父の日

今日は「父の日」です。父親に対し感謝を表す日とされ、1909年、米国のドット夫人が「母の日が制定されたのに父の日がないのはおかしい」と「牧師協会」へ提唱したのがきっかけだそうです。しかし「母の日」に比べて地味で忘れがちな日です(笑)。ある花屋さんにお聞きしても、母の日の贈花の出荷数の30分の1程度というから驚きです。それほど「父の存在」は薄いのでしょうか。

昔、祖父から「艾(もぐさ)と苺(いちご)」という話を聞いたことがあります。「艾と苺」という字は「父と母」の漢字に「草冠(くさかんむり)」を付けた字であり、草冠の下(心の中)に秘められた父母の姿、思いがここにあるんだと教わりました。つまり「苺」は甘くて酸っぱい。優しさと厳しさのある母親のような味がします。これに対して父親は「艾」のような存在です。お灸をすえてびしっと躾けるのが父親の役割というのです。

昨今は「父の威厳」がなくなったと言われて久しくなりました。まず、給料が銀行振り込みになり、母から父が小遣いをもらうようになって、家庭の中で父親の存在感が薄くなったといいます。さらに「雇用機会均等法」や「男女共同参画活動」ができ、家事もできる融和的なマイホームパパ(兄弟のような親子付き合い)が推奨され、子供に対しても威厳がなくなってきたといいます。これも時代の流れでしょうが、お寺はまだ旧態依然です。お布施のカード払いはありません。(ご本尊にお供えしてからお寺に納めるからです)また立場上、僧侶は外での布教、家族は寺内を守るという役割がはっきりしています。

やはり、私(僧侶)の使命は「布教活動」だと思っています。父として家族を命懸けで護るのは言うまでもありませんが、やはり僧侶である以上「佛さま第一」であります。「家族第一」ですと、尊いお布施が商売になってしまいます。私の現状は「自坊(西願寺)」と「奉職寺院」を往復伝道し、「琵琶説教」では、今年の上半期で2100名余りの方々に布教いたしました。これが「佛の手足」である私自身であり、それ(仏事)を支えてくれる家族を思うと、感謝の心が沸々を湧き上がります。僧侶である私は「父の日」を「家族(サンガ)への感謝の日」であると思ってます。普段は「艾」のように「ふにゃ」としている私ですが、佛さまのことになれば、お灸のように「ぴりっ」とした存在でありたいと思います。そして、それを支えてくれる皆々様に、心より感謝申し上げます。合掌

 

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時の記念日

6月10日は「時の記念日」です。この由来は、人々に時間を尊重する意識を持ってもらおうと、1920年に生活改善同盟会がこの日を「時の記念日」に制定したのが始まりだといいます。

『日本書紀』よると、天智天皇が10年4月25日(太陽暦671年6月10日)に近江の大津宮(滋賀県大津市)に水時計を設置されたとあります。当時は2人交代で水の量をチェックし、鐘や太鼓で時報を知らせていたそうです。現在は一日を24等分して数字でいいますが、昔は12等分して区切った時刻を、十二支に当てはめられていました。丁度、太鼓の音が8つ鳴らされる時間(午後1時から3時)になると、お腹がすいてきて軽食を取ることが多く、それを「御八つ(おやつ)」と呼ぶようになりました(笑)。昔の方は、規則正しく、時間を大切にしながら生きてらっしゃったことが伺えます。

お釈迦さまも『無量寿経(むりょうじゅきょう)』に「臨終する時に、後悔と恐れが、代わる代わるおこってくる」と、時間の大切さを説いておられます。

私はよく、人生を「飛行機」に例えます。想像して頂きたいのですが…おぎゃっと生まれた時が、空港を飛び立った時。機内では少しでも快適に過ごそうと、人々は映画や音楽を楽しみ、また美味しい食事や景色の良い席を取ろうと躍起になります。しかし空の旅は、いつも平穏無事ではありません。乱気流や暴風雨、機体のトラブル、さまざまな不測の事態も待ち受けています。会社の倒産やリストラ、不慮の事故や病気、愛する人の離別や死別、嫁や姑の交戦など。それらと悪戦苦闘しながら、それでも私たちは少しでも長く、快適な人生飛行を楽しみたいと願っています。

