大暑

本日は「大暑(たいしょ)」です。一年中で最も暑い日とされ、本格的な夏到来です。奉職寺院では写経会が行われ、怪談話の『土蜘蛛(つちぐも)』を琵琶で語らせて頂きました。暑い中、多くの方が御参拝下さり、また遠くは福島県の方もご縁があり、盛況に終わりました。法要終了後、ある信者様から「鰻の蒲焼き」を頂戴しました。夏の土用の最中で、暑気払いのスタミナを付けて下さいとのことで布施をして下さったのです。こんな事を記しますと「えっ、坊主がウナギ?」と驚かれるかもしれません。この件で言えば、おそらく皆様、生き物を殺す「殺生罪(せっしょうざい)」のことをお聞きになりたいのだと思います。

一言で殺生と言っても、殺し方によって仏法では三通りに分けられています。それは「自殺(じさつ)」「他殺(たさつ)」「随喜同業(ずいきどうごう)」の3つです。最初の「自殺」とは、世間一般に使われる、自らの命を絶つことではありません。自分で生き物を殺すことを言います。次の「他殺」とは、他人に依頼して生き物を殺させる罪をいいます。自分は直接殺さなくても、依頼すれば自分が殺したのと同じ罪だと仏法では教えられます。三番目の「随喜同業」とは、他人が生き物を殺しているのを見て楽しむ罪。殺す場面を見た魚や肉に舌鼓を打つのも、随喜同業の姿といいます。

ですから私は「釣り」や「活け作りを食す」「虫を殺す」等の行為をできるだけ避けておりますが、実際は上手くいきません。先日、ある法事にお伺いした時、ゴキブリが出たのです。「あなた、殺して」と奥さんが頼む(他殺)。「よっしゃ」と引き受けた主人は殺虫剤を手に取り、ゴキブリ目掛けて噴きかける(自殺)。泡の中でもがき苦しむ姿を、私や遺族が見守る(随喜同業)。一瞬の出来事でしたが、それぞれが三つの「殺生罪」を犯した瞬間でした。

このように、私たちはいくら気を付けていても、おびただしい殺生をせずしては生きられません。生きている限りは、深い業を持たざるを得ません。色々と理屈はありますが、我々は多くの犠牲の上に成り立っている存在なのだと認識し、この生かされてる命(使命)を全うしなければいけないと存じます。南無阿弥陀仏  合掌

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お中元

中元(旧暦7月15日)になりました。「お中元」とは、今ではお世話になった人にする「夏季の贈り物のこと」と思われていますが、本来は中国の「三元論」に由来しています。中国では旧暦の1月、7月、10月の15日をそれぞれ「上元」「中元」「下元」に分けて、季節の変わり目に神仏に食物を供え、人々をもてなす風習がありました。これが日本に伝わり、お盆に先祖の霊に供える習慣と結びついたのが、日本の「お中元」だと云われます。感謝の気持ちを捧げるのは、どの国でも変わらない真理ですね。現代は物をもらっても大喜びする時代ではありませんが、盆正月等に交わす気持ちが嬉しいものであります。

本日こんな事がありました。奉職寺院で、観光客がある手帳を見せて無料拝観をされたのはいいのですが、帰り際に「この手帳で先祖回向もタダにならないのか!」と訴えられるんです。ブランド品を携えた還暦ほどの男性でありました。丁度、関東はお盆の時期で、先祖の回向をしたい気持ちは素晴らしいのですが…「回向(えこう)」とは、「真心を回し向ける」の略で、ご先祖様が喜ばれるのは、やはり施主の気持ちであります。身を削ってでも、先祖を護ってくれる仏様や菩提寺にお供えしたいという真心が回向となるのに、それをあたかも物を値切るような回向では、その方のご先祖様は浮かばれないような気がしました。「親の土地を売って今旅行している」と言ってましたが、先人の財産を食いつぶすだけの人生では寂しいものがあります。

私たちが先人から受け継いだものには、お金や物といった「有形の財産」もありますが、何よりも「無形の心の遺産」を大切にせねばならないと思います。その貴重な心の遺産を花咲かせて、次なる世代へ伝えることが、今命あるものの勤めであり、幸福への第一歩だと存じます。

