霜降

「霜降(そうこう)」となりました。秋が一段と深まり、霜が降る頃となりました。朝晩の冷え込みが厳しくなり、日が短くなったことを実感する今日この頃です。

先日12日、人間国宝であられる志村ふくみ先生の「米寿をお祝いする会」のサプライズゲストとして、琵琶説教をさせて頂きました。夕方5時頃、しょうざん庭園をバックに、かがり火のほのかな明かりの中、荘厳な雰囲気での演奏でした。まだその頃は、日暮れでも心地よく感じましたが、たった10日でグッと冷え込んだ気がします。1年の中でも、丁度よい季候はわずかで、後になってその有り難さがわかります。

米寿というと88歳。失礼ながら日数に換算すると、3万2千日あまりの人生を積み重ねて来られた計算となります。また、先生は31歳で本格的に染色の分野に入られたとのことですので、2万日あまりの研鑽となられます。私は琵琶と出逢って17年ですので、6千日あまり。まだまだハナタレ小僧にもならない存在だなぁ…と痛感しました(笑)。

同じく来賓として来ておられた、滋賀県知事・嘉田由紀子先生は「もったいない」とスピーチされておられました。もったいない…例えば、人生を1日1円として譬えますと、1年間で365円の財産となります。米寿の3万2千円に比べたら微々たるものかもしれません。しかし、どんな方でも人生は積み重ねであって、1日1円を投資するか浪費するかはその人次第であります。今日の1円を大切にすることが、この1年間(365円)の価値を高めてくれるはずであります。まさしく人生は「もったいない」の精神であります。

霜降の時季になると、ほど良い気候の有り難さが身に染みます。私達の人生も、後悔なく、1日一歩づつ、着実に歩んでいければ、これほど素晴らしいことはありません。志村ふくみ先生、本当にお目出度う御座いました。これからもご指導宜しくお願いします。合掌

 

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寒露

「寒露(かんろ)」となりました。寒露とは、寒冷によって露が宿るという意味です。長雨が終わり、秋も深まり始める頃となりました。秋は「読書の秋」「スポーツの秋」「芸術の秋」というように、自らを磨き、見つめ直す最適な時節です。

仏教では、私達の行いを身(からだ)、口(くち)、心(こころ)の三方面から教えます。特に重視するのが「心の行い」です。それは、心で思わぬことを言ったり、やったりはしないからです。私達のどんな言動も心の命令によるものですから、司令塔である「心」を、仏教では最も重要視するのです。

こんな話があります。2人の禅僧が諸国行脚(あんぎゃ)中、小川に差しかかった。美しい娘が、連日の雨で川が増水し、飛び越えられずにモジモジしている。「どれどれ、私が渡してあげよう」僧の1人が、無造作に抱いて渡してやった。途方に暮れていた娘は、顔を赤らめ礼を言って立ち去った。同伴の僧はがそれを見て、かりにも女を抱くとはけしからんとでも思ったのか、無言の行に入ってしまった。戒律のやかましい禅宗では、女性に触れてはならないとされているからだろう。日が暮れて、女を渡した僧が「どこかで泊まることにしようか」と声をかけると、「生臭坊主との同伴はごめん被(こうむ)る」。連れの僧は、そっぽ向いた。「何だ、まだあの女を抱いていたのか」くだんの僧はカラカラと笑った。連れの僧は、いつまでも抱いていた心の生臭さを突かれて、返す言葉がなかったという。

現代は、世の中のほとんどがマニュアル管理され、最も重要な「心」がなおざりになっている気がします。人間の社会では、どんな悪い考えを抱いても、それだけでは法律に抵触(ていしょく)するわけではありません。しかし、先程の「連れの僧」のように、いつまでも心に含んでいれば、いずれは口や身までに現れてしまいます。つまり、口や身で殺さなくても、心で思えば殺生であり、直接イジメをしなくても、心で犯せば立派な犯罪となります。法を犯すわけでも、道徳に背くわけでもないのに、心で思うだけで何が悪いのかと思われるかも知れませんが、真理は「心のあり方」で決まると教えられます。