しかし、飛行機の燃料は、無尽蔵ではありません。やがて尽きる時が来ます。私がいつも申すのは「皆様はその時、果たして安全な着陸地は確保されているでしょうか?」ということです。まさにお釈迦さまのお言葉の真意はここにあると思うのです。私という飛行機は、快適な飛行を楽しむといった「どう飛ぶか(生き方)」も大事ですが、もっと大切なのは「着陸地(目的)」をハッキリさせることにあると思います。

飛行機に墜落以上の大事なことがないように、人生に死ぬ以上の大事なことはありません。人生の終幕に、真っ暗な後生(次の世)に驚いても後の祭りです。仏教では、死後の世界の大問題を解決してこそ、人生の究極の目的だと教えられています。それらは燃料がなくなるまでに、解決したい問題であり、明るい来世を考えながら生きていくこそが、本当の意味での時間を尊重する生き方だと思います。仏教は、その方法(阿弥陀仏の救い)が説かれているんです!

西願寺では、骨佛の生前予約を受け付けております。「人生の目的地」をハッキリさせて、共々に輝かしい時間を過ごしませんか? 南無阿弥陀仏 合掌

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芒種

本日の暦は「芒種(ぼうしゅ)」です。芒種とは、(のぎ)【穂が出る穀物】のをまくのに適した日をあらわします。ちなみに芒種から5日後を「入梅(にゅうばい)」といい、梅雨入りとなります。しとしとと降り続く長雨が「縁」となり、あらゆる植物をいきいきと生かしてくれる時季であります。

仏教でも「種まきの重要性」が説かれており、それが有名な「因果の道理」(原因結果の法則)であります。これは「幸も不幸も、自分に現れる結果の一切は、自分のまいた種ばかり」ということです。しかし人々は言います。「こんなに頑張っているのに、なぜ報われないの?」と。個々の努力の度合いはわかりませんが、この法則で大事なのは、因果の道理の間には「縁」というものが隠されてることです。「因縁」という言葉があるように、因と縁が合わさって、結果が現れることを知らねばなりません。種が発芽し育つには、日光や土、水などが必要なように、縁なしには、どんな結果も生まれないのと同じであります。

私が奉職しているお寺は、国宝をまつる京都の拝観寺院です。有意義な観光をしてもらうには、寺内の者による説明や見所を聞くか聞かないかでは、楽しみ方が何倍と変わってきます。(もちろん個人で楽しみたい方があるのは承知です)ひとりでも多くの観光客に喜んでもらおうと思うのですが、挨拶を無視されては縁ができず、お声がけすらできません。そういう方に限って、晴れないお顔で帰られるのを目にします。つまり、お寺に来る「因」があっても「縁」がなければ、喜びという「果」に結びつきにくいのであります。

「縁」は、心を開くことから始まると思います。いくら良い種(因)をまいても、自分にだけ都合良く育てたら、偏った花しか咲きません。あえて心を開き、周りから沢山の養分や肥料(縁)をもらうことで、力強い、感動の大輪が咲く(果)のではないでしょうか。

本日の「芒種」は、稲などの【穂が出る穀物】のをまくのに適した日ということで、最後に一句ご紹介します。

実るほど 頭(あたま)の下がる 稲穂かな

稲が実を熟すほど穂が垂れ下がるように、人間も徳が深まるにつれ謙虚になるという真理です。実が熟されたお方は、様々な「縁」に育てられたことに感謝されていることと存じます。合掌

 

 

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阿弥陀仏信仰の前提

今回は「阿弥陀仏の救い」の前提についてお話させていただきます。まず阿弥陀仏に救われるためには「自らが魂の存在である」ということを信じれるかどうかにかかっています。【人間(生きとし生けるすべての存在)は魂であり、輪廻転生をして永遠に生き続けている。亡くなって「無」になるのではなく、永遠に生き死にを繰り返している存在なのだ。今(人間)の生は、永遠の命の一部に過ぎない。】ここがわからないと、その救いの意味すらわかりません。

