春分(春彼岸)

太陽の中心が春分点を通過する日を「春分」といい、この日は昼と夜の長さがほぼ等しくなります。春分の日は太陽が真西に沈むことから、西方にある阿弥陀如来の世界(極楽浄土)とこの世が交わる日と考えられています。「救いの方向」が分かることは有り難いことです。

先日 お彼岸に向けて、子供達と境内の草引きをしました。単調な作業なので退屈してるのではないかと、おそるおそる子供の方に目をやると、楽しそうに抜いていたのが印象的でした。見つめ合わなくても、同じ目標に向かって、同じ楽しさを味わった瞬間です。立ち位置や価値観が違っても、人間は 同じ方向さえ見ていれば幸せなのだと思いました。

僧侶をしていると「救いの方向」が大切だと学びます。例えば お葬式を勤めますと、ご遺族の悲しみは大変なものです。胸が張り裂けるような悲しみは よくわかります。その時、私はこう説きます。「亡き人が極楽浄土で待っていてくださる場面を想像しましょう。そして私達も命尽きた時、お互いわかり合い、抱き合って涙を流すというゴールを決めるのです。想像できましたか?」「では、今から百ヶ日まで思う存分泣いてもいいですよ。どんなに悲しくても、最期は涙で再会するというゴールを決めたわけですから」どれだけ泣いてもいい。最期はどこに辿り着きたいのか?このゴールさえ決めておけば、すべてはそこへ辿り着くための「プロセス」になるからです。

私達はラストシーンを先に決めるべきです。向かうべき方向を先に決めてしまうのです。同じ方向を見ていれば、どんなに辛くても また必ず再会できます。

お念仏を唱えれば、阿弥陀如来が死後、必ず西方極楽浄土に導くとお約束されています。「春分(彼岸)」は、極楽浄土に最も心が通じやすいと云います。墓参りをされる方も多いと思いますが、家族や縁者で「救いの方向」を味わって頂ければと存じます。合掌

 

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啓蟄

「啓蟄(けいちつ)」となりました。春の暖かさを感じて、冬ごもりしていた虫が外に這い出てくる頃をいいます。「啓(けい)」「ひらく、開放する、(夜が)明ける」「蟄(ちつ)」には「冬ごもりのために虫が土の下に隠れる、とじこもる」の意味があります。

昆虫だけでなく、人間も暖かさによって開放されます。ただ本能で動く動植物とは違い、人間は 人々の言動が大きな影響力を持ちます。例えば ひとりの人間は、家族や友達、知り合いなど、およそ300人と深いつながりを持って生活しているといいます。ですから、ひとりの言動は、直接 300人に伝染するのです。また、その一人ひとりは別の300人とつながりをもって生きているわけですから 300人×300人で、最終的には9万人にも影響が及ぶのです。あくびが周りにうつるように、良くも悪くも 一人の言動がレーザービームのように伝染していくから怖いものです。

南無阿弥陀仏には「融通念仏(ゆうずうねんぶつ)」という教えがあります。これは「一人の念仏が万人の念仏に通じる」という教えで、ひとりの唱えた念仏が他に影響を及ぼし(阿弥陀仏の力が融通しあい)素晴らしい世界ができるというのです。世の中ために、身近にできること。それは 人のために南無阿弥陀仏を唱えることと教えられるのです。お念仏は 人々に幸福への種まきをする行為であり、ひいては自らの「絶対の幸福」につながっていきます。それは「啓蟄」の暦が示すように、春の暖かさ(弥陀の慈悲)で生物がどんどん地上(極楽浄土)へ生まれてくる姿にも似ています。人生の目的は、慈悲を感じられる開放的な心。つまり「蟄(ちつ)」から「啓(けい)」に目覚めることではないでしょうか。

覚えておきましょう。私達は常に9万人以上の人とつながっているのです。目の前にいる人を幸せにしようという念仏が「絶対の幸福」を開く扉となるのです。合掌


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雨水

「雨水(うすい)」となりました。これは空から降る「水」が、雪から雨に変わる頃をさし、「雨水」になるになるという意味が込められています。

水は不思議です。冷やせば氷となり、熱せば水蒸気になります。ある時は液体で、ある時は固体、ある時は気体にもなる。これら水の変化は、どれもが水の本当の姿であり、その変化に中にも「H2O」という本質があるから、いつまでも水が水であり得るのです。もし水を冷やして大根になり、熱せば猿になるなら大変です!(笑)。

