物語から学ぶもの

先日、山口県の大島に「琵琶説教」へ行って来ました。大島は 瀬戸内海に浮かぶ大きな島で、独自の文化が発達した 信仰熱心な地域です。お寺に5日間泊まり込んで、昼晩…8席を各1時間の説教でした。もちろん檀家さんが対象ですので、違う内容を8席です。今回は「法然上人御一代記」を8つに構成し、法然さまのご苦悩や悟りを琵琶で表現し、当時の日本へタイムスリップしていただきました。

私の筑前琵琶は”物語を語る楽器”です。古来より、心の重要な問題を人に伝える時には、物語が使われてきました。お釈迦さまのお経はもちろん、聖書の中のイエス・キリストの言葉も小さな物語の集まりで、それによって真理をお説き下さいます。なぜなら、心の問題は 数字化すると、独断や誤解、矛盾が生じるからです。デジタル化した現代では、頼りなく思えるかもしれませんが、心の問題は 数字では現せません。

例えば心拍数。心臓の動悸が激しい方も 理由は様々です。そのドキドキは 恋愛による嬉しさによるものなのか。あるいは 嫌な仕事の緊張からきているのか。まったく対極にある2つの状態でも、データにすれば同じ心拍数です。どれだけ精密な機械で測定しても、数値だけでは 心を外から判断することはできないのです。

その点、 琵琶は物語を語り 真理を伝えます。アナログな楽器ですが、演奏者による語りと、琵琶の音色による情景描写が一体となることで、一瞬にしてその場の空気が変わり、感情移入させられるのです。見えざる世界を、まるでその現場を見ておられるかのように涙を流されます。私自身、まだまだ精進が必要ですが、「法然上人御一代記」を制作し、日本有数の信仰ある寺院で長席の説教ができたこと、これは大きな自信に繋がりました。今後、数値では表しにくい真理を、もっと表現していけるようになれればと思います。すべてが経験です。大島の皆さん、大変お世話になりました。今回もお育ていただきました。合掌

カテゴリー: 未分類 | 物語から学ぶもの はコメントを受け付けていません

端午の節句(こどもの日)

「端午の節句(たんごのせっく)」です。「端」は「はじめ」という意味で、月の初めの「午(うま)の日」「端午」といいます。古代中国では、5月は物忌みの月で、「午」は「五」に通じることから、「重日思想(じゅうじつしそう)=数字が重なると不吉なことがおこる」という影響もあり、5月5日が「端午の日」とされ、邪気を払う行事が行われるようになりました。

邪気払いの方法は色々ありますが、古来より 強い香気が厄を払うとして、菖蒲湯(しょうぶゆ)に入ることで 無病息災を願う風習が残ります。鎌倉時代になると、葉が刀のような形をした「菖蒲」を「尚武=武を尚ぶ」とかけて、武具を飾って祝うようになったのが、現在の「兜(かぶと)」を飾る由来と云われます。また、江戸時代には勝負(しょうぶ)に勝つようにと、男の子の誕生を祝うようになったのが、現在の「こどもの日」に通じると云います。こう考えると 先人の様々な思いが、現代に影響してるんだと つくづく感じます。

このゴールデンウィークで 海外に出られた方も多いと聞きますが、逆に日本の素晴らしさを知るよい機会になったのではないでしょうか。最近は 他国との国防・領土問題、自主憲法の制定、主権の回復 等のニュースが盛んに報道されますが、その根幹は 日本の歴史と文化へ誇りを持たなければ解決できないことばかりです。我々は歴史の中に生きています。時間は現行進行形であり、その節目節目に、歴史を振り返り、教訓を学び、未来に活かさなければならないと思います。

本日は「こどもの日」でもあります。私が子供の頃、あるCMで「わんぱくでもいい。たくましく育って欲しい」というフレーズが流行りました(笑)。まさしく「鯉のぼり」はたくましさを表します。鯉が「登竜」というという激流を登り、竜になったという故事から、立身と健やかな成長を願うシンボルとなった云われます。将来の国を担うのは子供たちです。日本国の良さを共々に学び、社会全体で期待を託したいものです。合掌

カテゴリー: 未分類 | 端午の節句(こどもの日) はコメントを受け付けていません

伝統の精神

新年度となり、新たな環境で精進されてる方も多いことと存じます。奉職寺院にも新僧侶が2人 修行に来ました。なかなか優秀な人材ですが、この緊張感が永く続くことを願います。この時期にいつも思うのは、指導の難しさです。最近、体罰問題が大きく取り上げられていますが、かといって「どんな問題を起こしても排除されることはない」という安心感は、甘えを生じさせます。安住してあぐらをかけば、人間 そこでおしまいです。上に立つ者も、信念がなければ 指導が難しいのではないでしょうか。