現代は「お中元」のあり方について色々議論されています。「贈ってもお返しをくれたりするからムダだと思う」とか「虚礼廃止のため」や「エコ活動の一環でやめよう」という考えもあります。しかし、伝統行事には必ず何らかの意味があります。このような時代だからこそ、本来の意味(真心の大切さ)だけは伝えていきたいものであります。合掌

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七夕

明日の「七夕(たなばた)」は、7月7日に行なう星祭りです。この日は、一年に一度だけ「織姫(おりひめ)」と「彦星(ひこぼし)」が天の川の上でデートをする日といわれ、この日にちなんで、願い事を書いた短冊を笹の葉につるし、織姫星に技芸の上達を願います。この物語の概略はこうです。結婚して仲むつまじく暮らしていた二人が、楽しさのあまり怠け者となってしまい、織姫の父である「天の神」の怒りを買って会えなくなってしましました。しかし年に1度会うことを許された二人は、七夕を楽しみに、日々仕事に精を出すようになったという話であります。

幼い頃は可哀相な二人だと同情してましたが、最近、年を重ねる事に、この逸話は真理だと思うようになりました。それは人間、これくらいの距離感が良好なのではないかと(笑)。私が日頃心がけているのは「腹六部(はらろくぶ)」という精神です。食事や睡眠、娯楽や人付き合いも、満足の一歩手前を心がけています。僧侶ですと、そのお家の悩み等々、洗いざらいのことが見えてきます。守秘義務ですので、詳細は口が裂けても言いませんが、だいたいのトラブルは「人の距離感」です。特にプライベートの髄まで知り合っている関係は、何かのボタンの掛け違いが起きた時は悲惨な状況になります。やはり何事も「腹六部」程度が丁度ではないかと思うのです。

「三猿(さんえん)」はご存じでしょうか?日光東照宮に目と耳と口を隠しているユーモラスな猿の彫刻があるのですが、これは「見ざる(猿)、言わざる(猿)、聞かざる(猿)」を現します。その意味は、他人の嫌なところは見ない、そして自分の嫌なところも見せない、他人の悪口、軽口は言わない、それから、そういうことは聞かないようにするという「人生訓」であります。たとえ親、夫婦、兄弟、恋人同士という親しい間柄でも、自分以外の人間と付き合うことが時には「三猿」を心がけることによって、自然と「腹六部」の精神に繋がっていくことと存じます。

そういった意味で、織姫と彦星は、いつまでも新鮮な、良い関係いられるのかなぁ…さすが神様のお計らい!と感じます(笑)。合掌

 

 

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夏至

今日は「夏至(げし)」です。1年の中で最も昼間が長く 夜の短い日で、「 冬至(とうじ)」(12月22日頃)に比べると、昼間の時間差は4時間50分もあるそうです。私はもちろん日が長い方が好きですが、夏至と冬至のどちらが好きかと聞かれれば、なぜか「冬至」と答えてしまいます。わけは「冬至」はこの日を境にどんどん日が長くなり、先に希望が見えてくるからです。一方「夏至」は、その日が頂点で、これから暗くなるイメージがあるからです。

この考えは、仏教の影響からきていると思います。例えば、浄土宗の総本山は「知恩院」ですが、徳川家が建てた立派な大殿のてっぺんには、不自然な2枚の瓦がのっています。この瓦は、名工・左甚五郎(ひだりじんごろう)が【 完成したものは滅びに至る】・・・ とあえて瓦を残し、未完成にした為だといわれます。完全な姿 に造ってしまうと、繁栄の頂点を意味し、それから後は下り坂を 意味するからだそうです。西願寺の「骨佛」の壁画もあえて「二十五菩薩」から、「二十四菩薩」にしてるのもこのためです。(西願寺の七不思議③参照)物事は、ここが頂上だと思うと上手くいかなくなるものです。