我々の「本質」も同じです。人間は「魂」が肉体に宿った存在であって、外見の中にある、目には見えない部分こそが「真実の自分」なのです。水で喩えると、肉体に宿っている間は  氷のような固体の姿を取っていますが、やがて死を迎えて肉体を去ると、水蒸気のような普遍の存在になるイメージです。水(H2O)という本質は変わらないように、我々の本質も「魂」であるからこそ、芯の部分は変わらず永遠の存在でいられるのです。「輪廻(りんね)」という生まれ変わりの思想がありますが、次に生まれ変わる世界が畜生であっても、動物そのものになるのではなく 仮に魂が宿るだけで、死した後、魂の存在のまま また違う世界に生まれ変わるのです。

人間は長く生きても100年程の存在です。ならば我々は「自らの本質(魂)」の救済について、もっと考えてもよいのではないでしょうか。今、その方法が説かれてるのですから。毎日の生活に追われ、そこまで眼を向けられる方は少ないようですが、宗教はそういう部分に警鐘乱打しているのです。何も怖いものではありません。

全ては自分自身の問題であり、他人事ではないのです。

仏教では、阿弥陀仏にすがる事によって「自らの本質(魂)」丸ごと救って下さると説きます。一心に南無阿弥陀仏とお唱えし「アミターの光」に包まれたあかつきに「絶対の幸福しかない世界」に交わることができるのです。始めは疑いながらでも構いません。1、2遍の念仏では その境地に達することができないので、生涯唱え続けよと教えられるのです。死んで遺族に唱えてもらう念仏でなくて、生きてる間に唱える念仏だから幸せなのです。

どうぞ、この世的な地位や名誉、財産等という「相対の幸福(他と比べて満足する幸福)」を捨て、魂救済の「絶対の幸福(この世とあの世を貫く幸福)」に目を向けて生きてみましょう。「水」の如く、とらわれることのない感覚で念仏を唱えれば、魂が喜びます。その身そのままで救われるのですから・・・あとは幸福観を少し変えるだけです。合掌

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立春

冬と春の変わり目「節分」の翌日が「立春」となります。旧暦では、一年の始まりは「立春」からと考えられていました。昔は「節分=大晦日」で、「立春=元旦」だったことから、年賀状に「迎春」「初春」と書くのは、その名残りからきています。

私事ですが、数日前に誕生日を迎え、多くの方から温かい励ましや、プレゼントを頂戴しました。皆様のお心遣いに心より御礼申し上げます。その中のお一人から、こんな話を聞かせていただきました。それは、アフリカのある部族では、プレゼントをあげた側の人が「ありがとう」とお礼を言うのだそうです。なぜ、あげた側なのにお礼を言うのか?理由はこうです。誰かに贈り物ができる、つまり、恵むことができるということは、すでに自分は恵まれているという証拠だから。また、プレゼントをしたくなるほど「大切な人」がいてくれることの幸せに喜び、感謝するのだというのです。

思えば南無阿弥陀仏も同じです。本来は「往生(死後の魂の救い)」を求めるのが念仏ですが、しかしお唱えする時点で、もう阿弥陀仏の慈悲に包まれてます。それは、遠い過去からの様々な「縁」によって今、救いの道にたどり着いてる訳ですから・・・それを感じた方が心から唱えた念仏は、究極の御礼「ありがとう」を意味しているのだと存じます。「往生の念仏」「感謝の念仏」といった議論は抜きにしても、多くの南無阿弥陀仏を唱えられる人生こそ幸せな生き方です。朝起きた時、寝る前、三食の前後、出勤帰宅の際、感謝や節目の折々、意識をして十念をすれば軽く100遍は越えます。これを生涯に渡り続ける方と、そうでない人の「幸せの差」は・・・考えるだけでも恐ろしいですね。やはり「大切な存在(阿弥陀仏)」を持つことで、「絶対の幸福」が得られるのです。

「立春(旧元旦)」を迎え、今年一年、沢山の「ありがとう」の心を持ち、また私も、多くの「ありがとう」を受けられる「大切な人」になりたいと思いました。改めて、今年も宜しくお願いします。合掌

