冬至

「冬至(とうじ)」です。北半球では、正午の太陽の高さが一年中で最も低くなり、昼の時間が最も短く、夜が最も長くなります。この日を境に日が長くなるので、昔はこの日を1年の終点と考えていたようです。夕暮れの闇の濃さが何とも言えない今日この頃です。

先日、金閣寺に雪が散らついたという報道がありました。ご存じ、室町幕府3代将軍・足利義満が造らせた金色に輝く建物ですが、この眩いばかりの金色には、秘密があります。
実は、金閣寺の金箔の下にはまっ黒な漆(うるし)が塗られているのです。昭和61年から始まった金箔総張り替えの時のこと。金箔の下に隠れていた漆黒の金閣寺を見て、住職はあまりの美しさに言葉を失ったといいます。眩いばかりに輝くためには「金」だけでなく、それを内側から引き立てる「闇(黒色)」が必要だったのです。

一年の世相を表す「今年の漢字」は「金」という字が選ばれました。揮毫(きごう)された清水寺の森清範貫主は、「人々が将来に向かって、新しい光を発していこうと希望を持ったのでは」と仰ってました。輝くためには、闇(黒色)が より深みを与えてくれると申しましたが、私たちの人生も、良い時もあれば悪い時もあります。つらく苦しい時こそ、未来に輝く準備期間と考え、毎日の生活を味わえるようになれれば最高です。開けない夜明けはないのですから!

平成25年、皆様の1年がさらに良い年になる事を心よりお祈り申し上げます。闇の深い「冬至」から「大晦日」の過ごし方が、黄金に輝く未来へつながることと存じます。合掌

 

 

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大雪

「大雪(たいせつ)」です。山は雪で覆われて北風が吹き、本格的な冬の到来を意味します。北国や日本海では根雪になるほどの大雪が降り、動物たちは冬眠の時期を迎えますが、仏教では恰好の修行時期となります。

奉職寺院では「仏名会(ぶつみょうえ)」が行われてます。別名「三千礼拝(さんぜんらいはい)」とも言い、文字通り3000回の礼拝をします。南無阿弥陀仏を唱え、立って座って五体を投げ出し、1年の罪を拭うのです。12月8日のお釈迦様の悟り日にあわせ、3日間(12月6,7,8日)で行いますので、毎年、この「大雪」の頃が修行期間となります。浄土宗内でも最も厳しい行だと言われます。

私はここ数年、3000回の満行ができてません。というのも、寺の修行が長くなった為、世話係に回ったからです。布団の手配、食事の準備、風呂の支度、僧侶と奉仕団とのパイプ役等々…地味ですが、大切な仕事を仰せつかりました。修行とは真逆の立場です。礼拝をしている時は、とにかく満行に向かって突き進みます。自らの「進歩」を目指して懸命になります。一方、世話係は、礼拝がスムーズにいくよう、我を押さえ「調和」を図ります。そこには「進歩と調和」の世界があります。一つの目的に向かって、この二大原則がバチッとはまった時、大歓喜が起きるのだと世話係をして学びました。これは、世の中のいかなる場面でも当てはめられるのではないでしょうか。これを意識すれば、皆が尊く見えてきます。奢り高ぶることが無くなります。

奉職寺院の住職はいつも仰います。「仏名会は1人では満行できない。皆の力が一つになり、仏の導きがあって成し得るのだ」と。私も自らの立場を全うできるように、あと1日精進します。「大雪」という暦通り、北風が強まってきました。修行者は寒い思いをしてると思います。『北風と太陽』というイソップ寓話がありますが、心地よいあたたかさで、受者の方々を調和できればと思います。合掌

 

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小雪

「小雪(しょうせつ)」になりました。これから雪がちらつくようになり、北風によって木の葉が散るようになります。現在、「二十四節気(にじゅうしせっき)」ごとにブログを更新してますが、暦を意識すると本当に季節を感じます。