その点、お寺の良さは「伝統」があるところです。「住職」というように、寺院に住んで 精神を守り続けてくださる存在は尊いものです。学校では、校長が同一校に5年以上勤務することはまずないようです。このことから、公立学校では着任した校長が長期展望に立って戦略を描くことが出来にくいと聞きます。生前、校長をしていた祖父は、問題さえ起こさなければ「論功行賞」として本人が望む学校に移動できる・・・これでは管理職の「事なかれ主義」や「隠蔽体質」が助長され、学校経営が守りの姿勢になり、積極的な「校風の継承」が出来なくなると嘆いていたことを思い出します。

こんな言葉があります。「一年先を思いては花を育て、十年先を思いては木を育て、百年先を思いては人を育てよ」

私達は、日々の安寧を当たり前のように考えますが、それらは歴史の積み重ねの恩恵であり、先人、先祖への感謝を忘れるべきではありません。自分だけが良ければ他がどうなろうと構わないという考え方では、安定し、秩序が保たれた豊かな社会を築くことはできません。それぞれが自己の責任を果たし、国や社会、他の人々のために自己犠牲を厭わない人材が多ければ多いほど、社会は豊かになります。

新年度に入り 新僧侶が入ってきましたが、「伝統の精神」を伝えられればと思っています。こちらも勉強です。合掌

カテゴリー: 未分類 | 伝統の精神 はコメントを受け付けていません

清明

「清明(せいめい)」です。全てが柔らかな「光」に照らされる頃をいい、様々な花が咲き乱れ、絶好のお花見シーズンです。京都 嵯峨野にある 奉職寺院の桜も満開で、多くの観光客で賑わっています。

ところで、光を観ると書いて「観光」ですが、この語源はご存じでしょうか。この「観光」という言葉は、中国の『易経(えききょう)』という古い書物にでてきます。元々は「君主の威る」。つまり、観光とは 本来、人の魅力を見に行くという意味だったのです。先日の西願寺チャリティーコンサートでも、琵琶を聴かれた参列者が「観光地に来たみたいや」と喜んで下さいましたが、本来の観光とは そのような感覚ではないでしょうか。遠くの名所に行かなくても 人の魅力に出逢えれば、それが観光となるのです。

確かに「光」という文字は、「人」の頭の上から5方向へ光線(オーラ)を発する様子を表した象形文字です。また、仏像の後ろの光を「五光(ごこう)」といいます。[後光、護光、御光とも] つまり、自らが光れば、その光は 関わった人すべてに共鳴するものであって、人間はその「光」を出す努力を 惜しんではいけないと思います。実際、オーラが出ている人の元には、光見たさに 沢山の人が集まります。

陶芸家の河井寬次郎先生は「一人光る。みな光る。なにも彼も光る。」という言葉を遺してらっしゃいます。職場の中でも、みんなでやろうと言わなくても、私一人、まずコツコツとやる。そのひたむきな姿に共感者が現れてきて、いつの間にかみな光る。そして、さらにそれを徹底して継続をしていると、何もかも光るようになる。この順番です。人間は 義務や役目でやらなくてもいいことがどれだけやれるか ということが人格(オーラ)に比例しているのだと思います。

お念仏も同じです。僧侶は南無阿弥陀仏を多く唱えて 偉くなったように錯覚しますが、そうではありません。法事等でのお役目の念仏は 多いかもしれませんが、自らの念仏をどれだけ唱えているかと言えば 汗顔の思いです。そう考えるならば、我々も一般の方と同じ条件です。もっと謙虚にならねばなりません。自らが光るように、また 阿弥陀様の慈悲に照らされて輝けるように精進したいものです。「清明」 の「光」が目映い時季に、改めて自戒しました。合掌

 

 

このブログで、一年間の二十四節季を紹介させていただきました。今後は、年中行事を中心に綴っていきたいと思います。よろしくお願いします。再拝

 

カテゴリー: 未分類 | 清明 はコメントを受け付けていません

春分(春彼岸)

太陽の中心が春分点を通過する日を「春分」といい、この日は昼と夜の長さがほぼ等しくなります。春分の日は太陽が真西に沈むことから、西方にある阿弥陀如来の世界(極楽浄土)とこの世が交わる日と考えられています。「救いの方向」が分かることは有り難いことです。

