牛頭天王のご加護 ~レブル250~

お盆も佳境に入りました。住職もなんとか頑張ってます。色々なお宅に伺い、若い方と話していて気付いたけとがあります。それは ” 願い ”” 夢 ” をガツガツと持つ人が少なくってきた気がするのです。

これは時代背景が大きく影響しているのだと思います。その土壌は良くも悪くも ” 体験 ” からきてると存じます。「小さい時に欲しかった物を大人になって手に入れる!」「憧れだった大人の真似がしたい!」とか幼少期の体験が願いや夢に繋がるのだと思います。しかし現代は、手元に現金が無くても色々手に入り、マスコミが大人を叩き、グレーゾーンを許さない成熟?した社会になり過ぎたことが一因にあるのかもしれません。

住職は昭和50年の生まれですので、明治、大正、昭和(戦前〜戦後〜バブル期)、平成、令和の人々の変遷を目の当たりににしている世代です。特に幼少期は明治・大正の方々から憧れを抱いた世代です。

前回のブログを読んで下さった読者から「牛頭天王により何の願いがかなったんですかー?」という問いを多くいただきました。色々ありすぎて … また 個人的なことですので言う事は憚れるんですが、一つ告白すると250CC のバイクにご縁がありました、、、この時点で、ありとあらゆる方面から、カッコつけ!、生臭坊主!、布施を返せ!、ここには納骨せん!等々、色々聞こえてきそうですが(汗)、、、安心して下さい。西願寺での収入は 未来の納骨の方々を末永く守るため、ほぼ返還しています。他の収入で購入しますからm(_ _)m

この夢のバイクが手に入れたのは、やはり幼少期の体験です。昔、西願寺の隣に豆腐屋さんがありました。そこに亀治郎さんという大正時代生まれのお爺さんがいっらっしゃいました。お孫さんが私と同世代で、毎日のように遊びに行かせていただいてた記憶があります。たまに亀治郎さんも出てきて遊んで下さるんですが、いつも倉庫に連れて行ってもらい 愛車のバイクの音を聞かせて下さったんです。そして「いいだろ~、いいだろ~。大人になったらこんな遊びもできるんだぜ!」と低いしわがれた声で仰ってたのを覚えています。それからバイクが憧れになりました。

そうして 大人になった私は僧侶となり、勤めのために原付バイクに乗る機会ができました。50CC では30キロ以上で速度違反になるので、早々と中型免許を取り125CC の原付に乗り お詣りに走る日々ですが、去年、とっても格好いいバイクを街中で見つけたんです。それがHONDAレブル250でした。


女性が乗っていた このアメリカン
バイクに一目惚れしました!

幼少期の体験もあり、一目惚れしたバイクを見つけ、何店舗も店を巡りましたが、世界情勢の影響で部品がなく 売ってる店がありません。予約しても納期未定。予約すらできないというバイクだとわかりました。そこで、牛頭天王像に祈祷をして「何とかご縁をいただけないですか? アメリカンバイクに乗るワイルドな坊主は面白いでしょ?」とお願いしたら、翌日に契約が成立したんです(笑)。

私が欲しいと思っていた時点で
超品薄でした。
中古車の方が高いという異常事態
だったそうです。

次の日、牛頭天王のご加護があればと 近江八幡のHONDA店に「いつまでかかってもいいので!」という強い思いで予約に行きました。そしたら、あいにくその日は定休日(泣)。仕方なく、Uターンするために近くの店の駐車場を拝借しようと思ったら、その店がレッドバロンでした。バイクに無頓着な私は知らなかったんですが、全国にある中古のバイク店でした。

せっかく来たので・・・と店に入ると、たまたま店長さんがいらっしゃいました。事の経緯を話しますと・・・1分ほど沈黙の後、「本当に買われる意思がありますか?」と。「あります!」(即購入というのは 迷ったんですがw)と答えると、「一見さんには絶対お伝えしないんですが、当社で一台だけ確保できる権利を持ってるんです・・・よければ・・・」。嘘のような本当の話で、もう…「牛頭さま~♡」状態でした。

引き寄せられるように入ったレッドバロン

ということで、現在はバイクの趣味を楽しんでいます^^。中型免許を取得してミッションは25年ぶりでしたので、最初はエンストしまくりでしたが(汗)・・・将来は亀治郎さんのように自由な楽しみをもって老後を楽しみたいと思います。これが 承認欲求を持たない ” 自由な住職像 ” のうちの一つです。もちろん法務は誠心誠意いたします。

あと12年後、数え年で還暦になる私は、若い人から「あぁ、ハーレーダビッドソンに乗ってる あの琵琶法師、いつも楽しそうやな~」と笑顔で言われることを夢とします。合掌

遠方に行く技術や体力、時間はまだありません(笑)
西願寺の近くに 国民休暇村があり、
その手前にレッドバロンの保養所や
シャーレー水ヶ浜という景色が最高な喫茶店があり、
お茶をするのがささやかな楽しみです。
バイク好きにはたまらない地に
住んでることを再認識しました。

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牛頭殿へ安置

安倍晋三元総理大臣が奈良市で演説中に銃で撃たれご逝去されました。色々なご意見があると思いますが、日本国のために生涯を捧げられた生き様に敬意を表します。

過去に安倍家の菩提寺に琵琶説教で伺ったことがあります。山口県のお寺さまですが、いつか墓参りに行ければと思っています。心よりご冥福をお祈り申し上げます。犯人は犯行動機を宗教関係云々と言ってるみたいですが、本当の宗教に出会えなった可哀想な方です。唯物論者が求める幸せの限界を感じました。

安倍氏は
「法然上人のみ教えを基に共生社会や
世界平和の実現を推進する浄光会」
の世話人もお勤め下さいました。

紫雲院殿政誉清浄晋寿大居士
南無阿弥陀仏

ということで、今回は長文で バリバリの宗教の話をします。本日、7月15日は牛頭天王の縁日です。去年は総本宮の廣峯神社に参拝し、琵琶の奉納演奏をさせていただきました。