悲しいかな、心を見れば、人間は綺麗なものではありません。むしろ「悪人」であります。そんな我々をお見抜きで、「その身そのままで必ず救う」と阿弥陀仏は誓われておられます。現代人はもっと謙虚にならなくてはなりません。一年中で最も過ごしやすい「寒露」の頃に、そんな思いでお念仏を唱えたいものです。南無阿弥陀仏 合掌

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秋分(秋彼岸)

「秋分(しゅうぶん)」は、秋の「彼岸(ひがん)」の中日になります。「彼岸」は本来、阿弥陀仏の極楽浄土を指し、「あちらの岸」という意味です。一方、私達の住む苦しみ悩みの世界を「此岸(しがん)」といい、「こちらの岸」に例えられます。つまり、春・秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈む日であり、沈む夕日に「西方極楽浄土」を念じたのが始まりといわれます。仏教は、我々の世界を「海に浮かぶ岸」に譬え、救いの方角(彼岸)を教えてくれます。

何年か前に『オープン・ウォーター』という、実話を元にした映画がありました。カリブ海でダイビングしていた夫婦が、ツアースタッフのミスで海に取り残されてしまう話です。サメや小魚に襲われ、脱水症状や体温の低下、波や強い日差し、風雨や夜の闇など、彼らが味わう恐怖、極度の緊張が克明に描かれています。水平線しか見えない海の真ん中で、あてどなく漂い、行く先が見えない不安や絶望…こんな時、救いの方角がわかれば、どんなに有難いことかと思いました。

まさしく人生も同じではないでしょうか。何のために勉強し、働き、苦しくとも生きねばならないか分からないまま、次から次とやってくる苦しみの波に、子供から大人まで翻弄されています。いくら立派な生活基盤を調え、「どう生きる」の手段に熟知していても、肝心の生きる方角、目的が示されないままの一生では悲劇です。しかし、救いの方角がハッキリして、そこに向かって力強く泳いでいく人生は、知らなかった時とは比較にならない素晴らしいものになります。秋分「彼岸」(救いの方角)をお考え頂ける時節になれば幸甚です。南無阿弥陀仏 合掌

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白露

「白露(はくろ)」となりました。これは大気が冷えてきて、露ができ始めるころを指します。昔は夏から秋への節目を、この「白露」が目印となったようです。

季節の変わり目で体調を崩される方も多いのではないでしょうか。その要因となるのが、夏にたまった疲れです。夏にかかった様々なストレスが、この時期にどっと出てきます。それはちょうど、筋トレをして筋肉痛になるのに似ており、若いうちはすぐ治りますが、年を取ると忘れた頃に痛み出し、しかも尾を引くという感覚です(笑)。この時季の体調不良の原因の一つに、夏場の冷食とエアコンがあげられます。身体を冷やして夏を過ごした人は、体温調整の働きが上手くいかず、秋口に風邪を引きやすくなるというのです。環境上仕方ない方もありますが、人間もやはり動物です。日頃から自然に身を任せる習慣が、健康に過ごせる秘訣となります。その点、お寺の生活は理に適っています。早寝早起き。読経での腹式呼吸や精神統一。掃除での適度な運動。聞香、書道、水行、精進料理等々、四季折々、自然と共に生活をしています。

室町時代の禅僧、一休さんは、こんな詩を残されています。
白露の 己が姿をそのままに 紅葉に置けば 紅の玉
「白露はありのままの自分でいながら、紅葉の上では紅の露になる」

朝に草花をぬらす露は、それ自身は透き通り、何の色もついていませんが、赤く色づいた葉っぱの上に宿ると、紅色に輝きます。しかし、無色透明という露本来の姿は少しも変っていません。春が来れば花が咲き、夏になれば雷が鳴る。秋になればすすきの穂が揺れ、冬になれば雪が降る。こういう、ものの本当のありようを見失ってはいけない。ありのままを受けとれる自分になることが大切だと説かれています。合掌

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処暑

「処暑(しょしょ)」となりました。処暑とは「暑さが終わる」という意味で、日中はまだまだ暑いですが、朝夕は心地よい風を感じます。夕暮れ時には、夏に別れを告げる虫たちが鳴き始め、秋の気配を感じる今日この頃です。

