切ることのない信心はあるのでしょうか。結論を急ぎますと、それは「死」というものを超越したものでないといけません。なぜなら 上に紹介した信心は、死ぬ時に 何のあて力にもならないからです。人間の苦悩は、信じていたものに捨てられたことから生じます。しかし、この今 死ぬという時でも 絶対に崩れぬ信心、それが「南無阿弥陀仏の信心」であります。今日は詳細を説きませんが、祖母の満中陰法要にて、改めて 今の世界はもちろん、死後の世界も救われる「正しい信心」を教わりました。

正しい信心。「正」という字は、「一に止まる」を書きます。つまり、正しいものは「1つしかない」ということです。2つも3つもあるものではありません。人間、何を信じても自由ですが、「死を超越した信心」だけは離してはなりません。坊守であった祖母は、いつもお念仏を唱えていました。この「正しい信心」を、生涯をかけて教えてくれたような気がします。尊い財産をありがとうございました。また、極楽浄土で再会する日を楽しみにしています。合掌

 

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