昨年、廣峯神社の奥の院に念持仏を
置かせてもらいパワーをいただきました。
天から地にエネルギーが降り注がれています。

昨年のブログに「住職が発願した牛頭天王像の拝殿を造りたい!」と書いたことを記憶しています。あれから一年・・・御堂までは建てられませんでしたが、西願寺の瑠璃殿(るりでん)【薬師堂】の裏を整備し、正式に安置することができたのです。牛頭天王は薬師如来の権化ですので、非常に相性のよい場所に遷座することができました。ある霊能者が、西願寺の牛頭天王像の拝殿は「小さいものから始まる!」と預言された通りになりました。

お像の背後には、三国伝来で誉れ高い
清凉寺の釈迦如来のポスターを貼ってます。
牛頭天王は、祇園精舎(お釈迦さまのお寺)の守護神です。

拝殿の隣には、牛頭天王の祈祷札を安置しました。
廣峯、八坂、今宮、津島、羽田の御札です。
掛軸は、廣峯神社に伝わる牛頭天王の真影を
信者さんに刺繍してもらい、軸にしました。
中段には八坂の牛頭荒魂、今宮の摂社末社もいらっしゃいます。

今宮の宝印も存在感があり、見守りいただいています。
牛頭殿には、希少な牛頭天王の縁起物が集まってきます。

牛頭天王を祀って感じたことは、人生が激変し、着いていくのが大変という感覚です。他にも、ちょっとした私欲なら ほぼほぼ願いが叶っているのが凄いです。起きた現象を包み隠さず言えば、おそらく驚嘆されると思います。それほどご加護と試練をいただきました。

ただ教訓として「願いが叶ったかといって幸福か?」と言えば、また違うのです。物(環境)と心は別物だと学びました。まさに好転反応ってやつです。

繰り返しますが、結果や将来を思うと、絶対に良い方向へ向かっています。でも「これがあれば幸せ。あれが無くなればいいのに!」という二極に分かれた願望が叶った結果は、バランスを取ることが難しく、よほど図太い精神にならないと、 ” 安穏な心境 ” になれないんだ痛感しました。本当に人間は勝手な生き物です・・・。

神仏研究家の桜井識子さんによる牛頭天王の性格を表した文章があります。彼女が今宮神社に参拝された時のエピソードです。

この神社は蚊が多く、私は10ヶ所以上、刺されまくりました。あちこち赤く腫れ上がって痒いのなんのって、もう・・・という状態でした。しかし、牛頭天王に参拝拒否をされているわけでも、嫌われているわけでもありません。
牛頭天王の考えが「蚊が刺すのは当たり前じゃないか」みたいな感じなのです。ですから、豊臣秀吉さんみたいに、刺されないように蚊を抑えてあげよう、守ってあげよう、なんて考えが ” まったく ” ありません。
秀吉さんは昔人間でしたから、蚊に刺されるのが嫌だという気持ちを知っていて、豊国廟に行くと蚊を抑えてくれます。しかし、牛頭天王はそこのところ無頓着と言いますか、全然気にしてないのです。ですので、この神社で蚊に刺されるのは、呼吸をするくらい自然なこと、というわけです。
夏場の蚊の数、本当に半端ないです。しかも牛頭天王は抑えてくれませんから、夏は虫除けスプレーは必携です。一番重要なアドバイスはここかもしれません。

(『神様と仏様から聞いた 人生が楽になるコツ』 宝島社)

この真意はとてもよくわかります。貴重なアドバイスです(虫除けスプレーじゃなく 笑)。牛頭天王は結果がすべてで、それまでの過程に配慮がないということです

それは 津島の牛頭天王を信仰した織田信長公の ” 秩序を排除した神がかりな出世 ” を見ても よくわかります。(最期は牛頭天王の加護を下げ、自らが神になろうとした瞬間から転落が始まった言う人もあります) 信長亡き後、廣峯の牛頭天王を信仰した軍師・黒田官兵衛が当時無名の秀吉と共に乱世をくぐり抜け、最後は 津島の牛頭天王に本殿を奉納した豊臣秀吉公は見事、天下人になったと伝わっています。これは牛頭天王信仰が全盛期の話です。

今宮神社の桂昌院(けいしょういん)碑は
” 玉の輿(たまのこし) ” の教訓です。
八百屋の娘・お玉が今宮の牛頭天王に
出世を祈り、5代徳川綱吉公の母に
なったという逸話です。
町娘のお玉が御輿に担がれる立場と
なったので ” 玉の輿 ” です(笑)。
この方も、聞こえはいいですが、
物(環境)と心は別で、大変苦労された
人生だったと推測します。
それにしても牛頭天王の願力は、
日本の歴史を変えるほど最強なのです!

「この願いは面白い!」と一度聞き入れたら、人間の都合や配慮を抜きに 結果に向けて全力で応援して下さる神なのです。決してあやふやなことはされません。ここを気をつけなければならないと思います。

藤子不二雄Ⓐによる『笑ゥせぇるすまん』というアニメがはご存じでしょうか?まさに あのイメージです。子供心に怖かったイメージがあります。
謎のセールスマン喪黒 福造(もぐろ ふくぞう)は 悩める現代人のちょっとした願望を叶えますが、約束を破ったり忠告を聞き入れなかった場合に 因果応報でその人が破滅に向かうというストーリーです。この作品では、社会生活で人間が包み隠している、いい加減さ、愚かさ、醜さ、弱さなどの負の部分を暴き出し、人の醜さを教えてくれます。

中途半端な人間の我欲は、叶ったからと言って安穏になれるとは限らないんだと思います。いつも申している、おかげさま、ありがとう、感謝、ご恩、死後の幸福を失った我欲が いかに愚かか・・・同じことが言えます。そう考えると、安倍氏を撃った犯人は、彼がいなくなり 現在、獄中で幸福の極みでしょうか・・・。