先日「ノミの特集」がテレビでやってました。サーカス用のノミは訓練の最初の段階で、背の低い箱に閉じ込められるそうです。ジャンプすると頭を箱の天上にぶつけるので、その箱の高さ分だけしかジャンプしなくなります。その後、箱を取り払っても箱の高さ分だけしかジャンプしなくなります。本当はもっと高くジャンプできるはずなのに飛べません。自分で壁を作ってしまうんですね。現状が完全だと思うと、伸びなくなる例えだと思いました。

本日は「夏至」の悪口みたなブログになってしまいましたが(笑)、私が言いたかったことは、この世の中には「完全なのもの」はないということです。昼間が最も長い「夏至」であっても、梅雨時で日の長さをあまり感じません。要は、現状を完璧だと思い、おごり高ぶること…これこそが、我々の敵であります。日々の精進に勝るものはありません。

最後に、法然上人のお言葉を紹介いたします。

一丈の堀を越えんと思う者は、一丈五尺を越えんと励むべきなり 合掌

 

 

 

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父の日

今日は「父の日」です。父親に対し感謝を表す日とされ、1909年、米国のドット夫人が「母の日が制定されたのに父の日がないのはおかしい」と「牧師協会」へ提唱したのがきっかけだそうです。しかし「母の日」に比べて地味で忘れがちな日です(笑)。ある花屋さんにお聞きしても、母の日の贈花の出荷数の30分の1程度というから驚きです。それほど「父の存在」は薄いのでしょうか。

昔、祖父から「艾(もぐさ)と苺(いちご)」という話を聞いたことがあります。「艾と苺」という字は「父と母」の漢字に「草冠(くさかんむり)」を付けた字であり、草冠の下(心の中)に秘められた父母の姿、思いがここにあるんだと教わりました。つまり「苺」は甘くて酸っぱい。優しさと厳しさのある母親のような味がします。これに対して父親は「艾」のような存在です。お灸をすえてびしっと躾けるのが父親の役割というのです。

昨今は「父の威厳」がなくなったと言われて久しくなりました。まず、給料が銀行振り込みになり、母から父が小遣いをもらうようになって、家庭の中で父親の存在感が薄くなったといいます。さらに「雇用機会均等法」や「男女共同参画活動」ができ、家事もできる融和的なマイホームパパ(兄弟のような親子付き合い)が推奨され、子供に対しても威厳がなくなってきたといいます。これも時代の流れでしょうが、お寺はまだ旧態依然です。お布施のカード払いはありません。(ご本尊にお供えしてからお寺に納めるからです)また立場上、僧侶は外での布教、家族は寺内を守るという役割がはっきりしています。

やはり、私(僧侶)の使命は「布教活動」だと思っています。父として家族を命懸けで護るのは言うまでもありませんが、やはり僧侶である以上「佛さま第一」であります。「家族第一」ですと、尊いお布施が商売になってしまいます。私の現状は「自坊(西願寺)」と「奉職寺院」を往復伝道し、「琵琶説教」では、今年の上半期で2100名余りの方々に布教いたしました。これが「佛の手足」である私自身であり、それ(仏事)を支えてくれる家族を思うと、感謝の心が沸々を湧き上がります。僧侶である私は「父の日」を「家族(サンガ)への感謝の日」であると思ってます。普段は「艾」のように「ふにゃ」としている私ですが、佛さまのことになれば、お灸のように「ぴりっ」とした存在でありたいと思います。そして、それを支えてくれる皆々様に、心より感謝申し上げます。合掌

 

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時の記念日

6月10日は「時の記念日」です。この由来は、人々に時間を尊重する意識を持ってもらおうと、1920年に生活改善同盟会がこの日を「時の記念日」に制定したのが始まりだといいます。

『日本書紀』よると、天智天皇が10年4月25日(太陽暦671年6月10日)に近江の大津宮(滋賀県大津市)に水時計を設置されたとあります。当時は2人交代で水の量をチェックし、鐘や太鼓で時報を知らせていたそうです。現在は一日を24等分して数字でいいますが、昔は12等分して区切った時刻を、十二支に当てはめられていました。丁度、太鼓の音が8つ鳴らされる時間(午後1時から3時)になると、お腹がすいてきて軽食を取ることが多く、それを「御八つ(おやつ)」と呼ぶようになりました(笑)。昔の方は、規則正しく、時間を大切にしながら生きてらっしゃったことが伺えます。