ご存じ阿弥陀仏は、死後の世界を必ず救う!と誓われた仏さまです。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を唱える身になれれば、縁の力で必ず救って下さるとお説きなのですが…これが現代人にはなかなかピンときません。「死後の世界なんて」と失笑されるのが落ちです。悲しいかな人間は、目先の利害には敏感ですが、一方、長い年月をかけて徐々に押し寄せる危機にはとてつもなく鈍感だからです。

「ゆでガエル」の譬えはご存じでしょうか?それは、煮えたぎった鍋にカエルを入れようとしたら逃げてしまいますが、水が入った鍋であればカエルはおとなしく入ります。そして、この鍋に火をかけても、カエルは自分がゆでられてることに気づかず、最後には「ゆでガエル」になるという話です。

私は、これが現代人そのものの話に思えるのです。我々は目先の損得、利便性、快適さという「生き方」を追求する一方、最も確実な未来である死、つまり「目的地」については考えようともせず、なぜか目をふさいでしまいます。(自殺は死後について考えてるのでなく、この世の逃避だと仏教では捉えます)人間、いつまでも生きておれるものではありません。生まれてきたということは、日々「死に近づく」ということで、死は100パーセント確実な未来なのです。早ければ今晩かもしれません。死後の世界があるかないかは議論のしようがありませんが、公平に見ても5割づつの高確率です。

日々の快適な「生き方」を追求し、幸福を感じることはもちろん大切ですが、もっと大事なのは、必ずおとずれる未来(死後の世界)をいかに救われるのかという「目的地」をはっきりさせることではないでしょうか。明るい「目的地」を生前から意識(感謝)することによって、日々のよりよい「生き方」につながるというのが阿弥陀如来信仰です。そういう「逆転の発想」を念仏信者は持って生活しています。南無阿弥陀仏 合掌

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旧灌仏

本日は旧暦4月8日に当たることから、お釈迦さまの誕生日である「旧灌仏(かんぶつ)」の日となります。灌仏会ではご誕生を祝い、誕生仏に甘茶を注ぐ習わしがありますが(※4月9日花まつりブログ参照)、明治初期から新暦の4月8日に変更になったようです。旧灌仏は、毎年必ず「大安」に当たるというので不思議です。

よくある質問に、お釈迦さまと阿弥陀仏の違いは?というものがあります。

お釈迦さまは、約2600年前、インドでご活躍された実在の人物です。35歳で仏という最高の悟りを開かれて、80歳でお亡くなりになるまでの45年間、説かれた教えが「仏教」です。地球上でただ一人、仏の悟りを開かれた方ですので「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」といわれます。

一方、阿弥陀仏は、お釈迦さまが私たちに紹介して下さった仏です。大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、無数の仏がましますとお釈迦さまは説かれます。有名な大日如来や薬師如来、ビルシャナ仏もそのお一人で、すべてはお釈迦さまを通じて存在がわかった仏方となります。仏教用語でこれを「仏仏想念(ぶつぶつそうねん)」といい、どんなに遠く離れていても、仏さま同士は心が通じ合うと言います。(仏=如来)

しかし、ここで大事なのは、諸仏の中で阿弥陀仏のご存在は別格で、指導的立場にあるということです。つまり、阿弥陀仏(諸仏の王)→諸仏(お釈迦様もココ)→菩薩(仏の悟りを求めている修行中の人)→諸神 と格を表せばわかりやすいでしょうか。もちろん、宗教や宗派によって見方はまちまちですが、念仏を唱える者はこのように捉えて、阿弥陀仏中心に救いを求めます。