僧侶の立場からすれば、魂レベルで 智慧と慈悲で救い、お育て下さるのが ” 仏 ” という存在で、 ” 神 ” は現世利益で 今をお救いいただく存在だと認識しています。神と仏は全く別の存在だと覚えておいて下さい。神仏両方のご加護が必要です。

私にとっての魂の救済は阿弥陀仏で、日常生活の守り神は牛頭天王です。最強の神仏とご縁があり、これ以上ないベストな信仰生活を歩んでいると自負しています。どちらにせよ、この世とあの世を貫き、目一杯楽しめる切符(信仰)を手に入れたと感謝する一年でした。合掌

先月 ブログに書いた金戒光明寺には、
牛頭天王を日本(廣峯)に招来した
吉備真備(きび の まきび)公
お像や念持仏の観音像が祀られてます。
思えば コロナ退散を願い、廣峯神社に
寄付を申し出た日(ちょうど一年後の
5月30日)に、大本山・金戒光明寺
の藤本淨彦台下からお電話がありました
・・・牛頭天王の因縁を感じます。

*牛頭殿は、一般には拝観をしてません。
ただ、牛頭天王に 縁ある方の幸せを祈祷してますので、住職と波長を合わせ 西願寺で供養していただくと三苦(貧、病、争)回避の運気はかなり上昇するはずです。
法事の際には、牛頭天王のご真言と共に 大般若経の転読にてご遺族のケア(ご多幸)も祈らせていただいてます。一つずつの依頼ですと布施も重なりますが、先月も述べたように、短時間、総合的、合理的に供養できるのが当山の強みです。お互い 時間もお金も有限ですから。

今年も一般の盆供養を受け付けます。

オン ハラレイキャ ゴズデイバ セイガンズイキ エンメイ ソワカ 

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台下からの励まし ~次なる12年にむけて~

5月30日、晩8時過ぎに西願寺に電話がありました。夜、お寺に電話があると(お葬式の可能性が高く)ドキッとするんですが(汗)、予想外のお方でした。それは浄土宗の大本山・黒谷金戒光明寺(くろだに こんかいこうみょうじ)の藤本淨彦(ふじもと じょうげん)台下、ご本人でした。読者の方にどうお伝えしたらよいかわかりませんが、天皇陛下や総理大臣から直接連絡がある感覚で、背筋が伸びる思いでした(笑)

藤本淨彦台下

内容はこうでした。令和6年(2024)は、法然上人による浄土宗が開かれて850年の節目【開宗850年】となります。それに併せて、各本山では大きな催し事をされるのですが、黒谷金戒光明寺では金森の琵琶説教で盛り上げてほしいとのことでした。また850年目に向けて、各本山のトップの僧侶【台下(だいか)】が、各地の布教活動にお出ましになることを巡錫(じゅんしゃく)と言いますが、藤本台下の説法には金森が付いて法然上人の琵琶語りをしてほしいと直々にお言葉を頂戴しました。

私の性格は天邪鬼(あまのじゃく)で、本当にやりたいことをして人生を楽しんでいるので、組織が絡むことはだいたいお断りしています。しかし、今回ばかりは僧侶として一番尊敬する 台下直々のご依頼でしたので 快くお受けしました。できることは限られてますが、浄土宗のため全力を尽くす所存です。

大本山・黒谷金戒光明寺

電話を切る前の台下のお言葉が本当に心に染みました。
「各本山では手っ取り早く有名人を呼んで催し事をする傾向にあるけど、本来は浄土宗の坊さん自体が頑張らなくてはならない。そんな中、金森君を長年見ているけれど、君のたたずまい、しぐさ、話し方は本当に僧侶を志している者の風格になってきた。今までやってきたことに自信をもって前に進みなさい。私と一緒に各地を巡って布教をしよう!」

台下は本当に厳しいお方です。いつも怒られている感覚でしたが、「あぁ、見てて下さってるんだ・・・」と涙の出る思いでした。今年で僧侶を志し30年、琵琶説教を始めて20年、住職となり干支が一回り(12年)、骨仏を建立して10年と節目の年になります。最近、琵琶を習い始める僧侶や、西願寺式骨仏を建立するお寺が増えました。それはそれで、パイオニアになることができ喜んでいます。しかし 関係者からは ノウハウばかり聞かれたり、便利屋的な存在になり 寂しい思いをしてましたが、台下のお言葉で溜飲が下がり、本当に僧侶をやっててよかったと思いました。

今回の話は自慢たらしい話で 汗顔の思いですが、日記感覚で付けていいるブログですのでお許し下さい。今後、もちろん琵琶も楽しんでいきますが、最近は 自分の理想の僧侶像をセッセと造っています。それは承認欲求を持たない ” 自由な住職像 ” をもう一本柱に持ちたいんです。私は楽しいことをすれば寺院の魅力(布教)に繋がると思っています。その考えは昔から全く変わりません。

・ただの説法より、” 琵琶 ” を使ったお説教の方がワクワクしませんか? 琵琶物語から歴史や仏教を学ぶのです。今までそういう方がいらっしゃいませんでした。

・お墓を建立し、寺の付き合いや掃除、子孫への負担や無縁仏になる心配をするより、姓が変わっても親や友人と一緒に納骨され、しかも 本堂内で毎日住職のお経が聞こえる場所にある ” 骨仏 ” って素敵だと思いませんか?