お寺では、盆行事の大半が終わり、残すは「地蔵盆(じぞうぼん)」のみとなりました。これは子供が主役のイベントで、子供の守り本尊であるお地蔵様に願いを込め、縁日の24日前後に、大きな数珠を子供達みんなで回す儀式です。けなげに数珠繰りをする子供達に幸せになって欲しいと願うばかりですが、私が子供の頃と変わったことは、お菓子を与えても大して喜ばなくなったことです(笑)。昔はそれが楽しみで参加したものですが、今は好きなお菓子だけを選り好みして置いていく子供が増えています。それだけ間食が当たり前になったんだと思います。

ある本によると、食事の代わりに、お菓子やジャンクフード、飲料類ばかり 飲食している子供や大人は、栄養失調[体]だけでなく、精神状態[心]も不安定なると書いてありました。母性愛が乏しく、育児を放棄したり殺したりする犯罪者の女性の多くは、右脳の中に「マンガン」が不足しているというデータまで出ているようです。ウサギをマンガンなしのエサで育てると、子を育てなくなることから、「愛情のビタミン」とも呼ばれているようです。マンガンは、穀物やひじきや青野菜に多く含まれ、ホルモン分泌を活性化させる働きをするようです。

考えてみますと、「愛情のビタミン」はお盆にご先祖様にお供えをしたものばかりでありますね。夏バテであまり食が進まない時季ですが、ちゃんとした旬の食物を取ることが大事なんだと、またまたご先祖様から学ばせて頂いた気がします。明日、隣寺の厳浄寺様をお借りして地蔵盆(19時より)を行います。合掌

 

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立秋

明日は「立秋(りっしゅう)」です。文字通り秋に入ることですが、実際は夏一番の熱い時季です。今日から「残暑見舞い」になりますが、これほど暦と季節感のずれを感じる日はありません。

自坊の西願寺は、立秋前の土日が墓回向の日と決まっており、今年も沢山のお詣りがありました。終日炎天下におりますので「おっさん、暑くないのか?」とよく聞かれますが、私は必ず「あきらめていますから!」とお答えします。半分ウケ狙いですが、実は「あきらめる」は仏教用語からきています。今では「仕方がない状態を断念する」という否定的な意味で使われますが、本来は、仏教の「(物事の真理を)明らかに見る」が次第に変化して「あきらめる」になりました。ですから、とても意欲的な言葉で、私は好んで使っています。

もちろん僧侶といえど、スーパーマンではありません。墓参りは正直しんどいですし、できるだけ体調を整えて何とか出来ることです。お金儲けだと心ないことを言われる方もありますが、バイトの対価として考えるなら絶対にやりません(笑)。それは、住職としての使命とプライド。そして、この墓参りが檀信徒家一族の幸せとなって返ってくる行為だと確信する(明らかに見る)からこそ、心からさせていただけるのです。

人間は嫌なことに直面すると、逃げることを考え、踠(もが)こうとします。しかし、踠けばもがくほど、苦しみという海底に吸い込まれていきます。踠けば体はどんどん沈んでいく…しかし、物事を真理に照らし合わし「明らかに見る」ことができれば、いらぬ力が抜けてきます。力を抜いて、水に身をまかせれば、体はゆっくりと浮び上がっていくのです。つまり人生は、大きな海の中にいるようなものですから、大いなるもの(仏)に身をまかす気持ちが芽生えれば、その信仰心が浮き輪となり、必ず救われるのであります。ここから我身、自心というもの離れた「あきらめの境地」が出てくるのです。この墓参りを通じて、仏様やご先祖様に護られてるという思いの方が1人でも増えていただければ、炎暑での回向も、私は喜んで「あきらめる」ことが出来ます(笑)。西願寺の檀信徒様、今年もよくお参り下さいました。合掌

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大暑

本日は「大暑(たいしょ)」です。一年中で最も暑い日とされ、本格的な夏到来です。奉職寺院では写経会が行われ、怪談話の『土蜘蛛(つちぐも)』を琵琶で語らせて頂きました。暑い中、多くの方が御参拝下さり、また遠くは福島県の方もご縁があり、盛況に終わりました。法要終了後、ある信者様から「鰻の蒲焼き」を頂戴しました。夏の土用の最中で、暑気払いのスタミナを付けて下さいとのことで布施をして下さったのです。こんな事を記しますと「えっ、坊主がウナギ?」と驚かれるかもしれません。この件で言えば、おそらく皆様、生き物を殺す「殺生罪(せっしょうざい)」のことをお聞きになりたいのだと思います。