先日 お彼岸に向けて、子供達と境内の草引きをしました。単調な作業なので退屈してるのではないかと、おそるおそる子供の方に目をやると、楽しそうに抜いていたのが印象的でした。見つめ合わなくても、同じ目標に向かって、同じ楽しさを味わった瞬間です。立ち位置や価値観が違っても、人間は 同じ方向さえ見ていれば幸せなのだと思いました。

僧侶をしていると「救いの方向」が大切だと学びます。例えば お葬式を勤めますと、ご遺族の悲しみは大変なものです。胸が張り裂けるような悲しみは よくわかります。その時、私はこう説きます。「亡き人が極楽浄土で待っていてくださる場面を想像しましょう。そして私達も命尽きた時、お互いわかり合い、抱き合って涙を流すというゴールを決めるのです。想像できましたか?」「では、今から百ヶ日まで思う存分泣いてもいいですよ。どんなに悲しくても、最期は涙で再会するというゴールを決めたわけですから」どれだけ泣いてもいい。最期はどこに辿り着きたいのか?このゴールさえ決めておけば、すべてはそこへ辿り着くための「プロセス」になるからです。

私達はラストシーンを先に決めるべきです。向かうべき方向を先に決めてしまうのです。同じ方向を見ていれば、どんなに辛くても また必ず再会できます。

お念仏を唱えれば、阿弥陀如来が死後、必ず西方極楽浄土に導くとお約束されています。「春分(彼岸)」は、極楽浄土に最も心が通じやすいと云います。墓参りをされる方も多いと思いますが、家族や縁者で「救いの方向」を味わって頂ければと存じます。合掌

 

カテゴリー: 未分類 | 春分(春彼岸) はコメントを受け付けていません

啓蟄

「啓蟄(けいちつ)」となりました。春の暖かさを感じて、冬ごもりしていた虫が外に這い出てくる頃をいいます。「啓(けい)」「ひらく、開放する、(夜が)明ける」「蟄(ちつ)」には「冬ごもりのために虫が土の下に隠れる、とじこもる」の意味があります。

昆虫だけでなく、人間も暖かさによって開放されます。ただ本能で動く動植物とは違い、人間は 人々の言動が大きな影響力を持ちます。例えば ひとりの人間は、家族や友達、知り合いなど、およそ300人と深いつながりを持って生活しているといいます。ですから、ひとりの言動は、直接 300人に伝染するのです。また、その一人ひとりは別の300人とつながりをもって生きているわけですから 300人×300人で、最終的には9万人にも影響が及ぶのです。あくびが周りにうつるように、良くも悪くも 一人の言動がレーザービームのように伝染していくから怖いものです。

南無阿弥陀仏には「融通念仏(ゆうずうねんぶつ)」という教えがあります。これは「一人の念仏が万人の念仏に通じる」という教えで、ひとりの唱えた念仏が他に影響を及ぼし(阿弥陀仏の力が融通しあい)素晴らしい世界ができるというのです。世の中ために、身近にできること。それは 人のために南無阿弥陀仏を唱えることと教えられるのです。お念仏は 人々に幸福への種まきをする行為であり、ひいては自らの「絶対の幸福」につながっていきます。それは「啓蟄」の暦が示すように、春の暖かさ(弥陀の慈悲)で生物がどんどん地上(極楽浄土)へ生まれてくる姿にも似ています。人生の目的は、慈悲を感じられる開放的な心。つまり「蟄(ちつ)」から「啓(けい)」に目覚めることではないでしょうか。

覚えておきましょう。私達は常に9万人以上の人とつながっているのです。目の前にいる人を幸せにしようという念仏が「絶対の幸福」を開く扉となるのです。合掌


カテゴリー: 未分類 | 啓蟄 はコメントを受け付けていません

雨水

「雨水(うすい)」となりました。これは空から降る「水」が、雪から雨に変わる頃をさし、「雨水」になるになるという意味が込められています。

水は不思議です。冷やせば氷となり、熱せば水蒸気になります。ある時は液体で、ある時は固体、ある時は気体にもなる。これら水の変化は、どれもが水の本当の姿であり、その変化に中にも「H2O」という本質があるから、いつまでも水が水であり得るのです。もし水を冷やして大根になり、熱せば猿になるなら大変です!(笑)。