この仏像の胎内に遺骨を納め、
仏の姿で次世代を見守ります。
これが住職の提唱する
” 300年安心プラン ” です。
※元々は東日本大震災支援のために
建立しましたので、
もちろん その思いも忘れていません。

安価な公共納骨所より 絶対によい環境です。住職がいますので供養の仕方も相談でき、参拝に来られる小さいお子さん(次世代)にはお菓子も差し上げ、供養の楽しさを味わってもらってます。そうして骨仏を紹介してくだされば下さるほど檀家の負担も減り、寺の消滅が多い中、長い目で見れば西願寺は繁栄するはずです。
また 合祀が抵抗ある方には個別納骨壇も設置しましたし、境内にペット墓、水子地蔵さまも設けましたので、すべて一元管理ができるのです。年会費も頂戴してません。

境内にはペット墓も設置しました

すべては、この登録文化財(重要文化的景観
第一号)や檀信徒のご先祖さまを永劫に
残すためにやっています

いかがでしょうか?・・・正しいかどうかは別として、住職12年で「あればいいな!」と思うものを形にしてきました。いくら説明しても私利私欲だと捉えられがちですが、今は ” 風の時代 ” です。もう ” ねばならないの時代 ” は終わりました。今後も仏教の基本(有難う、おかげさま、ご恩、感謝、死後の幸福)は押さえつつも 遠慮を取っ払って、未来を見据えて好きなことを加速してやっていきたいと思います。そのために私のプライベート(自由な住職像)は大事なのです。

あっ…しかし、今、私が目指している ” 自由な住職像 ” は 台下に叱られるものかもしれません・・・せっかくお褒めいただいたのに・・・やっぱり私は天邪鬼ですねー(笑)合掌

台下からご連絡があってスイッチが入り、
法然上人と黒谷金戒光明寺にまつわる
琵琶物語を約一時間で仕上げました。
まだまだ試作段階ですが、
好きなことは集中力がでるものですね^^
黒谷金戒光明寺の執事長・清水秀浩上人からも
フォローのお電話をいただきました。
懸命に頑張ります。よろしくお願いします。

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時間軸と空間軸

4月に入り、新入生の入学式の時節となりました。春ですね。「春」といえば、みなさんは、何を連想されますか?あるランキング調査では「春といえば、桜」と答える人が、約8割だったそうです。

しかし、古典で「春」といえば・・・やはり「春はあけぼの」です。この時代も桜は綺麗であったと思いますが、清少納言は花ではなく「時間軸(時の移ろい)」であらわしているのが印象的です。

一方、現代人の考えは「空間軸(今の状態)」です。現実に美しくなっている ” 今 ” の桜のみ見ている気がします。桜が好き!と言っても、開花宣言や花見に一喜一憂し、インスタ映え等の「空間」による心地良さを好み、そのプロセスは見向きもしません。平均寿命が延びた日本人ですが、現代人の方が刹那的だと感じます。

エッセイスト、木村耕一さんの対談を引用します。
──木村さん、春ですね。春といえば?

はい、「春は曙(あけぼの)。ようよう白くなり行(ゆく)、やまぎわすこしあかりて・・・」を思い出します。『枕草子』の、有名な書き出しですね。

──春といえば、「桜」を思い浮かべる人がほとんどのようですが・・・。なぜ、「あけぼの(夜明け前)」なのでしょうか?

そうですよね。春といえば、「桜」を連想する人が多いと思います。それなのに清少納言は、花ではなく、時間帯できたか!と驚きますよね。この意外性が、夜明け前の静けさを、映画のワンシーンのように脳裏に浮かばせ、強烈な印象を与えているのです。

──確かに「春はあけぼの」って、言葉の響きもよく、映像が浮かんでくるようですね。どんなメッセージが込められているのでしょうか?

はい。清少納言は、私たちに、「ほら、つらい冬が終わって、温かい太陽が昇ってきたよ。真っ暗な闇が去って、薄紫色に輝いてきたよ。だから、春は、あけぼのが好き」と語りかけているように思います。
彼女自身が、生きることのつらさ、苦しさを、強く感じていたからこそ、
「春の来ない冬はない」
「朝の来ない夜はない」
「だから、あきらめずに、前向きに生きよう」
というメッセージを、『枕草子』の冒頭に込めたのではないでしょうか。

──あれ? 『枕草子』は、千年前の、平安貴族の日常を、エッセー風に書いたものではないでしょうか。王朝生活は、そんなに暗いはずないですよね。

はい、実は私も、『枕草子』を読むまでは、「平安貴族は、気楽でいいなあ。いつもきれいな服を着て、すぐ恋をして和歌を詠み、四季の変化を眺めて『風流だな』と言っていれば評価されるんだから・・・。何の苦しみもない人たちだろうな」と思っていました。ところが、清少納言が、当時の天皇と后の周りで起きたことを書き残してくれたおかげで、平安貴族といっても、王朝生活といっても、人間関係の苦しみは、現代の私たちと、少しも変わらないことが分かります。

──え? どんなことがあったのでしょうか。

根も葉もないウワサ話に悩まされたり、濡れ衣を着せられたり、権力争いに巻き込まれたり・・・。でも、どんな理不尽な扱いを受けても、清少納言は、相手を非難したり、攻撃したり、報復したりしていません。知恵と洒落、ユーモアのセンスを生かして、乗り越えていきます。

──すごいですね。理不尽な出来事には、腹を立てたり、恨んだりして当然だと思っていましたが・・・。

怒りには怒りをぶつけ、恨みには恨みで報復していては、いつまでも、ドロドロとした戦いが続き、お互いに、得るものはありません。

──確かに、そのとおりです。

「正しいことは、時間の流れが証明してくれる。私は、私の誠意を尽くすだけ・・・」清少納言の、こういう心の持ち方が、千年たっても、多くの読者に支持されている理由ではないでしょうか。

──ありがとうございました。「『枕草子』は、キラキラしている」「悲しみ、苦しみを乗り越える力を与えてくれる」という読後感を持つ人が多いのもうなずけますね。
(「意訳で楽しむ古典シリーズ」)