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大寒

「大寒(だいかん)」です。「大寒」とは、一年でもっとも寒い時期という意味です。全国で 耐寒のための様々な行事が行われ、また、寒気を利用した食物(凍り豆腐、寒天、酒、味噌など)を仕込む時期にもあたります。極寒という「負」を転じて、万物が強くなる時期でもあります。

この時期は、書家・相田みつを氏の『負ける練習』という詩が心に染みます。

「柔道の基本は受身 受身とは投げ飛ばされる練習 人の前で叩きつけられる練習 人の前でころぶ練習 人の前で負ける練習です。つまり、人の前で失敗をしたり 恥をさらす練習です。自分のカッコの悪さを多くの人の前で ぶざまにさらけ出す練習 それが受身です。柔道の基本ではカッコよく勝つことを教えない 素直にころぶことを教える いさぎよく負けることを教える 長い人生には カッコよく勝つことよりも ぶざまに負けたり だらしなく恥をさらすことのほうが はるかに多いからです。だから柔道では 始めに負け方を教える しかも、本腰を入れて 負けることを教える その代り ころんでもすぐ起き上がる 負けてもすぐ立ち直る それが受身の極意 極意が身につけば達人だ

若者よ 失敗を気にするな 負けるときにはさらりと負けるがいい 口惜しいときには「こんちくしょう!!」と、正直に叫ぶがいい 弁解なんか一切するな 泣きたいときには 思いきり泣くがいい やせ我慢などすることはない その代り スカッーと泣いて ケロリと止めるんだ 早くから勝つことを覚えるな 負けることをうんと学べ 恥をさらすことにうまくなれ そして下積みや下働きの 苦しみをたっぷり体験することだ 体験したものは身につく 身についたもの それはほんものだ

若者よ 頭と体のやわらかいうちに 受身をうんと習っておけ 受身さえ身につけておけば 何回失敗しても すぐ立ち直ることができるから・・・そして 負け方や受身の ほんとうに身についた人間が 世の中の悲しみや苦しみに耐えて ひと(他人)の胸の痛みを 心の底から理解できる やさしい暖かい人間になれるんです。そういう悲しみに耐えた 暖かいこころの人間のことを 観音さま、仏さま、と 呼ぶんです。」

人間は強そうに見えて、実は弱い生き物です。仏教では、このような我々を「凡夫(ぼんぶ)」と呼び「愚が者」だと断言します。しかし お釈迦さまは「愚者だからこそ救われるのだ!」と説かれます。今世、仏法真理に逢い、救われる身となるのは、凡夫に生まれたこそなのだと。様々なことに失敗し、受け身をとり続ける事によって、人間は凡夫を知り 謙虚になります。我々も人知を越えた 南無阿弥陀仏を信じ、一切万物を救おうとする力(アミターのみ光)を感じましょう。さすれば、魂がこの世一代限りのものでないことがわかってきます。「永遠の命」であるからこそ、今、本当にせねばならないことが見えてくるのです。凡夫(人間)に生まれたという「負」を転じて、今世、勝縁をつかむのが「絶対の幸福」であり、「人生の目的」であります。合掌

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小寒

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。暦は「小寒(しょうかん)」となりました。「小寒」とは、寒さが最も厳しくなる前とか、寒さが加わるという意味で、いわゆる「寒の入り」のことです。寒中見舞いは、本日から出し始めます。

皆様、どのような正月をお過ごしでしょうか。盆と正月は、日本の伝統的な二大行事ですが、最近は長期休暇を利用して、家を空ける方も多くなりました。しかし 盆と正月は、故人や先祖が あの世からお帰りになる期間であり、特に正月は「松の内」という呼び名の通り、「(先祖を)待つ」が訛ってできたという説もあります。本来は、家族親戚が集まって 神仏に思いをはせたり、先祖とともに楽しく過ごすというのが正月でした。

とんちで有名な一休さん(一休宗純)は、こんな歌を残されています。

「門松(かどまつ)は 冥土(めいど)の旅の一里塚(いちりづか) めでたくもあり めでたくもなし」

年齢を「満」ではなくて「数え」で数えていた時代には、誕生日ではなく、正月がくる毎に一つ年齢を加えていきました。めでたい門松も、それを立てるたびに年を重ねることから、次第に死に近づく 標示だと詠まれたのがこの句であります。「絶対の幸福」は、死を超越したものでないと得られないという警鐘ですね。