我々の「本質」も同じです。人間は「魂」が肉体に宿った存在であって、外見の中にある、目には見えない部分こそが「真実の自分」なのです。水で喩えると、肉体に宿っている間は  氷のような固体の姿を取っていますが、やがて死を迎えて肉体を去ると、水蒸気のような普遍の存在になるイメージです。水(H2O)という本質は変わらないように、我々の本質も「魂」であるからこそ、芯の部分は変わらず永遠の存在でいられるのです。「輪廻(りんね)」という生まれ変わりの思想がありますが、次に生まれ変わる世界が畜生であっても、動物そのものになるのではなく 仮に魂が宿るだけで、死した後、魂の存在のまま また違う世界に生まれ変わるのです。

人間は長く生きても100年程の存在です。ならば我々は「自らの本質(魂)」の救済について、もっと考えてもよいのではないでしょうか。今、その方法が説かれてるのですから。毎日の生活に追われ、そこまで眼を向けられる方は少ないようですが、宗教はそういう部分に警鐘乱打しているのです。何も怖いものではありません。

全ては自分自身の問題であり、他人事ではないのです。

仏教では、阿弥陀仏にすがる事によって「自らの本質(魂)」丸ごと救って下さると説きます。一心に南無阿弥陀仏とお唱えし「アミターの光」に包まれたあかつきに「絶対の幸福しかない世界」に交わることができるのです。始めは疑いながらでも構いません。1、2遍の念仏では その境地に達することができないので、生涯唱え続けよと教えられるのです。死んで遺族に唱えてもらう念仏でなくて、生きてる間に唱える念仏だから幸せなのです。

どうぞ、この世的な地位や名誉、財産等という「相対の幸福(他と比べて満足する幸福)」を捨て、魂救済の「絶対の幸福(この世とあの世を貫く幸福)」に目を向けて生きてみましょう。「水」の如く、とらわれることのない感覚で念仏を唱えれば、魂が喜びます。その身そのままで救われるのですから・・・あとは幸福観を少し変えるだけです。合掌

カテゴリー: 未分類 | 雨水 はコメントを受け付けていません

立春

冬と春の変わり目「節分」の翌日が「立春」となります。旧暦では、一年の始まりは「立春」からと考えられていました。昔は「節分=大晦日」で、「立春=元旦」だったことから、年賀状に「迎春」「初春」と書くのは、その名残りからきています。

私事ですが、数日前に誕生日を迎え、多くの方から温かい励ましや、プレゼントを頂戴しました。皆様のお心遣いに心より御礼申し上げます。その中のお一人から、こんな話を聞かせていただきました。それは、アフリカのある部族では、プレゼントをあげた側の人が「ありがとう」とお礼を言うのだそうです。なぜ、あげた側なのにお礼を言うのか?理由はこうです。誰かに贈り物ができる、つまり、恵むことができるということは、すでに自分は恵まれているという証拠だから。また、プレゼントをしたくなるほど「大切な人」がいてくれることの幸せに喜び、感謝するのだというのです。

思えば南無阿弥陀仏も同じです。本来は「往生(死後の魂の救い)」を求めるのが念仏ですが、しかしお唱えする時点で、もう阿弥陀仏の慈悲に包まれてます。それは、遠い過去からの様々な「縁」によって今、救いの道にたどり着いてる訳ですから・・・それを感じた方が心から唱えた念仏は、究極の御礼「ありがとう」を意味しているのだと存じます。「往生の念仏」「感謝の念仏」といった議論は抜きにしても、多くの南無阿弥陀仏を唱えられる人生こそ幸せな生き方です。朝起きた時、寝る前、三食の前後、出勤帰宅の際、感謝や節目の折々、意識をして十念をすれば軽く100遍は越えます。これを生涯に渡り続ける方と、そうでない人の「幸せの差」は・・・考えるだけでも恐ろしいですね。やはり「大切な存在(阿弥陀仏)」を持つことで、「絶対の幸福」が得られるのです。

「立春(旧元旦)」を迎え、今年一年、沢山の「ありがとう」の心を持ち、また私も、多くの「ありがとう」を受けられる「大切な人」になりたいと思いました。改めて、今年も宜しくお願いします。合掌

カテゴリー: 未分類 | 立春 はコメントを受け付けていません

大寒

「大寒(だいかん)」です。「大寒」とは、一年でもっとも寒い時期という意味です。全国で 耐寒のための様々な行事が行われ、また、寒気を利用した食物(凍り豆腐、寒天、酒、味噌など)を仕込む時期にもあたります。極寒という「負」を転じて、万物が強くなる時期でもあります。