現代人は、物事をもう少し「時間軸」を意識すると様々なものが見えてくるはずです。それを仏教が教えてるのではないでしょうか。こんな言葉があります。

あ 当たり前やと喜ばず
い いつもの事やと感謝せず
う 受けしお陰に気も付かず
え 縁を大事と喜ばず
お 恩も忘れて我が事ばかり

まさしく「時間軸」「空間軸」が交わった時にしっくりくる言葉です。仏教を通じて何事もバランスのよい見方を大切にしたいと思う今日この頃です。合掌

最近の関心事、コロナ問題やウクライナ問題にしても、感情論や各国の思惑による情報戦(空間軸)のみに傾くのではなく、過去の教訓や歴史的な背景、大いなるものからの警告(時間軸)として冷静に見る方が、真実が見えてくるのかもしれません。

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生活者と人生者

段々と暖かな春の日差しになってきました。奉職寺院の梅や河津桜も見頃になっています。これから一年かけて、様々な花が私たちを楽しませてくれます。日本人は花が大好きです。そのような花たちの終わりを日本語は粋に表現してますので、一部お伝えします。

【桜】⇒「散る」
【梅】【萩】⇒「こぼれる」
【椿】⇒「落ちる」
【朝顔】⇒「しぼむ」
【牡丹】⇒「崩れる」
【菊】⇒「舞う」
【薔薇】⇒「枯れる」
【紫陽花】⇒「しおれる」

では、私たち人間の終わりは何と言うでしょう?

【人間】⇒「往(い)く」

仏教では、仏に救われての亡くなり方を「往生」と言います。往き生まれる・・・人間は死んだら終わりでなく、魂は永遠に生き続けると説きます。ですから、人間のご遺体のことを「亡骸(なきがら)」といいます。” 魂の抜け殻 ” という意味ですね。みんなこの世を去るんです。そう考えると、花にしても人間にしても、今を精一杯生きることが尊くて 成功も失敗もないんだなぁ、と思います。入り組んだ現代社会では、色々考えれば考えるほどうまくいかないもので・・・そんな中、僧侶は「余分なことは考えなくていいんですよ。ただ、魂の次の往き先だけは意識しておいて、この世をハツラツと生きましょう!」と魂中心の生き方を伝える職業です。

宗教評論家のひろさちや氏のお言葉です。
ここで人間というものを二つに定義してみましょう。
毎日の暮らしにあくせくし、そこにとらわれて、何か問題が起きたら、なんとか解決したい、どうしたらもっとよくなるのか、と考える。これが「生活者」です。
一方、ここに人間が生きている、生きている俺は好きなように生きる、どんな生き方をしたってかまわんだろう、と開き直ることができる。こちらは「人生者」です。

人生者と生活者が決定的に違うのは、そのトラブルにどう向き合うかなんです。生活者はトラブルをなんとしてでも解決しようとする。悩みや苦しみもなくしたい、と考えます。人生者はそんなつまらないことはしません。トラブルも、苦労も、悩みも、放っておくんです。

放っておくとはどういうことか?トラブルにみまわれてる自分、悩みに落ち込んでいる自分、苦労のさなかにいる自分を、そのままに生きる、ということですね。
トラブルや悩みも同じです。それをどうにかしようなんてことは考えずに、あるがままにいきたらいい。それが人生者としての生き方です。

(『「ずぼら」人生論』 三笠書房)

最近は、コロナ感染、悲惨な戦争、物価上昇等々、辟易(へきえき)とする話題ばかりです。人の考えも様々になり、正しさの価値観が消えている状態です。これは 一僧侶の努力ではどうすることもできません。放っておくといえば語弊がありますが、ありのままに生きる「人生者」として、もっと自分の心を大切にしたいと思うようになってきました。何の駆け引きもなく、精一杯生きている花を見ると勇気が湧いてきます。人生は、おごらず、比べず、面白がって、平気に生きればいいんです。合掌

今、奉職寺院の河津桜が見頃です
桜は「散る」ですね
「散る桜 残る桜も散る桜」良寛禅師

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父の遺言

今月28日は先代住職の7回忌に当たります。檀信徒や縁ある方々に葬儀を挙げていただいて丸6年。長かったような短かったような・・・一言では言い表せない年月でした。率直に言いますと、かなりしんどかったです。一家の大黒柱を失うというのは、これほど大変なものなのかと痛感しました。この6年の経験が糧となり、器を広げることが先代への親孝行だと存じます。

西願寺430年の歴史の重みと、
伝統と伝承を考えさせられた6年でした。

そんな先代が亡くなる前に発した言葉が今でも忘れられません。
「お金を使いたい・・・」
私にとっては衝撃的な言葉でした。仮にも僧侶ですから、清浄な悟りの言葉をいただけると思っていたからです。しかし、この言葉の意味をずっと考え続け、様々な体験をし、今回の節目を迎えると、実に奥深い言葉だと捉えられるようになりました。それは お金に対しての価値観です。

「時は金なり」という諺の通り、時間は有限です。その貴重な時間を割いて、人が何かを費やす対価が 現代で言うお金です。つまり「人生の貴重な時間を費やすエネルギー=対価(お金)」ですから、貯蓄ばかりでは意味がありません。エネルギーは動いてなんぼのモノです。 色々な経験に使ってこそ、恩送りという循環ができるのだと存じます。お金に対する執着や他人の目のために ” 人生という時間 ” を犠牲にすべきではなく、また仕事や物質の奴隷になってはけないのだと思います。特に風の時代は、得体のない(土のように)ガチガチに固まった美徳の奴隷になってはいけないのではないでしょうか。

尊敬するビル・パーキンス氏の言葉です。
死は人を目覚めさせる。
死が近づいて初めて、私たちは我に返る。
先が長くないと知り、ようやく考え始めるのだ。
自分はいったい何をしてきたのだろう? 
これ以上、先延ばしをせずに、今すぐ、本当にやりたいこと、大切なことをすべきだ、と。
ふだん私たちは、まるで世界が永遠に続くかのような感覚で生きている。
だが残念なことに、私たちは喜びを先送りしすぎている。
手遅れになるまでやりたいことを我慢し、ただただ金を節約する。
人生が無限に続くかのような気持ちで。