大宇宙の仏方は皆、阿弥陀仏を讃えてらっしゃいます。地球のお釈迦さまも諸仏のお一人ですから、阿弥陀仏とお釈迦さまはいわば師匠と弟子、師弟関係となります。お釈迦さまは45年間をかけて、阿弥陀仏の本願(御心)を説かれるために布教活動をなされたといわれ、実際、経典の中には阿弥陀仏のお名前が一番でてくると申します。では、大宇宙のあらゆる仏の先生である阿弥陀仏は、どのような救いをもたらせて下さるのでしょうか。それは次回、綴らせていただきます。

本日は、そんな阿弥陀仏を紹介して下さったお釈迦さまの誕生日である灌仏(旧暦4月8日)です。お釈迦様の御出現に心より感謝申し上げます。合掌

 

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小満

明日の暦は「小満(しょうまん)」です。小満とは秋に蒔いた麦などの穂がつく頃で、ほっと一安心(少し満足)すると言う意味です。 田畑を耕して生活の糧を稼いでいた時代には、農作物の収穫の有無は人の生死にかかわる問題でした。そのため、麦などに穂がつくと「今のところは順調だ、よかった」と満足したことから「小満」と言う名前が付いたようです。日本は、メリハリのある春夏秋冬の四季があり、また、空を見上げれば月が満ち欠けしています。そのリズムを大切にして私達の先祖は、生活を送ってきたんだと思います。そんな昔の方々から見れば、現代は毎日がお祭りのように見えるかもしれません。

「ハレ」と「ケ」という言葉があります。ハレ(晴れ)は、非日常をさし、ハレの日とは特別な行事のこと。ケ(褻)は日常を表す言葉で、ケの日とは普通の日々のことをいいます。『おうち歳時記』には、ハレとケについて次のように紹介されていました。「日々の暮らしの中には、入学式や結婚式、お正月やクリスマスなどの行事があります。そんな(ハレの)行事の日は楽しくて、毎日続くといいなと誰もが思ったことでしょう。でも、毎日そんな特別な日が続くとしたら大変です。反対に何もない日常(ケの日)が淡々と続いても、どうやら時々あるハレの日は、単調なケの日のメリハリになっているようです。ハレとケが適当な周期で回っているからこそ生活にリズムが生まれ、エネルギーとなります。昔は、ハレの日に晴れ着を着て、神様に感謝や祈願をし、赤飯や餅などのご馳走を食べました。ハレの日は明日への活力となっていたのです。しかし、今の世の中はそんな伝統的は行事が忘れられつつあります。だからといってハレの日がなくなったわけではなく、派手な商業主義にのったハレのイベントはたくさんあります。街へ行けば、毎日がお祭りのようで、刺激過多の状態。着ている服は普段着か晴れ着か区別がつかなくなり、レストランにはいつもご馳走が溢れています。毎日がハレの日(?)と思うほど、ハレとケが混沌としている状態ではないでしょうか。」

私達は派手な商業主義にのることなく、あえて自分の生活リズムにあったハレとケを考える時期に来ているのかもしれません。人間の欲望にはきりがなく、これまで「ハレ」(刺激)だったものが、日常生活の「ケ」(退屈)の中に埋没してしまうこともあり得ます。佛教は「少欲知足(しょうよくちそく)」【欲を少なくして足ることを知る】を説きます。あえて「ケ」の状態を尊びましょう。一日の無事をみ佛さまやご先祖さまに報告できる毎日。これこそが幸せの第一歩であります。日々の小満(少しの満足)に勝るものなしです。合掌

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葵祭

明日は「葵祭」です。京都三大祭(祇園祭・時代祭)のひとつで、平安時代以前から続いています。6世紀の中頃、凶作に見舞われ飢饉疫病が続いた時、賀茂神の祟りを鎮める為、4月吉日に五穀豊穣を祈ったのが始まりと伝えられています。私も一度拝見しましたが、平安時代の装束をつけた総勢500人以上が行列で進む姿は、まるで大絵巻のようでした。