この時期は、書家・相田みつを氏の『負ける練習』という詩が心に染みます。

「柔道の基本は受身 受身とは投げ飛ばされる練習 人の前で叩きつけられる練習 人の前でころぶ練習 人の前で負ける練習です。つまり、人の前で失敗をしたり 恥をさらす練習です。自分のカッコの悪さを多くの人の前で ぶざまにさらけ出す練習 それが受身です。柔道の基本ではカッコよく勝つことを教えない 素直にころぶことを教える いさぎよく負けることを教える 長い人生には カッコよく勝つことよりも ぶざまに負けたり だらしなく恥をさらすことのほうが はるかに多いからです。だから柔道では 始めに負け方を教える しかも、本腰を入れて 負けることを教える その代り ころんでもすぐ起き上がる 負けてもすぐ立ち直る それが受身の極意 極意が身につけば達人だ

若者よ 失敗を気にするな 負けるときにはさらりと負けるがいい 口惜しいときには「こんちくしょう!!」と、正直に叫ぶがいい 弁解なんか一切するな 泣きたいときには 思いきり泣くがいい やせ我慢などすることはない その代り スカッーと泣いて ケロリと止めるんだ 早くから勝つことを覚えるな 負けることをうんと学べ 恥をさらすことにうまくなれ そして下積みや下働きの 苦しみをたっぷり体験することだ 体験したものは身につく 身についたもの それはほんものだ

若者よ 頭と体のやわらかいうちに 受身をうんと習っておけ 受身さえ身につけておけば 何回失敗しても すぐ立ち直ることができるから・・・そして 負け方や受身の ほんとうに身についた人間が 世の中の悲しみや苦しみに耐えて ひと(他人)の胸の痛みを 心の底から理解できる やさしい暖かい人間になれるんです。そういう悲しみに耐えた 暖かいこころの人間のことを 観音さま、仏さま、と 呼ぶんです。」

人間は強そうに見えて、実は弱い生き物です。仏教では、このような我々を「凡夫(ぼんぶ)」と呼び「愚が者」だと断言します。しかし お釈迦さまは「愚者だからこそ救われるのだ!」と説かれます。今世、仏法真理に逢い、救われる身となるのは、凡夫に生まれたこそなのだと。様々なことに失敗し、受け身をとり続ける事によって、人間は凡夫を知り 謙虚になります。我々も人知を越えた 南無阿弥陀仏を信じ、一切万物を救おうとする力(アミターのみ光)を感じましょう。さすれば、魂がこの世一代限りのものでないことがわかってきます。「永遠の命」であるからこそ、今、本当にせねばならないことが見えてくるのです。凡夫(人間)に生まれたという「負」を転じて、今世、勝縁をつかむのが「絶対の幸福」であり、「人生の目的」であります。合掌

カテゴリー: 未分類 | 大寒 はコメントを受け付けていません

小寒

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。暦は「小寒(しょうかん)」となりました。「小寒」とは、寒さが最も厳しくなる前とか、寒さが加わるという意味で、いわゆる「寒の入り」のことです。寒中見舞いは、本日から出し始めます。

皆様、どのような正月をお過ごしでしょうか。盆と正月は、日本の伝統的な二大行事ですが、最近は長期休暇を利用して、家を空ける方も多くなりました。しかし 盆と正月は、故人や先祖が あの世からお帰りになる期間であり、特に正月は「松の内」という呼び名の通り、「(先祖を)待つ」が訛ってできたという説もあります。本来は、家族親戚が集まって 神仏に思いをはせたり、先祖とともに楽しく過ごすというのが正月でした。

とんちで有名な一休さん(一休宗純)は、こんな歌を残されています。

「門松(かどまつ)は 冥土(めいど)の旅の一里塚(いちりづか) めでたくもあり めでたくもなし」

年齢を「満」ではなくて「数え」で数えていた時代には、誕生日ではなく、正月がくる毎に一つ年齢を加えていきました。めでたい門松も、それを立てるたびに年を重ねることから、次第に死に近づく 標示だと詠まれたのがこの句であります。「絶対の幸福」は、死を超越したものでないと得られないという警鐘ですね。

正月の「正」の字は「一+止」でできてます。何かと慌ただしい現代人ですが、どうかまって、「人生の目的(自らの魂の行き先)」を見つめる月にしてください。菩提心をつにむることができれば、阿弥陀さまはもちろん、ご先祖さまも応援して下さり、「絶対の幸福」が得られます。その答えは、南無阿弥陀仏の中にあります。今年も1年、共に仏法真理を学んでいきましょう。宜しくお願いします。合掌

 

カテゴリー: 未分類 | 小寒 はコメントを受け付けていません