(『DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール』)

先代は常々「今日が人生で一番若い日だ」と申していました。この言葉は、何をするにしても遅いことはないという意味だと理解しています。しかし、お金に関して言えば 活きた使い方にはタイミングがあります。

人生の最期に思い返すのは ” 今まで経験してきたこと ” と ” 死後のこと ” (後悔と恐怖)だとお経に記されています。

住職は死後の救いについては専門家ですので、信仰の力で恐怖を打ち消す努力はできると思います。しかし、後悔という面では先代のようにフツフツと沸き上がる気がするのです。今まで、財産の大半を寄付して 私生活の充足を考えずに生きてきた私は、美徳というものを隠れ蓑にして、お金(エネルギー)の使い方を放棄していた気がします。もちろん功徳としては貯まっているはずで、神仏に護られている自覚はありますが、この世的な経験や喜びが圧倒的に足りないと思う今日この頃です。そう考えると「お金を使いたい・・・(死を前に 後悔せぬよう多くの経験をしなさい!)」・・・これが父の遺言だったのか!?とさえ感じます。

父との別れは早かったですが、私が晩年、このことに気付かされていては 生きる価値が全然違うかったかもしれません。”人生で多くの経験をすることが一番の充足に繋がる”・・・これを合い言葉に、また私の趣味や最近始めたこと等をお話できればと思っています。合掌

親族にご参列いただき7回忌と納骨法要を勤める準備をしてきましたが、
残念ながらコロナの影響で家族内でさせていただきました。
骨仏の存在として、西願寺や子孫を極楽から見守ってくれればと願います。

願蓮社成誉上人法阿慈光邦雄和尚 7回忌 荘厳浄土 南無阿弥陀佛

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寅年と風の時代の心構え(令和4年)

新年、明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いします。本年、令和4は寅(トラ)年です。本来、この字は「イン」と読みます。寅は「引」や「伸」の「イン」の同義語で、意味は「草木が伸び始める状態」を表します。ですから、精進をすれば少しずつ活気が出てきて、万事順調に進みはじめる年だと言えます。

ただ、時代が大きく変わりつつあることを意識して十二支を指針とすべきです。よく勉強されている方は、現在は「風の時代」だと聞かれたことがあると思います。これは西洋の占術学で、理屈はこうなります。

天体にある木星と土星は地球に大きな影響を与えると言いますが、この二つの惑星は20年に一度 ピッタリ重なります。これをグレートコンジャンクションといいます。しかし 約200年に一度、重なり合う惑星の配置が変わり、その時から地球に住む人間の価値観や精神性がガラッと変わるというのです。2020年12月22日から配置が変わったと言いますので、約一年前から始まった新たな時代を「風の時代」と言います。

ちなみに その前は「地の時代」と呼ばれてました。重なり合う惑星の配置が変わるというのは、今までのグレートコンジャンクションは「牡牛座、乙女座、山羊座(地の星座)」の中で重なり合っていましたが、一年前から「水瓶座(風の星座)」の中で重なり合ったことから「風の時代」と言うのです。

この時代はこの先220年ほど続くとされていますので、今を生きている人々は、これから先の生涯「風の時代」を生きることになります。では どんな価値観に変わるのでしょうか。

住職も流行に乗らず、冷静に「風の時代」の幕開けを見てきましたが、当てはまるものばかりで驚きました。最近の悩み相談のほとんどが、地の時代と風の時代の価値観のギャップに苦しんでおられるのです。コロナの影響もありますが、この一年で人々が 「風」のように自由に生きることに価値を求め、働き方やお金に対する価値観も大きく変わった気がします。

ところで 我々の生きた「地の時代」とは、約260年前の産業革命の時代から始まったようです。物、金、権力、ステータス、ブランド、不動産、終身雇用など形ある安定したモノものを重んじる物質主義で、目に見える資産形成に価値が置かれていた時代です。産業革命から始まり、それが行き着いたところが現代の大量生産・大量消費の世界でした。また 精神面では実績を信用し、組織の伝統を大切にする、我慢や根性が大切とされてきた時代でもありました。振り返れば、まさに土(地)のように しきたりがガチガチに固まった時代だったように思います。

地の時代の幕開けとされる産業革命

この「風の時代」は、「風」が目に見えないように、形のないものに価値観を見いだす新時代として、「所有したい」という物質的欲求から「知りたい(情報、知識、人脈)」という精神的欲求へと人々の関心が変遷されると言われています。つまり、企業や組織など長い物に巻かれる時代は終わり、上下関係や他人の目などは関係なく、自分流で生きていく時代となります。

どうぞ、皆様も今年から新たなものを挑戦してみる年にされればと存じます。まずは他人の目を気にせず、自分が本当に良いと思うものを好きになれればいいですね。寅の干支の意味通り、精進をすれば少しずつ活気が出てきて、万事順調に進みはじめる年だといえます。今年も宜しくお願いします。合掌

風の時代幕開けの象徴がビッグボス、新庄剛志氏じゃないでしょうか。あの縦社会のプロ野球界に監督で選ばれるなんて 数年前までは考えられませんでした。彼は1月28日生まれの水瓶座で、風の時代に一番輝く星座といわれます。1月28日生まれと言えば星野源さんも風の時代に入り新垣結衣さんの心を射止めましたね!
ちなみに、住職も両氏と同じ誕生日の水瓶座です(笑) 今までも琵琶説教を考案したり、骨仏を建立したり、倍返り御守を広めたりして、組織に入らず クリエイティブで型破りの気質がありましたが・・・「風の時代」を楽しみにしている一人です^^

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人は心変わりをすると全くの別人になる

こんにちは。本年最後のブログとなりました。皆様、大変な一年だったことと存じます。住職も色々経験しましたが、これほど ” 諸行無常 ” を感じた年はありませんでした。