お釈迦さまも『無量寿経(むりょうじゅきょう)』に「臨終する時に、後悔と恐れが、代わる代わるおこってくる」と、時間の大切さを説いておられます。

私はよく、人生を「飛行機」に例えます。想像して頂きたいのですが…おぎゃっと生まれた時が、空港を飛び立った時。機内では少しでも快適に過ごそうと、人々は映画や音楽を楽しみ、また美味しい食事や景色の良い席を取ろうと躍起になります。しかし空の旅は、いつも平穏無事ではありません。乱気流や暴風雨、機体のトラブル、さまざまな不測の事態も待ち受けています。会社の倒産やリストラ、不慮の事故や病気、愛する人の離別や死別、嫁や姑の交戦など。それらと悪戦苦闘しながら、それでも私たちは少しでも長く、快適な人生飛行を楽しみたいと願っています。

しかし、飛行機の燃料は、無尽蔵ではありません。やがて尽きる時が来ます。私がいつも申すのは「皆様はその時、果たして安全な着陸地は確保されているでしょうか?」ということです。まさにお釈迦さまのお言葉の真意はここにあると思うのです。私という飛行機は、快適な飛行を楽しむといった「どう飛ぶか(生き方)」も大事ですが、もっと大切なのは「着陸地(目的)」をハッキリさせることにあると思います。

飛行機に墜落以上の大事なことがないように、人生に死ぬ以上の大事なことはありません。人生の終幕に、真っ暗な後生(次の世)に驚いても後の祭りです。仏教では、死後の世界の大問題を解決してこそ、人生の究極の目的だと教えられています。それらは燃料がなくなるまでに、解決したい問題であり、明るい来世を考えながら生きていくこそが、本当の意味での時間を尊重する生き方だと思います。仏教は、その方法(阿弥陀仏の救い)が説かれているんです!

西願寺では、骨佛の生前予約を受け付けております。「人生の目的地」をハッキリさせて、共々に輝かしい時間を過ごしませんか? 南無阿弥陀仏 合掌

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芒種

本日の暦は「芒種(ぼうしゅ)」です。芒種とは、(のぎ)【穂が出る穀物】のをまくのに適した日をあらわします。ちなみに芒種から5日後を「入梅(にゅうばい)」といい、梅雨入りとなります。しとしとと降り続く長雨が「縁」となり、あらゆる植物をいきいきと生かしてくれる時季であります。

仏教でも「種まきの重要性」が説かれており、それが有名な「因果の道理」(原因結果の法則)であります。これは「幸も不幸も、自分に現れる結果の一切は、自分のまいた種ばかり」ということです。しかし人々は言います。「こんなに頑張っているのに、なぜ報われないの?」と。個々の努力の度合いはわかりませんが、この法則で大事なのは、因果の道理の間には「縁」というものが隠されてることです。「因縁」という言葉があるように、因と縁が合わさって、結果が現れることを知らねばなりません。種が発芽し育つには、日光や土、水などが必要なように、縁なしには、どんな結果も生まれないのと同じであります。

私が奉職しているお寺は、国宝をまつる京都の拝観寺院です。有意義な観光をしてもらうには、寺内の者による説明や見所を聞くか聞かないかでは、楽しみ方が何倍と変わってきます。(もちろん個人で楽しみたい方があるのは承知です)ひとりでも多くの観光客に喜んでもらおうと思うのですが、挨拶を無視されては縁ができず、お声がけすらできません。そういう方に限って、晴れないお顔で帰られるのを目にします。つまり、お寺に来る「因」があっても「縁」がなければ、喜びという「果」に結びつきにくいのであります。

「縁」は、心を開くことから始まると思います。いくら良い種(因)をまいても、自分にだけ都合良く育てたら、偏った花しか咲きません。あえて心を開き、周りから沢山の養分や肥料(縁)をもらうことで、力強い、感動の大輪が咲く(果)のではないでしょうか。