一言で殺生と言っても、殺し方によって仏法では三通りに分けられています。それは「自殺(じさつ)」「他殺(たさつ)」「随喜同業(ずいきどうごう)」の3つです。最初の「自殺」とは、世間一般に使われる、自らの命を絶つことではありません。自分で生き物を殺すことを言います。次の「他殺」とは、他人に依頼して生き物を殺させる罪をいいます。自分は直接殺さなくても、依頼すれば自分が殺したのと同じ罪だと仏法では教えられます。三番目の「随喜同業」とは、他人が生き物を殺しているのを見て楽しむ罪。殺す場面を見た魚や肉に舌鼓を打つのも、随喜同業の姿といいます。

ですから私は「釣り」や「活け作りを食す」「虫を殺す」等の行為をできるだけ避けておりますが、実際は上手くいきません。先日、ある法事にお伺いした時、ゴキブリが出たのです。「あなた、殺して」と奥さんが頼む(他殺)。「よっしゃ」と引き受けた主人は殺虫剤を手に取り、ゴキブリ目掛けて噴きかける(自殺)。泡の中でもがき苦しむ姿を、私や遺族が見守る(随喜同業)。一瞬の出来事でしたが、それぞれが三つの「殺生罪」を犯した瞬間でした。

このように、私たちはいくら気を付けていても、おびただしい殺生をせずしては生きられません。生きている限りは、深い業を持たざるを得ません。色々と理屈はありますが、我々は多くの犠牲の上に成り立っている存在なのだと認識し、この生かされてる命(使命)を全うしなければいけないと存じます。南無阿弥陀仏  合掌

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お中元

中元(旧暦7月15日)になりました。「お中元」とは、今ではお世話になった人にする「夏季の贈り物のこと」と思われていますが、本来は中国の「三元論」に由来しています。中国では旧暦の1月、7月、10月の15日をそれぞれ「上元」「中元」「下元」に分けて、季節の変わり目に神仏に食物を供え、人々をもてなす風習がありました。これが日本に伝わり、お盆に先祖の霊に供える習慣と結びついたのが、日本の「お中元」だと云われます。感謝の気持ちを捧げるのは、どの国でも変わらない真理ですね。現代は物をもらっても大喜びする時代ではありませんが、盆正月等に交わす気持ちが嬉しいものであります。

本日こんな事がありました。奉職寺院で、観光客がある手帳を見せて無料拝観をされたのはいいのですが、帰り際に「この手帳で先祖回向もタダにならないのか!」と訴えられるんです。ブランド品を携えた還暦ほどの男性でありました。丁度、関東はお盆の時期で、先祖の回向をしたい気持ちは素晴らしいのですが…「回向(えこう)」とは、「真心を回し向ける」の略で、ご先祖様が喜ばれるのは、やはり施主の気持ちであります。身を削ってでも、先祖を護ってくれる仏様や菩提寺にお供えしたいという真心が回向となるのに、それをあたかも物を値切るような回向では、その方のご先祖様は浮かばれないような気がしました。「親の土地を売って今旅行している」と言ってましたが、先人の財産を食いつぶすだけの人生では寂しいものがあります。

私たちが先人から受け継いだものには、お金や物といった「有形の財産」もありますが、何よりも「無形の心の遺産」を大切にせねばならないと思います。その貴重な心の遺産を花咲かせて、次なる世代へ伝えることが、今命あるものの勤めであり、幸福への第一歩だと存じます。

現代は「お中元」のあり方について色々議論されています。「贈ってもお返しをくれたりするからムダだと思う」とか「虚礼廃止のため」や「エコ活動の一環でやめよう」という考えもあります。しかし、伝統行事には必ず何らかの意味があります。このような時代だからこそ、本来の意味(真心の大切さ)だけは伝えていきたいものであります。合掌