仏教では、我々は「魂の存在」だと教えます。その魂が生身の身体に入り、私達は人間になっています。その寿命が尽きると 生前の生き方(業)によって次の生が決まり、地獄、餓鬼、修羅、畜生、人間、天上界と 生まれ変わり死に変わりを繰り返すと云います。その6つの世界を「六道」といい、仏教(念仏の教え)は、六道(苦しみの輪廻)から魂が解脱する方法を教えます。

人間世界は一言で言うと、諸行無常の苦しみの世界です。誰もが幸福になる努力をしますが、結局 思い通りにはなりません。叶ったとしても長続きはしません。そんな中、永遠に生きるのではないかと錯覚し、不安、混乱の中で生きるのが人間なのです。みんな諸行無常に翻弄されているのです。諸行無常は言い換えれば ” 裏切り ” です。努力の如何に関わりなく 積み上げてきたものが時間と共に壊され(裏切られて)苦しむのです。

千年前の日本人は 人生をどう考えていたんでしょうか。清少納言の『枕草子』を読んでますと、なるほどと思う段(第68段 たとしえなきもの)がありました。
(意訳)
あまりにも違いすぎて、比べようのないもの。
夏と、冬と。
夜と、昼と。
雨の日と、晴れの日と。
人が笑っている時と、腹を立てている時と。
年老いた人と、若い人と。
白い人と、黒い人と。
自分が思いを寄せている人と、自分が憎んでいる人と。
同じ人なのに、自分に愛情を持っていた時と、心変わりしてしまった時とでは、全く別人のようにしか思えません。

(『こころきらきら枕草子』木村耕一著)

今も昔も、季節も、天気も、人の心も、全く思い通りにはならないんですね。努力云々ではなんともならない・・・うまくいってもコロコロと情況が変わるのが人間世界と教えてくれます。それにしても、最後の一文「 同じ人なのに、自分に愛情を持っていた時と、心変わりしてしまった時とでは、全く別人のようにしか思えません 」にはハッとしますね。これこそ諸行無常の極みです・・・。

住職には 多くの方が正直な気持ちを吐露して下さいます。本音を話す場所はなかなかないのを知ってますので、どんな話題でも誠心誠意聴くようにしています。そして あえて答えを出しません。100パーセント共感をし、相談者に考えてもらうようにします。その苦しみは彼(女)らの問題集ですから。しかし前提だけはお話します。

「私達は 努力に反して ” 裏切り ” がセットにある世界に生きています。勇気を持って ” いずれ失われること ” に目を向けましょう!」

このことを心に留めるだけで楽に生きられる事と存じます。精進は大切ですが、どうぞ自分を責めないで下さい。心配しなくても 解脱(往生)をしたらすべて還ってきますから。私は誰でも往生する方法を知っています^^ 
では、また来年。有難うございました。合掌

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伝統と伝承

先日、秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまと小室圭さんがご入籍されました。日本国民としてお二人の幸せを心よりお祈り申し上げます、結婚に伴う儀式などは行われず、皇室を離れる際の一時金も支給されない異例の形でのご結婚となるようです。

この話題を考えるにつれ「伝統と伝承」という言葉を思います。この2つの違いがわからなければ、世の中が滅茶苦茶になります。

「伝統」は、時代に合わせて 先人の積み上げてきたことを次世代に残す行為や意思。
「伝承」は、時代が変わろうとも 絶対に変えてはならない根本真理。

今回のご結婚について言えば、儀式や過去の儀礼を執行されないのは「伝統」の部分で ご自身の意思と時代の流れ的要素が強いですが、皆様が話題にされているのは「伝承」の部分です。つまらない議論もありますが、その根本は 皇族の永続的な繁栄を願う国民感情の現れなのだと存じます。眞子さまがお気の毒で とても窮屈に感じることもありますが、一方で これが国の歴史の重みでもあるんだと 畏敬の念を覚えました。

堀江貴文氏が「10年続くお店」という興味深い話をされていました。
「飲食店の平均寿命が短くなっている。
3年続けばあっぱれ、といわれる業界で、10周年を迎えられるお店の少ないこと。
初期投資をして、休みも取らずに働いて、10年もたないのでは、やる意味がない。
ある程度有名になったシェフでも、人気の波が過ぎるとひっそりと業界から姿を消している。
10年以上続くお店にするには、コンスタントにお客さんがこなければだめだ。
つまり、お客さんに、いかに「また来たい」と思わせるかが鍵になる。
「そんなことわかっている」のだったら、あなたは「また来たい」と思わせるために、どんな努力をしているか考えてみてほしい。
僕が「また来たい」と思うのは、前にも書いたが驚きのあるお店。
「なんだこれは!?うまいぞ!」となれば、仲間を連れてまた行って、その驚きを共有したくなる。
SNSや「テリヤキ」に投稿して、ほかの人にも体験してもらいたいと思う。
そんな驚きを絶えず人に提供するのは並大抵のことではないだろう。
でも、実際に、人気をキープしているお店はそうなのだ。
最先端の手法や素材に対するアンテナを張り、キャッチし、自分なりのアイデアを出して実際に料理にする。
師匠に教わったことを繰り返しているだけの店は、絶対にもたない。」

(『なんでお店が儲からないのかを僕が解決する』 ぴあ)

この話も「伝統と伝承」に通じるのではないでしょうか。何も考えずに昔からしていることを繰り返しているだけでは10年と持たない。「伝統」は試行錯誤の末、続いていくものなのだと思います。堀江氏のおっしゃる ” 驚き ” とは、人間の大事な部分で、真心、誠意、サービス精神、丁寧さといったもので現れる「伝承」の積み重ねなのだと存じます。

現在、コロナウィルス感染拡大により、様々な地域の行事が中止、延期となっています。しかし、ただ合理的な行事の廃止や取りやめが良いのではなく、時代に合わせて いかに先人の知恵を後世に残す工夫が求められているのだと思います。「伝統」とは革新です。そして、その土台となるのが「伝承」(根本の真理)で、宗教を廃した合理化社会では 真なる幸福はつかめないと教えていただいた一ヶ月でした。合掌