この時期になると、子供の頃に母が読んでくれた絵本を思い出します。雪が降り始めると、決まって『白雪姫』を読んでくれました。あの頃も季節感がありましたね(笑)。久しぶりに読み返えすと、昔とは違った感想があり驚きました。私の記憶では、白雪姫は「魔女に騙された可哀そうな女性」という印象でしたが、実は彼女は「騙されたとも、毒リンゴを食べさせられたことも知らず、幸せになった女性」だと気付いたんです。なぜなら白雪姫は、リンゴを口にした途端、深い眠りに落ちたので、魔法使いの正体が意地悪な継母であることも、魔法のリンゴが毒リンゴだったことも知るよしもないからです。ただ白雪姫は、魔法使いのお婆さんに親切をして、夢を叶えただけでした。つまりこの物語は、「夢を信じ、素直な優しい心を持ち続ければ、毒リンゴも幸せのリンゴになる」ということを教えてくれます。言い換えれば「物事は受け取り方次第で、幸にも不幸にもなる」という教訓を訴えてるのだと思います。

もし白雪姫が現代に生まれていたら…おそらく、見知らぬ老女を家に招いて親切にすることはないでしょうし、初対面の方にリンゴをもらっても怖くて食べれないと思います。現代は「まず疑うことが正しい」という風潮があるからです。もちろん否定的に見ることで、被害を最小限に食い止る「想定内での幸せ」はつかめると思いますが、時には世の中を肯定的に見ることで、「感動的な幸せ」が訪れるのではないでしょうか。

信仰も同じです。はじめから仏を疑う人は、もとから加護を放棄する人です。縁すら繋がりません。白雪姫にとって「幸せのリンゴ」となり得たのは、彼女の心映えによるように、やはり、心の現れがその人の世界を作っていくものだと思います。それを正しく導くのが宗教の役割です。現代では共感を得にくい話というのは重々承知ですが…このような時代だからこそ、今、信仰の大切さが問われてると思います。大人になってから『白雪姫』を読み返し、こんなことを学びました。合掌

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立冬

「立冬(りっとう)」になりました。暦では、今日から冬に入ります。「立」には新しい季節になるという意味があり、これから「立春」の前日までが冬になります。

寒い時期になりましたが、お寺には変わらず信者さまが手を合わしに来られます。人間、色々な「心配事」がありますが、信仰心のある方は、いかにして人生を輝かすことが出来るかを真剣にお考えになる素晴らしい人々です。先日、将来に不安を持つ方にこんな法話をしました。

あるアメリカの大学が「心配事」の80%は起こらずに済んでいるという調査結果を発表しました。ということは、実際に起こる心配事は20%となります。しかし、その20%のうちの80%は、信仰心等を持って心の整理をし、準備さえ怠らなければ、大事に至る前に解決できるというのです。つまり、どうしようもない心配事は、全体のわずか4%ということになります。ここから学ぶことは、我々を悩ませるの96%は、ただの取り越し苦労(96・クロー)だといえます。そのように「人生は取り越し苦労(96)が大半なんだ!」と割り切ると(÷2)と、幸せ(48)になるのです。でも、もし心配事が出て来てしまったら?その時は「明らめる」のです。神仏が与えて下さった試練として、有り難く頂戴すればよいのです。その4%が我々を成長させる糧となるはずです。因みに、人間の前頭葉にある「成長ホルモン」の分泌率は、「心配事」と同じ4%だそうです。

こんな法話をしましたら、信者さまは心が軽くなったと笑顔でお帰りになりました。もちろん、人間の根本苦は「生老病死」であります。特に「死」は100%確実な未来です。これは、どうあがいても逃げられません。しかし、大半の「取り越し苦労」を取り去り、それを根本問題を解決する時間に充てられれば、もっと輝かしく生きられるのではないでしょうか。その救いは「お念仏」しかありません。冬はそうのようなことを考え、実践する修行の時季でもあります。合掌