正月の「正」の字は「一+止」でできてます。何かと慌ただしい現代人ですが、どうかまって、「人生の目的(自らの魂の行き先)」を見つめる月にしてください。菩提心をつにむることができれば、阿弥陀さまはもちろん、ご先祖さまも応援して下さり、「絶対の幸福」が得られます。その答えは、南無阿弥陀仏の中にあります。今年も1年、共に仏法真理を学んでいきましょう。宜しくお願いします。合掌

 

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冬至

「冬至(とうじ)」です。北半球では、正午の太陽の高さが一年中で最も低くなり、昼の時間が最も短く、夜が最も長くなります。この日を境に日が長くなるので、昔はこの日を1年の終点と考えていたようです。夕暮れの闇の濃さが何とも言えない今日この頃です。

先日、金閣寺に雪が散らついたという報道がありました。ご存じ、室町幕府3代将軍・足利義満が造らせた金色に輝く建物ですが、この眩いばかりの金色には、秘密があります。
実は、金閣寺の金箔の下にはまっ黒な漆(うるし)が塗られているのです。昭和61年から始まった金箔総張り替えの時のこと。金箔の下に隠れていた漆黒の金閣寺を見て、住職はあまりの美しさに言葉を失ったといいます。眩いばかりに輝くためには「金」だけでなく、それを内側から引き立てる「闇(黒色)」が必要だったのです。

一年の世相を表す「今年の漢字」は「金」という字が選ばれました。揮毫(きごう)された清水寺の森清範貫主は、「人々が将来に向かって、新しい光を発していこうと希望を持ったのでは」と仰ってました。輝くためには、闇(黒色)が より深みを与えてくれると申しましたが、私たちの人生も、良い時もあれば悪い時もあります。つらく苦しい時こそ、未来に輝く準備期間と考え、毎日の生活を味わえるようになれれば最高です。開けない夜明けはないのですから!

平成25年、皆様の1年がさらに良い年になる事を心よりお祈り申し上げます。闇の深い「冬至」から「大晦日」の過ごし方が、黄金に輝く未来へつながることと存じます。合掌

 

 

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大雪

「大雪(たいせつ)」です。山は雪で覆われて北風が吹き、本格的な冬の到来を意味します。北国や日本海では根雪になるほどの大雪が降り、動物たちは冬眠の時期を迎えますが、仏教では恰好の修行時期となります。

奉職寺院では「仏名会(ぶつみょうえ)」が行われてます。別名「三千礼拝(さんぜんらいはい)」とも言い、文字通り3000回の礼拝をします。南無阿弥陀仏を唱え、立って座って五体を投げ出し、1年の罪を拭うのです。12月8日のお釈迦様の悟り日にあわせ、3日間(12月6,7,8日)で行いますので、毎年、この「大雪」の頃が修行期間となります。浄土宗内でも最も厳しい行だと言われます。

私はここ数年、3000回の満行ができてません。というのも、寺の修行が長くなった為、世話係に回ったからです。布団の手配、食事の準備、風呂の支度、僧侶と奉仕団とのパイプ役等々…地味ですが、大切な仕事を仰せつかりました。修行とは真逆の立場です。礼拝をしている時は、とにかく満行に向かって突き進みます。自らの「進歩」を目指して懸命になります。一方、世話係は、礼拝がスムーズにいくよう、我を押さえ「調和」を図ります。そこには「進歩と調和」の世界があります。一つの目的に向かって、この二大原則がバチッとはまった時、大歓喜が起きるのだと世話係をして学びました。これは、世の中のいかなる場面でも当てはめられるのではないでしょうか。これを意識すれば、皆が尊く見えてきます。奢り高ぶることが無くなります。

奉職寺院の住職はいつも仰います。「仏名会は1人では満行できない。皆の力が一つになり、仏の導きがあって成し得るのだ」と。私も自らの立場を全うできるように、あと1日精進します。「大雪」という暦通り、北風が強まってきました。修行者は寒い思いをしてると思います。『北風と太陽』というイソップ寓話がありますが、心地よいあたたかさで、受者の方々を調和できればと思います。合掌