本日の「芒種」は、稲などの【穂が出る穀物】のをまくのに適した日ということで、最後に一句ご紹介します。

実るほど 頭(あたま)の下がる 稲穂かな

稲が実を熟すほど穂が垂れ下がるように、人間も徳が深まるにつれ謙虚になるという真理です。実が熟されたお方は、様々な「縁」に育てられたことに感謝されていることと存じます。合掌

 

 

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阿弥陀仏信仰の前提

今回は「阿弥陀仏の救い」の前提についてお話させていただきます。まず阿弥陀仏に救われるためには「自らが魂の存在である」ということを信じれるかどうかにかかっています。【人間(生きとし生けるすべての存在)は魂であり、輪廻転生をして永遠に生き続けている。亡くなって「無」になるのではなく、永遠に生き死にを繰り返している存在なのだ。今(人間)の生は、永遠の命の一部に過ぎない。】ここがわからないと、その救いの意味すらわかりません。

ご存じ阿弥陀仏は、死後の世界を必ず救う!と誓われた仏さまです。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を唱える身になれれば、縁の力で必ず救って下さるとお説きなのですが…これが現代人にはなかなかピンときません。「死後の世界なんて」と失笑されるのが落ちです。悲しいかな人間は、目先の利害には敏感ですが、一方、長い年月をかけて徐々に押し寄せる危機にはとてつもなく鈍感だからです。

「ゆでガエル」の譬えはご存じでしょうか?それは、煮えたぎった鍋にカエルを入れようとしたら逃げてしまいますが、水が入った鍋であればカエルはおとなしく入ります。そして、この鍋に火をかけても、カエルは自分がゆでられてることに気づかず、最後には「ゆでガエル」になるという話です。

私は、これが現代人そのものの話に思えるのです。我々は目先の損得、利便性、快適さという「生き方」を追求する一方、最も確実な未来である死、つまり「目的地」については考えようともせず、なぜか目をふさいでしまいます。(自殺は死後について考えてるのでなく、この世の逃避だと仏教では捉えます)人間、いつまでも生きておれるものではありません。生まれてきたということは、日々「死に近づく」ということで、死は100パーセント確実な未来なのです。早ければ今晩かもしれません。死後の世界があるかないかは議論のしようがありませんが、公平に見ても5割づつの高確率です。

日々の快適な「生き方」を追求し、幸福を感じることはもちろん大切ですが、もっと大事なのは、必ずおとずれる未来(死後の世界)をいかに救われるのかという「目的地」をはっきりさせることではないでしょうか。明るい「目的地」を生前から意識(感謝)することによって、日々のよりよい「生き方」につながるというのが阿弥陀如来信仰です。そういう「逆転の発想」を念仏信者は持って生活しています。南無阿弥陀仏 合掌

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旧灌仏

本日は旧暦4月8日に当たることから、お釈迦さまの誕生日である「旧灌仏(かんぶつ)」の日となります。灌仏会ではご誕生を祝い、誕生仏に甘茶を注ぐ習わしがありますが(※4月9日花まつりブログ参照)、明治初期から新暦の4月8日に変更になったようです。旧灌仏は、毎年必ず「大安」に当たるというので不思議です。

よくある質問に、お釈迦さまと阿弥陀仏の違いは?というものがあります。

お釈迦さまは、約2600年前、インドでご活躍された実在の人物です。35歳で仏という最高の悟りを開かれて、80歳でお亡くなりになるまでの45年間、説かれた教えが「仏教」です。地球上でただ一人、仏の悟りを開かれた方ですので「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」といわれます。

一方、阿弥陀仏は、お釈迦さまが私たちに紹介して下さった仏です。大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、無数の仏がましますとお釈迦さまは説かれます。有名な大日如来や薬師如来、ビルシャナ仏もそのお一人で、すべてはお釈迦さまを通じて存在がわかった仏方となります。仏教用語でこれを「仏仏想念(ぶつぶつそうねん)」といい、どんなに遠く離れていても、仏さま同士は心が通じ合うと言います。(仏=如来)