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霜降

「霜降(そうこう)」となりました。秋が一段と深まり、霜が降る頃となりました。朝晩の冷え込みが厳しくなり、日が短くなったことを実感する今日この頃です。

先日12日、人間国宝であられる志村ふくみ先生の「米寿をお祝いする会」のサプライズゲストとして、琵琶説教をさせて頂きました。夕方5時頃、しょうざん庭園をバックに、かがり火のほのかな明かりの中、荘厳な雰囲気での演奏でした。まだその頃は、日暮れでも心地よく感じましたが、たった10日でグッと冷え込んだ気がします。1年の中でも、丁度よい季候はわずかで、後になってその有り難さがわかります。

米寿というと88歳。失礼ながら日数に換算すると、3万2千日あまりの人生を積み重ねて来られた計算となります。また、先生は31歳で本格的に染色の分野に入られたとのことですので、2万日あまりの研鑽となられます。私は琵琶と出逢って17年ですので、6千日あまり。まだまだハナタレ小僧にもならない存在だなぁ…と痛感しました(笑)。

同じく来賓として来ておられた、滋賀県知事・嘉田由紀子先生は「もったいない」とスピーチされておられました。もったいない…例えば、人生を1日1円として譬えますと、1年間で365円の財産となります。米寿の3万2千円に比べたら微々たるものかもしれません。しかし、どんな方でも人生は積み重ねであって、1日1円を投資するか浪費するかはその人次第であります。今日の1円を大切にすることが、この1年間(365円)の価値を高めてくれるはずであります。まさしく人生は「もったいない」の精神であります。

霜降の時季になると、ほど良い気候の有り難さが身に染みます。私達の人生も、後悔なく、1日一歩づつ、着実に歩んでいければ、これほど素晴らしいことはありません。志村ふくみ先生、本当にお目出度う御座いました。これからもご指導宜しくお願いします。合掌

 

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寒露

「寒露(かんろ)」となりました。寒露とは、寒冷によって露が宿るという意味です。長雨が終わり、秋も深まり始める頃となりました。秋は「読書の秋」「スポーツの秋」「芸術の秋」というように、自らを磨き、見つめ直す最適な時節です。

仏教では、私達の行いを身(からだ)、口(くち)、心(こころ)の三方面から教えます。特に重視するのが「心の行い」です。それは、心で思わぬことを言ったり、やったりはしないからです。私達のどんな言動も心の命令によるものですから、司令塔である「心」を、仏教では最も重要視するのです。

こんな話があります。2人の禅僧が諸国行脚(あんぎゃ)中、小川に差しかかった。美しい娘が、連日の雨で川が増水し、飛び越えられずにモジモジしている。「どれどれ、私が渡してあげよう」僧の1人が、無造作に抱いて渡してやった。途方に暮れていた娘は、顔を赤らめ礼を言って立ち去った。同伴の僧はがそれを見て、かりにも女を抱くとはけしからんとでも思ったのか、無言の行に入ってしまった。戒律のやかましい禅宗では、女性に触れてはならないとされているからだろう。日が暮れて、女を渡した僧が「どこかで泊まることにしようか」と声をかけると、「生臭坊主との同伴はごめん被(こうむ)る」。連れの僧は、そっぽ向いた。「何だ、まだあの女を抱いていたのか」くだんの僧はカラカラと笑った。連れの僧は、いつまでも抱いていた心の生臭さを突かれて、返す言葉がなかったという。

現代は、世の中のほとんどがマニュアル管理され、最も重要な「心」がなおざりになっている気がします。人間の社会では、どんな悪い考えを抱いても、それだけでは法律に抵触(ていしょく)するわけではありません。しかし、先程の「連れの僧」のように、いつまでも心に含んでいれば、いずれは口や身までに現れてしまいます。つまり、口や身で殺さなくても、心で思えば殺生であり、直接イジメをしなくても、心で犯せば立派な犯罪となります。法を犯すわけでも、道徳に背くわけでもないのに、心で思うだけで何が悪いのかと思われるかも知れませんが、真理は「心のあり方」で決まると教えられます。