色々調べておりますと、インターネット上にこんな書き込みがありました。

gigazineニュースには「昨年(平成20年)まで牛を提供してきた所有者が死亡し、牛車を引いた牛が人手に渡った上、牛飼育農家の激減と調教者の後継者不足に陥り、今回はなんとかしのげたものの、葵祭自体が岐路に立たされるほどの事態だったそうです。「牛車を引くことは難しくないが、音に驚いて進まない。音に慣らすことが重要です」とのこと。ぱっと見ているだけだとただ単純にノロノロと進んでいるだけに見えるのですが、その裏ではあれこれと苦労があるようです。」

また京都市観光協会の案内には「応仁の乱(1467ー77)ののち、1693年(元禄6)まで約200年の間、1871年(明治4)から1883年(明治16)まで、1943年(昭和18)から1952年(昭和27)まで、中断や行列の中止があった。しかし王朝の伝統は忠実に守られてきた。」

何も携わらず見ている者にとっては、のどかな祭りのように感じますが、長い歴史の陰で様々な苦労があるのだと思いました。冒頭にも紹介しましたが「葵祭」の発祥は、当時激しい権力争いや飢饉に見舞われるといった 不安定な世の中にあって、国家の安寧を神に祈り、人々の生活を救いたいという思いで成されたものであります。この祭りを通じて、世の中が少しでも善くなってほしいと伝統を守って来られた方々の思いは、並々ならぬものだと存じます。古代からの先人の想いや努力、地道な積み重ねとたゆまぬ探求心が、この祭りを存続させているのだと思います。

奉職寺院の檀家に「岩田呉服店」さまがいらっしゃいますが、先代様がCMで仰ってた「伝統と信用の積み重ね」というお言葉を思い出しました。今は何でも使い捨ての時代ですが、これらは現代人が忘れかけてることかもしれません。改めて伝統行事の奥深さを感じました。合掌

 

 

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母の日

明日は「母の日」です。日頃の感謝を込めて、母親にカーネーションなどの贈り物をする日であります。この由来は、20世紀始めアメリカのアンナという女性が、母の命日に教会で白いカーネーションを霊前に供えて母親を偲んだことが始まりともいわれています。この花言葉は「亡き母を偲ぶ」という意味を持つようで、存命でしたら赤いカーネーションを贈ると花屋さんに教えて頂きました。

佛教には『父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)』というお経があり、様々な親の恩が説かれています。その中の一つに、子供が生まれる時、母が大変な苦しみに耐えて産んでくださったご恩「臨生受苦の恩(りんしょうじゅくのおん)」が説かれています。以下は『とどろき』から学んだことですが、月満ちて陣痛が起こり、子供が生まれる時の苦しみは、青竹を握らせると二つに押し割るほど激しいといい、あぶら汗が流れ、全身がばらばらになるような痛みに耐えて出産する…まさに戦場に臨むような決死の覚悟が必要なので「陣」痛といわれるようです。

そのことから、水戸黄門として有名な水戸光圀公は、自分の誕生日には最も粗末な食事をされたと云われます。「誕生日は、この世に生まれた祝うべき日であるかも知れない。しかし、この日こそ、自分が亡き母上を最も苦しめた日なのだ。それを思うと、珍味ずくめでお祝いなどする気にどうしてもなれぬ。母上を思い、母上のご苦労を思えば、自分はせめて一年中でこの日だけでも粗末な料理で母上のご恩を感謝してみたい」と。

私達が今、幸せに過ごせるのは、母が激しい痛みに耐え、命懸けで産んでくださったからであります。「母の日」は、日頃の感謝を捧げる大切な日ですが、単に「物を贈る日」として形骸化してしまってはもったいないと思います。『父母恩重経』に説かれるような「根元のご恩」を知ることも大事だと思いました。そこから「命の大切さ」や「お陰」という、人間にとって大事なことを学べる日になるのだと思います。合掌

 