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七夕

明日の「七夕(たなばた)」は、7月7日に行なう星祭りです。この日は、一年に一度だけ「織姫(おりひめ)」と「彦星(ひこぼし)」が天の川の上でデートをする日といわれ、この日にちなんで、願い事を書いた短冊を笹の葉につるし、織姫星に技芸の上達を願います。この物語の概略はこうです。結婚して仲むつまじく暮らしていた二人が、楽しさのあまり怠け者となってしまい、織姫の父である「天の神」の怒りを買って会えなくなってしましました。しかし年に1度会うことを許された二人は、七夕を楽しみに、日々仕事に精を出すようになったという話であります。

幼い頃は可哀相な二人だと同情してましたが、最近、年を重ねる事に、この逸話は真理だと思うようになりました。それは人間、これくらいの距離感が良好なのではないかと(笑)。私が日頃心がけているのは「腹六部(はらろくぶ)」という精神です。食事や睡眠、娯楽や人付き合いも、満足の一歩手前を心がけています。僧侶ですと、そのお家の悩み等々、洗いざらいのことが見えてきます。守秘義務ですので、詳細は口が裂けても言いませんが、だいたいのトラブルは「人の距離感」です。特にプライベートの髄まで知り合っている関係は、何かのボタンの掛け違いが起きた時は悲惨な状況になります。やはり何事も「腹六部」程度が丁度ではないかと思うのです。

「三猿(さんえん)」はご存じでしょうか?日光東照宮に目と耳と口を隠しているユーモラスな猿の彫刻があるのですが、これは「見ざる(猿)、言わざる(猿)、聞かざる(猿)」を現します。その意味は、他人の嫌なところは見ない、そして自分の嫌なところも見せない、他人の悪口、軽口は言わない、それから、そういうことは聞かないようにするという「人生訓」であります。たとえ親、夫婦、兄弟、恋人同士という親しい間柄でも、自分以外の人間と付き合うことが時には「三猿」を心がけることによって、自然と「腹六部」の精神に繋がっていくことと存じます。

そういった意味で、織姫と彦星は、いつまでも新鮮な、良い関係いられるのかなぁ…さすが神様のお計らい!と感じます(笑)。合掌

 

 

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夏至

今日は「夏至(げし)」です。1年の中で最も昼間が長く 夜の短い日で、「 冬至(とうじ)」(12月22日頃)に比べると、昼間の時間差は4時間50分もあるそうです。私はもちろん日が長い方が好きですが、夏至と冬至のどちらが好きかと聞かれれば、なぜか「冬至」と答えてしまいます。わけは「冬至」はこの日を境にどんどん日が長くなり、先に希望が見えてくるからです。一方「夏至」は、その日が頂点で、これから暗くなるイメージがあるからです。

この考えは、仏教の影響からきていると思います。例えば、浄土宗の総本山は「知恩院」ですが、徳川家が建てた立派な大殿のてっぺんには、不自然な2枚の瓦がのっています。この瓦は、名工・左甚五郎(ひだりじんごろう)が【 完成したものは滅びに至る】・・・ とあえて瓦を残し、未完成にした為だといわれます。完全な姿 に造ってしまうと、繁栄の頂点を意味し、それから後は下り坂を 意味するからだそうです。西願寺の「骨佛」の壁画もあえて「二十五菩薩」から、「二十四菩薩」にしてるのもこのためです。(西願寺の七不思議③参照)物事は、ここが頂上だと思うと上手くいかなくなるものです。

先日「ノミの特集」がテレビでやってました。サーカス用のノミは訓練の最初の段階で、背の低い箱に閉じ込められるそうです。ジャンプすると頭を箱の天上にぶつけるので、その箱の高さ分だけしかジャンプしなくなります。その後、箱を取り払っても箱の高さ分だけしかジャンプしなくなります。本当はもっと高くジャンプできるはずなのに飛べません。自分で壁を作ってしまうんですね。現状が完全だと思うと、伸びなくなる例えだと思いました。

本日は「夏至」の悪口みたなブログになってしまいましたが(笑)、私が言いたかったことは、この世の中には「完全なのもの」はないということです。昼間が最も長い「夏至」であっても、梅雨時で日の長さをあまり感じません。要は、現状を完璧だと思い、おごり高ぶること…これこそが、我々の敵であります。日々の精進に勝るものはありません。

最後に、法然上人のお言葉を紹介いたします。

一丈の堀を越えんと思う者は、一丈五尺を越えんと励むべきなり 合掌

 

 

 

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