悲しいかな、心を見れば、人間は綺麗なものではありません。むしろ「悪人」であります。そんな我々をお見抜きで、「その身そのままで必ず救う」と阿弥陀仏は誓われておられます。現代人はもっと謙虚にならなくてはなりません。一年中で最も過ごしやすい「寒露」の頃に、そんな思いでお念仏を唱えたいものです。南無阿弥陀仏 合掌

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秋分(秋彼岸)

「秋分(しゅうぶん)」は、秋の「彼岸(ひがん)」の中日になります。「彼岸」は本来、阿弥陀仏の極楽浄土を指し、「あちらの岸」という意味です。一方、私達の住む苦しみ悩みの世界を「此岸(しがん)」といい、「こちらの岸」に例えられます。つまり、春・秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈む日であり、沈む夕日に「西方極楽浄土」を念じたのが始まりといわれます。仏教は、我々の世界を「海に浮かぶ岸」に譬え、救いの方角(彼岸)を教えてくれます。

何年か前に『オープン・ウォーター』という、実話を元にした映画がありました。カリブ海でダイビングしていた夫婦が、ツアースタッフのミスで海に取り残されてしまう話です。サメや小魚に襲われ、脱水症状や体温の低下、波や強い日差し、風雨や夜の闇など、彼らが味わう恐怖、極度の緊張が克明に描かれています。水平線しか見えない海の真ん中で、あてどなく漂い、行く先が見えない不安や絶望…こんな時、救いの方角がわかれば、どんなに有難いことかと思いました。

まさしく人生も同じではないでしょうか。何のために勉強し、働き、苦しくとも生きねばならないか分からないまま、次から次とやってくる苦しみの波に、子供から大人まで翻弄されています。いくら立派な生活基盤を調え、「どう生きる」の手段に熟知していても、肝心の生きる方角、目的が示されないままの一生では悲劇です。しかし、救いの方角がハッキリして、そこに向かって力強く泳いでいく人生は、知らなかった時とは比較にならない素晴らしいものになります。秋分「彼岸」(救いの方角)をお考え頂ける時節になれば幸甚です。南無阿弥陀仏 合掌

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白露

「白露(はくろ)」となりました。これは大気が冷えてきて、露ができ始めるころを指します。昔は夏から秋への節目を、この「白露」が目印となったようです。

季節の変わり目で体調を崩される方も多いのではないでしょうか。その要因となるのが、夏にたまった疲れです。夏にかかった様々なストレスが、この時期にどっと出てきます。それはちょうど、筋トレをして筋肉痛になるのに似ており、若いうちはすぐ治りますが、年を取ると忘れた頃に痛み出し、しかも尾を引くという感覚です(笑)。この時季の体調不良の原因の一つに、夏場の冷食とエアコンがあげられます。身体を冷やして夏を過ごした人は、体温調整の働きが上手くいかず、秋口に風邪を引きやすくなるというのです。環境上仕方ない方もありますが、人間もやはり動物です。日頃から自然に身を任せる習慣が、健康に過ごせる秘訣となります。その点、お寺の生活は理に適っています。早寝早起き。読経での腹式呼吸や精神統一。掃除での適度な運動。聞香、書道、水行、精進料理等々、四季折々、自然と共に生活をしています。

室町時代の禅僧、一休さんは、こんな詩を残されています。
白露の 己が姿をそのままに 紅葉に置けば 紅の玉
「白露はありのままの自分でいながら、紅葉の上では紅の露になる」

朝に草花をぬらす露は、それ自身は透き通り、何の色もついていませんが、赤く色づいた葉っぱの上に宿ると、紅色に輝きます。しかし、無色透明という露本来の姿は少しも変っていません。春が来れば花が咲き、夏になれば雷が鳴る。秋になればすすきの穂が揺れ、冬になれば雪が降る。こういう、ものの本当のありようを見失ってはいけない。ありのままを受けとれる自分になることが大切だと説かれています。合掌