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神仏に可愛がって”もらう”人生

西願寺には、江戸時代から伝わる疫病退散の掛け軸があります。今から200年ほど前の文元年間、当山がある船木村で疫病が流行り、当時の住職(薫誉上人)が祈りを捧げたところ、地蔵菩薩が夢で「利剣名号(穂先が刀のように尖った南無阿弥陀仏)を記せ」と告げられたとあります。そして夢告の通り行動し、大念珠で南無阿弥陀仏を唱え続けた暁には 疫病が完全に収束したと云われます。さらに地蔵菩薩は「我に祈る者、疫病から守る」と告げられ 自ら軸の中に入られたと伝わり、現在でも利剣名号の周りにお地蔵さまらしき黒い影が確認できます。

詳細は西願寺七不思議の5
をご覧下さいませ。

本来、今月は授戒会開催の月でしたが、疫病(新型コロナウィルス)感染拡大のため、やむなく延期となりました。現在の西願寺は 江戸時代の状況とよく似ていると思い、このたび住職より大念珠を布施させていただきました。参拝者は 利剣名号の前で、お回しいただければ幸いです。

私は 得た収入の〇分の1を神仏に布施することを決めています。陰徳がなくなるので これ以上申しませんが、この感覚は説明しづらいものがあります。例えば、布施と御礼は違います。一般的に「布施は ” させてもらう ” 行為、御礼は ” してあげる ” 行為」と言います。双方共に尊い行為ですが、御礼はお返しの意味合いが強く、潤滑油的に してあげる行為に対し、布施は自らの修行であり、他者の評価を超えて、させてもらうことに喜びを感じます。ですから、お褒めの言葉や領収書は発生しません(笑)。して ” あげる ” 行為は、対象者の反応によって喜びが変わり、あげることで無くなりますが、させて ” もらう ” 行為は、神仏の恵みをもらい、心が満たされ、繁栄をもらうことで 減ることはありません。

また、御礼は受動的(受け身)な行為に対して 布施は能動的(自発的)な行為となり、布施行は その人の本質そのものと言っていいんじゃないかと思います。つまり仏教では、その本質(霊格)の高さそのものが 物事がうまくいく根源と見ているのです。

少し難しいと思いますので、桜井識子さんのブログからヒントを拝借します。
「私の昔の知人に、とても信仰心の厚い人がいました。
性格も温厚で、優しく、いつも笑顔で、相手を心から気遣うことのできる、善人の見本のような人でした。
彼の夢は自分の会社を持つことでした。
残業も厭わず、一生懸命に働いて、奥さんもパートを頑張り、2人で資金をコツコツと貯め、ついに会社を設立しました。
周囲の誰もが、おめでとう! と盛大にお祝いをしました。
恥ずかしそうに照れていて、でもすごく嬉しそうにしていた2人を思い出します。
会社は順調にスタートし、神仏のご加護もあって、なんと! 3年目にして、支店を出しました。
大成功したのです。
よかったね~、という友人に囲まれて、2人はニコニコしていました。
でも、その頃から彼の人柄が、少しづつ変化していったのです。
お金持ちになったせいか、一般人を下に見るようになり、話をする時もそれがチラチラと出てきます。
成功した自分は、平凡な君たちとは違う、というようなことも口にするようになりました。
あれ? あんなにいい人だったのに? と、最初は軽い違和感を覚える程度でした。
しかし、だんだんと変わっていくので、周囲も徐々に距離を置くようになりました。
というか、彼のほうが以前の知り合いとは付き合いをしたくないようでした。
それからしばらくして、支店が閉鎖されたと噂で聞きました。
そしてその後、そんなに時間がたたないうちに、会社がつぶれたことも耳に入ってきました。
あれだけいいスタートを切り、明らかに成功していたのに …… 坂道を転がり落ちるように状況が悪化したのです。
神様に可愛がられている人でしたから、人格が変わった時点で、これ以上、霊格を落とすことはさせたくない、と神様が守ってあげたのです。
このようなことは、世の中にたくさんあります。
(中略)
神様はもとの性格の彼が好きだから、これ以上霊格を落とさないように守るのです。
霊格を落とすきっかけが会社なら、あっさりつぶします。
彼の魂にとって、会社を持っていることが、人生で一番重要ではないからです。
何が彼にとって一番いいのか …… そこはシビアに判断されます。
ですから、神仏に応援してもらって、何かを成し遂げた! 成功した! という場合、そのあとは自分の霊格を落とさないように心がけたほうがいいです。
あちらの世界に帰る時に、泣いて後悔しないようにという、神仏の優しさ、思いやりで、その成功がナシになるかもしれないからです。
でも、逆にいえば、霊格さえ落とさなければ …… つまり、そのままの自分でいれば、その成功は持続するわけです。
ということで、神仏に可愛がられている、目をかけてもらっていることを自覚することは、実はものすごく大事なことなのです」

(桜井識子オフィシャルブログ~さくら識日記~)

現代は、地道に物事を続けてらっしゃる方を評価する風潮があまりありません。変化変化で斬新なことをする人にスポットライトが集まります。しかし、仏教では ” 諸行無常 ” の世に変化しないものなんてない。現状維持に見える人でも、小さな変化や努力を繰り返して今の立場があるんだと教えます。つまり、一時的な成功や功名心が大切なのではなく、日々、地道に神仏に可愛がられることや目にかけてもらっていることの自覚をし、また高めた霊格を落とさないこと(小さな変化、精進)が一番の生き方と説きます。そのために布施の修行があるのです。

自らの心地いい環境を目指す、して ” あげる ” 人生か、神仏に好かれて、できることをさせて ” もらう ” 人生なのか・・・それぞれあるかと思いますが、住職は後者で楽しく信仰生活を送っていきたいと思います。合掌

もちろんお金のいらない布施修行もあります

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