しかし、ここで大事なのは、諸仏の中で阿弥陀仏のご存在は別格で、指導的立場にあるということです。つまり、阿弥陀仏(諸仏の王)→諸仏(お釈迦様もココ)→菩薩(仏の悟りを求めている修行中の人)→諸神 と格を表せばわかりやすいでしょうか。もちろん、宗教や宗派によって見方はまちまちですが、念仏を唱える者はこのように捉えて、阿弥陀仏中心に救いを求めます。

大宇宙の仏方は皆、阿弥陀仏を讃えてらっしゃいます。地球のお釈迦さまも諸仏のお一人ですから、阿弥陀仏とお釈迦さまはいわば師匠と弟子、師弟関係となります。お釈迦さまは45年間をかけて、阿弥陀仏の本願(御心)を説かれるために布教活動をなされたといわれ、実際、経典の中には阿弥陀仏のお名前が一番でてくると申します。では、大宇宙のあらゆる仏の先生である阿弥陀仏は、どのような救いをもたらせて下さるのでしょうか。それは次回、綴らせていただきます。

本日は、そんな阿弥陀仏を紹介して下さったお釈迦さまの誕生日である灌仏(旧暦4月8日)です。お釈迦様の御出現に心より感謝申し上げます。合掌

 

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小満

明日の暦は「小満(しょうまん)」です。小満とは秋に蒔いた麦などの穂がつく頃で、ほっと一安心(少し満足)すると言う意味です。 田畑を耕して生活の糧を稼いでいた時代には、農作物の収穫の有無は人の生死にかかわる問題でした。そのため、麦などに穂がつくと「今のところは順調だ、よかった」と満足したことから「小満」と言う名前が付いたようです。日本は、メリハリのある春夏秋冬の四季があり、また、空を見上げれば月が満ち欠けしています。そのリズムを大切にして私達の先祖は、生活を送ってきたんだと思います。そんな昔の方々から見れば、現代は毎日がお祭りのように見えるかもしれません。

「ハレ」と「ケ」という言葉があります。ハレ(晴れ)は、非日常をさし、ハレの日とは特別な行事のこと。ケ(褻)は日常を表す言葉で、ケの日とは普通の日々のことをいいます。『おうち歳時記』には、ハレとケについて次のように紹介されていました。「日々の暮らしの中には、入学式や結婚式、お正月やクリスマスなどの行事があります。そんな(ハレの)行事の日は楽しくて、毎日続くといいなと誰もが思ったことでしょう。でも、毎日そんな特別な日が続くとしたら大変です。反対に何もない日常(ケの日)が淡々と続いても、どうやら時々あるハレの日は、単調なケの日のメリハリになっているようです。ハレとケが適当な周期で回っているからこそ生活にリズムが生まれ、エネルギーとなります。昔は、ハレの日に晴れ着を着て、神様に感謝や祈願をし、赤飯や餅などのご馳走を食べました。ハレの日は明日への活力となっていたのです。しかし、今の世の中はそんな伝統的は行事が忘れられつつあります。だからといってハレの日がなくなったわけではなく、派手な商業主義にのったハレのイベントはたくさんあります。街へ行けば、毎日がお祭りのようで、刺激過多の状態。着ている服は普段着か晴れ着か区別がつかなくなり、レストランにはいつもご馳走が溢れています。毎日がハレの日(?)と思うほど、ハレとケが混沌としている状態ではないでしょうか。」

私達は派手な商業主義にのることなく、あえて自分の生活リズムにあったハレとケを考える時期に来ているのかもしれません。人間の欲望にはきりがなく、これまで「ハレ」(刺激)だったものが、日常生活の「ケ」(退屈)の中に埋没してしまうこともあり得ます。佛教は「少欲知足(しょうよくちそく)」【欲を少なくして足ることを知る】を説きます。あえて「ケ」の状態を尊びましょう。一日の無事をみ佛さまやご先祖さまに報告できる毎日。これこそが幸せの第一歩であります。日々の小満(少しの満足)に勝るものなしです。合掌

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