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処暑

「処暑(しょしょ)」となりました。処暑とは「暑さが終わる」という意味で、日中はまだまだ暑いですが、朝夕は心地よい風を感じます。夕暮れ時には、夏に別れを告げる虫たちが鳴き始め、秋の気配を感じる今日この頃です。

お寺では、盆行事の大半が終わり、残すは「地蔵盆(じぞうぼん)」のみとなりました。これは子供が主役のイベントで、子供の守り本尊であるお地蔵様に願いを込め、縁日の24日前後に、大きな数珠を子供達みんなで回す儀式です。けなげに数珠繰りをする子供達に幸せになって欲しいと願うばかりですが、私が子供の頃と変わったことは、お菓子を与えても大して喜ばなくなったことです(笑)。昔はそれが楽しみで参加したものですが、今は好きなお菓子だけを選り好みして置いていく子供が増えています。それだけ間食が当たり前になったんだと思います。

ある本によると、食事の代わりに、お菓子やジャンクフード、飲料類ばかり 飲食している子供や大人は、栄養失調[体]だけでなく、精神状態[心]も不安定なると書いてありました。母性愛が乏しく、育児を放棄したり殺したりする犯罪者の女性の多くは、右脳の中に「マンガン」が不足しているというデータまで出ているようです。ウサギをマンガンなしのエサで育てると、子を育てなくなることから、「愛情のビタミン」とも呼ばれているようです。マンガンは、穀物やひじきや青野菜に多く含まれ、ホルモン分泌を活性化させる働きをするようです。

考えてみますと、「愛情のビタミン」はお盆にご先祖様にお供えをしたものばかりでありますね。夏バテであまり食が進まない時季ですが、ちゃんとした旬の食物を取ることが大事なんだと、またまたご先祖様から学ばせて頂いた気がします。明日、隣寺の厳浄寺様をお借りして地蔵盆(19時より)を行います。合掌

 

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立秋

明日は「立秋(りっしゅう)」です。文字通り秋に入ることですが、実際は夏一番の熱い時季です。今日から「残暑見舞い」になりますが、これほど暦と季節感のずれを感じる日はありません。

自坊の西願寺は、立秋前の土日が墓回向の日と決まっており、今年も沢山のお詣りがありました。終日炎天下におりますので「おっさん、暑くないのか?」とよく聞かれますが、私は必ず「あきらめていますから!」とお答えします。半分ウケ狙いですが、実は「あきらめる」は仏教用語からきています。今では「仕方がない状態を断念する」という否定的な意味で使われますが、本来は、仏教の「(物事の真理を)明らかに見る」が次第に変化して「あきらめる」になりました。ですから、とても意欲的な言葉で、私は好んで使っています。

もちろん僧侶といえど、スーパーマンではありません。墓参りは正直しんどいですし、できるだけ体調を整えて何とか出来ることです。お金儲けだと心ないことを言われる方もありますが、バイトの対価として考えるなら絶対にやりません(笑)。それは、住職としての使命とプライド。そして、この墓参りが檀信徒家一族の幸せとなって返ってくる行為だと確信する(明らかに見る)からこそ、心からさせていただけるのです。

人間は嫌なことに直面すると、逃げることを考え、踠(もが)こうとします。しかし、踠けばもがくほど、苦しみという海底に吸い込まれていきます。踠けば体はどんどん沈んでいく…しかし、物事を真理に照らし合わし「明らかに見る」ことができれば、いらぬ力が抜けてきます。力を抜いて、水に身をまかせれば、体はゆっくりと浮び上がっていくのです。つまり人生は、大きな海の中にいるようなものですから、大いなるもの(仏)に身をまかす気持ちが芽生えれば、その信仰心が浮き輪となり、必ず救われるのであります。ここから我身、自心というもの離れた「あきらめの境地」が出てくるのです。この墓参りを通じて、仏様やご先祖様に護られてるという思いの方が1人でも増えていただければ、炎暑での回向も、私は喜んで「あきらめる」ことが出来ます(笑)。西願寺の檀信徒様、今年もよくお参り下さいました。合掌

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