 

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小雪

「小雪(しょうせつ)」になりました。これから雪がちらつくようになり、北風によって木の葉が散るようになります。現在、「二十四節気(にじゅうしせっき)」ごとにブログを更新してますが、暦を意識すると本当に季節を感じます。

この時期になると、子供の頃に母が読んでくれた絵本を思い出します。雪が降り始めると、決まって『白雪姫』を読んでくれました。あの頃も季節感がありましたね(笑)。久しぶりに読み返えすと、昔とは違った感想があり驚きました。私の記憶では、白雪姫は「魔女に騙された可哀そうな女性」という印象でしたが、実は彼女は「騙されたとも、毒リンゴを食べさせられたことも知らず、幸せになった女性」だと気付いたんです。なぜなら白雪姫は、リンゴを口にした途端、深い眠りに落ちたので、魔法使いの正体が意地悪な継母であることも、魔法のリンゴが毒リンゴだったことも知るよしもないからです。ただ白雪姫は、魔法使いのお婆さんに親切をして、夢を叶えただけでした。つまりこの物語は、「夢を信じ、素直な優しい心を持ち続ければ、毒リンゴも幸せのリンゴになる」ということを教えてくれます。言い換えれば「物事は受け取り方次第で、幸にも不幸にもなる」という教訓を訴えてるのだと思います。

もし白雪姫が現代に生まれていたら…おそらく、見知らぬ老女を家に招いて親切にすることはないでしょうし、初対面の方にリンゴをもらっても怖くて食べれないと思います。現代は「まず疑うことが正しい」という風潮があるからです。もちろん否定的に見ることで、被害を最小限に食い止る「想定内での幸せ」はつかめると思いますが、時には世の中を肯定的に見ることで、「感動的な幸せ」が訪れるのではないでしょうか。

信仰も同じです。はじめから仏を疑う人は、もとから加護を放棄する人です。縁すら繋がりません。白雪姫にとって「幸せのリンゴ」となり得たのは、彼女の心映えによるように、やはり、心の現れがその人の世界を作っていくものだと思います。それを正しく導くのが宗教の役割です。現代では共感を得にくい話というのは重々承知ですが…このような時代だからこそ、今、信仰の大切さが問われてると思います。大人になってから『白雪姫』を読み返し、こんなことを学びました。合掌

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立冬

「立冬(りっとう)」になりました。暦では、今日から冬に入ります。「立」には新しい季節になるという意味があり、これから「立春」の前日までが冬になります。

寒い時期になりましたが、お寺には変わらず信者さまが手を合わしに来られます。人間、色々な「心配事」がありますが、信仰心のある方は、いかにして人生を輝かすことが出来るかを真剣にお考えになる素晴らしい人々です。先日、将来に不安を持つ方にこんな法話をしました。

あるアメリカの大学が「心配事」の80%は起こらずに済んでいるという調査結果を発表しました。ということは、実際に起こる心配事は20%となります。しかし、その20%のうちの80%は、信仰心等を持って心の整理をし、準備さえ怠らなければ、大事に至る前に解決できるというのです。つまり、どうしようもない心配事は、全体のわずか4%ということになります。ここから学ぶことは、我々を悩ませるの96%は、ただの取り越し苦労(96・クロー)だといえます。そのように「人生は取り越し苦労(96)が大半なんだ!」と割り切ると(÷2)と、幸せ(48)になるのです。でも、もし心配事が出て来てしまったら?その時は「明らめる」のです。神仏が与えて下さった試練として、有り難く頂戴すればよいのです。その4%が我々を成長させる糧となるはずです。因みに、人間の前頭葉にある「成長ホルモン」の分泌率は、「心配事」と同じ4%だそうです。

こんな法話をしましたら、信者さまは心が軽くなったと笑顔でお帰りになりました。もちろん、人間の根本苦は「生老病死」であります。特に「死」は100%確実な未来です。これは、どうあがいても逃げられません。しかし、大半の「取り越し苦労」を取り去り、それを根本問題を解決する時間に充てられれば、もっと輝かしく生きられるのではないでしょうか。その救いは「お念仏」しかありません。冬はそうのようなことを考え、実践する修行の時季でもあります。合掌

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