最後に古歌には、次のように詠まれていますのでご紹介します。

「諸人(もろびと)よ 思い知れかし 己(おの)が身の 誕生の日は 母苦難の日」

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こどもの日

「三つ子の魂百まで」という諺(ことわざ)があります。幼い頃に身につけたものは生涯ついて回るという意味ですが、幼少期の躾(しつけ)は人の一生を決定すると言います。

教育者の川内時男先生はこう仰ってます。「子供を躾けるために絶対に欠かせないものがある。それは”強くて恐ろしいものの存在”である。子供の躾というものは理屈ではない。自分より強くて怖い者が存在し、その強くて怖い者から与えられる恐怖心があってはじめて躾が可能である」と。

私はお爺ちゃんお婆ちゃんっ子で、大正生まれの祖父母は、「強くて恐ろしい存在」を引合いに教育してくれた気がします。例えば「嘘をつけば閻魔さんに舌を抜かれる」とか、「深い池は河童が住んでいて、引きずりこまれるから近寄ってはいけない」「深い山に入っていけば山姥に食われる」「雷が鳴れば、雷神にヘソを取られないように家に入れ」等々、今から思うと子供だましのように思いますが、面白いことに幼少期に刷り込まれた恐怖体験というものは、成長してからでも深層心理に残っているから不思議です。

本日はこどもの日。丁度、西願寺には「地獄絵図」が2幅ありますので、一般公開して子供達に「勧善懲悪」を教えました。効果は覿面で、こちらが驚くほどでした(笑)考えてみますと、一般の家庭には「強くて恐ろしい存在」が無くなったような気がします。近い将来、この地獄絵図を見に来る親子で本堂が一杯になればと思いました。よい子になるよう宗教教育しますよ!(笑) 次回は8月、お盆の時期に公開致します。合掌

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八十八夜

昨日、静岡の信徒様から新茶を頂戴しました。5月1日は八十八夜でしたので「一番茶」を頂いた事になります。この時期のお茶は、1年通じての肥料や養分を吸収している為、香りも高く味も1番美味しいとされるようです。牧田様、今年も有難う御座居ました。「八十八夜」とは、立春から八十八日目を指し、春から夏へと移る季節の境目のことで、特に農業にとっては、作物の生長において大切な目安の日となります。

学生時代、この時期になると恩師が必ず仰ってました。「八十八をまとめると米になります。これは、お米が実るまでに八十八回も手をかけるからこの字になったのです。この目に見えないお陰に感謝しましょう。では、いただきます!」と。しかし、現代は勝手が違うようです。ある説教師様からお聞きしたのですが、ある小学校で、「給食費を払っているのだから、子供にいただきますなんて言わせないでくれ!」と苦情をした親がいるとのこと。これが事実なら、その方の価値観が「お陰」ではなく、「お金」になってるということです。

「権利」を尊重することが重要であることは言うまでもありません。世界を見ても、権利を奪われ、抑圧されている人は少なくありません。しかし「権利」には必ず「義務」が伴います。ある人権学習の講師も、「現代は”自分のしたいことができるのが権利だ”という間違った考えが広がっており、製造者や商店、あるいは学校や病院などで苦情を言い、不当な要求をする人が増えている。このような権利の主張は良くない。これでは本当の人権学習が進まない。」と嘆いてらっしゃいました。(私も人権学習会の講師としてお招き受けることがありますが、本当に学習されてる方は、真の人権を教えて下さいます)

最近は東日本大震災の教訓から「絆」の重要性をよく耳にします。しかし、これも間違った権利のみを強調していけば、夫と妻、親と子など家族の関係性が希薄化し、本当の「絆」は生まれません。とりわけ、このような環境下で育った子供は、親への感謝の心は育ちにくく、自己の不遇や不満の対象を、親や社会に向けていく可能性があります。また、自己中心の利己主義が増えれば、自分が人の為に役立とうとする意識も欠落し、感謝や思いやりどころか、決まりや礼儀作法、法律までも無視する社会が出来てしまいます。

今の日本に必要なのは、間違った権利意識の拡大ではなく、宗教心や道徳心の涵養であると思います。目に見えないお陰の心を養う…小学生時代の恩師に教えてもらった「八十八夜の教え」を思いだし、自省を込めて綴りました。合掌

 

 

 

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